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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【BL】ピグマリオン

作者: 義倉 茶房

 絵を描いている。真っ白なキャンバスに向かい、男はずっと、果て無き時間、絵を描いていた。もしかすると、それは気の所為であったかもしれない。本当は、たった数時間。或いは数分か。それでも、男にとっては、そう感じる程の時間であった。

 彼の男性にしては綺麗な手をしている。それは白く、若干節が目立つ長い指をしていて、絵の具もついていない乾いた絵筆が絡め取られていた。そんな筆先を、ずっとキャンバスの上で走らせている。いや、叩きつけているといつのが正しいだろうか。それ程に、手つきは荒々しい。何かを描こうとしていた。いや、今もそうだ。何か、描きたい物がある。ずっとそんな焦燥に駆られながら、こうしてキャンバスに向き合っている。だが、なにかがわからない。色も、輪郭も、形も、質感も、影も、なにもかもわからない。それでも確かに、欲している。ずっと、指先が震えて、爪との境が白くなり、薄皮が浮いている。唇が乾いて、皮が硬くなり、皮膚が裂ける。

 口の中に、僅かに鉄の味が広がった。だが、それでも彼は描き続けた。痛みは無い。そんな事を気にする余裕がないほどに、この白いキャンバスを叩く筆を止めることができない。

 何かはある。何かは、この奥底にあるのだ。真っ白な闇の奥底に、まだ手の届かぬ先に、静かに、息を潜めて、何かが横たわっているはずなのだ。なのに自分は、それを見ることも、手を伸ばせど、触れることもできない。苦しい…。ただ苦しい。呼吸ができるのに、肺が潰れるように苦しい。息が詰まる。もしも、この白い奥底に、自分が沈むことができたなら…。

 きっと、視界から消えてゆく空気の泡を数えながら、底に横たわる何かと共に、静かな眠りにつけるのに。それなのに、自分はその岸辺に立つことすら許されない。それが、苦しい…。

 男が絵筆を離さないのは、それを手放したら最後、この白を汚すからだ。キャンバスは、所詮白い壁でしかない。外にいる自分は、この白には溶け込めない。それでも奥底を求めて、爪を立てる。指よりも僅かに伸びたこの爪の先の白が、容赦無くこの白い壁を傷つけるだろう。硬い土を爪を立てて掘るように。爪が剥げ、指先が擦れ、皮膚が毛羽立ち、赤い血が流れようとも、それでもこの白い土壁を掘る。その奥底を求めて、歯を食いしばり、指が折れてもなお、その奥底に触れられるなら。

 けれど、そうしたところで、ただ白い布が破れ、その奥の木の板が露出するだけだ。その奥には何も無いことを、男は頭では理解している。だから、男はこうして待っている。いつか、横たわる何かが上を見上げ、白い奥底を覗き込む男を見つけ、浮き上がってくるその時まで、男は待つことを決めた。

 故に、今も男は待っている。

 あれから、どれ程の時が流れただろう。数時間か、或いは一日か。では、一日とは何だ。此処に、時間という概念はあるのか。日も昇らず、月も沈まないこの場所に、何があるというのか。

 そもそも、此処は何処だ。わからない。知らない。男には知ろうという意志も、理解しようという考えもない。彼はずっと、白い何かに囚われている。

 そんな時、凪いだ空気を何かが揺り動かした。それは、確かな音となり、男の耳にも届いた。

「何を描いているんですか?」

 この場所にあるのは、白いキャンバスと絵筆と椅子と、椅子に座る男だけ。当然、そこにある音は男の息遣いと絵筆とキャンバスが擦れる音だけだ。そんな場所に入り込んだ侵入者。男は舌打ちをした。ノイズが増えた。奥底に沈む何かが、遠ざかる。

「あの、聞いてます?貴方は、何を、描いているんですか?」

 煩い。本当に煩い。もう、舌打ちも、無駄な音一つ立てたくないというのに。乳白色の海が広がっていく。それは段々と侵食して、奥底を広げる。広がる度に、遠ざかる。今なお届かぬ手が、指先が、水圧で掻き消されていく。深くなる度に、深い霧のように白が濃くなってしまう。もう自分は、彼の目に触れられないのではないだろうか。

 …………。彼とは、誰だ?

