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メイドが灯りをつけに入ってきて、アウローラにも手元を照らすランプを渡す。ほんのりと明るくなった刺繍道具を見て、フェリクスがランプの中の石に魔力を注いだ。手元がさらに明るくなる。
室内と手元を照らすのは、光の魔法の込められた魔石を利用したものだ。熱を発さず、魔力によって光量を調整できるため重宝する。しかし魔石は、近年人工のものも発明されたとはいえまだまだ精度は天然物に遠く及ばず、庶民にはなかなか手の出せない高価なものだ。使用頻度のさして高くない小ホールにさえ魔石を利用しているのは、侯爵家の豊かさの現れだろう。
針を持つ手元に魔石ランプを引き寄せたアウローラの横顔が、魔石の淡い黄色の光にぼんやり光る。
「占術、ですか?」
「そうだ」
「星占いとか、恋占いのような?」
「きちんと手順を踏むものは占術と言ってもいいだろうな。――我が家は王家が祭祀を司っていた時代に、王を守護する騎士として始まったのだが、その頃、いわゆる神官騎士のような役目を担っていたらしい」
「神官騎士というと……神殿をお守りする騎士様でしたか」
「ただ神殿を守護するだけでなく、神官を兼任する神事を司る騎士だ。我が祖先は王家の祭事の補佐と護衛をしていたらしい。古い占術が多く伝わっている」
いつになく饒舌なフェリクスを、アウローラはそっと覗き見た。彼はこんなにも長いこと喋れたのか、といういささか失礼な驚きが胸に満ちる。フェリクスの青い瞳は、剣を握っていたあの時よりもよほど強く、輝かしい光を宿していた。
フェリクスは黙っていれば、月か氷かと言われるような、怜悧な美貌な人である。それが、こうして夢中になると、瞳はきらめき声色には僅かばかり熱がこもって、どことなく少年めいて見えるらしい。
お可愛らしい一面もあるのねと、アウローラは内心、しみじみとした。
「いまでも、領地の祭りに関わる、直系の男にのみ伝えられている占術が幾つかある。初めて祖父に伝授されたのは8つの時で、興味を持ったのはその時だ。術は数多伝わっているというのに、メカニズムが全く解明されていないというところが面白くてな」
「8歳ですか……。年季が入っておられますね」
「そうだな」
フェリクスは今21なので、13年は続いているということだ。アウローラは感嘆した。
アウローラが初めて針を握らせてもらったのは、5つの時だ。兄の習う剣術に興味を示した娘に危機感を覚えた父親と祖母が、せめて興味を引ければと、豪奢な刺繍道具セットと見事な手の刺繍見本を贈ったのが始まりである。
それから、彼女も13年、刺繍に自由時間の多くを捧げてきた。何事も10年続けばとも言うし、たかが趣味というなかれ。その長さが決して短くはないことも、アウローラには身にしみてわかる。
「それでその……占術とはどのような? 領地の花祭りで魔女の占いを見たことはありますが、あのようなものでしょうか」
「占術は魔法に近い魔術の一種で、主に吉凶を判断するものだ」
「それは……先見のような?」
「結果は似ているが、先見は占術とは違うな。あれは個人の能力で、起こりうる数多の可能性のうち、最も起こる確率の高いものがどれかを判断するものだ」
「……よく分かりません」
「先見は占術とは違い、個人の能力だ。つまり、誰でもできるものではない。知っているとは思うが、魔術とは学習によって身につける技術で、魔法は生まれ持つ能力が必要となる。占術は魔法に近い魔術だが、先見は魔法だな」
「……吉凶を判断する、というのは?」
「己の魔力を周囲に通して、場の魔力の流れや起きた現象が対象に対して良いか悪いかを見る。水晶に浮かぶ影や星の巡り、ペンデュラムの揺れや薪の燃え残り、倒れた棒の方向、魔術符の出現順や並び順などといったものだ。吉凶を判断する以外にも、目的を達するために必要なものが何であるかを示す術などがあるが、そちらはかなり高度なものだ」
