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冷遇妃マリアベルの監視報告書

作者: Mel

 ――「王家の影」と呼ばれる組織がある。

 諜報、工作、警護、時に暗殺に至るまでその任務は多岐にわたり、影の名に相応しく裏の世界で暗躍してきた。


 ここシルフィード王国も例外ではない。国王と三人の王子に仕える影が存在し、常にその歩みを支えている。

 領土を拡大しつつも、交易や軍備ではまだ成長途上にある国。そのため諜報の力こそが、国の命脈であった。


 その影たちを束ねるクロウは、ある日の夕刻、第三王子セドリックに密かに呼び出された。

 差し出された資料にざっと目を通すと、セドリックは母譲りの金髪を揺らし、にこやかに口を開く。

 

「マリアベルを知っているな? 彼女の監視を頼みたい」


 記憶に違いなければ――マリアベルは敗戦国ソラリから献上された姫君であり、第一王子アイザックの四人目の妃として娶られた女だ。

 だが何かと侮られている様子で宮中での居場所はなく、今ではひっそりと自室に籠もっているという。


 そんな女に何の用があるのか。ちらりとセドリックに視線を送ると、彼は前髪をかき上げ、悪戯めいた笑みとともにウインクした。理由を明かすつもりはないらしい。


「御意に」


 影は命令を拒めない。必要がなければ質問すら許されぬ。

 クロウが頭を下げて姿を消すと、部屋に残ったセドリックは軽薄な笑みを浮かべていた。


 


 小国ソラリには『太陽の姫』と呼ばれ、誰からも愛される王女がいた。

 ――もっとも監視対象のマリアベルは、その()の方である。妹とは対照的な性格の持ち主とされ、悪評には事欠かない。


「……まぁ、噂ほど当てにならぬものもないがな」


 クロウはすぐさま人員を見繕い、その中でも有望株のひとりを呼び出した。


「お呼びでしょうか」


 音もなく現れたのは、黒装束に身を包み、銀の髪を覗かせた年若い影だった。戦場でクロウに拾われた孤児であり、今はデューと名乗っている。少年の面影を残しながらも、その身のこなしは既に熟練の域に近い。


「新たな任務を授ける。アイザック王子妃であるマリアベルの監視だ」

「監視業務、ですか」

「先日まで戦場を駆けていたのだ。たまには腰を落ち着けるのも悪くあるまい。報告は日々行え。手段は任せる」


 デューはわずかに目を細めたが、「かしこまりました」とだけ答えて姿を消した。師であるクロウに似て無駄口を叩く性分ではない。自ら情報を集め、すぐに動き出すだろう。


「……ふむ。今この時に動く、か」


 戦が終わり、戦後処理も一段落した今、シルフィードでは三人の王子が王位継承をめぐって争っている。


 戦場で数々の戦果を挙げた勇猛な長男、アイザック。

 国内に留まり内政に尽力した堅実な次男、ユリウス。

 そして人心掌握に長け、策謀を得意とする三男、セドリック。


 王は未だ正式な後継を指名していない。すなわち、弟二人にも可能性が残されているということだ。

 この状況でセドリックが動いた以上、そこには必ず理由がある。


「……俺も少し調べてみるか」


 クロウもまた静かに部屋を後にした。

 重大任務の傍ら、この国で何が起ころうとしているのかを見定めるために。

 

 

 ▼ ▼ ▼


監視対象:マリアベル(第一王子アイザック殿下、第四妃殿下)

記録者:デュー

報告日:一日目


対象は午前より私室に籠もりきり。

朝食には手を付けず、昼食も口に含んだのみで吐き戻した。

痩せが目立ち、顔色は蒼白。衣服は薄汚れ、袖口にはほつれが散見される。

使用人らは配膳後すぐ退出し、片付けの際も声をかけず淡々と処理。

対象は終日沈黙。椅子に腰掛け、板で塞がれた窓枠を眺め続けていた。


以上。

---

 

