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指輪の選んだ婚約者  作者: 茉雪ゆえ
本編

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12/59

10

 カラカラと軽快に、馬車は石畳を行く。

 硝子の向こう、初夏から夏に変わりゆく日差しは強く眩しく、街路樹の落とす影は黒々と濃い。空は目に染みるほどに晴れ上がって雲ひとつなく、遠くに見える山は艶やかに青く染まって見える。

 季節をほんのすこし先取りした、淡青と白のフリルが重なる外出着と、同じ色のボンネットを被ったアウローラは、「もうすぐ夏ね」と小さくぼやいた。


「王都の夏は暑いからね。……そろそろ、ラクス・ヴィタエで涼もうか」

「兄様は夏の間、生ける死体だものね」

「……ローラは本当に手厳しいよね!」


 車中でゴトゴトと揺られているアウローラの斜め向かいで、アウローラの兄・ルミノックスは、クリーム色の巻き毛を揺らして儚げに微笑んだ。

 ルミノックスはアウローラとよく似ている。しかし、特別美人というわけでもない彼女とは違い、彼は『美しい』とよく讃えられる。つまりルミノックスは、女性的な面差しと体型の持ち主なのだ。

 女性ならばさほど珍しくない、丁寧に整えられた柔らかな色の金の巻き毛や、ぱっちりとした瞳、日に当たらない白い肌。すんなりと伸びてはいるものの筋肉の薄い体つきは、男装の麗人的な雰囲気だ。男性としてはどうにも頼りないが、中性的なものを愛でる年若い乙女たちにはよく好かれる、というわけである。

 そんな兄は、身体があまり強くない。幼い頃から、騎士の家系である母親の指導のもとで身体を動かしては来たのだが、線の細さはどうやら生来のものだったらしい。喉が弱く、熱を出しやすいという体質は、20歳を過ぎた今になっても改善されていなかった。深窓のご令嬢よろしく、夜風やら夜露やらで簡単に風邪を引いてしまうのだ。

 そんなわけでルミノックスは、熱で潤んだ瞳や赤い頬を夜会などで晒してしまい、その手弱女のごとく繊細な風情を『妖精のようだ』などと言われてきた。早々に騎士から学問の道へと切り替えさせた両親の判断は誠に英断であった、とアウローラはしみじみと思う。うっかり士官学校へなど行こうものなら、同性に取って食われていたに違いない。


「大丈夫よ兄様、夏の兄様は妖精の貴公子様と言うよりは、丘に上がって瀕死のお魚だわ」

「何が大丈夫なのせめてガラス細工と言って!」

「まあ、そんな女々しい評価が欲しいの、兄様?」

「……いらないけどさあ」

「夏の溶けた蝋燭くらいで手を打とうかしら」

「確かに僕は夏に弱いけどさあ!!」


 妹がひどい。泣き真似をするルミノックスとしれっと応えるアウローラのやりとりを見て、彼女の隣に座っている付き添いの侍女が必死に笑いをこらえている。


「お母様とお父様もそろそろいらっしゃるかしら」

「いつまでも当主不在では困るものねえ。あちらに移る日付を伝えるようにと手紙が来たよ」

「そうしたら一息つけるわね、兄様も」

「うん、思う存分寝込める」

「寝込まないでください」

「頑張ります」


 ほっそりした兄は見た目の通りに、暑さに弱い。国内でも北部にあるポルタ伯爵領は、夏もそれほど気温の上がらない、さわやかな土地だ。しかし王都の夏は、石畳への照り返しがきつく、建物が乱立することで風の通らないため、国内でも群を抜いて暑いのである。

 早くもバテ始めているルミノックスを見るにつけ、ポルタ家の子どもたちはあとひと月もしないうちに、神やどる湖――ラクス・ヴィタエの向こうにある避暑地の別荘へと、避難することになるだろう。


「ローラはファブリカ商店(メゾン・ド・ファブリカ)に用があるんだっけ」

「そう。色々と入り用になって」

「刺繍を頼まれたのだっけ? ローラの刺繍は僕から見ても見事だものなあ。……あ、ローラひょっとして、王都で買い物をするのは初めてかい?」


 揺れる窓の外にちらりと目をやって、アウローラは頷く。

 社交の季節に王都に出てくることは貴族の仕事と言っても良いが、アウローラにとっては2年ぶりだった。そもそも、アウローラが社交界に出てくる事自体が2年ぶりなのだ。なにせ、この2年の間彼女は、びっくりするほどのうっかりによって、社交のシーズンを棒に振ったのである。


 2年前。16歳だったアウローラの初めての社交界(デビュタント)の夜会は、たった1曲のダンスで終わってしまった。2曲目に入る前に思い切り転んでしまい、巻き込んでしまった近くの貴婦人にはあてつけのように酒をこぼされて、ドレスを駄目にしてしまったのである。兄は相手に猛然と抗議してくれたらしいのだが(後に、『妖精の逆鱗』などと呼ばれたらしい)、アウローラは「心の傷が」などと言い残し、会場を去ってすぐに領地の屋敷へ戻り、あとは刺繍を刺すことに全力を注いで、その年のシーズンを終えた。

