第一章⑥
「あら、ステラ?」
アンリエッタとステラが保健室の扉を開けると、中で保健室の先生はテーブルの上に設置された実験装置のようなものの前で試験官を振っていた。試験官の中には、プリズムに反射する液体。養護教諭は当然ながら白衣を纏っていたから、理系の博士に見える。
「その子は? 臙脂色の制服? 転校生?」
「うん、転校生、火の魔女のアンリエッタ」ステラはまるで親友のようにアンリエッタを先生に紹介した。親友のよう、というのはステラのスキンシップが過剰だという点による。
「火?」先生は目を大きくして、その紫色の液体を流しに捨てた。「本当に? じゃあ、ついに実験が出来るのね」
「実験?」アンリエッタは疑問を呟いた。
「うん、」ステラはアンリエッタの手を強く握り続けていた。「あ、こちらはミサキ先生、私に協力してくれてるの、保健室の先生だけど、専門は魔法工学」
「よろしくね、アンリエッタちゃん」ミサキは顔の横で手を開いた。茶色の長い髪は程よくウェーブがかかっていて柔らかそうだった。そのチャーミングな微笑みには気品が漂っている。
「横になる?」ステラはアンリエッタに聞く。
「あ、うん」アンリエッタは頷いて二台あるうちの窓際のベッドに横になった。別に気分が悪いわけではなかったけれど、少し休みたくなったから。
「具合が悪いの?」ミサキは聞く。
「ううん、」アンリエッタは首を横に振った。「ただ、少しパニックになったから」
「パニック?」ミサキはベッドの横にパイプ椅子を置いて座り、アンリエッタの顔を覗き込んだ。
「私の風がアンリエッタを吹き飛ばしちゃったんだ、」ステラはアンリエッタを挟んでミサキの対面に立ち説明した。「スーパ・ソニックで」
「なんでまた?」
「さっきまでスヌウピの呪いの講義だったんだけど」
「ああ、呪いを解いてみろ、」ミサキは反射的に事情を理解したようだ。「スヌウピが炊きつけたのね」
「うん、そう、そうなんだよぉ、」ステラは微笑み、アンリエッタの手を触る。絡める。「だから、なんていうかな、むきになっちゃって、スーパ・ソニックを編んじゃった、アンリエッタ、ごめんねぇ、どこか痛くない?」
ステラは優しい顔をする。クラスでの彼女の印象と真逆だ。アンリエッタは少し戸惑いながらステラの優しい顔を見ていた。「……違うよ、僕が、気分が悪くなったのは、ステラの風に吹き飛ばされたからじゃなくて、部屋が暗くなったから、苦手なんだ、僕、暗いところが、とにかく、ステラのせいじゃないよ、別にどこも痛くないし、いや、ちょっと背中が痛いかな」
「そうだったんだ、」ステラはアンリエッタの背中を触る。「でも、真っ暗になったのは、私の風のせいでしょ、どっちにしろ、ごめんだよぉ」
ステラのしゃべり方はとてもおっとりとしていて特徴的だった。ナルミはきっとこのしゃべり方が嫌いだろう、と根拠もなく考える。しかし、アンリエッタはステラの口調に少し癒されていた。小さい女の子が演奏するピアノみたいで。
「ステラって、風の魔女だったんだ」アンリエッタはステラを見て呟く。
「風と水のイレギュラ」ステラは頷く。
「初めて会った、」アンリエッタは水と風の魔女を見つめる。「イレギュラの魔女」
「驚いた?」
「うーん、新鮮?」
「私は魚じゃないよぉ」ステラがそういうのが無性に面白くてアンリエッタは声を出して笑った。
「何か飲む?」ミサキがアンリエッタに聞く。
「はい、えっと、」言われて口の中が乾ききっていることに気付く。「コーラとか、ないですよね?」
「あるわよ、」ミサキは言って保健室の墨の白い冷蔵庫まで行く。冷蔵庫の中にはスポーツドリンクに混ざって様々なメーカの炭酸飲料が入っていた。ミサキはコーラの五百ミリリットルのペットボトルを手にして、扉を閉める。蓋を開けてアンリエッタに手渡す。「はい、どうぞ」
