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指輪の選んだ婚約者  作者: 茉雪ゆえ
本編

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18/59

16

「こちらをご覧頂いてもよろしいでしょうか!」


 と、顔をずずいと寄せてきたアウローラに、さすがのルナ・マーレもぎょっとした。少しばかりのけぞったくらいだ。クラヴィス夫人も扇の影で目を見開いて固まり、もう一人の婦人は息を呑んで口を閉ざした。それというのも、アウローラの森色をした緑の瞳をぐるりと囲む白目が、魔物もびっくりなほど真っ赤に染まっていたからだった。そればかりか、薄く控えめな涙袋の下にはくっきりはっきりとうっ血が浮かんでいるのである。


 時は平穏な昼下がり、クラヴィス家の優雅な応接ホールである。侯爵夫人の東洋趣味が随所に散りばめられた、上品ながら絢爛な部屋の中、素晴らしい艶できらめく漆の小テーブルを女性が四人で囲んでいた。屋敷の主の妻である侯爵夫人、実家を訪れているその娘、嫡男の婚約者と仕立屋の婦人である。少し離れてそれぞれの侍女、仕立屋の助手や屋敷の使用人が取り囲んでいて、それなりの人の数ではあるが、四人の女性以外の者は声を上げずひっそりと静かに己の職務に勤しんでいるため、女性陣が絶句してしまえば、窓の向こうからピチチチと、初夏の小鳥のさえずりが聴こえてくるほどには静かで、穏やかな時だった。

 つまり。ギラギラと血走った瞳で身を乗り出すような空間では、断じてない。そもそも貴族、それも伯爵家の、さらに言えば辺境伯という地位の高い家柄の娘が、こんな顔を他所様の前に出すこと自体があり得ないことである。

 しかし、公爵夫人のルナ・マーレはこの現象を、よーく知っていた。社交嫌いなどという言葉で誤魔化されてはきたが真実は、顔が怖すぎるせいで公爵のくせに社交がてんでダメ、という夫を持つルナ・マーレが、彼の代わりに夜会の間、客をもてなしたり盛り上げたりなんだりするその翌日、ここまでひどくはないにしろ、鏡の中でお目にかかることがあるものだ。一度見つけてしまえば最後、解消すべく奮闘を重ねに重ね、午前中がまるごと潰れてしまう。

 ――つまりは寝不足による充血とクマである。


「ど、どうなさったの……、アウローラさん」

「はい! これはですね!」


 姉がそんなおずおずとした声を出したと知ったなら、フェリクスは無言で驚愕し、硬直しただろう。すごい顔よ、と続けたかったルナ・マーレの言葉は、爛々と瞳をぎらつかせるアウローラにかき消された。

 しかし、彼女が己の手の内に抱え込んでいたものをバッと広げた途端、ルナ・マーレを始めとする三人のご婦人方それぞれに浮かんでいた憂いのようなものは一切合切、吹き飛んだ。三人は一斉に息を呑む。


「……まあ!」

「あらあ!」

「これはこれは……ッ!」


 アウローラが広げたのはハンカチーフほどの大きさの、よくある白い布だった。少々漂白の足らぬクリーム色を帯びた生地は仮の縫製や刺繍の練習によく使われていて、質は悪くないが、貴族でなくても手に入れることのできるものだ。

 しかし、その何の変哲もない白い布の上には、鮮やかな世界が広がっていた。


 まるで香りが漂ってくるような瑞々しさで白地を艶めかしく這うのは、アラベスク文様にも似た、あでやかなつるバラだった。その細い幹に陣取った小鳥の一羽は愛らしい仕草で咲きこぼれるバラの花の蜜を吸い、もう一羽はさわやかな空に向かって羽ばたく準備をしている。別の一羽は羽を広げて、今まさにバラの枝に降り立とうとしているようだ。そして小鳥の足元で豊かにしげるバラの葉は朝露に濡れ、初夏の太陽が朝露をプリズムに輝いていた。


 そして、その全ては、たった一色の刺繍で表現されていた。


 生地を埋め尽くす、黒い絹糸の滑らかな縫い取りは東国の漆のように艷やかで、白地に映える黒一色が、陶器のように美しい。糸だけではない、砕かれた小さな黒いガラスや黒貝の破片が散りばめられ、刺繍全体に動きときらめきを与えている。

 急いで仕上げられたものなのか、所々に粗さは見えたが、見事としか言いようのない、刺繍の技だった。


「これは……」

「つるバラとシロクロツグミです。どちらもポルタでよく刺繍の題材にされているものです」

「素敵だわ」

「これは、アウローラさんが?」

「はい。昨日、クロ……フェリクス様がお暇な時に占いをしてくださったのですけれど、この小鳥がわたくしに幸運を運んでくると仰ったのです。それでわたくし、帰りの馬車で図案をひらめいて」


