第三章⑧
セレネズ・パブは定休日だった。お客もオーナもやってこないから、結成されたばかりのウォッシング・マシン・ガールズによって無法地帯になりつつあった。即席の結成記念パーティが開かれたのだ。アンリエッタとスイコとイスミは勝手に店の冷蔵庫を開けて、料理を作り、媚薬を調合するみたいに様々な色合いのカクテルを作って飲んだ。アンリエッタもスイコもイスミもアルコールに対して免疫があった。程よいハイテンションで歌って踊って騒いだ。
一番笑顔だったのはアンリエッタだった。水上市に来てから一番笑ったかもしれない。イスミはポラロイドカメラでフィルムがなくなるまでパーティの写真を撮っていた。
「この写真は一生の宝物ね」イスミはほろ酔い加減で写真を抱き締めてクルクルと回転していた。
楽しい時間は瞬く間に過ぎるもので、グロテスクな月の時計は深夜二十四時を示していた。その頃には、イスミはテーブルに突っ伏して寝息をたてていたし、アンリエッタもソファに仰向けになって涎を垂らしていた。二人とも白いパンツがこぼれたように見えていた。
一方、スイコは店内の掃除を黙々とこなしていた。テーブルの上を片づけ、食器を洗い、調味料を元の位置に戻し、元栓を閉め、使った食材、飲んだお酒をメモしていた。無法地帯はスイコによって瞬間的に平和に戻った。スイコは棚に陳列してあるリキュールのラベルを全て正面に向けてから、満足そうに頷いて、カウンタからイスミとアンリエッタに向かって大きなアニメ声を出す。「二人とも起きて、本番はこれからだかんなっ!」
『んあ?』イスミとアンリエッタは同じように変な声を出して目を覚ました。
イスミは手を口に当てて大きな欠伸をしている。
アンリエッタはアヒル口を大きく開けて伸びをして目を擦る。「なぁに、本番?」
「これからWMGの第一回の営業会議よ、」スイコは蛇口を捻ってコップに水を注いだ。「ほらぁ、しゃきっとしてよ、イスミ」
「……う~ん、」イスミは寝起きの悪い幼稚園児みたいに近くにあるぬいぐるみを探すしぐさでアンリエッタを抱き締めた。「朝は苦手なのせしゅ」
アンリエッタも頭がはっきりしていないから、イスミの抱擁を拒まなかった。とてもいい匂いがイスミから香った。ママの匂い。
「もう、朝じゃないよ、深夜二十四時だよ」スイコはイスミに無理やり水を飲ませた。
段々と意識がハッキリしてきて、アンリエッタはイスミから水を奪って口に含んだ。飲み込んでコーラじゃなかったことに僅かにビックリして、完全に目を覚まして、立ち上がって冷蔵からコーラの瓶を勝手に開けて飲んだ。
「ヘティ、ちゃんとそのメモに書いてあるコーラの本数を増やしておいてよね」
「けふっ?」偶に可愛いゲップというものが出るときがある。「え、ただじゃないの、コレ?」
「ただじゃないよ、出世払い、そういうことで、今日はオーナの認可を頂いております、ヘティが飲んだコーラはちゃんとお給料から天引きさせていただきますからね」スイコはニコッと首を傾げてから、クルッと回転してイスミの頬をぺちぺちと叩いたり、つねったり、爪をたてたりし始めた。
カウンタ席に座ったアンリエッタはそれを尻目に自分が飲んだコーラの本数を確認して、ケタがおかしいと首を捻った。
「ちょっと、スイコ、やめってってば、い・た・い!」ようやくイスミが夢の世界から戻ってきたようだ。「癖になりそうでしょ、困るよ、もう! ただでさえ毎日毎日様々な女の子たちが私を苦悩させているっていうのに!」
沢山引っかかるところか、イスミはそういうキャラクタなのだとアンリエッタは理解した。きっといちいち突っ込んでいてはきりがないだろう。
「ふえーん、アンリ、慰めて」イスミは両手を広げてアンリエッタに近づいてきた。
アンリエッタはイスミを避けようとしたが、反射神経がいかんせん鈍いので、アンリエッタは簡単に捕まった。「ちょ、ちょっと、離れろってば!」