 簡潔にまとめられた報告書に目を通し、クロウはすぐさま火にくべた。情報価値に乏しくとも、残すべきものでもない。

 行間から浮かびあがるのは、敗戦国の姫君に対する冷淡な処遇だった。ソラリから侍女ひとり伴うことも許されず、異国の城で孤立させられている。

 

 それもこれも、彼女の境遇と纏わりつく悪評ゆえだろうが――。


 

報告日:二日目

対象、午前は部屋に籠り刺繍。

昼食は遅れて運ばれ、器の中身は冷めきった粥と黒ずんだ果実のみ。

配膳した侍女は礼を欠き、器を机に乱暴に置くとそのまま退出。

対象は抗議せず、一口のみ口にしたが以降は手をつけなかった。


午後、テティス妃殿下が訪問。

対象の髪型と装いを「田舎くさい」と嘲笑。

対象は俯き、沈黙のまま頭を垂れて応じた。


以上。

---


 テティス妃殿下は第一王子アイザックの第一妃であり、妃を迎えるたびに陰湿な嫌がらせを繰り返す女だ。小国の敗戦国の女ともなれば格好の餌食であろう。

 夫であるはずのアイザックも関心がないのか、マリアベルのもとに足を運ぶ気配はなかった。

 


報告日:三日目

対象、午前にテティス妃殿下と廊下で遭遇。

妃殿下は「古びた裾では王宮の床が汚れる」と発言。

随行の令嬢らはせせら笑い、対象は裾を抱え黙礼。


以上。

---


報告日:五日目

対象の部屋は北向きで、暖炉は空のまま。

部屋の隅には埃と蜘蛛の巣が溜まり、掃除の形跡なし。

対象は薄い上掛けを肩に掛け、古びた書物を読書。


書物は頁の欠落が目立ち、対象は失われた頁に長く視線を止めていた。


以上。

---


報告日:九日目

対象、午前に庭を散策。

一輪の花を折り取り、掌に隠すように持ち帰った。


午後、茶会に招かれていたが、会場で「貴女にはそちらがお似合いだ」と侍女と並び立つよう告げられる。

対象は抗議せず、大人しく従った。


以上。

---


 クロウは数日分の報告を焼き捨て、しばし黙考した。

 侮辱、放置、軽視。淡々とした文面に並ぶのは、マリアベルを徹底して軽んじる場面ばかり。


 それもこれも、ソラリでの彼女の評判が最悪であったからだろう。我儘で傲慢、金遣いと男漁りに明け暮れ、家族にすら疎まれていた――そう囁かれてきた。

 しかし、報告書に映る姿はその像とは到底結び付かない。むしろ王族としての矜持を保っているようにすら見える。泣き喚くことも抗議の声を上げることもなく、ただ宿命を受け入れる覚悟が行間から読み取れた。


 とはいえ、人質とも呼べぬ女を寄ってたかって嬲る光景は滑稽でしかなかった。冷遇の理由に思い当たるとはいえ、いけ好かぬ場面であることに変わりはない。ましてやそれを間近に見続けているデューにとっては、なおさらだろう。

 

 この扱いを国王は承知しているのか。

 彼女の監視を命じたセドリックの真意とは――。



報告日:十日目

第一王子アイザック殿下、対象の私室を訪問。

「噂の太陽の姫君を楽しみにしていたのだがな。……貴様のような売女を寄越されると知っていたら、戦利品には別のものを望んでいたさ」

「なんとも見すぼらしい女だ。用がなければ部屋から出るな」

一方的な罵倒は長く続いたが、対象は俯き、応じず。


以上。

---


報告日:十ニ日目

アイザック殿下、侍従を伴い対象を謁見の間へ呼び出す。

「テティスに嫌がらせをしているそうだな」と侍従らの前で詰問。

対象は否定するも、殿下は取り合わず。

「生かされているだけでも有り難いと思え。貴様なぞ女としての価値もない」と恫喝。

対象は沈黙。以後、殿下の訪問は途絶える。

 