「……ええと?」
駄目ださっぱりわからない。アウローラは言葉にこそしなかったが、その瞳は雄弁にそう語っていた。
アウローラの母は、嫁に来てもしばらく魔法騎士を続けていた女傑だ。魔法騎士と言うだけあって、魔術にもかなり長けている。魔力は娘にこそ伝わりやすいということもあり、アウローラも幼い頃に魔術の訓練を受けはしたのだが、家庭教師をつとめてくれた魔術師の言を借りれば、『魔力は極普通、才能はなし』であった。そして、どうしても魔術師になりたいならば、かなりの訓練と努力が必要でしょう、とその人は言った。
魔術師になりたかったわけでも、ならねばならない立場でもなかったアウローラは、家庭教師の言葉を聞いて、魔術師になるという未来は選ばないことにした。そのため、アウローラの持つ魔術や魔法に関する知識は最低限のものだし、そもそも彼女にとって魔術は、日常に使われる魔術を除けば、母や辺境騎士団の騎士たちが使うものに馴染みがあるという程度でしかない。
「例えば、辻でどちらに行くべきか迷った際に、己にとって吉となるのはどちらの道か、魔術師が杖を倒すことがあるだろう。あれは、周囲の気や魔力といったものに己の魔力を循環させて、より益になる方がどちらになるか、杖を媒介にして占っている。何故、循環させることでその結果を導けるのかは長年の謎なのだが――やってみせたほうが早いか」
分からない顔をしたままのアウローラに、フェリクスは目元を緩める。それから、アウローラの飲みかけのティーカップに手を伸ばすと、その横におとなしく添えられていた、銀のティースプーンを手にとった。
「スプーンで占うのですか?」
「スプーンでなくても構わないが、棒状であれば分かりやすい。紅茶の水面を水晶や鏡に見立てる術もあるが、少し準備が必要だ」
「紅茶の水面?」
「水晶球や鏡は本来、水盤の代用だからな。石の鉢を用いるのが正式ではあるが、略式ならカップに注がれた紅茶でも、水盤占いはできる」
そう言いながら、フェリクスはくるりと視線を巡らせた。そして、アウローラの手元にあった小鳥の刺繍を指し示す。
「借りても?」
「ええ、どうぞ」
「他に何か、図案を持っているか」
「昨日まで刺していたバラの刺繍がありますわ」
座るソファの上に置いてあったカゴに、アウローラは手を伸ばす。携帯用の刺繍道具を詰めたカゴはランチボックス程度の大きさがあり、ちょっとした布ならば畳んで入れておくことができる。
白いリネンに刺された小鳥の刺繍と、黒いリネンに刺されたピンクの薔薇の刺繍を並べたその間にスプーンを立てたフェリクスは、骨ばった指を、持ち手の端にそっと添えた。薄く目を閉じ、人差し指の先だけでスプーンを支える。
「アウローラ・エル・ラ=ポルタに幸となる方を」
ピン、という音を立てると銀のスプーンは、フェリクスの瞳の色を淡くしたような色に、ほんのり輝いた。
フェリクスの魔力が淡く美しいブルーなのは、彼の瞳と、彼の打ち出す氷塊を連想させる。背筋の伸びるような、冬の朝の冷たさを思わせる、冷たい色だ。
魔力というものは、持ち主の瞳の色と似た色を宿すものなのだと、アウローラはかつて教わった。アウローラの瞳は、祖父と母譲りの緑だ。自身では見えないのだが、アウローラの極平凡な魔力は、フロース家の血を引くものに多い緑色をしているらしいから、その法則は確からしい。
フェリクスがすっと指を離すと、それはくるくると2回まわり、ふわりと浮かんだ。アウローラは息を呑む。スプーンはひときわ強く輝いて、パタリと倒れ、光を失った。
持ち手が倒れこんだのは、白いリネンに小鳥の刺繍。
「今のは……?」
