第一章①
水上市という街は水気が多い。
近世、歳貨という貿易都市の干潟に数十万本の白銀の杭を打ち、水上という街は造られた。その建設は初め、ヴェニス商人のグループが主導していたが、歳貨の政治状況が変化、魔女たちの小規模なクーデタ宣言により、水上の土地は基礎工事の終了とともに魔女たちの支配下に置かれるようになった。水上の魔女たちは歳貨を訪れる西洋諸国との貿易を独占した。そしてほぼ自然的に、西洋諸国から水上に、水上から日本諸国へという取引、いわゆる仲介貿易のシステムが出来上がり、水上は発展した。金と富と文化の最先端が水上には集まった。ヨーロッパの詩人によって『東洋のヴェニス』と称されるようになった。
そういう時代は長く続く。
が、時代が流れ、現在に近づくにつれ、魔女たちは文化、時代に集約される様々な魔女の営みを中心とした諸国との交流の歴史を、大事にするようになる。その変遷、発展、未来を眺望しながら、(歳貨という都市は『タイム・イズ・マネー』)水上の魔女らは『タイム・イズ・ベリー・インポータント』の立場で、後継者の教育に尽力した。
一八〇〇年代後期、水上には魔女を育成する教育機関『水上大学』が造られる。それ以降、この街はこの大学を中心に独自の文化を形成。(その運動はとても閉鎖的で開放的と評価されている)その流れで、『水上女子高等学校』も設立された。
現在、水上女子には、この街の十一歳から十八歳の魔女全員が通っている。彼女たちの属性は、遺伝的にほとんどが『水』であるが、無論、例外もいる。
今は、雨の多い、梅雨の季節。
ただでさえ水気が多い水上市の水上女子に転校してくる魔女の属性は、この街では珍しい『火』だった。
ああ、頭痛が痛い。
歳貨市と水上市を結ぶ新水上大橋を通る地下鉄歳貨筋線の車窓から(地下鉄と言っても水上駅までの区間は橋の上を通る)、アンリエッタは雲の色を反射した淀んだ水面を見て、額を手の平で押さえた。
アンリエッタは水が嫌いだ。
火の魔女のほとんどは水が苦手だが、アンリエッタは極端に嫌いだった。
とても嫌い。バスタブも苦手。シャワーは平気だけれど、お湯が暖かくなるまで、緊張する。
昨日まで、アンリエッタは歳貨女子の生徒だった。今も、歳貨女子の臙脂色の、来ていて安心する色の制服を身に纏っていた。水上女子の制服はコレと正反対の色をしている。水色だ。まだ新しい制服には袖を通していないけれど、コレからソレを着ないといけないと考えると憂鬱で、アンリエッタは炎で水を全て蒸発させたい気分になる。もちろん、そんなことは無理だけれど。
悪夢にうなされているような表情で目を閉じていると、地下鉄は水上駅へ着いた。地下鉄はココで終点。乗客が全員地下鉄から降りていく。アンリエッタは開いた扉の向こうを睨むように見ながら、息を吐いて、立ち上がった。
もう、転校の手続きは済んでいる。
今更、向こうへは戻れない。
約束は、一年なんだから。
一年。
たった一年。
長い一年。ああ。
とにかく、アンリエッタは箒を片手に地下鉄から降りた。地下鉄は歳貨駅に向かって動き出す。もう戻れない。観念する。改札を出て、南口への階段を降りて、駅の外へ。
安心の曇り空が目に飛び込む。今にも雨に濡れそう。街を見回す。とても綺麗で統一性のある芸術的な街並み。異文化は衝突せず、互いに包み込むように、溶け合っていた。感動的な風景。きっと普通の人は、そんな風に震えるのだろうが、しかし、アンリエッタは駅前の広場の噴水の多さに嫌になる。噴水は競い合うように水柱を曇り空に向かって吹き出していた。そして、街に流れる水路の存在を確認した。水上バス、水上バイクがワゴンの代わりだった。聞いていた以上に水気が多い街だ。本当に。
アンリエッタは大きく深呼吸をした。水分を多く含んだ空気に思わずむせる。カバンの中からコーラを取り出して口に含んだ。少し、落ち着く。その表情は噴水を睨んでいた。心の中では怯えているのだが、アンリエッタは無表情でも瞳が吊り上っていた。アンリエッタの家系の魔女は、皆、吊り目である。そのせいで誤解が生まれたことは一度や二度じゃない。アンリエッタはご先祖様の呪いだと思っている。
アンリエッタは赤毛のツインテールを揺らして、広場の時計塔を見上げた。早朝の八時。約束の時間。駅前のバス停に水上バスが止まった。スーツ姿の男性を中心とした乗客は降り、地下鉄へ向かって早足で歩きだしていた。その中で、ひときわ目立つ、水色の制服を纏った女の子が見えた。
アンリエッタが所属するクラスの委員長の鳴滝ナルミ、十四歳である。とても水気の多い名前だ。しかし、コレがこの街では普通だと、電話口で彼女から聞かされていた。
想像していたよりもナルミは優しい顔立ちをしていた。委員長らしく、眉は濃く、瞳はキリッとしていたが、色白でどこか歳貨っぽい和美人で、なんとなく茶道部に所属していそうなおしとやかそうな女の子に見えた。着物が似合うだろう。髪の色は群青色。水の魔女だ。
ナルミはアンリエッタに気付いた目をして石畳の上を駆け足で近づいてきた。
アンリエッタも緊張した面持ちで近づく。
「アンタ、なんで箒なんて持ってきてるの!?」
「えっ?」
怖い顔で、いきなりそんなことを言われ、箒を引っ手繰られた。アンリエッタは訳が分からなかった。もう少し平穏な初対面を想像していただけに、困惑は凄まじい。