以上。

---


報告日:十七日目

第三王子セドリック殿下、対象の部屋を訪問。

「ご無事で安心しました」「兄上は粗暴なお方ですから」と発言。

対象は驚きを見せたが、柔らかな態度にわずかに安堵の表情を浮かべた。

殿下は「困ったことがあれば私に。……貴女を理解できるのは、この僕だけですから」と言い残し退出。


以上。

---


報告日:二十二日目

セドリック殿下、再び訪問。

「この部屋は寒いですね。使用人に申しつけておきましょう」と発言。

実際に暖炉に薪は運ばれたが、その量はごく僅か。

対象は上掛けを重ねて過ごす。


不意に、「あなたも寒くないですか」と声掛けあり。

対象以外に訪問者は確認されず。

独り言とも思えるが、誰かを意識しているような口ぶり。

寒さによる精神錯乱の可能性も念頭に、引き続き注視を要す。

 

以上。

---


報告日:三十日目

セドリック殿下、庭園を散策中の対象に声を掛ける。

「その花が似合いますね。噂の妹君よりも貴女の方がよほど美しい」と発言。

対象は僅かに微笑み、礼を述べた。

翌日より侍女らが庭園への同行を拒むようになる。


以上。

---


報告日:四十五日目

セドリック殿下、茶会に出席していた対象へ近づき「貴女を守れるのは私だけ。私にすべてお任せください」と発言。

対象は驚き、言葉少なに頭を下げた。

その後、同席の令嬢らが「マリアベル妃は殿下を誘惑している」と噂を広める。


以上。

---


 アイザックの冷遇は想定通りだ。彼は良くも悪くも愚直な男。ソラリから流された悪評を鵜呑みにし、テティスの甘言に踊らされているのだろう。


 そうなると気掛かりなのはセドリックの動向だ。彼はマリアベルが瀬戸際まで追い込まれると図ったように助け舟を出す。かと思えば、その行為がマリアベルを孤立させている。

 表向きは同情を装い、裏ではテティスの取り巻きやソラリに残る元王族に何やら接触しているようだが――。


「デュー、いるか」

「はい。お呼びでしょうか」


 呼びかけに応じ、デューが姿を現す。

 回廊の奥に見えるのは、マリアベルの居室だった。第三倉庫のさらに奥――鼠すら寄りつかぬ薄暗い一室である。仮にも妃の立場にある者が住まうには、あまりに惨めな環境だ。


「対象について、気付いたことはあるか」


 クロウの問いかけに、デューは一瞬、言葉を探すように口を閉ざした。


「……報告書の通りでございます」

「あれは事実の列挙にすぎん。簡潔にはまとまっているが、俺が聞いているのはお前の目で見た印象だ」

「……噂とは、やはり当てにならないものだと」


 やはり師弟は似るものなのか。密かに苦笑を漏らしてしまう。


「ほう。例えば?」

「ソラリにいた頃は使用人に当たり散らし、気に食わぬことがあれば声を荒げる、と聞き及んでおります。ですが対象は物静かで、劣悪な環境にも抗議の声ひとつあげません」

「そうだろうな。その"噂の女"は、対象の妹のことだからな」

「……妹の、ですか?」

 

 クロウの言葉にデューが目を見開く。思わず零れた声は小さかった。


 主務の傍ら調べた結果、マリアベルの悪評はすべて義妹ララベルの所業だった。両親に溺愛され奔放に振る舞った妹の行いは、巧妙に姉へと擦り付けられていたのである。


「後妻とその娘が幅を利かせるのは珍しくもない。小国ともなればなおさらだ。しかもマリアベルは実母を失ってから、後ろ盾もなかった」


 クロウは淡々と続ける。


「本来、アイザック殿下が望んでいたのは“太陽の姫”と称されたララベルだ。だがソラリ王家は姉を差し出した。不治の病を持ち出せば、殿下も引かざるを得ないと踏んだのだろう」