「よし、じゃあ、第一回WMG営業会議を始めます」スイコはテーブル席の隙間のソファにドカッと腰かけ、足を組んで歯切れよく言った。
「わー」イスミはアンリエッタから離れて隣のカウンタ席に座って大きな拍手をする。
「……わー」アンリエッタは横目でイスミを睨んでアヒル口を尖らせてゆっくりと手を叩く。
「わー、」スイコも嬉しそうに手を叩いた。そして拍手が止んだ頃。「といっても、会議って何をすればいいんだろうね、わかんねぇや!」
スイコは舌をペロッと出して、途方に暮れた。
「ああん、スイコ、可愛いよぉ」イスミはその仕草にキュンキュンしていた。
一方、アンリエッタはカウンタ席から滑り落ちていた。「もう、ちゃんとしてよ、社長でしょ、しっかりしてよ」
「あ、そうだった、誰を社長にするか決めてないよね」
「社長はスイコでしょ」アンリエッタはカウンタ席に座り直して言う。
「うん」イスミも頷く。「スイコだよ、よっ、社長!」
「なんか古いなぁ」アンリエッタは微笑んだ。
「えっと、じゃあ、社長就任の挨拶から」スイコは咳払いを一度して、発声練習を始めた。
「いいよ、そういうの、面倒くさいから」アンリエッタは手を空中でヒラヒラとさせる。
「そうね、挨拶なんて、へロウ、くらいでいいよね」イスミもアンリエッタに同意する。
「あれぇ、そう?」スイコは体を傾けた。スイコは意外にそういう形式的で面倒臭いことが好きなのかもしれない。もしかしたら立派な演説を用意しているかもしれなかった。でも、アンリエッタは面倒臭がり屋だから「うん」と肯定して会議を先に進める。
「そっか、それじゃあ、ええっと、そうだね、」スイコは人差し指を立てた。「じゃあ、最初の仕事のことから説明しようかな、イスミがさっき背負ってきた洗濯物、それが私たちの最初の仕事」
「その前に、スイコ」
「発言するなら手を上げて、それと職務中は私のことを社長と呼びなさい」
「えー、面倒くさいなぁ、」アンリエッタはアヒル口を尖らせながらも社長命令に従って手を上げた。「はーい、社長」
「発言を許可します」スイコは声色を変えて言った。
「僕は具体的に何をすればいいんですか?」
「乾燥機だって説明したっしょ?」
「ソレは分かってるよ、でも、具体的に何をしたらいいか聞いてない、ただキャンプファイヤみたいに巨大な炎で洗濯物を乾かすのか、まぁ、それくらいしか思いつかないけど、でも、さっきスイコは言ったよね、魔法を教えてもらってきたって」
アンリエッタがそこまで言ってスイコは気付いたようだ。「うん、あるよ、そうだね、最初にプレゼントしなきゃいけなかったんだ、アンリエッタに、乾燥機の魔法を、ちょっと待ってて」
スイコはパブの二階へ足音を立てて昇った。アンリエッタはイスミの顔を見て聞く。「プレゼントって、どういうこと?」
「うん、ファーファルタウでたった一人の乾燥機の魔女さんが書いてくれたんだよ」
「え、もしかして、それって」アンリエッタは心を躍らせる。
足音を立てて、スイコは濁流のような速度で降りてきた。そしてアンリエッタの前に立ち、深々と頭を下げてスイコは贈呈する。アンリエッタも目を輝かせて深々と頭を下げて跪いてそれを両手で受け取る。
それは魔導書だった。魔導書には魔法の編み方が記述されている。どっしりと重たい。厚さは五センチくらい。外観は古書店に並ぶ歴史書の類と変わりない。色は安心の臙脂色だった。アンリエッタはカウンタに置いて魔導書を広げる。
スイコとイスミもアンリエッタの後ろから覗き込む。ラテン語でページにびっしりと、方法が書かれていた。アンリエッタは集中して文字を追った。
そしてページを捲る。
それを繰り返す。
方法が書かれていたのは魔導書の四分の一の厚さくらいまでだった。あとは何もない。白紙が続いているだけだ。アンリエッタは顔を上げた。グロテスクな月の時計は深夜二時を示していた。その秒針だけが音を刻んでいる。二時間があっという間に過ぎ去った。アンリエッタの集中力のせいじゃない。魔導書の力だ。