「変な人ですね」

 ノイズがそう言った。ノイズの音は、男の声だった。声変わりをしているが、まだ少年らしさが抜けない若い声。まだ十代の終わりか、二十歳程度だろうか。男というより、青年という方が正しいだろう。この声が、彼と印象付けたのだろうか。

 それからずっと、青年というノイズは、語りかけ続けた。彼は問う。何を描いているのかと。だが、男は答えなかった。そもそも、男は答えを持たない。何故なら、何を描きたいのかがわからないからだ。そうでなければ乾いた絵筆など、いつまでも持ってはいないだろう。

 それともう一つ、青年の視線が男の背から離れなくなった。男ははじめて、視線というものにも温度があることを知った。青年の視線は、僅かな熱を帯びている。その時男ははじめて、自分がとても冷たいのだと知った。しかし、男は青年を振り返ることはしなかった。

 温度を知ってから少し、真っ白な中に何かが見えた。何かはわからない。しかし、何かはあった。横たわっていた何かが、此方に気が付いたのかもしれない。この白の中で、まだ自分の顔は見えるだろうか。それだけが心配だった。

 男は、絵筆を捨てた。乾いていては、キャンバスには描けない。だから男は、鉛筆を手に取った。何処にあったかなど知らない。どうでもいいことだ。ただ、男の手の中に鉛筆がある。それが全て。

 柔らかな黒が、白に近づく。だが、二つは触れ合うことなく止まった。男の手が、震えていた。尖った芯の先が揺れ動く。何処に黒を置けば良いのかわからない。定まらない。一瞬見えたような気がした何かは、また白に隠れて、見えなくなった。

「あれ?今日は鉛筆なんですね。描くものが決まったんですか?」

 また、ノイズがはじまった。青年の視線が、背中に熱を灯す。彼の熱が離れていたことに気が付いた。もう、目の前にあるのはただの白だけだ。完全なノイズだった。

 男の手に、青い筋が走る。白い皮膚に浮かび上がる血管が、手に力が籠ったことを知らせている。ミシッ…と、小さな悲鳴が聞こえた。鉛筆が泣いている。これは、この一本しか無い。何故かは知らない。だが、脳がそうだと知らせるのだ。だから鉛筆は、この手の中にある一本しか無い。折ってはならないという警鐘が響く。頭の中に響いているのか、この場で響いているのかはわからない。仕方なく、鉛筆を宥めた。

「貴方は、一体何を描くんでしょうね。貴方は、何を描きたいんでしょう?」

 そんなもの、此方が聞きたかった。


 それからずっと、青年の視線は男の背に張り付いている。キャンバスは白い。男の手には、まだ鉛筆があった。青年はあの問いからずっと、一言も発さない。男の視線は、キャンバスには無い。ずっと俯いて、下を見ていた。そこには、黒いスラックスが見える。それは細身で、自身の細く長い足にずっとある。履いているのだから当然だが、本当にそうなのだろうか。

 鉛筆の黒とは違う黒だ。そして、その先にもまた、黒があった。そちらは何処か艶めかしい。スラックスがさらさらとしている黒なら、此方はねっとりとしている黒だ。何処からか差し込んでいるらしい光を弾いて、その輪郭を白く際立たせている。まるで新品のような革靴だ。どの黒も、男の視界を埋め尽くす黒に似ているが、どれも質感が違う。男の視界にあるのは、もっと靄のような、透明な水に墨汁を垂らしたような、不安定な黒だった。

