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「……まあ! まああ!」
パチン! と扇をたたむ音と共に聞こえた声色に、アウローラは確信した。
「うちの応接間に、子猫ちゃんと妖精さんをお迎えできる日が来るなんて! うーん、今日はいい日ねえ」
「あの」
「それに……今お伺いした、ルーミス氏とのやりとり。素晴らしいわ、アウローラさん!」
「そ、そうですか……」
間違いない。この人は誰がなんと言おうと、ルナ・マーレの母親である。
全ての調度がこの上もなく優雅にしつらえられた応接室で、アウローラの前のソファに腰を降ろしているのは、この人を映えさせるためにこの世があるのだろうと思われるほどの、美しい女性だった。癖のない銀糸の髪に青玉の瞳、陶器の肌に薔薇の唇。まるで人外、氷の精霊のようだ。ともすれば冷たくも見える顔立ちは、美女などというありきたりな表現ではとても追いつかないほどである。国内屈指の吟遊詩人でも、称える言葉に苦心するだろうほどの美貌だ。
しかし、その口から飛び出した驚きの声とその温度ときたら、アウローラの聞き覚えのあるそれに、あんまりにもそっくりだった。彼女の美貌は息子に、あまりにもよく似ているのだが、彼が似たのは幸か不幸か、外側だけであるらしい。中身は驚くほど娘にそっくりだったのだ。
そう、つまり彼女こそが、当代クラヴィス侯の妻——フェリクスとルナ・マーレの母親である、クラヴィス侯爵夫人である。
子猫のようなつり目のアウローラと妖精のような女顔のルミノックスは、そんな彼女の前で萎縮しながら、芸術品のような絹張りの長椅子に並んで腰をおろしていた。
彼らを取り巻く濃い飴色の家具は磨きぬかれて歴史を醸し、穏やかな青を基調とした壁は薔薇と唐草の模様の絹織物である。壁に飾られた白地にエキゾチックな青い絵の皿はおそらく、近年流行の『東方陶器』というものだろう。天上から吊り下げられた、嫌味でない程度にきらびやかなシャンデリアは、本物のクリスタルに違いない。
それはともかく、子猫ちゃんとはまさかわたしのことか、と呆然と考えながら、アウローラはちらりと隣の兄に目をやる。妖精さんとはひょっとせずともわたしのことかと言いたげな緑色の瞳が、ちらりと返される。
ポルタ家の兄妹の心は今やひとつであった。
――早いとこ手紙を渡して、もう帰りたい。
「クラヴィス夫人、先ほどお渡しした封書の件ですが……」
「ええ、執事に渡しておいてよ。愚息が戻り次第開封させます」
「よろしくお願いいたします」
「あのお手紙、アウローラさんにも届いているのでしょう? 内容を伺ってもよろしくて?」
――しかし、この手の人物からそう簡単に逃れられるわけのないことは、兄妹ふたりとも薄々気づいていた。なにせアウローラは、ルナ・マーレとのほんの僅かの邂逅の間に、『この人こそ、彼が女性を苦手とする原因であろう』と判断しているほど気質の女性であった。そんな彼女にそっくりの母親である。勝てるわけがない。
ルミノックスはちらりとアウローラに視線を投げる。妹がこくりと頷いたのを見て、苦虫を噛み潰した顔になり、浅く息を吐いた。
「妹宛の封書ですが、いわゆる招待状でした。――ルーミス侯の夜会の」
「まあ」
ぴたり。クラヴィス夫人の動きが止まる。
「ルーミス家の?」
「…………はい」
「いつの夜会?」
「2週間後だそうです」
「2っ?!」
ガタン! ゴンッ! ゴスッ!