後ろを振り返ると、ソファでイスミとスイコは寄り添うように寝ていた。いや、スイコは目をパッチリと開けた。欠伸もしないし、目も擦らないで、スイコはアンリエッタに聞く。「どう、出来そう?」
「とても難しい、」アンリエッタは率直な感想を述べる。「でも、理解は出来た、覚えるのに時間がかかりそう、しばらく魔導書は手放せないかな、うん、それにしても凄い、素敵な魔法、乾燥機、悪くないよ、日本できっと、僕しか知らないんだよね」
スイコは優しい微笑みを返事にした。その横でイスミも目を覚ました。今度は意識がはっきりしている。二度目だからだろう。
「よし、じゃあ、やろう」スイコは立ち上がって言った。
「今から?」ヘンリエッタは欠伸をしながら聞く。
「うん、ここの屋上でね」スイコは階段を登って行く。
「明日までの約束なんだ、」イスミが言う。「洗濯物はブルーチェーンズの女の子たちの大事な大事なおパンツです」
「パンツ? グリフォンのパンツ?」
「そんなわけないじゃん、」スイコが階段の上で笑う。「普通のパンツだよ」
「え、だって、グリフォンの衣類を洗うんじゃないの?」
「まずは知名度を上げないとね、お金持ちは寄って来ない」
「ああ、そうか、そうだよね」
三人は屋上へ出た。屋上は広くない。その空間をブルーシートが囲んでいる。ブルーシートは四隅の長い物干し竿に支えられていた。アンリエッタの身長の二倍くらいの高さがある。夜空は覆われていない。見上げると星が見える。
「洗濯にはこういう感じの空間が必要なの、コップの中にいるみたいでしょ?」スイコは人差し指を立てて説明した。
「海の中にいるみたい、」アンリエッタは小さな声で感想を言う。「落ち着かないな」
「そうね、ドキドキするね」スイコは違う気持ちで笑顔だ。
月は雲で隠れていた。天気予報では明日から雨季に入る予定だ。雨季は日本でも水上市にだけにしかないスペシャルな表現で、梅雨よりも深刻な状態を意味する。約二週間の間、全く雨が上がらないのだという。その間、クリーニング屋さんはとても儲かるらしい。魔女の洗濯屋さんも儲かるだろうか?
屋上の中央には、イスミが持って来た風呂敷が置かれていた。イスミは風呂敷を解く。中には様々な色合いのパンツ。「じゃーん、ブルーチェーンズの女の子たちのパンツだよぉ」
「パンツばっかり」
「別にパンツじゃなくてもよかったのに、」言ってスイコはそのパンツたちを洗い始めるのかと思いきや、おもむろにパンツを脱ぎ始めた。そして脱ぎたてのパンツをアンリエッタに渡す。アンリエッタはまだ体温の残るパンツを手にして何をしていいか分からなくなる。なんとなく顔が熱くなった。「はい、ヘティ、乾かしてみて」
「え、」アンリエッタはスイコをまじまじと見て言う。「スイコのパンツ、濡れてるの?」
「バカ!」スイコは顔をピンク色にして大きなアニメ声を出した。
「へ?」
「それで一度練習して、練習してってこと、別に濡れてなんていないわよ、とにかくね、ファーファルタウの乾燥機の魔女が言ってたの、乾燥機の魔法は難しいって、覚えるのに苦労するからって、大事なお客様のパンツは燃やせないでしょ、だから私のパンツで練習して、でも練習だからって、燃やさないでよね、私のパンツ」
とにかく、アンリエッタはしぶしぶ頷く。「分かった、やってみる、燃やしたら、ごめん」
「待って!」急にイスミが大真面目な声を出した。「匂いを嗅がせて!」
アンリエッタとスイコは顔を見合わせてから、イスミの頭を同時にぱーんっと叩いた。
「あーん、もったいない!」
さて、気を取り直してアンリエッタは魔導書を右手に、スイコのパンツを左手に、呼吸を整えた。そして、僅かに目を細めて、集中力を高める。魔導書の文字を追う。アンリエッタの体の輪郭は赤く発光していく。魔導書の文字も光を携え始めた。ページは自動的に捲られていった。とても便利だ。緻密な魔法は次々に編まれていく。完成に近づいていく。暖かい風がパンツを空中に浮かせた。スイコのパンツがはためいている。