「……病、ですか」

「若き日に身を誤り、子を望めぬ身体となったようだ。……などとは公にはされていないがな。致命的な欠陥を抱えた妹と、悪評にまみれた姉。天秤にかけ、苦肉の策で後者を差し出したのだろうな」


 跡継ぎはどうするつもりだったのか、愚問ではあるがソラリの国王に投げかけたくもなる。おそらくは姉に産ませた子を妹の腹から出たことにする。そんな浅ましい算段を立てていたのだろう。……国が潰えた今となっては、どうでもいいことではあるが。

 

 デューは視線を伏せ、口を閉ざす。その横顔には、ためらいなく剣を振るってきた影らしからぬ翳りがあった。


「……俺は高貴なる方々についてはまだ明るくありません。ですが……どうしてあの方は、あれほどの仕打ちを受けねばならないのでしょうか。仮にも王子妃だというのに」

「嫁入りは従属国としての体を為すための証にすぎん。ソラリからの賠償金も僅かとあれば、尊厳などあってないようなものだ。本人もそれを理解しているからこそ、屈辱を呑み込んでいるのだろう」

「では、この監視任務に何の意味があるのですか」

「影たるもの、任務に疑問を抱くな。……しかし皮肉なものだな。お前は命を奪うことに躊躇はないくせに、女が虐げられるのを見るのは苦痛か」


 冷ややかな言葉を浴びせると、デューは少年のように唇を噛み、子供じみた仕草で俯いた。戦場では決して見せなかった顔だ。女への免疫が乏しかったか、それとも、あの女には人を惹きつける何かがあるのか。


「……対象は、食事すらまともに摂れていません」

「そうか。……いいか、影として生きる以上、私情を挟むことは許されん。ただし、監視業務を遂行するにあたり継続に支障をきたすようなら、その限りではない」

「……御意に」

「それと――お前の存在が気取られているようだが?」

「気配は断っていたはずなのですが……精進します」

「まあ、相手も一応は王族だからな。影の存在くらい察しているだろう。大事にはなるまいが、研鑽は怠るな」


 クロウは低く告げ、うなだれたままのデューの肩に軽く手を置いた。


 デューが頭を下げて気配を消すと、程なくして澄ました笑みを張り付けたセドリックが姿を現した。


「……君か。マリアベルの様子はどうだい?」


 彼女の状況は随時報告しているはずだが、まるで天気を尋ねるような軽やかさだ。


「報告によれば、方々からの悪辣な仕打ちに身も心も弱らせているようです」

「そうか! ……だが、もう少し様子を見たほうがいいな。もし彼女が助けを求めるようなら、すぐ知らせてくれ」

「御意に。ただ、健康状態が懸念されます」

「ふっ、この僕が見誤るとでも? ――屈辱も苦難も、長く重いほどに輝きは増す。その解放の瞬間を与えられるのは、この僕だけだ」


 薄い笑みを浮かべるセドリックに、クロウは無言で深々と頭を垂れた。セドリックは満足げに頷き、マリアベルの部屋へと向かっていく。その手には小ぶりな花束が握られていた。


「……聞いての通りだ。対象の動向に注意を払え。気になる点があれば報告書に補足せよ。以上だ」


 独白めいた指示を残し、クロウもまた自らの任務に戻った。


 

 ▼ ▼ ▼

 