「ちょ、ちょっと待ってよ、返してよっ!」箒は言うまでもなく大事なものだ。アンリエッタは箒を取り返すために手を出す。
「嫌よ!」ナルミは箒を後ろに隠した。
「返せよ!」アンリエッタは声を張り上げる。「なんで取られなきゃいけないのさ!」
「反抗的な目、アヒルみたいに締りのない口、ああ、小賢しい、やっぱりアンタ、問題児だ、電話では大人しかったくせに、やっぱり問題児だ、ああ、不愉快だわ!」
ナルミは麗らかな大声で言う。通行人がアンリエッタに注目している。アンリエッタは恥ずかしい。「ふ、不愉快なのは僕の方だよ、いきなり問題児、問題児って」
「私がいる限り、この街の環境は破壊させないんだから!」
「環境? 破壊? 一体何のことだよ、訳が分からないよ!」
「白を切る気か、悪い魔女めっ」
「だから何なの? 僕、何か悪いことした? してないよねぇ!?」
「とぼけるな! 歳貨の犬めっ!」ナルミは箒を剣のように構えてアンリエッタに突き付けた。
「ええ!?」目が本気だから、アンリエッタは銃を突き付けられたみたいに両手を顔の横に持ち上げた。
「水没させる気だったんだろ、この街を」
「水没? え、この街、水没するの?」
「とぼけるなら、もっと上手くとぼけたらどうなの? その吊り目とアヒル口をなんとかしたら?」
「コレは生まれつきだよっ、」アンリエッタはしゅんとした。「僕だって気にしてるんだから」
「……え?」ナルミは目付を通常に戻し、俯き加減で言った。「そ、そうなんだ、ごめん、その、傷つくこと言って」
「え? いや、いいよ、こういう顔が嫌いだってわけじゃないし」
「うん、」ナルミは微笑みを作ってアンリエッタの表情を観察しながら言う。「とても魅力的で素敵だと思う、赤い目と赤毛によく合ってる」
「本当、褒めてくれるの?」アンリエッタは微笑んだ。
「あまり、この街にはいないカテゴリだね」
「ううんと、よく分からないな」アンリエッタはアヒル口をさらにアヒルみたいにした。
ナルミは微笑んだ。「……違うよ、そういうのはどーだっていいんだよ」
「え、酷い」
「白状する? なら、許してあげてもいい」
「ええっと、白状? 何を白状すればいいの? もっと分かりやすく教えてよ」
「まだとぼけるきなんだ?」ナルミはアンリエッタを睨み人差し指を立てた。「じゃあ、イエスか、ノウで答えて、とても親切でしょ?」
「え、うん、分かった、分かったけど」アンリエッタは困惑するしかない。
「アンリエッタはこの街を水没させる気なのね?」
「ノウ、っていうか、なんでそんなこと質問するわけ? 質問の意味を説明してよ」
「アンリエッタは箒でこの街の空を飛ぶ気だった?」
「イエス」アンリエッタは素直に返答。
「ほーら、黒だ、箒は返す、」ナルミは箒をアンリエッタに向かって投げつけた。「だから、この街から出て行って、一刻も早く」
アンリエッタは箒の柄を握り締めてナルミを睨んだ。「何でそうなるのさ? 一方的に出て行けって、無茶苦茶だよ、僕だって歳貨に帰れるんなら帰りたいよ、でも、僕は一年間、ココにいないと駄目なんだ、帰っちゃいけないんだよ、ナルミに言われたって帰れないんだよ」
「一年かけて、この街を水没させる気だったんだな、」ナルミは突き放すように言った。「なんて最低な人格」
「だから、意味分かんないよ、もうっ、」アンリエッタは地団太を踏んで、真っ赤な顔で頬を膨らませた。「もう少し、優しくしてくれたっていいじゃん、怖い顔しなくてもいいじゃん、お腹も空いたし、もう帰りたい、もう、やだぁ、もうっ、バカっ!」
堪えていたものが決壊するのに時間はかからなかった。
別に、アンリエッタは泣き虫でもなんでもないけれど。
転校に関わる様々な出来事が、アンリエッタを悩ませていたから。
様々な感情。悲しいを多く含んだやり場のない気持ち。
そういうものが。
ナルミに優しさを期待していたから。
転校生だから優しくして欲しかったから。
別に抱き締めてキスして欲しいっていうんじゃないし。
普通の優しさが、最初に欲しかった。
最初から、こんなの。
酷いよ。
僕は、まだ十四歳なんだから。
耐えられないよ。
アンリエッタの目から涙が落ちて、石畳に染み込んだ。幼稚園児みたいにしゃがみこんで、丸まって泣いた。
泣いたら、もう止まらない。
この街での僕の未来なんて。
知るか、って感じで、泣き続けた。
ナルミは慌てていた。困惑。そしてなにやら鞄をごそごそ探して、何かを見つけた。
ナルミはしゃがみ込んで、アンリエッタのアヒル口に咥えさせた。
「……ん? チョコ?」板チョコを加えたアンリエッタはナルミを上目で見た。
「和平の証、」ナルミは真剣な表情でアンリエッタを見つめた。「ごめん、きっと私の勘違いだったみたい、でも、チョコレートを食べたら、全て水に流す、戦争も止める、何百年も前からのこの街のルールだよ、チョコレートを差し出すのはとっても恥ずかしいことなんだ、だから、お願い、ルールに従って、仲良くして、よろしく、鳴滝ナルミ、十四歳、韻が踏んであるでしょ、面白いでしょ? 面白くない? お願いだから、笑ってよ、アンリエッタ」
アンリエッタは涙を拭いて、笑ってあげた。