「ありがとうございます、でも、どうしてコーラまであるんですか?」
「コーラには解毒作用があるの、」ミサキは得意げに言う。「一般的には知られてないけど、事実よ、メーカは認めてないけど、魔女のひいおばあちゃんが言ってたから本当よ」
アンリエッタは一気に半分くらいまで飲み干して、一度大きなゲップをした。気分はなんとなく爽快。解毒作用のせいだと思ってみる。少し半信半疑だったけれど。
「……実験って、」アンリエッタは気がかりを思い出し、テーブルの上の実験装置を見ながら聞く。「実験って何ですか?」
「あ、アレは、」ミサキも実験装置の方を見ながら答えた。「ただの水質検査」
「僕が知っている水質検査とは、大分違うみたい」アンリエッタは笑う。
「ねぇ、アンリエッタはどうして自分のことを僕っていうの?」何の脈絡もなくステラは聞いてきた。顔が近い。その大きな目で見つめられるとなんだか緊張する。
「……え? うーん、」少し考えて答える。「別に理由なんてないけど、昔からなんだ、だから、今更、自分のことを私っていうのも、恥ずかしいし」
「暗いところが苦手なのは何故なの?」今度はミサキが聞いてきた。
「僕にとって、真っ暗は深海なんです、僕、水が苦手で、だからパニックになるんです」
「ああ、厳密に言えば暗いところが苦手じゃないのね、暗闇が深海を連想させ、全身を水に飲み込まれたような錯覚に陥り、パニックになる」
ミサキは簡単に整理してくれた。とても頭の回転が早い。
「はい、光が少しでもあれば大丈夫なんですけど、ローソクの炎が一つでもあれば何ともないんですけど、今回は呪いのせいで火もつけられなかったから、余計混乱して」
ステラはアルコールをガーゼに浸して、アンリエッタの左目の下の砂時計の呪いのマークを拭いてくれた。「うん、これでよし」
呪いから解放され、呼吸が楽になったような気がした。
「ステラは呪いを解いたよね、凄いね、」とステラが砂時計を壊したシーンを再生しながらアンリエッタは言った。「魔力が高いんだ」
「えへへへ」ステラは照れて笑う。
「呪いを解くための方法はいろいろあるから、一概にステラの魔力の高さが原因じゃないかもしれないよ、」ミサキが口挟んだ。「そもそも砂時計ってもろいんだ、宮殿式だったファーファルタウでは、砂時計のせいで過去何回も、罪を犯した魔女を牢から脱走させているし、ひいおばあちゃんも砂時計を壊してファーファルタウの宮殿から脱走したことがあるって言ってた」
「……ミサキ先生のひいおばあちゃんって、一体何者ですか?」
「魔女よ、」ミサキは笑ってごまかした。「とにかく、ステラの呪いが解けた理由は魔力が高い云々じゃなくて、偶然、はまった、と考えるのがふさわしいと思うんだよね、ルービックキューブを適当に弄っていただけなのに揃っちゃったみたいなものだと思うんだよね、ステラの魔力が純粋に砂時計を壊せるとは思えない、スーパ・ソニックだって、まだまだ遅いし、完成には程遠い」
「うう……」ステラはうなだれている。
「あ、ごめん、ステラ、本当のこと言って、」ミサキは笑ってごまかした。「あっ、そうそう、実験よね、実験」
「うん、実験の話をしようよ」ステラは意気込む。
「うん、なんのことかさっぱりだよ」アンリエッタも応じる。
「え、本当に何も話してないの?」ミサキはステラに聞く。
「うん、だって、さっき手を繋いだばかりだから、アンリエッタは何も知らないよ」
「ああ、そう、」ミサキは頭をポリポリ搔いた。「てっきり、すっかり仲良しで何もかも了解済みなのだと思った、でも、そう、そうよね、ステラはそういう性格だものね、手を繋いだら親友、うん、まぁ、分からないでもない、私へのアプローチも訳分かんなかったし、ステラはミステリアスで、何考えてるか、よく分からない、そう思うでしょ、アンリエッタも」