およそ貴婦人らしからぬ勢いで立ち上がったクラヴィス夫人は、立ち上がった際にテーブルに打ち付けたらしき肘にも膝にも、気が回らぬ様子である。小卓がひっくり返ってもおかしくないほどの勢いである。
その卓上でティーカップの水面が激しく揺れるのを、ルミノックスとアウローラはハラハラと見守った。落ちて割れたらと思うととんでもなく恐ろしい。このカップひとつで、アウローラお気に入りのティーセットが一式買えそうだというのに。
心臓を震わせた兄妹に気づくことなく、クラヴィス夫人はすうっと深く息を吸い、そして。
「フレッド! フランク!! マリー!! すぐ! すぐ来て頂戴!! それからマーヴィス!! フェルとルーを呼んで!! 今すぐ! 今すぐよ!! 通信石にハハキトクとでも言ってやりなさい!!」
それはあまりにも貴婦人らしからぬ大声だった。
*
「やあ、妻が申し訳ない! 彼女は少女の頃からこうでね」
「そんなところに惚れた男が言っても説得力は皆無ですよ兄上」
「そうですわお義兄さま。お義姉さまの魅力はこの矢の如き勢いです」
「三人共お黙りなさい! 緊急事態でしてよ!」
アウローラとルミノックスは再びぽかんとしていた。
優美な応接室に、金の巻き毛の美丈夫が二人と、ブルネットの美女がひとり増えたのである。彼らの出現によって応接室は、王宮の夜会の如き華やかな空気に塗り替えられてしまった。
アウローラはちらりと目を隣に投げかける。呆然と緑の目を見開いている兄もまた、少女めいた美貌の可憐な男である。
——見事なまでに、アウローラは浮いていた。ただし、薔薇に混じって咲く野の花、という風情ではない。バラ園のど真ん中ににんじん畑がある、という感じである。
「君の『緊急事態』にも随分と慣れたものだよ、奥方様?」
「お黙りなさいフレッド! 今回はほんとうのほんとうに緊急事態ですのよ!」
「ルナが家出した時よりも?」
「あれは大変でしたわねえ……」
「まさか侯爵家の姫君が森で嬉々として野宿していようとは、騎士団の誰も思わなかったからねえ……」
「あれからもう10年以上になるのか……。あのお転婆が無事に嫁げるとはなあ……」
美人が4人、少々聞き捨てならない話をしているが、アウローラは乾いた笑いを面に貼り付けて、兄妹を囲むようにソファに腰をおろしている、増えた人々を眺めた。
ひとりは、ルナ・マーレによく似た豪奢な金の髪と、フェリクスによく似た薄く紫の混じった碧の瞳をした、威厳をまとった男だ。風格がありすぎて、夜会などであれば声もかけられないだろうと思わせる風情である。もう一人はこれまた似たような金の髪を短くしていて、ほんの僅か緑の混じった青い目をしている。体格が立派で、手の甲には傷。騎士だろうか。そして最後のひとりはくせのあるブルネットを美しく結い上げた、榛色の瞳の女性だ。他の3人とは趣が違うが、彼女もまた、麗しい顔立ちをしている。
「あの……」
「ああ、申し訳ないね、ポルタの若君。皆揃うとついつい口が軽くなっていけない。——フランク、彼らはポルタ伯爵家直系の兄妹だ。こちらが嫡男のルミノックス殿で、こちらが彼のアウローラ嬢」
「お初にお目にかかります。ルミノックス・イル・レ=ポルタでございます。アウローラ共々、どうぞよろしくお願いいたします」
「アウローラでございます。どうぞ、よしなに」
どうしろと。困惑に満ちた声を上げたルミノックスに我に返って、威厳に満ち満ちた金髪の男——クラヴィス侯、フレデリク・イル・レ=クラヴィスは苦笑しながらポルタの兄妹を、残りの二人に指し示した。ルミノックスとアウローラは優美な礼をとる。フランクと呼ばれた男はほう、と声を上げ、名を名乗って礼を解いたふたりをしげしげと眺めた。
「ああ、君が噂の『妖精』かあ……なるほど綺麗な顔だ。それでこっちがフェル坊の子猫ちゃん? ……うん、いい目をしてるな! 君、騎士団とか興味ない!?」
にこにこと気さくな気配を漂わせ、瞳を覗きこまれたアウローラはぎょっとして半歩下がる。『騎士団』という単語が出てきたということは、彼はやはり騎士なのだろう。
しかし、騎士にはこの手の性格の人間が少なくないのだろうか。アウローラは先日、フェリクスに伴われて赴いた騎士団の鍛錬場を思い出す。フェリクスの上司が、こんな気配の人ではなかったか。
「フランク。いたいけな娘さんを脅かすのはやめなさい。あなた、ただでさえむさ苦しいのですから。それにいつまでわたくしを紹介しないつもりなの?」
「……おう。スマンスマン。俺はフランクリン。そこの侯爵の弟だ。そんでこれが俺のこわーい嫁さん」
ブルネットの美女が、騎士の後頭部をべしりと叩く。ひくりと頬を痙攣させつつ、アウローラはもう一歩下がって浅く息をついた。
クラヴィスの女性は直系も嫁も女傑ばかりなのか。これは、フェリクスが女性を苦手としていても、仕方がないような気がする。
「マリー・アンと申します。この脳みそまで筋肉で出来ている男の妻です。どうぞよろしくね、アウローラちゃん、ルミノックスくん」
「……はい」
「……よろしくお願いいたします」
硬直をとけきれないままアウローラは目を細め、改めて礼をとった。
それにしても、ああ、いったい誰が考えるだろう?
——かつて社交界の華と呼ばれ、今なお、その美貌と所作で令嬢たちの手本と呼ばれるクラヴィス夫人が、夫と義弟とその妻を、大音声で呼ばわるなんて!
キャラの濃いクラヴィス家のターン。
この父と叔父、そしてフェリクスの小話が活動報告にあります。




