第三章①
さて、ステラのバイトが内定した翌日の朝、真っ赤なビニール傘を持って登校したアンリエッタは不機嫌な顔をしていた。吊り目の下にくまが出来て、心なしか頬がこけている。すべて小田切のせいだった。小田切が朝まで帰ってこなかったせいだった。
あの女性は、何者だったのだろう?
あの女性と、何をしていたのだろう?
小田切への疑問は浮かんで尽きなかった。しかし、それを小田切に聞くことは、やっぱりあの女性に負けるような気がして、出来なかった。小田切に面倒くさいやつ、と拒絶されるかもしれない。いや、そんな可能性は低いだろうけど。とにかく、アンリエッタの心理は複雑だった。
まるで、今日の空模様みたいに、何がしたいのか、自分でも分からない。
正解は、なんだろう。
堂々巡り、ぐるぐる、ラウンドアバウトから抜け出せない。
しかし、昇降口に入り、スチール製の下駄箱を開けて、上履きに履き替えようと中を覗いた時、アンリエッタのそういう気持ちはパージした。
上履きの上に。
一枚の、水色の長方形の封筒。
厚みはない。
表に。
『アンリエッタ・キュベレに捧ぐ』
と、誰が書いたのか全く推察できない、パソコンで出力したような字が並んでいた。
ソレを手に取り、下駄箱の中でひっくり返して、宛名を探す。
それは書かれていなかった。
しかし、封筒はシールで留められていた。
限りなく円形に近い、ピンク色のハートマーク。
何を意味するものなのだろう。
何も想像できない、と言ったら、嘘だ。
このシチュエーションに、心臓が高鳴らないわけがない。
ハートマークのシールを慎重に剥がした。
中の便箋を取り出す。
「おはよ、アンリエッタ!」
「わぁ!」アンリエッタは素っ頓狂な声を出して、下駄箱を慌てて締めて振り返る。ステラだった。ミステリアスなご機嫌の顔。今日もいい天気だねぇと言いそうな顔をしている。
「今日もいい天気だねぇ、素晴らしいね!」ステラは明るい曇り空の方に手をかざしてそう言った。そのくせしっかり水色のビニール傘を傘縦に刺しているのだから、ミステリアス極まりない。その間にアンリエッタは封筒をカバンの中に仕舞った。靴も履きかえる。
「どこがいい天気なんだよ、」言って、アンリエッタは息を吸って吐いて胸を抑えた。「……あー、ビックリした」
「何が?」ステラは邪気のない顔で靴を履きかえている。
「なんでもない」アンリエッタは教室に向かって歩き出した。
「ああん、待ってぇ」面白い声を出してステラはパタパタと駆け寄ってきてアンリエッタの手を握る。
「そういえば、浮船さんから連絡はあったの?」
「まだぁ」
階段を登っているとブルー・ベルが鳴った。二人は加速して教室に滑り込んだ。窓際の後方、自分たちの席に向かう。
「おはよう、アンリ」隣の席のイスミが手を上げて言った。
「おはよ」席に座ってカバンを机の横に掛けた。ステラが前にいなかったら封筒の中身を見て、イスミと一緒に分析を始めるところだが、いかんせん、ステラが気になってそういう危険なことは出来ないと思った。不安なのだ。いや、どうして不安なのだろう、とアンリエッタは少し悩む。ステラの背中を見ながら。ステラは教室に入るとミステリアスモードになる。シャッタを閉めたみたいに静かになる。
「……ねぇ、アンリ」イスミはステラを横目に、典型的なひそひそ話のポーズを取ってアンリエッタに体を近づけてきた。
「なにー?」アンリエッタもイスミの方へ体を倒す。
イスミは声のトーンを最大限に落として言う。「……昨日ね、見ちゃったんだ、アンリとステラがシーソしてるの」
「え、あ、そう、イスミもあそこにいたんだ、どうして声をかけてくれなかったのさ」
「え、だって、邪魔したらいけないでしょ?」
「邪魔ぁ、なんで?」
「とぼける気なのぉ」イスミはステラをチラッと見て口を尖らせた。
「なにを?」
「だから、シーソしてたってことはね、つまり、ね、」イスミの顔は段々赤くなった。口調はなぜか舌っ足らずだった。「やっぱり、そういうことなの?」
「ん?」イスミが何を言いたいのかいまいち分からない。「シーソしてたら、何なの?」
「二人は同じ気持ちなのかってこと」イスミは早口で言った。目は真剣だった。呪いの講義のときみたいに、顔に陰影が出来ている。
「え、」アンリエッタは五センチくらい顔を離して答えた。「あー、うん、だいだい、一緒なんじゃない?」
それはシーソしながら、アンリエッタが思ったことだ。
「きゃあ、」イスミは目を不等号の記号みたいにして歓声のような、もしくは悲鳴のような、グリフォンの鳴き声のような、声を出した。「素敵っ!」
「イスミ、ちょっと、静かに」アンリエッタは人差し指を立てて小声で言った。
しかし、イスミは不思議なテンションで立ち上がって回転しながら騒ぐ。スカートが踊っている。「いいのよ、アンリ、恥ずかしがらなくたっていいんだからぁ、素敵よぉ、素敵なことよぉ、熱いねぇ、熱いよ、でもね、アンリ、気を付けて、近く二人を邪魔する何かが起こる、かもしれない、二人の避けられない試練、きっと、でもね、ソレは素敵な未来への起爆剤、もっともっと燃えるために必要不可欠な、いや、不可避な、」
「川澄イスミ!」
教卓の前に立つ教官が怒鳴って、イスミはやっと我を取り戻して、静かに着席した。