それを眺めていて思わず、アンリエッタは面白くなってしまって。吹き出してしまった。「ははっ」
その瞬間スイコのパンツから火が上がった。地面に落ちた。状況をきちんと把握できるまでに、パンツは灰になった。アンリエッタは、呆然と灰を見つめるしか出来なかった。
「バカっ!」スイコが涙声で叫んでアンリエッタの襟首を掴んで屋上の隅に追い詰める。「何してくれてんのよ、もうっ! ノーパンで帰れっていうの!?」
「は、初めてだもん! 初めてだったんだもん! 仕方ないじゃん、それに燃やしたっていいみたいなフィーリングだったじゃん!」
「そうだけど、でも、本当に燃やすなんて、もうっ、信じられないっ!」
「ごめん、ごめん、ごめん、……僕、実は不器用で」
「不器用とか、器用とか、そういう問題じゃなかったでしょ、笑ったでしょ!? なんで笑ったの!? あのタイミングでぇ!?」
「いやぁ、なんかシュールだなぁと思って、」アンリエッタはスイコから顔を逸らしながら必死で水路に落ちないようにバランスを取った。アンリエッタはスイコに追い詰められていた。ブルーシートの向こうにフェンスはない。強く押されたらブルーシートごと水路に落ちる。「スイコ、ごめん、ごめんってば、落ちるから、これ以上押さないで、お願いします、社長、ホント、お願い」
「もうっ!」スイコはアンリエッタから手を離した。
「ふう、助かったぁ」アンリエッタは額に浮かんだ脂汗を拭った。
そんなアンリエッタにもう一度パンツが差し出された。
「はい、脱ぎたてほやほやだよ、匂いを嗅いじゃ駄目だぞっ!」
「嗅がねぇよ!」アンリエッタは叫んだ。
さて、気を取り直して二度目の挑戦。だったが、アンリエッタ自身もなんとなく予感していたのだが、イスミのパンツも灰にしてしまった。
「燃えちゃったね」イスミは自分の灰になったパンツを屈んで眺めていた。イスミは別にノーパンだろうが、どうでもいいらしい。
「はてぇ、どうしてだろう?」アンリエッタは腕を組んで首を傾げた。この瞬間は比較的真面目だったが、これもなんとなく予感していたことだが、身ぐるみを剥がされるように、スイコとイスミによって、パンツを脱がされてしまった。スースーする。
「思ったんだけど、別にパンツじゃなくてもいいよね?」
「三度目の正直、お願いします」スイコはアンリエッタの疑問を無視して、目をギュウと瞑って五指を組んでいた。まさに神頼みだった。イスミはその横で口だけ動かして、多分『リラックス』と言っている。
スイコに祈られなくとも、アンリエッタは本気だった。ノーパンは絶対に嫌だったからだ。「よーし、やるぞ」
深呼吸をして、三度目の集中モード。魔導書の文字も見慣れた。その文字に入り込み、引き出し、編み込む感覚に体が敏感に反応できている。ページが捲れていく。魔法は狂いなく編まれていく。どこもほつれていないと理解できている。暖かい、いや、熱いくらいの風がパンツを空中へ運ぶ。今回は、何も思わなかった。心が魔法で満たされていた。パンツはまるで乾燥機に入れられたみたいに円を描き始めた。パンツは次第に速度を上げていく。残像を生じるまでになる。そして、ページが白紙を迎えると。魔導書は独りでに閉じた。アンリエッタの輪郭から光が消える。熱風が空気中に散っていく。高い位置にあったパンツが落ちてきた。アンリエッタはそれをキャッチしようとして手を伸ばす。しかし、エラーしたみたいにパンツはアンリエッタの顔面に落ちた。
「……暖かい」アンリエッタはパンツを手にして、スイコとイスミに満面の笑顔とピースサインを送った。
そして、この夜、セレネズ・パブの屋上で初めてウォッシング・マシン・ガールズの洗濯が行われた。
六月十五日。雨季の前の最後の日の出を見ながら、スイコとイスミとアンリエッタは、この日をウォッシング・マシン・ガールズの結成記念日にしようと決めた。