 男にはもう、白の中に何も見えない。何も見いだせないでいた。この温度も分からない白の中に、確かに何かがあったはずなのに。今はもう、何も見えない。

 両手がだらりと垂れ下がっている。辛うじて、鉛筆は指の中にいる。描けない。それしかない。

 そんな時、またもや空気が揺れた。それは、静かな湖面を揺らすかのように、男の鼓膜を揺らした。

「貴方、まだそんな事をやっているんですか?物好きですねぇ…」

 青年のノイズより、もう少し離れたところで、そのノイズは空気を揺らした。

 男はやはり、言葉を発することはしなかった。しかし、ノイズは一方的に、男に語りかける。

「飽きませんか?そんな事をしていて。私は御免ですけど、貴方はそうではないんですねぇ?違いとは、兎角面白いものです」

 ノイズは笑っている。その声は、青年よりも年が上だろう。自分と同じだ。

「おや、珍しいこともあるものですねぇ?貴方が他人をそばに置くなんて、想像もしませんでしたよ」

 ノイズがそう言った。他人とは、誰だ?

 此処には誰がいる?自分と、キャンバスと、椅子だけだ。そんな思考の海にいたその時、突然背中が冷えた。青年の視線が外れたわけではない。その温度が下がったのだ。男は思わず、俯いていた頭を上げた。

「気付いていなかったんですか?それとも、敢えて無視していたか…。どちらでも構いませんが、いい加減にしてくださいね〜」

 そんな言葉だけを残し、男のノイズは消えた。青年の視線は、まだ冷たい。

「誰ですか?」

 青年の声がする。

「誰なんですか?今の人…」

 いつもの好奇心が滲む声ではない。花が萎んでいた。

 もしも、今自分が答えを発したら、青年は喜ぶだろうか。困惑するのだろうか。泣くのだろうか。彼は、どんな反応をするだろう。ふと、興味が湧いた。目の前にある白い壁は、何も映さない。もしこれが鏡であったなら、青年の姿も映してくれるのだろうか。

 そう思ってから直ぐ、男は一度瞬いた。そうすれば、鏡には自分の姿が映る。そんなものは見たくない。見なくていい。自分も、青年も、何者かなど知らないままでいい。

 黒いスラックスの上に、雨が降った。たった一滴落ちてきたそれは、直ぐに染み込んで、痕が残った。降るのかと思ったが、それ以上雨粒は落ちてこない。背中が冷たい。もしかしたら、青年が泣いているのかもしれなかった。


 あれからずっと背中が冷たい。一度だったはずの雨は時折、気紛れに黒いスラックスを濡らす。今はもう、痕も残らない。

 きっと、青年は俯いている。男から少し離れた場所で、小さく、丸くなり、両膝に顔を埋め、座っている。青年がいることが当たり前になってから、彼の気配を探るのが上手くなった。視線が無くとも、男はもう青年が何処にいるのか、どうしているのかが分かる。ノイズはもうない。青年の声も、ずっと聞いていない。代わりに男の耳には、ずっと耳鳴りがしている。

 キーンという高い音が、鳴り響いて離れない。耳障りだ。此処には音が無かったらしい。静かなことは嫌いではないが、時に牙を剥くのだと知った。

 だが、きっとこの音はずっと、男の耳の中で鳴っていた。ただ、気付かなかった。では、何故気付いた?ずっと気にならなかったのに…。

 ろくに音を拾わぬ耳が、一番最初に拾った確かな男。空気を揺らし、振動が音に変わった瞬間。それを認識したのは、青年の声がはじめてだったのかもしれない。

 あぁ、そうか…。男は思った。青年を描いてみたい。男に全てを気づかせたその姿を、形にしてみたいと男は思った。

 手にはまだ、鉛筆がある。姿も形も分からない。色も、質感も分からない。それでも男はキャンバスへと手を伸ばした。

 青年とは、即ち人だ。人とは、どんな形をしていただろうか。黒が白を分断していく。真っ直ぐに、時には緩やかに。鉛筆がその身を削り、白い世界に終止符を打つ。

 乾いた音がする。乾いた何かと何かが擦れ合い音だ。それは耳鳴りを掻き消し、空間にも響いた。音は止まない。いつまでも続いた。音が響けば響く程、白が消えていく。黒い線が幾重にも重なり、線は形を成していく。それはまるで、何かを確かめているようだった。何かを探るように、鉛筆の芯がキャンバスの白を掃いていく。そこには黒い痕が残った。まるで引っかいたような線を残し、何かが浮かび上がる。だが、これは本当に青年なのだろうか?線が増える度、疑念もまた降り積もる。それでも、手を止めることはしなかった。