 そして去年。流石に2年連続引きこもってはまずかろうと、それなりに夜会の準備なりなんなりしていたのだが、王都に向かう3日前に散歩中の馬の背から豪快に落下した。足の太い骨をぼきりとやらかして、まっとうに歩けないから今年は無理ねと、領地の屋敷で刺繍に全精力を傾けて、シーズンを終えた。

 アウローラにとっては充実の2年である。


「場所は覚えたし、依頼された分の経費は先方に請求するし、わたしの分は父様の名刺(ネームカード)を持ってきたから大丈夫」

「しっかりしてるというかちゃっかりしてるというか。ああそうか、ローラはポルタで結構ひとり歩きしているもんなあ。慣れてるか。でもここは都会だからね。気をつけないと駄目だよ」

「わかってる。ポルタでだって、ちゃんと護衛と侍女を付けてるわよ」

「まあそうだけどそういう意味じゃないから。……そろそろ着くんじゃないか?」


 ルミノックスの声に合わせたかのように、ガコン、ひとつ大きく揺れて、馬車が止まった。扉が開き、さわやかな風がさっと吹き込む。


「ああー、生き返る」

「いい風ね」


 熱のこもった車内がよほど辛かったのだろう。頬をうっすらと赤く染め、アウローラと同じ色の目を細めたルミノックスが、勢い良く馬車を飛び降りる。差し出された兄の手を取って踏み台を降りれば、小さな噴水が目に飛び込んできた。王都の目抜き通りの一本裏、質の良い小間物屋や高級な仕立屋の並ぶ通りである。


「では、2時間後にまたここで」

「気をつけてね兄様。人のいない路地に一人で入り込んだりしたら貞操が危険よ」

「それは僕のセリフだよね!?」


 妹が本当に容赦ない! そう言いつつも晴れやかな笑顔で手を振って、ルミノックスは噴水の向こうへと歩いて行く。その背を護衛の騎士が駆け足で追っていった。きっと本屋に向かったのだろう。

 学問の国であるウェルバムの王都には、学問の中心都市スコラ市にも匹敵する、立派な本屋街がある。伯爵家の嫡男でなければ、多分学者になりたかったであろう兄にとって、本屋街は楽園なのだ。

 妹と揃いの色合いの後ろ姿が遠のいていくを目で追って、アウローラは息をついた。


「お嬢様、そろそろ」

「そうね。さあ、行くわよルイス、わたしの楽園へ!」

「はい、お伴します。お嬢様、こちらへ」


 握りこぶしを固く結んで、侍女を振り返る。ルイスは苦笑を滲ませて、アウローラの前を歩き出した。護衛が静かに追ってくる。


 ファブリカ商店(メゾン・ド・ファブリカ)は、王都でも知る人ぞ知る仕立屋だ。女性のドレスから男性のコートまで、ありとあらゆるものを仕立てるその店は、目の肥えた王族さえも虜にしたと言われる刺繍の技で知られているのである。





「んふ……んふふふ……」

「お嬢様、顔が淑女でなくなっておられます」

「あらいやだ……うふ……うふふふふふ」


 とろけそう、というのはこういうことを言うのだろうなあ、と侍女と護衛は呆れた。色めいた意味でとろけそう、ならばともかくも、彼らの主家のお嬢様ときたら、そんな艶っぽい雰囲気などまったくもってこれっぽっちもないのである。どちらかというと、ゆるゆると緩んで、だらしない風情だ。

 つまるところ彼女は、本日の戦利品――大量に買い込んだ美しい染の糸やビーズ、刺すための布などのお陰でご満悦なだけなのだった。


(こんなに心置きなく材料を買い込めることってないわ……そういう意味では王太子殿下とクラヴィス様に感謝しないと)


 んふふふふふ。

 乙女らしさの欠片もない、ただし、いつものきっぱりしたアウローラしか知らない人間が見れば他人かと思うような表情を浮かべ、アウローラはほくほくと笑う。

 先日の、王太子との非公式の会談の最後に彼の人は、うっとりするような美しい藤色に染められた最高級のシルクの布地を差し出しながら、こう言ったのである。


『俺は君の原始の魔女の力をつぶさに観察したいと思う。だがしかし、一作さし終わるまで逗留しろというのは良くないというか、未婚の令嬢を王太子宮に入れるのはそういう意味だと間違いなく捉えられる。……というわけでポルタ嬢、俺の婚約者に贈るスカーフに、刺繍を施してはくれないか。無論、材料費は請求してくれて構わない。金額に上限もつけない。あまりの材料は君のものにしていい。ああそうだ、ついでに俺のタイにも刺してくれ!』

