第三章⑤
小田切は遇蹄荘に戻り、仮眠を取ってから、水上大学のキャンパスに赴いた。夕方からの講義の講師をしなければいけなかった。どちらとも狭い講義室で、窓もなかった。非常にマイナな科目のため、履修者は少ない。出席者はその半分。上期の十五回の講義に全て出席してくれる熱心な学生は一人しかいない。小田切はその学生と話したことはないから、彼女がどんなことを思ってこの講義に臨んでいるのかは知らない。
講義が終わって、図書館の喫煙室で一人、シガレロを吸っていると携帯が震えた。三秒くらい無視していたが、震えが止まらない。しかたなく火を付けたばかりのシガレロを捨てて喫煙室から出て、さらに図書館から外へ出た。
長谷部からだった。
「もしもし?」
『あ、小田切さん、今どちらです?』
「図書館の前」
『あ、見つけました』長谷部はそう言って通話を切った。小田切は周囲を見回す。三台の自販機が並ぶコーナの前で、長谷部は小田切に向かって手を挙げていた。夕方のため、講義を終えた学生の往来が激しい。その合間を縫って、長谷部に近づく。長谷部はパーカにジーパンという学生みたいな恰好だった。
「何か調べものですか?」
小田切は首を振った。「シガレロだ」
「今から白庭に行こうと考えてたんですけど」
「僕もそう考えてた」
「今日、ボートで来てます?」
「ああ、それが目的か」
「当たり前じゃないですか、学生でごった返す水上バスになんて乗りたくないですよ、疲れてるのに」
小田切と長谷部はキャンパスの出口に向かう。
「シノさんから何か連絡ありました?」
「いいや」
「進展なし、ですかね?」
「シノさんのことだ、まだ起きてないかもな」小田切は笑った。
「もう半日は経ってますよ」長谷部も朗らかに笑う。
キャンパスの東門を出ると、モータボートが停まっている桟橋が続く。小田切と長谷部は白と黒の市松模様の素敵なモータボートに乗り込んだ。ホワイトラグーンまで水上大学から二十五分くらいだ。
事故もエンジンのトラブルも雨もなく、ホワイトラグーンまで辿り着くことが出来た。受付でパスを提示し、慣れた道を進み、小屋の扉を開けた。
「シノさん」
しかし、小屋は静かだった。誰もいない。パソコンからは正常な電磁波が出ていたが、シノの気配がない。小田切と長谷部は顔を見合わせた。小田切は寝室と、念のためにトイレのドアを開ける。その隣の浴室を見る。電気が付いていない。シノはいない。小屋のフロアは寝室とトイレと浴室と、デスクトップのパソコン二台と流し台とテーブルなどが置かれている部屋だけである。
「小田切さん」長谷部が呼んだ。小田切は浴室の電気を消して、長谷部のところに行く。
「どうした?」
「見てください、」長谷部はパソコンの前に座っていた。通常通り、画面には緑色の円形のレーダ。しかし、その中で黄色く発光している点がある。ソレは、発信機が二十分以上移動していないサインだ。長谷部は新しいウインドウを開いて、その発信機が付いたグリフォンのデータを検索している。「約二時間、経過してますね、プログラムが反応してから」
長谷部はプリンタが出力した用紙を一枚一枚確認した。「もしかしたらシノさんは、このグリフォンのところまで行ったのかもしれませんね、紙がありません、このグリフォンの情報を印字した紙が」
「そういえば、ワゴンがなかったな」小田切は言いながら、小屋から出てそれを確認した。
「悪い予感がしますね」
小田切と長谷部は早足で、その場所に向かった。ワゴンがないからかなりの時間がかかった。北方の白い森の前でワゴンを見つけた時には、すでに日が暮れていた。そのワゴンにシノの姿はなかった。
「……嫌な予感がしますね」長谷部はそのワゴンのトランクにあった懐中電灯のスイッチを入れて白い森に向けた。畳みかけるように夜はやってくる。
「シノさーん」小田切は暗い森に向かって名前を呼んだ。懐中電灯で暗闇を照らしながら、長谷部も同じように名前を呼んだ。しかし、声がこだまするだけで、返事は返ってこない。何度叫んだだろうか。喉が痛み出した。気付くと小田切は信じられないくらい、嫌な汗を搔いていた。
「小田切さん」長谷部が呼んだ。光が点灯する方へ歩いて行く。
「なんだ?」小田切の声は掠れていた。
「コレ、」長谷部は地面から何かを拾って小田切に見せた。一瞬、懐中電灯の光が当たった長谷部の顔は青ざめていた。「シノさんの携帯じゃないですか?」
小田切は無言でその携帯電話を開いた。画面にはメールが表示されていた。シコのメール。本文は、短い。
『詩歌』
なんだ? 詩歌?
駄目だ。全く、頭が回らない。
「小田切さん、」長谷部の声で、再び呼吸を始めることが出来た。「小屋に戻ってシノさんがいなかったら、警察を呼びましょう、ワゴンはそのままにして、キーも、もしかしたらシノさんはまだ森の奥にいるかもしれません、とにかく、立派な行方不明ですよ、コレは、勘違いでも警察を呼んだって許される状況ですよ」
小田切は頷いた。長谷部と同じ気持ちだった。「……発信機は、どこだろう?」
「あ、」と長谷部は携帯を開いてGPSで位置を確認した。「ここから、十メートル、北です」
小田切は北に向かって走った。
「この辺か?」小田切は振り返って長谷部に聞く。「グリフォンがいないな」
そして地面に弱い赤い光が見えた。発信機だ。枯葉に埋もれている。それを拾い上げて、確認する。発信機はリングになっていて、グリフォンの後ろ足につけられる。そのリングは強引な力で破壊されていた。今までと一緒だ。破壊されたリングのそばにグリフォンはいない。
「……ハンタ、でしょうか?」長谷部は小田切のすぐ目の前にいたが、声はとても聴き取り辛かった。「小田切さん、つまり、コレって、どういう状況なんでしょうか?」
「クソ!」小田切は舌打ちして踵を返す。携帯をポケットから出して、一一〇番ではなく、親友の携帯に電話を掛けた。