報告日:五十日目

対象、夕食の器に虫が混入していた。

侍女らの態度から意図的な嫌がらせと断定。

対象は器を遠ざけ、以降口にせずそのまま夜を過ごした。


翌朝、机上に一つの真新しい果実を発見。

対象は一瞬ためらうも、やがて静かに口にした。


以上。

---


報告日:六十一日目

対象の部屋は連日冷気が強い。

暖炉に薪は運ばれず、対象は上掛けを重ねて就寝。


翌朝、暖炉に小さな火が灯っていた。

対象は驚いたように目を見開き、しばらく炎を見つめていた。

誰の仕業かを問うことなく、膝を抱えて温もりに身を委ねていた。


以上。

---


報告日:八十二日目

対象、テティス妃殿下の命により庭園への立ち入りを禁じられる。

環境の悪化に懸念あり。


翌日、対象の私室の窓枠に打ち付けられていた板が外され、光が差し込む。

対象はしばらく窓辺に立ち、静かに外を眺め続けていた。


以上。

---


報告日:九十日目

対象、発熱の兆候あり。

水差しに残っていた水は濁り、使用に適さず。


翌朝、新たに澄んだ水が机上に置かれていた。

対象は小さく「ありがとう」と口にし、グラスを傾けた。


以上。

---

 

報告日:九十五日目

セドリック殿下訪問。

対象はなお床に伏していたが、見舞いの品々が届けられる。


退出後、対象はしばらくそれらを拒むように睨みつけていたが、やがて意を決したように果実を一つ手に取った。

完食ののち、小さく「私は、生かされている」と発言。


以上。

---

 

 ――これまで静かに死を待ち望んでいたかに見えたが、支えを得たと理解したのか、今は生きる道を選んだようである。

 

 報告書の端々からも、対象を取り巻く環境がわずかに変わり始めているのが見て取れた。……誰の介入によるものかまでは、あえて言及する必要はないだろう。

 だが同時に、長らく水面下で策を巡らせていたセドリックが、ついに本格的に動き出したようであった。



報告日:百十五日目

謁見の間にて、セドリック殿下の主導によりソラリ旧王族の断罪が執行された。

理由は不正蓄財および対象の妹ララベルの素行。廷臣らの面前で自害を命じられた。

以後、宮中における対象への嘲笑は大幅に減少傾向にあり。


以上。

---


 ソラリの旧王族に対して行われたのは、名目こそ王宮への正式な召喚だったが、実態は廷臣らを集めての公開処刑であった。

 告発の理由は二つ。敗戦後も財を秘匿し、賠償金を低く抑えたこと。そして王女ララベルが病を口実に差し出されなかったのは虚偽であったこと。セドリックは周到に用意した証拠を突きつけ、旧王族を容赦なく追い詰めた。

 その場にはマリアベルの姿もあった。幾度も屈辱を呑み込んできた彼女の汚名は、ようやく雪がれたのだ。


 うんざりするほどの怒声と悲鳴の中、旧王家は毒杯を賜った。

 廷臣らは口々にセドリックの正義と慧眼を讃え、場は喝采に包まれる。


 呆然とするアイザックと、口惜しげに唇を噛むテティス。その表情は見ものではあった。

 そして、満面の笑みを浮かべるセドリックは、断罪という強硬な手段をもって確かな求心力を手中に収めたのである。


 

報告日:百二十日目

対象、食事を完食。

以前は手を付けなかった甘味も口にした。

顔色は改善し、頬に赤みが差している。

肌艶も良好。


対象は水差しを手に取り、小声で「一人ではない」と呟いた。

意味は不明。


以上。

---

 

報告日:百三十八日目

第一王子アイザック殿下、久方ぶりに対象の私室を訪問。

「……顔色が良くなったな。着飾ればもう少し見られるだろう。今から見繕ってやろうか」と発言。

対象は静かに礼を述べた後、「本日テティス妃殿下にお呼ばれしております」と返答。


殿下は舌打ちし退出。


※後に確認。妃殿下からの招集は存在せず。よって対象が咄嗟に口にした虚言と判断。辻褄を合わせるため、招集状を偽造しました。


以上。

---


報告日:百四十五日目

セドリック殿下、対象を訪問。

「……以前の耐え忍ぶ貴女も美しかったが、今なお輝きを増していますね。兄上も愚かなものだ。あんな男に王位が務まるはずもない」

対象は静かに微笑み、無言で応じた。


「こんなにも輝きが強すぎると、誰にも渡したくなくなる。……冗談ですがね」

殿下は柔らかな声音で対象の頬に触れようとしたが、やんわりと制された。


以上。

---

 

