第三章⑦
警察が冲方白庭研究室の小屋にやってきたのは、小田切と長谷部が戻ってから十分後のことだった。小田切の親友の鳴滝刑事と、他に一人、大橋という刑事。大橋は鳴滝の先輩刑事で、小田切も僅かだが面識があった。水上大学で魔法工学の博士号を取って警察に行った変わった人物である。髪の毛はその性格を表現しているように、長く乱れている。エジプトの壁画のように目元にはくっきりとラインが引かれていた。服装も真っ白なスーツの上から、黒いモッズコートを着ていた。暑くないのだろうか? とにかく、どう見ても税金で生活している公務員には見えない。それと対照的に鳴滝は、グレイの特徴のないスーツ姿で、散髪屋で整えてもらったという感じの安上りの髪型をしている。典型的な公務員のイメージだ。その二人だけで、他にいない。
「わざわざご苦労様です」二人を小屋のテーブルに招いて、小田切は事情を説明した。長谷部はコーヒーを淹れた。小田切は、ホワイトラグーンのグリフォンの数がこの一年の間に極端に減少していること、ハンタにやられている可能性が高いこと、そして、シノが水色の館に連れ去られた可能性が高いことを話した。整理されていなかった箇所もあるが、鳴滝と大橋には正確に伝わったと思う。
「そうですか、なるほど」
大橋が頷いてカップに口を付けてから、しばらく誰もしゃべらなかった。小屋は静かだった。小田切にしてみれば、一刻も早く、様々な判断をしてくれるように促したつもりだった。しかし、大橋は「うーん」と頬杖ついて悠長に何かを考えている。小田切は一度鳴滝を見た。鳴滝はレポート用紙に要点をまとめながら、大橋の判断を待っているという感じだった。時間はとてもゆっくり経過する。小田切はそれに耐えられなくて、口を開く。舌打ちせずに済んでよかった。「捜索隊は、いつ来るんですか?」
「もうこっちに向かってる、」鳴滝が答える。「十人だ」
「十人?」小田切は思わず声を上げてしまった。「たった十人で、このホワイトラグーンをくまなく捜索できるか?」
「仕方ないだろ、たった十人でも捜索隊が来てくれるんだ、感謝しろとは言わないが、文句は言わないでくれよ、時機、人数も増える、とにかく、小田切が今話した情報をまとめて、上に提出して、増員の決定を待って、多分、明日の朝だ、捜索が本格化するのは」
「待つばかりですか?」長谷部の声から僅かに怒気を感じる。「こうしている間にも、シノさんは、……ああ、いえ、なんでもないです」
「十人でも専門家です、ベテランです」意味のないことを鳴滝は長谷部に向かって言った。
長谷部は何も言わない。その代わり、大橋が口を開いた。「冲方助教授のご家族にご連絡は?」
「いいえ、冲方教授は海外ですし、娘のシコちゃんもまだ小さい」
「ブルーチェーンズの綾織社長は、二週間待ってくれと言ったんですね?」
「ニュアンスは、そうでした」
「どういう意味でしょうか?」
「分かりません」
「推測でも構いません」
「二週間で、何かを終わらせる、そういうことだと推測します、目が輝いていたんですよ、なんていうか、まるで星の最後の輝きでした」小田切は自分で話しながら何を言っているのだろうと思った。
「ロマンティックですね」大橋は目だけで微笑んだ。
「どこが?」
「その館へは、もう?」
「いいえ、そうですね、警察が来てからと思いまして、僕たちがベルを鳴らしても、きっと入れてはもらえませんから、ガードが非常に難いんです、アポを取るにも半年以上かかった」
「僕たちは警察手帳を持っています、」大橋は胸ポケットからそれを取り出して開いて見せた。「行きましょう、もしかしたら捜索隊にダイナマイトを手配してもらわないといけませんが」
「よしっ、」鳴滝は拳を握って勢いよく立ち上がった。「じゃあ、さっそく行きましょう、その水色の館に」
「鳴滝、君はココで待機だ」大橋は立ち上がりながら言って、モッズコートのファスナを締めた。
鳴滝の恨むような返事を背中に大橋と小田切と長谷部は、水色の館へと向かった。懐中電灯の明かりが三つ、暗闇を進む。小田切たちは何軒かのコテージの近くを通った。どのコテージも明かりは点いていなかった。人がいる気配は皆無。不気味な空間が広がっている。水色の館の近くのコテージに使用人のコータローという男とメイドのホウコが住んでいると綾織は言っていた。しかし、そのコテージにも灯りは点いていなかった。
水色の館は、どうだろうか?
暗闇に、光がぼんやりと確認できた。水色の館の、一階の、玄関から左側の一室の窓が、薄くオレンジ色に光っている。間取りから推測する。小田切とシノが案内された部屋ではないだろうか?
大橋は小田切や長谷部に相談することもなく、館の門に設置されたインターフォンを鳴らした。返事がない。静寂。大橋は、もう一度、ボタンを押す。
『……はい』ホウコの声だった。
大橋は唇の前に人差し指を立てて小田切と長谷部を見た。そして大橋は顔をインターフォンに近づける。「警察です」
『……え、警察?』ホウコの驚く声。
「少しお話を伺いたいのですが、すいませんが、中に入れていただけませんか?」
『え、えっと、どうしよう、』ホウコの声は遠くなった。しかし聞こえた。『どうしたらいいですか?』
ホウコの近くに誰かいるようだ。ホウコは誰かに相談している? あの男に、だろうか?
