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「大丈夫ですか?」
「母と姉が本当に申し訳ない……」
「お気になさらないでください」
婚約者同士の逢瀬とはとても思えない沈んだ風情で、ふたりは長椅子の両端に腰をおろしていた。ふっくらと膨らむ薄手のカーテンの向こう、窓の外はさわやかな夏の夕暮れ時であり、和らいだ日差しを涼やかな風がなでてゆく、夏の一日で最も過ごしやすい時間帯である。窓から差し込む日差しは淡い黄金色に輝いて、部屋を琥珀色に染めていた。
しかし、ふたりの顔色は冴えない。ぐったりというよりはげっそりとして、立ち上がるのも億劫だという雰囲気である。アウローラは手癖のように、細い銀の針と黒い糸を動かしてはいたが、彼女らしくないほどに進みは遅い。
「名の知られた貴婦人になるというのは、大変なことなのですね」
「……いや、母と姉が規格外なのだと思う」
精細を欠く声色が返り、アウローラはぼんやりと、長椅子の反対端に目をやった。乱れた銀の髪と半眼の青い瞳が気だるげな色香にあふれている。――しかしこの方、模擬戦の後だってもっとシャンとしておられたのに。
ふう。アウローラは息をつき、それから首を左右に振った。彼もそうだろうが、自分だって、肉体の疲れはさほどでもないのだ。ただただ、精神の疲労が著しいだけで。
今日は朝も早くから、クラヴィス邸でにて、アウローラとフェリクスの採寸が行われたのである。全身の、それこそ全ての指のサイズから耳の位置まで、ありとあらゆる実寸データを取られ、髪や顔の映える色をとあらゆる布を当てられ続けたふたりは、それだけのことにぐったりしてしまったのである。社交歴の短いアウローラと、社交の苦手なフェリクスにとって、これほどの苦行もない。
その上、屋敷に乗り込んできたルナ・マーレとクラヴィス夫人は結託し、何百枚もあろうデザイン画をデザイナーに出させては、ああでもないこうでもないと本人意思そっちのけで、喧々諤々論議を交わしたのだ。社交界で女性たちの流行を作ってきた実績をもつクラヴィス夫人と、若い女性たちの流行を現在進行形で作り出しているラエトゥス公の奥方の要求は高く、デザイナーも張り子たちも全身にやる気をほとばしらせて、アウローラとフェリクスを見事に置き去りにしたのだった。
その上、今日はまとまらないからと明日再度集まることになったので、ふたりは閉口し、ダンスの練習を口実にし、アウローラの侍女を一人連れてピアノのある小ホールへと引きこもった。
力尽きているふたりの前に、クラヴィス家のメイドが芳しいお茶と小さなケーキを置いて優雅に立ち去ったが、手を伸ばす元気も最早ない。
「わたくし、刺繍のサンプルを見せて頂いた時しか、浮き立つ気持ちになれませんでした……」
「私は何一つ、浮き立つ気持ちになれなかった……」
「お疲れ様でございます」
「とはいえ男の衣装より、貴女の方が大変だろう」
「ええ、まあ、デビュタントの時でさえ、これほどまでには盛り上がりませんでしたから……良く言えば新鮮です」
ぼそぼそとしゃべるアウローラに相槌を打ちながら、フェリクスがカクカクと頷く。
アウローラの母は、ポルタ騎士団に属していた元騎士である。美しいとか愛らしいとかいう概念からは遠い、男性めいた凛々しい人で、騎士としての職務に従事している間は騎士服ですごしていたという。そのため彼女は、貴婦人の装いには疎いのだ。
一方、父であるポルタ伯爵は若いころ、ちょっとしたプレイボーイとして浮名を流した男であり、その頃は女性の衣装を褒めそやすことにも長けていたが、今ではすっかり妻の尻に敷かれている。最新流行の女性の衣装について詳しく知ろうはずもない。それどころか娘が何を着ても『どれもこれもにあう! かわいい! さすがローラ! 僕の天使!』としか言わないので、正直役立たずである。
結局アウローラはデビュタントだというのに、王都でそれなりに名の知られた仕立屋で、その年の流行のドレスをなんとなく作らせ、自分でわずかに刺繍を刺しただけだった。そんなドレスでは目立つはずもなく、さっさと退場したとは言っても、呆れるほどに没個性だったと断言できる。実際、アウローラ自身にも、あの日のドレスの意匠はほとんど記憶に残っていない。
「そんなデビュタントのお陰で、流行のドレス、というのは工夫をこらすか、容貌が飛び抜けているかしなければ、皆と同じになって平々凡々になってしまうのだとよく分かりました」
「……そんなものか」
「ええ、そんなものです」
騎士団のお仕着せでも、他の人より抜きん出て目立つ彼には分かるまい。アウローラはため息をこぼし、ふるふると首を振った。手慰みに刺していた小鳥の刺繍を広げて伸ばし、夕日に透かす。
巧みな彼女の刺繍ではなく、それを支える細く白い手指をなんとはなしに眺め、フェリクスは口を閉ざした。――一体全体、彼女が目立たないだなんて、そんなことが本当にあり得るものだろうかと不思議に思う。
なにしろ、フェリクスにとっては最早、アウローラはそれなりに身近な存在なのだ。その人となりを知ったせいか、彼女の見目も、『好ましい』に属するようになっている。
それになにより、アウローラはフェリクスにとって貴重な、『隣にいても疲れない女性』だ。彼女は、社交的とはとても言えない彼の、話題を見つけられないがゆえの沈黙を、咎めだてせず、気を悪くするでもつまらなそうにするでもなく、そういうものだと捉えている節がある。社交界で月の女神などと例えられる美貌を持ちながらにして、そのアグレッシブな気質でフェリクスを振り回す彼の姉や母、とにかくも話題の途切れぬようにとでも思うのか、夢中で話しかけ続けてくるご令嬢たちに比べて、その隣のなんと居心地の良いことか!