報告日:百五十日目

セドリック殿下、対象を訪問。

対象は刺繍をしており、殿下に問われると、「私を影から支えてくださる、大切な方のために」と回答。


殿下は「完成が楽しみですね」と笑顔で発言。

対象はわずかに頬を染め、黙して作業を続けた。


以上。

---

 

報告日:百五十二日目

対象は刺繍の最中、笑みを浮かべることがあった。

その表情は柔らかく、訪問者もいないのに独り言を幾度となく漏らしていた。


※存在を完全に気取られたため、少し会話を交わしました。任務に支障はありません。引き続き注視します。


以上。

---


 報告書を火にくべながら、クロウは小さく息を吐いた。

 影と監視対象が直接言葉を交わすなど常ならざること。――デューが踏み込みすぎている。

 報告書の記述自体は変わらず淡々としているが、筆致は正直なものだ。日を追うごとに端々から迷いが滲み出ていた。


 宮中におけるマリアベルは、もはや「日陰者の妃」ではなかった。栄養状態が整えば本来持ち合わせていた美しさが顔を出し、セドリックの手配によって身なりも洗練され、日に日に存在感を増している。


 そうなると、彼女を疎ましく思う者が現れるのも必然であろう。

 


報告日:百六十五日目

夜半、事前の通達なくアイザック殿下の使者を名乗る男が派遣され、対象を人目のつかぬ廊下へ誘導しようとした。

対象は従おうとしたが、直前に阻止。

使者は速やかに拘束、処分済み。


以上。

---

 

報告日:百六十六日目

対象、終日私室に籠る。

昨日の件の影響か、視線を落としたまま長く沈黙。

時折、動揺の色を帯びた独り言を繰り返していた。

内容については本件に関係しないため割愛。

 

以上。

---

 

報告日:百六十八日目

テティス妃殿下が、対象を含む複数の側室に嫌がらせを行っていたと糾弾される。

公の場で証言者が次々と現れ、決定的証拠が突きつけられた。

先日の不審者もテティスの手の者であると断定。


証拠の裏付け、証言者の選定、その全てにセドリック殿下が関与したと見られる。

対象は公的場面において侮蔑を受けることが激減。以前よりも明るい表情が見受けられた。

 

以上。

---

 

 テティスの凋落も、セドリックの暗躍によるものだった。廷臣らの評価は高まり、セドリックを王位に推す声が急速に広まっている。

 マリアベルはより良い部屋へ移され、アイザックも足繁く訪れるようになった。


 だが彼女は頑なに距離を保ち、誰にも靡こうとはしない。


 焦れたセドリックが兄をも失脚させるのか。

 あるいは、アイザックが力ずくで彼女を縛ろうとするのか――。

 


報告日:百七十日目

対象、謁見の間に姿を現す。

整えられた衣装を纏い、その容貌はかつての悪評からは想像もつかぬほど華やかであった。

同席した廷臣らも「別人のようだ」と囁いていた。


以上。

---


報告日:百八十日目

アイザック殿下、対象を訪問。

「まさかあの噂が全てララベルのものだとは思わなかった。テティスも嫉妬に駆られてお前を傷物にしようなどとは、度し難い。……使用人も全て処分した。これからやり直していこうではないか」と発言。


怯えを見せる対象に迫ったため、危険が及ぶと判断。

侍従に扮し「国王陛下より急ぎの呼び出しです」と告げると、殿下は舌打ちし退出。


※協力を仰いだ影には礼を済ませています。


以上。

---


報告日:百八十五日目

セドリック殿下、対象を訪問。

「お待たせしてしまって申し訳ありません。兄上と貴女の離縁手続きがようやく完了しました。……これで誰も貴女を軽んじることはないでしょう。貴女はこれからどうしたいですか?」と発言。


