第四章⑤
ステラは行き慣れた複雑な地下街を淡々と歩いて、浮船書店の前に辿り着いた。扉をスライドさせて、店内に入る。そのおり、ステラは人差し指を天井に向けてくるくると回した。魔法を編んだのだ。扇風機の強レベルの風が吹いて、空気がわずかに乾燥する。
「こんにちは」とステラはカウンタの奥に向かって言う。しかし、返事がない。代わりに奥の方から怒鳴り声に近い、浮船の声がした。誰かと電話しているみたいだ。
「ええ、ちょっと、どういうことよ!」携帯を耳に当てた浮船が奥から出てきた。「もう、せっかくプレゼントも準備して、ドレスまで用意してたっていうのに、……ええ、うん、分かった、バイバイ、シノ」
浮船は電話を切って、ステラに向かって舌を出した。「最悪だわ、お誕生会、中止だって、ああ、久しぶりに姪っ子に会えると思ったのに」
「素敵なドレスですね」
ステラは浮船の来ているドレスを褒めた。白と水色の素敵なドレスだった。宝石が散りばめられているように輝いている。
「気に入った?」浮船は不機嫌な顔を捨てて微笑んだ。
「よく似合ってますよ」
「あげようか?」
「え?」
「ステラの方が、似合うと思うよ、このドレス、子供っぽいでしょ?」
「うーん、私が純粋ってことですか?」ステラは言葉の意味を考えて発言した。
「え?」浮船は苦笑した。その理由はステラには分からない。「ステラは、ハイブリットだよ、複雑で、緻密な機構」
ステラは浮船の言葉の意味が分からない。だから見つめる。この二週間で、そういう時間が沢山あった。見つめ合う時間は、好きだった。もう、この時間がなくなると思うと、寂しい。
「はい、じゃあ、お給料」
いきなりだった。浮船は封筒をステラに渡した。
「ありがとうございます、」ステラは封筒の中を見て、「おおぅ」と微笑んだ。「でも、いいんですか? まだ今日の仕事が」
「そういうステラの反応、いいよね」浮船は微笑んだ。
「ん?」ステラは首を傾げる。
「いいの、今日はもう、店を閉める、一人で読書をしたい気分だから、」顔には出していないが、きっと誕生会がなくなったことがショックなのだろう。「ステラ、ありがとう、短い間だったけれど、出来たら、来年の雨季も仕事に来てもらいたいな」
「未来のことは分かりません」ステラは満面の笑みで首を横に振った。
「最後なんだから、首を縦に振るべきだと思うよ、」浮船は苦笑する。「でも、楽しかったよ、ありがとう」
「楽しかった?」ステラはまた首を傾げる。
「ステラのそういう反応が、ね」
「え、何も面白くないですよ」ステラは微笑む。
「ミステリアスだなぁ、」浮船は呟くように言って、カウンタの隅に置かれた薄い文庫本を開いて、眼鏡のズレを直した。「それじゃあ、ステラ、たまには顔を見せに来てよね、あ、シャッタを半分閉じといて」
「ありがとうございました」ステラの声はよく通った。ステラは深々と頭を下げて、浮船の目をじっと見つめてから、踵を返した。
「いえ、どういたしまして」浮船は返答する。
ステラは店の外に出て、シャッタに手をかけた。そして、何かを決心した表情をして、手を離して再び店に入り、カバンから一冊の臙脂色の本を取り出し、カウンタに置いた。浮船は不思議な表情でその本とステラを交互に見ていた。
「何、この本?」
「あの、コレ、引き取って下さい」ステラは言うと、すぐに店から出て行った。
「ちょ、ステラ!?」
制止を無視して、きちんとシャッタを半分まで閉めて、ステラは浮船書店の前から走って行った。そのミステリアスな瞳には、涙。