それからしばらくインターフォンから声が消えた。
長谷部は館を取り囲む柵を触って揺らして、その頑丈さを確かめていた。
大橋は腕を組んで下唇を噛んで、特徴的な目元で館を睨んでいる。
小田切はシノの携帯を触っていた。「シノさん」小田切は呟く。そのとき。
急に、館の玄関のライトが光った。弱い光だったが、暗闇に慣れたせいで眩しいくらいだった。ゆっくりと玄関のドアが開き、人が出てきた。ホウコだ。確かな足取りで小田切たちのところまで近づく。気付くと、門に設置されたライトも点灯していた。ホウコは手を前で組んだ姿勢のまま、門の前で立ち止まった。こわばった表情が見える。
「警察です、」大橋は警察手帳を顔の横で広げて、きっと本人は素敵だと思っているのだろうが、不気味なスマイルを見せた。「門を開けてください、ここではなく、出来れば、この素敵なお屋敷の中でお話を伺いたいのですが」
ホウコは僅かに後退した。門の鍵を開ける気は、どうやらなさそうだ。
「ホウコさん」と小田切は声を発した。それを制して、大橋はホウコに向かって言う。
「夜分にすみません、実は、私たち、冲方シノ、という方を探していまして、ええ、昨日、こちらに彼女とこの彼が窺ったと聞きましたので、もしかしたら、こちらに、と思いましてね、」大橋は歯切れよく続け、手の平を開いてホウコに見せた。「すでに警察は五百人の人員と最新の科学機器を投入してホワイトラグーンを捜索しています、あと、魔女にも数名お力添えを頂いております、しかし、まだ発見の連絡がないのです、不思議です、五百人の警察官と最新の科学機器と魔女がいるのにもかかわらず一人の女性を未だ発見できていないなんて、探し方は悪くない、むしろ最高です、ですから、この館に辿り着きました、ホワイトラグーンで探していないのは、ココだけです、ほんのわずかな時間です、この館を調べさせて頂きたい、五百人もいるのですから、そうですね、十分もあれば終わるでしょう、」大橋はそこまで言うと小田切の胸ポケットからシガレロを抜き取った。小田切は火を付けた。大橋は煙を吐くのと同時にむせていた。大橋は喫煙者じゃない。「……失礼、とにかく、それから我々警察は捜索の範囲をホワイトラグーンの外へ広げようと考えています、ぜひ、ご協力願いたい」
ホウコは地面に向かって言う。「すいません、社長の許可がなければ、この館へお通しすることは、出来ません」
「コレは一般論ですが、警察というのスペシャルな力を持っています、社長があなたを拘束するものとは無縁のものです、あなたはこの門を開けるべきだ、社長はあなたを叱りませんよ、もし、あなたが叱られるようだったら、警察よりももっと複雑でスペシャルな力が動き出すことになります」
「か、帰ってください!」ホウコの声は震えていたが、とても鋭い。
「理由は?」
「……え?」ホウコの声は上ずっている。
「警察をココに通さない、論理的な理由です、」大橋は強く声に出してから、また不気味に微笑む。「しかし、今は夜です、非合理的な回答も聞きましょう」
「……え?」ホウコは混乱していた。眼球が忙しなく動いている。小田切は確信していた。シノはこの中だ。「そうです、今は、夜です、だから、明日の朝、いえ、社長に許可を貰ってからじゃないと、それから……」
ホウコの返答は要領を得ない。小田切はもどかしい。ホウコを怒鳴りつけたかった。今すぐここを開けろ! しかし、下手な交渉で、危険な事態が起こるとも分からない。シノはこの館の中にいる。人質として、利用される可能性もある。それらを考えると、大橋の交渉は、ベストには見えないが、ベターだと思える。
「社長に連絡は取れませんか?」
「……ええ、社長は忙しいから」
「とにかく電話をかけてくれませんか?」
「電話番号が、分かりません」
「そんな、あなたはこの屋敷の、召使いさんでしょう?」
「メイドです」
「素敵なメイド服だ、生地はなんだろう、シルク?」
そんなやり取りのさなか、この雰囲気にそぐわない着信メロディがなった。テレビCMで耳にしたことのあるアイドルソング。小田切や長谷部の趣味ではない。大橋はモッズコートの内ポケットから携帯を取り出して耳に当てた。「僕だ、……え、……ああ、……そうか、嘘じゃないな、……そうだな、君ほど僕がつまらない冗談が大嫌いだということを知っている人間はいないものな」
通話を切って大橋は言った。「すいません、メイドさん、無用な時間をとらせてしまいましたね、どうやら見つかったようです、小屋に帰って来たみたいです、冲方シノさん」
それを聞いた小田切と長谷部は大橋のモッズコートの襟を掴んで、シノが帰ってきたのは本当か確認した。大橋が確かに頷くと、二人は小屋まで走った。鳴滝が座る対面に、シノはテーブルに座って、優雅にココアを飲んでいた。『何を大騒ぎしていたの、あなたたち?』という視線に小田切は頭痛がした。それから小田切は様々なことをシノに尋ねた。どこへ行って何をしていたのか。しかし、シノは具体的なことを言わなかった。その態度は小田切を悩ませた。挙句の果てに、シノはこんなことを言った。「長谷部君、プログラムを元に戻しておいて、もうね、大丈夫、全て分かったのよ、グリフォンはハンタにやられたわけじゃない、私たちは気付くべきだったんだ、気付けたはず、もっと前に、しかし、グリフォンの生態はまだまだ謎ね、分からないことが多すぎる、一生かけて研究する価値があるわ」
シノはそれだけ言って、寝室に入って扉を閉めた。そしてもう一度扉が開いて、シノは呆然としている小田切に向かって言った。「早く帰ってあげなよ、昨日の今日で、きっと拗ねてるよ、小田切君の恋人」