「モチーフか、もしくはこの刺繍そのものか分からないが、こちらの小鳥の刺繍の方が、貴女の身にとって幸運のようだ」
「こんなことで分かるのですか?」
「原理は不明だが、そうだ。あまり外れたことはない。ただ、幸運と言っても、規模は分からないが」
「程度……」
「占術の結果に従って、好物が晩餐に出る程度の幸運に終わることもあれば、人生を決定づけるような大出世に繋がることもある。……大魔術師と呼ばれる程の力があればより効果の高い結果を得られるそうだが、私程度ではそれほどのことはないだろう」
「まあ、ぜんぜん違うものですね」
アウローラはスプーンをつまみ上げ、まじまじと眺めた。銀でできたそれは磨きぬかれ、アウローラの顔がくっきりと写り込んでいる。なだらかな流線型と、精緻な家紋の彫り込みは美しく、かすかについた細かな傷が、使い継がれてきた歴史を感じさせた。
とは言え、先ほどアウローラが使った時と何の違いもないそれは、高級品ではあれどもありふれた銀のスプーンだ。フェリクスのささやかな魔法の、何がどうなってそんな結果を呼んだのか、アウローラにはさっぱりわからない。ただ、光って浮いて倒れただけにしか見えなかった。
不思議そうに首をかしげるアウローラを見て、フェリクスに珍しく笑みの表情が浮かぶ。それに気づいてちょっと目を見開いたアウローラに、彼はコホンと小さく咳払いをした。
「……いや、占術を見慣れない人は大抵、そのような仕草をするので」
「だって、どうして、あれで結果が出るのか、全く分かりません」
「それは私にも分からない。宮廷の顧問魔術師でさえ、占術の原理はほとんど解明できていないそうだ」
「使える人自身でも分からないだなんて、世の中にはまだまだ不思議なことがありますのねえ……」
今度は己の手による刺繍を取り上げ、アウローラはしげしげと眺めやった。白いリネンにくっきりと刺されているのは、白と黒の翼の小鳥。王太子とフェリクスに頼まれた刺繍を始める前に幾つか練習として刺したものの一つで、糸も針もバラの刺繍と同じ、裁縫箱の中にあったものを使っている。特別に施したものは特になく、何の変哲もない、いつも通りの自分の作品である。
「その刺繍の図案は、シロクロツグミ……と言ったか?」
「ええ」
物珍しげに、フェリクスはアウローラの手元を覗く。クラヴィス領にはいないのだろうか、と首を傾げつつ、アウローラは刺繍をテーブルに広げた。
「先程も話したかもしれませんけれど、魔の森では珍しくない小鳥です。夏の羽が、この刺繍のように美しい白と黒の色に染まって、愛らしいんですよ」
デビュタントを迎えてから、アウローラは兄とともに、春から秋は王都にいることが多くなった。必然的に、夏の楽しみであった森や周辺の散策の機会もだいぶ減ってしまって、ここしばらくはシロクロツグミの姿も、あまり見られていない。
広げた刺繍の上をなぞりながら、アウローラは眼裏に思い描く。きらめく陽光、芳しい森の木々、広がる花畑と舞い踊る小鳥たち。笑いさざめく家人たちの、楽しげに響く夏の歌……。
「……森の中では見つけづらいのですけれど、領外れの花の野に蜜を吸いに現れると、色とりどりの花に紛れてちょっと目立つんです。そこを、大きな鳥に狙われてしまうことも多いのですけど、わたくしたちはよく、ピクニックのついでに小鳥たちを眺めていて……」
思い出をとつとつと語っていたアウローラはふと、思い至って顔を上げた。目の合ったフェリクスが、視線だけで『何だ』と問いかける。それを受けてアウローラは、パッと笑った。フェリクスが瞠目するのを横目に、彼女は勢い良く立ち上がる。
「……クラヴィス様の占術、大当たりかも知れません。この小鳥、ひょっとするとわたくしに、大きな幸運を呼び込むかもしれませんわ!」
趣味には饒舌なフェリクスくん。
……だいぶ打ち解けてきたと思いませんか。