『お前がとっとと婚約者を嫁にしちまえばこんな心配無用なんだがなー』

『…………ポルタ嬢、土下座して頼まれてもこいつには刺してやらんでいいからな』


 首に巻いていたタイをシュルリと抜いて(のたま)う王太子に、アウローラは敬意を忘れる勢いで呆然とした。ついでってなんだ。王太子に献上するものが、ついでで済むわけがあるか。王太子の自覚はどうなってるんだ。

 王太子はまごうことなく、ウェルバム王国の次期国王である。純粋な序列だけで言えば『この国で2番めに地位の高い人』だ。数年前まで繰り広げられていた、王位継承戦争という名の政争の末に、やむを得ず今の地位についたという経緯はあれど、今となっては替えのきかない、唯一無二の存在なのである。その人がこんなに気さくな認識でいいのか。


 しかし、腐ってもカビても王太子である。いくら気さくに言われようが、依頼という名の命令を断ることなどできない。それに、選択肢があろうがなかろうが、断るつもりなどさらさらなかった。

 だって刺繍である。王太子命令での刺繍である。そう、王太子命令だ。他の何を差し置いたって、優先していい事項だ。それが、刺繍だなんて! しかも予算の上限なし! 最高級の大判のスカーフに思う様刺繍! ただの天国ではないか!


 お受けしますと若干食い気味に頷いたアウローラに、王太子は満足気に頷き、彼の乳兄弟は笑いを噛み殺し、隣の婚約者はなんだか憮然としていたが、その時の彼女の脳裏はすでに、スカーフに刺す刺繍の図案をどうするかということでいっぱいになっていた。

 鍛錬所を辞する時、フェリクスに「良ければ私のタイにも刺してくれないか。もちろん経費は私が払う」とタイを差し出されるまで、うっかり存在を忘れかけていたくらいである。


 今日、こうして街へ足を運んだのは、この命令を遂行すべく、最高の糸とビーズを買い付けるためだった。ちょっとばかり、珍しくて良さそうで素敵なビーズだとか、最近西方の美の大国で流行中の刺繍の図案だとか、東方の聖職者の持ち物だったという古いサッシュの重厚な刺繍に魅入られたりだとか、社交シーズン初めの王宮の夜会で王族の人が身につけた衣装のためにサンプルとして作成され最終的には没案になった刺繍の見本を食い入るように見つめたりだとか、田舎の農村や宿場町で昔から代々刺されてきたという寿ぎの刺繍に目を輝かせたりだとか、そう、ちょっとばかり脇道に逸れたりもしたが、概ね目的は達成できている。待ち合わせの2時間などもうあっという間だ。


「お嬢様、お荷物は送らせました。そろそろお時間です」

「ああ、楽しい時間はどうして一瞬で終わってしまうのかしら……。夜会なんか永遠に終わらないような気がするのに」


 ……このセリフが出るのが逢瀬帰りでしたらねえ。侍女・ルイスの顔にはありありとそう浮かんでおり、彼女の背後に控える護衛もまた、同じような表情を浮かべている。婚約者とのお茶会のあとにこんなセリフを聞いたことなど一度たりともない。


「ですがお嬢様、ここにずっといては、購入されたものをお使いになることができませんよ」

「……そうね。ああそうだわ、買ったものを開封する楽しみというのもあるのよね! 届くのは明日かしら? 待ち遠しいわ! 待ちきれないわ!」


 恋する乙女のような身悶えをひとつして、足取りも軽やかに噴水へ向かうアウローラの背を、侍女と護衛は慌てて追った。

 ――しかし、一歩遅かったと言える。


「アウローラ・エル・ラ=ポルタ嬢?」


 完全に浮かれているアウローラの背に、細い路地から声が降ってきた。

 聞き覚えはないが、己を呼ぶ声に彼女が足を止めると、カツンカツンと良い音が石畳を叩いて、声はだんだんに近づいてきた。

 甘やかで華やかなその気配は、流行りの香水(パルファン)の芳しい匂いを漂わせている。


「貴方は……」

「先日ちらりとお目にかかりましたか」


 見上げるアウローラの視線の先には、海老茶のリボンをゆるく結わえた豪奢な金の巻き毛と、淡い藍玉のような薄青の瞳がある。身にまとうのは大陸の流行最先端の衣装――いわゆる『モード』というやつだ。色男の名に相応しい、どこか軽薄な甘さの滲んだ眩しい美貌は、じっとりとアウローラを見つめ、微笑んでいた。


「クラヴィス様の、ご同僚の方でしたか」

「ユール・イル・レ=ルーミスと申します」


 ユールは美々しい笑みを見せ、古い騎士の礼を取る。片膝をついたまま、無表情のアウローラの左手を取ると、実に優美に唇を寄せた。

 その瞬間に湧き上がった、真紅の薔薇が舞い散ったような錯覚に、護衛と侍女は目眩を覚える。芝居がかった仕草が妙に様になる、気障な男ねえとアウローラは目を(すが)めた。




 

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