同意を求められたから、アンリエッタは頷いた。「ミステリアス、カッコいいじゃん」
ステラは肯定的な意見に喜び、アンリエッタの手を触る。
「でも、その、ミステリアスのせいで、」アンリエッタはステラの顔色を窺いながら言葉を探した。「ステラのことを勘違いする人もいると思うんだよね、ほら、話さないと分からないことって多いじゃん」
ステラは首を傾げている。いまいちピンときていない模様。
「まぁ、でも、うん、僕、頑張るよ」
「え、本当? 嬉しいな」
アンリエッタはナルミとステラの関係を考えていたが、ステラは実験のことだと勘違いしたようである。「で、その実験ってなんなのさ?」
「ハートに火を付けて」ステラは言った。
「ハートに火を付けて?」アンリエッタは真顔で聞き返した。「それ、どういう意味?」
「言葉通りよ」ミサキは言いながら、ベッドの下から桐の箱を取り出した。大きさは教室の机くらい。正方形で、平たい箱だった。ミサキはソレをベッドの上に置き、蓋を開けた。アンリエッタは足を畳んで、その箱を覗き込んだ。
真っ赤な布。
ミサキはアンリエッタの反応を窺いながら布を広げて見せた。
着物だ。
真っ赤な着物。
炎の色。
それに花鳥風月があしらわれていて。
息を飲むほどに。
綺麗。
呼吸を忘れ。
思わずうっとりと、してしまう。
「素敵でしょ?」ミサキが聞く。
「素敵」とアンリエッタは同意する。
「神尾式ブースタ『赤華』、コレを着てハートに火を付けて」
「こ、コレ、ブースタなの!?」アンリエッタは目を大きく見開いて興奮する。「ロケッタ・ブースタ? 本当なの? コレで宇宙まで行けるの? うわぁ、凄いや!」
アンリエッタは赤い着物に手を伸ばし、触った。魔法工学の結晶、ロケッタ。その実物を見るのは初めてだった。コレを着て、ハートに火を付けると、振袖の部分からエネルギィが射出され、箒に乗った魔女は地球から脱出することが出来るのだ。魔女が初めて宇宙に飛び立ってから、およそ半世紀。ロケッタの知識はポピュラなものになったが、普通の魔女が簡単に宇宙へ行ける時代にはまだなっていない。
「もちろん本物だよ、私が一年の歳月をかけて造った最新型のロケッタ、でも、」ミサキは微笑んでから舌を出した。「残念でした」
「え?」
「コレを着ても宇宙へはいけないわ、大気圏は脱出できない」
「え、」アンリエッタの気分は宇宙に向いていたから、必然的に落下した。「それじゃあ、何のために作ったんですか、コレ?」
「コレがこれからの時代の新しい飛び方なのだよ、アンリエッタくん」
「はい?」アンリエッタは首を傾げる。
「『赤華』は、宇宙を標的にして作られた今までのロケッタと構造が全く違うの、簡単に言えば、従来はロケッタの中に充てんされたエネルギアを射出していた、『赤華』は魔女の魔力をエネルギアに変換してソレを射出する、言わばコンバート型ブースタ」
「箒に跨って普通に飛ぶのと、何が違うんですか?」アンリエッタは率直な疑問を口にする。
「ブースタを使えば温室効果ガスが出ない、」ミサキは人差し指を立てた。「それだけ、アンリエッタも驚いたでしょ、この街で魔女は箒に跨って飛んじゃいけない」
「はい、でも、本当だったんですか? 本当に飛ぶと温室効果ガスが出るんですか?」
「うん、本当、」ミサキは頷いた。「でも、その排出量は呼吸とほとんど同じ」
「だったら、」
「水上市の条例はおかしいと思う?」
「はい」
