第三章⑨
洗濯を終えたアンリエッタは欠伸をしながら朝一の水上バスに乗り込んで、遇蹄荘に戻った。洗濯が成功して気持ちは晴れていたが、帰り道、小田切とあの女のことを考えると憂鬱だった。もうあんまり甘えるのはよそう、とか、一緒に寝てもらうのを止めようとか、きっと必要のないことばかりを考えた。
しかし、遇蹄荘の階段を上がって、アンリエッタの部屋の前に立つ小田切を見た時に、そういう必要のない考えは綺麗さっぱりなくなった。いや、正しくは小田切がアンリエッタを抱きしめた時だった。頭の中が真っ白になる。
「どこ行ってたんだよ、心配したじゃないか、でも、よかった、本当によかった」
「え?」小田切の様子は明らかにおかしかった。取り乱している。こんな小田切を始めてみる。冗談を言う余裕のない小田切だ。もちろん、とても魅力的なことに変わりない。
「何度も、連絡したんだ、でも出ないから」
アンリエッタは慌ててポケットから携帯電話を取り出して開いた。膨大な着信履歴が残っていた。「……ごめん、マナーモードだった」
「酒を飲んでたのか?」匂いで分かったのだろう。小田切は怒っているみたいだった。
アンリエッタは小田切を見ることができなかった。「ごめんなさい、友達と遊んでいて」
「あ、違う、怒ってるんじゃないから」小田切はいつもの口調に戻っていた。
やっとアンリエッタは小田切の顔を見ることが出来た。瞳が濡れていた。アンリエッタの胸は熱くなる。
「ああ、ごめん」小田切はアンリエッタから体を離した。
しかし、アンリエッタは一歩近づいた。自分で思う一番魅力的な表情をする。「謝らなくていいよ」
「とにかく、無事でよかった」小田切はアンリエッタの前から立ち去ろうとする。
「え、それだけ?」アンリエッタは拍子抜けする。
「電話にはちゃんと出ろよ」
「うん」
「一応僕は、君の保護者なんだから」
「うん」
「やけに素直だな」
「他には?」せがむようにアンリエッタは言った。
「え?」小田切はしばらく悩んで言う。「……朝食はいらない」
「え、ちょっと待ってよ」
小田切は自分の部屋に入って行った。
一体何だったんだろう。
分からないけれど、でも、小田切に抱きしめられたことを思い出すと、顔がにやけて、もうなんでもよくなった。
今は、別に、これでいいと思えた。