 恍惚と刺繍に見入っていた夫人たちがぴくりと動きを止める。まさか、この刺繍を一晩で仕上げたというのか? それゆえの目つきなのか? と。

 目配せしあう三人に気付かず、アウローラは話を続ける。


「部屋に戻ってすぐ、図案を起こし始めたらもう我慢できなくなって、針と糸を持ちだしたらもう、止まらなくなってしまって……そして、刺しながら、わたくし考えたのですけれど」


 アウローラは深く息を吸った。夫人たちの喉がごくり、と鳴る。この血走った目をした歳若い娘さんは一体何を言い出すのかと、興味津々かつ戦々恐々、といったところだ。


「夜会に、白地に黒刺繍のドレスで出たら良いのじゃないかと思うのです」


 再び、しん、と部屋は静まり返った。呆気にとられた表情で固まる三人の女性の前で、アウローラは畳み掛ける。


「シロクロツグミは夏の間、花畑で花蜜を吸って過ごすのですけれど、とても目立つのです。森の中では保護色になる、白と黒の羽色が、美しい花の合間では真逆の効果になってしまうのですわ。ですからわたくしも、華やかなドレスの合間に白黒の装いで立ったら目立つのじゃないかしら? と考えたんです」

「……でもアウローラさん、ご存知でしょうけれど、白と黒のドレスは夜会ではご法度よ」


 美しい顔立ちに憂いを乗せて、クラヴィス夫人が問いかける。もちろん存じておりますと、アウローラは深く頷いた。

 ウェルバム王国では、白のドレスは礼装であり、黒のドレスは喪服である。白は誕生や婚姻などの祝福を表し、黒は憂いや静寂を示すものとされているためだ。今でこそ、男性の夜会服は紺や黒だが、それは他所の国から入ってきた文化で、かつては男性の礼服ですら、黒は禁忌とされていた。

 それ故に、準正装が求められるとはいえ、デビュタントを除けば『華やかな社交場』では、黒いドレスや白いドレスをまとうことはない。それは、伯爵家の娘として極普通に育てられたアウローラにとっても、当然のことだった。

 しかし。


「もちろん、白や黒をまとって参加すれば、常識はずれと思われることでしょう。けれど、黙って立っていてもひと目を引いてしまわれるフェリクス様と違って、華やかな女性陣の中に同じような衣服で挑めば、わたくしは埋没してしまうこと間違いなしです」


 アウローラは想像する。この前の夜会の時のように、色とりどりの美しいドレスをまとった、己に出来る限りの装いをした娘たちの間に立って、目立たず誰にも気づかれることのない、自分の姿を。その他大勢と同じ、背景のような存在になることだろう。

 なにせアウローラはごく普通の見目の娘なのだ。緩やかに巻いているたまご色の髪も、濃い緑の瞳も珍しいものではなく、少々つり気味の目をした顔立ちも取り立てて美しいものではない。醜くはないと自負してはいるが、誰かの目を惹くような容貌ではないのである。

 そんな娘の隣にひどく目を惹く男が立っていれば、視線のほとんどはそちらに向いて、彼の精神を削ることだろう。アウローラが攻撃されるのならばまだ、知らぬふりで撃退もできようが、あの真面目な男にそれができるとはとても思えない。そのうちフェリクスがボロを出して、あまりよろしい結果にならない結末が目に浮かぶようだった。


「……でも、それでは反対派閥の方々に、何の印象も残せないことでしょう。それどころかきっと、『婚約者と比べてとにかく地味だった』と嘲笑の対象になりますわ。わたくしにとっての夜会での『勝ち』はシロクロツグミのように、鮮やかな花の中で目立つことではないかと思うのです」


 地味な人間が印象を残すには、話術や技能が欠かせない。しかし、敵対派閥の夜会で誰とでも気軽に話せるわけがないし、魅せつける技能がダンスや声楽、器楽ならまだしも、刺繍の技では、夜会の話題としては微妙だ。


「……まあ、それは一理あるかもしれませんわね」


 しばらくの沈黙の後、そう火蓋を切ったのはルナ・マーレだった。


「勘違いなさらないでね。貴女は可愛らしい娘さんだとわたくしは思うし、あの愚弟のために頑張ろうとしてくださるその姿勢は、わたくし――クラヴィス家ゆかりの者としては、なによりも好ましいわ。……でも、ごく客観的に見て、アウローラさんが愚弟よりもその……少々控えめなご容貌、よね」

「ルナ」


 クラヴィス夫人が咎める声を立てるが、アウローラは首を繰り返し縦に振って、ルナ・マーレの言葉を肯定する。


「少々どころか大変に控えめだと思いますわ。銀を貼ったクリスタルのビーズとしつけ糸くらいの差があることでしょう。人は内面と皆様申しますけれど、今後付き合いが続くとも思えないあちらの派閥の方々にとって、記憶に残るのはおそらく、見た目。ですから、やっぱり! インパクト勝負で! 挑むしかないと思うのです!」