 気がつけば、キャンバスは真っ黒になっていた。比喩ではない。本当に黒一色だった。男には、青年の姿がわからない。だからこそ、何度も何度も描いた。そして、描く度に消しては、青年の姿を探った。人ならば、顔があり、目があり、鼻と口があり、髪もあるだろう。だが、正解がわからない。

 描いては消してを繰り返されたキャンバスは毛羽立ち、とうとう白には戻らず、灰色に変わって、黒になった。試しに鉛筆を走らせても、何処を辿ったのか、その道程がわからない。それ程に真っ黒だった。

 男はとうとう、鉛筆を折った。一本しかないそれを、折ってしまった。鉛筆はもう無い。結局、男には描けるものなど無かった。

 白かった手は、鉛筆の黒で汚れている。汚れしか残らなかった。背中は常に冷たく、もう、彼の温度も朧げだ。

 ただ、世界を濁らせただけだった。ただ、汚しただけだった。終ぞ自分は何かを見いだせず、形にもできぬまま、その手段さえ自ら手放した。残っているのはもう、このキャンバスだけだ。

 表面に触れる。もしかすれば、この黒い表面にはまだ、青年の温度が僅かに残っているかもしれないと思った。しかし、空想は所詮、空想のままだった。キャンバスはキャンバスでしかない。

 そこに彼は宿らない。ただの汚いキャンバスがあるだけだ。

 柔らかさも、滑らかさも無いそれは、男の肌にざらざらとした感触だけを残す。温度は無い。熱くもなく、冷たくもない。僅かに、爪を立てた。

 ガリガリと、酷く耳障りな音と、爪の中に入り込む黒い汚れが酷く不快だ。何度もそれを繰り返し、段々と込める力が強くなる。男は中腰になり、爪を立てぬ方の片手てキャンバスを固定した。己の顔をキャンバスと触れそうな程に近付けて、力の籠った指先が白くなり、爪がキャンバスに食い込む程に、彼は傷つけ続けた。

 何かが割れる音がした。ふと見れば、爪が割れている。これか…そう思った。原因が分かれば後はどうでも良く、再度爪を立てる。割れた爪が広がっている感覚がある。もしかすると、次は剥げるかもしれない。だが、痛みは無く、黒く汚れた爪に未練は無い。爪も、この指も、果ては自分さえも、無くなってしまえばいい。そんな思いで、綿を引き裂こうとした。

「何してるんですか!」

 ずっと、聞きたかった声だった。手が止まる。振り向きたい。身体が言うことを聞かない。喉が渇いてひりつき、声も出なかった。汚れて傷付いた手の甲に、熱が触れた。これ以上傷付かぬよう優しく包む真綿のようで、僅かに擽ったい。

 白と黒ばかりだった視界に飛び込んだ小麦色というには僅かに薄い、健康的な肌色。そして、男の顔を覗き込む眩しい程の有彩色が、男の視界を埋め尽くした。

 鮮やかな金色と生命の息吹を宿す翡翠色。確かな息遣いと熱を宿すその人は、髪色と同じ金色の眉を寄せ、男を叱った。

「爪、割れてるじゃないですか!ばい菌でも入ったらどうするんです!?ほら、早く手を離す!」

 翡翠色の瞳には怒りと焦りと心配が綯い交ぜになっている。彼はずっと、男のことをちゃんと見ていたのだ。

「絵を描いているのに、手を大事にしなくてどうするんですか!」

 彼の男を叱り飛ばす声は止まらない。青年の両手が男の顔に伸びる。

「あぁ、もう…。顔まで黒くなってるじゃないですか!折角綺麗な顔をしているのに、こんな場所まで汚して…」

 頬を包む手が温かい。別に、男は絵描きではない。手など別にどうでもいい。それでも青年は、男が傷付く事を許さない。

「絵描きじゃないからといって、それは自分を大事にしない理由にはならないんですよ!?」

 青年の中では、どうやらそうらしい。そうなのか…と、男は思った。じんわりと、身体が熱を持ちはじめていることに気が付いた。青年が触れた部分だけが温かい。

 自分の冷たさを知ったときよりも、男の温度は冷たくなっていたようだ。そして、一度熱を知った身体は、もっと貪欲にそれを求める。どうやら男は、自身が想像する以上に強欲であったらしい。