であるからして、今では、誰もが着飾り平素とは別人のように装う夜会だったとしても、人に溢れるフロアから彼女の姿を見つけ出せるだろうという、奇妙な自信があった。二年前――デビュタントを迎えた16歳の、白いドレスのアウローラは大変愛らしかっただろう。見つけ出せないとはとても思えない。
しかしフェリクスは残念ながら、真っ直ぐな言葉を紡ぐ性状でありながら、女性を褒めるような言葉を口にできる男ではなかった。彼は落ちた沈黙をごまかすように、卓の上の茶器に手を伸ばす。白地に淡青の唐草という美しい陶磁器は彼の母親の趣味だ。そこに満ちた茶の香りは癖の強いもので、東の国からの輸入品だという。つまり、どちらともそうそうお目にかかれない最高級品に属するものなのだが、それに頓着する彼ではない。少し温んだ明るい水色の茶を、茶好きが絶叫しそうなぞんざいさでぐっと喉に注ぎ込んだ。
「…………それは小鳥か?」
「ええ、シロクロツグミといいまして、ポルタ――というか、辺境の魔の森では珍しくない小鳥です。わたくしの片手に乗るほどに小さいのですが、夏は見事な白黒の羽毛になりますの。ポルタの娘達の間では定番の図案なのです」
アウローラは彼の仕草に目も留めず、再び自分の手元へと視線を落とした。ソファの傍らの裁縫箱から針を取り、器用に糸を変えると躊躇いなく、追加の糸を刺していく。布地とそこに浮かび上がる文様へと注がれる目線はひどく真剣だったが、同時にとても楽しげで、フェリクスはぼんやりとその横顔を眺めた。
たまご色の髪と同じ色の睫毛、その奥で瞬く、つり目がちの瞳は明るい緑。それらはきらきらと眩しく輝いている。その表情を見ていれば、彼の姉は目がチカチカするし指も痛くなると文句を言ってあまり好まなかった作業である刺繍が、彼女には心底楽しいのだと分かった。色選びも、ひと針ひと針刺していくことも、足りなくなった糸を継ぐことさえ、すべてが彼女を楽しませているのだと。
「……刺繍が本当に好きなのだな」
「ええ!」
ぽつりとつぶやいたはずの言葉に即座に答えが返り、フェリクスはぱちくりと瞬いて目を瞠った。
「たかが女の趣味、と思われるかもしれませんが、わたくしには生きがいのようなものなのです。クラヴィス様にとっての剣術……と申しますとおこがましいですかしら、お仕事ですし。でも、そのくらいの思いでおります」
趣味に没頭して許されるのは貴族の特権ですわね、と苦笑しながらもアウローラは手を止めない。
「クラヴィス様は、ご趣味はございますか?」
「趣味か……」
この話題は、ひと月ほど前の出会いの翌日くらいにはしておくべきだったのではなかろうかと思いつつ、アウローラは目を向けることもなく聞いた。フェリクスはアウローラの手元から目を離さずに、首を傾ける。再び沈黙が落ちて、静かな部屋に、小鳥の鳴き声だけが響く。窓向こうの空はいつの間にか、紫に染まり始めている。
「……占術、だろうか」
……と、意外なことをフェリクスが言い出す頃には、部屋はどんどんと薄暗さを増していた。
しばしほのぼのタイム。
しかし久しぶりの「ふたりのターン」。
次回:「フェリクス、語り出す」(訳=長くなったので分けました)