 バン。

 己が広げた布の上を手のひらで打ち、アウローラはぐぐっと拳を握る。


「断言しても構いません。同じようなドレスでは、確実に埋没します。かと言って流行遅れなものを着るわけにも参りませんし、露出度を上げてもこの容貌ではたかが知れています! となると、あとはもう、色と意匠で攻めるしか……」

「……悪くないかもしれません」

「まあ、何を言うの、エマ」


 掛けられた小さな声に、アウローラははたと横を向く。隣に陣取った仕立屋の婦人が、アウローラの刺繍を凝視していた


(うわ、どうしよう、これプロの目に晒せるような出来じゃない!)


 おそらくは刺繍職人などもまとめ上げているだろうプロフェショナルの注視を受けて、アウローラは自分の作品の粗さにたじろぐ。しかし彼女は、関心しきりといった声色で深く頷きながら言葉を繋いだ。


「大変素晴らしい図案です。刺繍の方も、伯爵家のお嬢様が一晩で刺したとは、とても思えぬ出来です。この質を一晩でこなせるのは、熟練の職人のみだと思っておりました。……お嬢様はお世辞であると思われるかもしれませんが、わたくしもプロ。我がメゾンは王都でも屈指のものづくりをしていると自負しております。この手の物に、妥協はいたしませんし、お世辞も申しません。時間を掛け、熟練に任せればどれだけ素晴らしい出来となるか……想像だけで胸が踊ります。奥様方、この図案と刺繍、活かさぬ手はございません!」


(う、っそ、ほんと……に?)


 アウローラはぽかん、と間抜けに口をあけたまま固まった。何しろ、アウローラにとって刺繍は趣味。とはいえ、王都から遠く離れた領地でほそぼそと、家族や領民の祝い事などのために刺してきただけである。家族は素晴らしい腕だと褒めてくれるし、領民は大変に喜んでくれるけれど、それは身びいきだろうと思っていた。実際、王都で見かけた刺繍は素晴らしい技術のものばかりで、自分の腕が優れているなどとは、全く思わなかったのだ。王太子の依頼を受けた時にはじめて、令嬢としては恥じない程度の技術であろうと認識したばかりである。


(……やだ、どうしよう。すっごくうれしい……!)


 じわじわと頬を桜色に染めたアウローラを見て、まあ、とクラヴィス夫人が目を見開き、パッとルナ・マーレの頬が朱に染まった。


「エマ、貴女のことだから、これをそのままではなくて、なにか素敵なことを閃いたんでしょう?」

「白い地はほんのすこし、クリーム混じりの物にいたしましょう。幸いにして今は、裾から胸元へと色の変わる染めと刺繍が流行ですから、遠目には白から黒へのグラデーションに見えるようにするのはどうでしょうか。糸以外にも、ありとあらゆる黒を用いて刺繍を施せば、黒でありながら輝くでしょうし、豪奢になりますわ」

「……あら、いいんじゃない?!」


 クラヴィス夫人の問いかけに、仕立屋の婦人が答え、それにぐい、と身を乗り出すのは社交界のファッションリーダー、ルナ・マーレである。


「染めの代わりに刺繍で色の移り変わりを演出するのね! それなら『白いドレス』とも『黒いドレス』とも言わないわ。それに、話題の元にもなるわよ、きっと!」

「でもねえ、柄物は夜会ではタブーではない?」

「そんなの、ここ近年の風潮でしかないわ、お母様。実際数年前まで夜会は無地、とされていたのに、今は同色の刺繍が一般的じゃない。まあ流行らせたのはわたくしですけど。それに二百年も前は、花柄を織り込んだ絹でドレスを作ることが流行したことだってあるのだそうよ! 流行りは意表を突くことから始まるのよ! ――ねえ、アウローラさん!」

「ハイッ!?」


 ずずい、いつかのように、美女がアウローラににじり寄り、その手をひしと握りしめる。

 仕立屋の婦人の言葉に感激し、胸を高鳴らせつつも黙りこくって推移を見守っていたアウローラは、ルナ・マーレの勢いに敵わず、喉を鳴らして軽くのけぞった。目の前があまりにも眩しい。


「ぜひ、そのドレスをまとって、会場の話題をさらって頂戴! わたくしも次の夜会までにエマの店で白地に色刺繍のドレスを作らせるわ! 姉妹で流行らせましょう!」


(も、もうすでに義妹扱いになってる……!!)


 そういえば妹が欲しかったのよねと微笑むルナ・マーレの、太陽のごとくまばゆい全面の笑みに、アウローラはクラクラと目眩を起こした。










 

刺繍とかドレスのひらひらを書きたくて書きだしたんだってことを思い出しましたよ!

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