第三章④
冲方白庭研究室の小屋でシノが目を覚ましたのは、オレンジ色の光が窓から差し込み始める時刻だった。黄昏時。夕方。一瞬朝日だとシノは勘違いする。二十四時間もぐっすり寝ていていたことなどないので、壁に掛けられたアナログ時計の四時を午後と理解するのに特別時間は必要なかった。シノは髪を整えながら、ベッドから体を起こした。携帯電話を確認しながら、寝室を出て、コーヒーを淹れる。仕事関係のメールはどれも急ぐべきもの、興味の引かれるものではなかったから全てトラッシュ。その中で、仕事に関係のないものは娘のシコからのメールだけだった。
『今日はずっと帰ってこない日?』
テーブルに座り、カップに口を付けて返信。『うん、ずっと帰らない日』
シノは携帯をテーブルに置く。携帯が震えた。まるでテーブルの対面で話をしているかのように返事がすぐに返ってきた。『じゃあ、シキのところに行く』
『いってらっしゃい。迎えに行かなくてもいい?』
『うん』
『もうお姉さんだね』
『妹が欲しい』
『検討します』
シコの返信はこなかった。シノは携帯を閉じた。部屋の隅のパソコンを見る。画面にレーダを映しながら、長谷部のプログラム通りにプリンタに出力していた。シノはプリンタに出力された用紙を確認していた。用紙をまとめると、会議の冊子くらいの厚さになった。長谷部のプログラムには隙がなかった。二十分以上移動していないグリフォンの情報を出力するのと同時に、再度グリフォンに動きが見られたら、その情報も出力されるようになっていた。シノはテーブルに用紙を広げて確認していく。グリフォンは全て無事だ。問題ない。シガレロに火を付けて、もっと効率的な方法はないか、考える。
そのとき、パソコンからアラーム音がした。小さい音なので心臓に悪くない。シノはパソコンに向かう。プリンタから情報が出力される。グリフォンの居場所を確認する。
「……遠いな」
ずっと北だった。小屋からもかなりの距離がある。シノはテーブルの上のワゴンのキーを手にした。小屋から出て近くに止めてあったワゴンに乗り込み、キーを差し込み、ステアリングを握った。
そのとき携帯が震えた。確認する。シコからだ。
『名前は未来』
シノは、このメールが、さっきのメールの続きであることに気付くのに少し時間がかかった。シコは真剣に名前を考えていたから、返信が遅れたのだ。真剣に、シコは妹を欲しがっている。シノは苦笑した。もしかしたら、誕生日プレゼントの催促かもしれないと思ったからだ。そんな簡単に用意できるものじゃないのに。でも、そんな無茶なことをいう娘が可愛い。でも、一つ気になることがある。名前に『詩』の文字が入っていない。それをシノはメールで伝えた。
シノはワゴンを発進させる。
曇り空の下、白い花々が敷き詰められたホワイトラグーンを走る。
北の方は木々が生い茂っていて、林よりも僅かに密度の高い、そんな森が広がっている。その森すら、緑色よりも白が濃い。
森の中まで板の道は続いていない。シノはワゴンを停止させた。ここに辿り着くまで十五分は経過しただろうか。
出力された用紙を片手に、そこに印字されたグリフォンの居場所まで歩く。時間も時間であるし、この辺りまで観光客はほとんどやってこないから、白い森はとても静かだった。シノが枯葉を踏む音だけが空気を震わせている。グリフォンの気配すら感じない。
ほんの少しだけ。
嫌な予感がした。
足は前方に向かって動き続けているけれど。
心はワゴンの位置から前に進んでいない。
空気は澄んでいて、ひんやりと冷たい。
きっとそれと無関係に、シノは小さく震えてしまっている。
そういえば。
まだ、しっかりと考えていないことがある。
もし、前方に、ハンタがいたとして。
私はどうすることが出来るだろうか?
あの男を前にして、私は何も出来ないのではないだろうか?
そういうのは専門外だ。
ああ、長谷部君か、山崎君か、祖父江君か、小田切君か、誰か、頼れる男が来るまで待っていればよかった。
シノは、後悔しながら、立ち止まった。
引き返そうと思ったのだ。
きっと、また、グリフォンの居眠り。
そのとき、また、ポケットの中の携帯が震えた。
悲鳴を上げなかっただけ、シノは許してほしいと思った。
何に?
思考能力が、鈍っている、と自分で分かる。
携帯を開いた。予想通り、シコからだ。メールはとても短い。
『詩歌』
シノは微笑んだ。娘が愛おしい。抱き締めて、ほっぺにキスしたい。
シノはご機嫌だった。
突如、目の前に現れた、グリフォンの死骸とそれを背負った男を見るまで。