「私もそう思う、」ミサキは楽観的に笑う。「でも、一端火が点いてしまって、環境問題と絡みついて、利権がそれに編み込まれてしまったら、事実は正確に伝わらないの、誰かが魔女はこの街で飛ぶべきじゃないと言い出した、それは大衆に正しいものに映った、この街の魔女も頷いた、この街の人たちは恐いほど道徳的、そして素直、そこに科学的な証明を提出しても誰も信じない、箒で飛ぶことはすでに古くて悪いことになってしまった、この街の未来で飛ぶには新しい方法を提出しないといけないの、その方法の一つがブースタ、ブースタを着るのは相当面倒だし、夏は暑いし蒸れるし、何より火を扱えなかったら飛ぶことが出来ない、つまり、火を扱える魔女しか扱えない、新しい方法はとても遠回り、でも、この街で空を飛ぶには今のところブースタしか考えられない」
「……なるほど、なるほど」アンリエッタは頭の中を整理しながら頷いた。
「だから君の出番、」ミサキはアンリエッタの赤毛を触る。「私たちの実験に協力して」
「ええっと、いい、ですよ、はい」
「ありがとう」
「でも、僕以外にいないんですか?」
「この街は水上市よ」
「歳貨にいけばいくらでも火の魔女がいますよ」
「私、とある事情で水上市から出られないの」ミサキは魔女の顔をする。
「あはは、また、そんな冗談」アンリエッタは笑った。
「冗談じゃない、」ミサキは真剣な顔をして、すぐに微笑んだ。「とにかく、ありがとう、まずは第一歩を踏み出せそうね、」ミサキは立ち上がって窓の外を見る。「当面の目標は安定的な飛行ね、それからだわ、火を使わないブースタの起動を考えるのわ、もうちょっとなのよね、脳ミソをもうちょっと速く回転させれば出て来るの、ひいおばあちゃんはきっと別の方法を知っていたんだと思う、でもそれを記録として残してくれなかった、点火、点火よ、点火にこだわったのよね、きっと」
ミサキの背中は保健室の先生とは思えないほど熱い。その白衣も工学博士の白衣だ。圧倒されざるを得ない感じ。
「もし、実験が成功して、市から認可が下りたら、」ステラはとてもミステリアスな目でアンリエッタを見る。「アンリエッタは、ステラ・ベルで働いてくれる? まだ私一人だけの小さなキャブズだけど」
その時、保健室の扉が急に開いた。
全身黒づくめの魔女、スヌウピだった。
「まだブルー・ベルは鳴ってないわよ、スヌウピ」ミサキはスヌウピの方に視線をやって言う。
「二人のことが気になって、」スヌウピは言いながらベッドまで近づいてくる。「女の子たちに掃除を頼んで抜けてきちゃった」
「ごめんね、実験室を吹き飛ばしちゃって」ステラは悪気のない顔で謝った。
「あ、もう大丈夫です」アンリエッタはスヌウピに言う。
「そう、よかった、で、実験はいつするの? 火の魔女のアンリエッタさん」
どうやらスヌウピもステラの協力者の様である。
「今日の深夜二十四時、」ミサキが答える。「二人は大丈夫?」
「はい」ステラは頷く。
「ええっと、」ステラはミステリアスな目でこっちを見ている。「はい、多分、大丈夫です」
「あ、ねぇ、どうしてなの?」スヌウピはミサキの隣に立って、アンリエッタに聞く。
「え、なんですか?」
「どうして転校してきたの? 火の魔女のあなたがココに」
アンリエッタは少し動揺する。
「答えたくないなら答えなくていいわよ」ミサキは優しく言った。
でも、別に必死に隠すことでもないのだ。
「僕、学校に火を付けちゃったから、だから、水気の多いこの街に来たんです、この街なら、火を付けても、すぐに誰かが火を消してくれる、先生がそうアドバイスをくれて、先生の言うことは絶対だから、僕は仕方なく、水が大嫌いだから、この街に来るのは嫌だったけど、でも、先生が言うから、先生と離れられるから、先生は水の魔女でした、先生はとても厳しくて、」アンリエッタは早口でそこまで言って、少し涙が出た。「……ああ、そうでした、僕は、僕は、僕は、先生から逃げてきたんです」