 そして、その熱は青年のものでなくてはならない。そうでなければ、男は温度を感じ取ることができない。だから彼は、青年に許可を求めず、抱きしめた。

 青年は固まる。煩い程の声は鳴りを潜め、男の腕の中で石のように動かなくなった。それを少し、男は不満に思ったが、直後、青年の温度が上がった。よく見れば、青年の耳から首筋まで、真っ赤に染まっている。赤い色には何の感慨もないが、青年の色だというだけで、それはとても温かな色に見えた。

 もっと、熱が欲しい。腕に力が入り、青年との間の隙間を埋めていく。じんわりと、男の身体の芯にも熱が伝わっていく。まだ、まだ…。もっと、もう少し。言葉が暴れている。どれ程この熱を腕の内側に留め、隙間を埋め、抱きしめても、己の欲がとめどなく溢れ出る。青年の肉と、奥に潜む骨の感触が、男にはとても心地が良かった。

 肉があるから交わらず、骨があるから加減がわかる。肉という皮があるからこそ、二人はこうして形を保ち、二人の骨がぶつかり合うからこそ、男と青年に齎す痛みが、踏み込んではいけない警告として機能する。

 男の内には、それすらも飛び越してしまえという暗い声が語りかけていたが、彼はそれを無視できる程度には、しっかりと理性を保っていた。交わりたくないわけではない。だが、一つになりたいわけではない。二つは保たれていなければならない。

 もし、一つになってしまったら、それはもう青年ではなく、また男でもない。別の何かだ。男は純粋なままの青年が良い。彼の形を探るように、冷たい中指の指先が、背骨をなぞる。下から、上へ。緩やかに湾曲した背骨、その一つ一つの形、凹凸を確かめるように、何度も舐め回した。二人を遮る薄い布切れが邪魔だ。その薄い層を掘り起こすかのように、一つの背骨の上で止まり、服と、皮膚と、骨を

 耐えきれないというように、青年の身体が一度跳ねる。そして、男と自分の間に手を差し込み、二人の間に亀裂を生む。冷たい空気が、谷底に流れる。不快だった。

 自分がこれほどに何かを感じることができると、思いもしなかった。自身の片割れ同様に、自分の中身は空っぽなのだと思っていた。だが、違った。一つに生まれ、分かたれ、それぞれが辿り着いた先は違うのだ。だからこそ、男と片割れは、違う色をしている。そのことに、今更気が付いた。

「離しませんよ。私の手を掴んだのは貴方ですから。後悔しようと、恨み、呪おうと、私は貴方を手放せない」

 男が、はじめて言葉を口にした。青年の力が抜け、崩れ落ちそうになる身体を、男の腕が絡め取る。男の心臓と、肺が、漸く動き出す。血液が身体の内を巡る感触を、その音を、はじめて知った。

「狡くないですか…?それ…」

 青年は観念したのか、二人を分かつためだった腕を、男の背に回した。男の手とは違い、彼の手は誠実で、温かい。けれど、男を漸く、己の手中に収めることができたという欲が覗く。それが、少しだけ心地良い。

「今更でしょう?」

 男は笑った。

「好きですけどね、そういうところも」

 青年は呆れたように返した。

 二人はずっと抱き合ったまま、そうしていた。


 そんな二人の外に、一人の男がいた。彼等のことを見向きもせず、一人笑っている。

「本当にどうしょうもない…。ですが、本当に面白い」

 二人と一人は、互いを見ない。だが、それでいい。外の男は、そう思っている。観察するのが自分の本分だと、彼は知っているからだ。

「アイーザも、ロイドも、面倒くさいなぁ…」

 言葉にはしないが、勿論自分も。今日も一人、ルネは見えぬ空を仰ぎ見る。



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