対象は俯きながらも、小さく呟いた。

「……私は、いつも私を見守ってくださり、地獄の中で救いの光を与えてくれた方と共にありたいです」


殿下は顔を輝かせていた。


以上。

---


報告日:百八十八日目

対象の机上に、新しく仕立てられた刺繍入りのハンカチを確認。

柄は花を模しており、拙いながらも丁寧な縫い目。


「私を少しでも想ってくださるのであれば、貰ってくださいませんか」

と発言があったものの、訪問者はおらず。


 俺には、(抹消跡あり)

 

 ――以降の文言は幾度も訂正されており、判読不能。

---


報告日:百九十日目

セドリック殿下との婚姻の手続きが進められると知り、対象、夜半に紛れて国を出る決意を固める。


脱出の手筈は、俺がすべて整えました。

引き続き監視業務を遂行するため、彼女と共に参ります。


追手は、出来れば殺しても心痛まぬ相手に限ってください。


世話になりました。

---


 同日夜、影の部下より報告があった。


「四の影デュー、マリアベル。ともに所在不明」


 最後に姿が確認されたのは対象の部屋付近。セドリックが半狂乱になって兵を動かしたが、痕跡はすべて消えていた。デューが本気を出したとなれば影でも追跡は容易でないだろう。


 クロウは淡々とマリアベルの私室を捜索し、机の引き出し裏に鍵付きの小さな書物を見つけた。

 鍵を外すのは造作もないこと。中はソラリ語で綴られており、解読にも時間を要さなかった。


 内容はマリアベルの手記。祖国で後妻とその娘に嬲られ、父王の寵を得られなかったことへの恨み言から始まる。

 シルフィードに送られてからも何ひとつ期待していなかったこと。静かに死を待つつもりだったこと。

 だが、その先に記されていたのは――見知らぬ誰かにずっと見守られていたことが、生きる糧になったという一文だった。


 アイザックを野蛮と断じ、セドリックを腹黒と評す一節もある。テティスへの嫌味にはソラリ流の毒が滲み、思わず笑いを誘う箇所すらある。目の前で毒杯を呷った家族に対しても一行だけ、「ざまあみろ」ときたものだ。

 その文体は現実のマリアベルとは結び付かず、想像以上に強かな女だったようだが――とある男と言葉を交わして以来、抑えようのない想いが胸の内を占めていく様に、多くの頁が割かれていた。

 

 そこにあったのは、先の見えぬ生活のなかで唯一の救いにすがる、ひとりの女の姿。

 そして最後の頁には、誰にも知られることがなかったであろう彼女の恋慕が記されている。


---


 私のことを見張ってるのが仕事だって分かってる。分かってるんだけどさ、彼の存在そのものが、私にとっては救いだったの。

 だって妹が産まれてからの私は、誰にも見てもらえない透明人間だったんだもん。


 彼と初めて直接話した時は、想像してたよりずっと童顔で驚いちゃった。うちにいる影みたいにもっとおじさんだと思ったから。

 無口だけど優しい人。死ぬのを待つだけの退屈な毎日だったけど、彼の存在を感じるだけで私は幸せでいられたの。


 第三王子がなんで私に執着するのかは知らないけど、このままあんな男に嫁ぐなんてまっぴらよ! だってあいつ気持ち悪いじゃない。絶対拗らせてるでしょ。私が甚振られてるのも喜んで見てたに違いないし、いろんな嫌がらせにあいつが絡んでたのだって知ってるんだからね。


 だから「この国から出たい」って彼にお願いしたの。すっかり困らせちゃったけど、駄目押しで私が「じゃあもう死んでやる」って言ったら、何も言わずに頷いてくれたわ。


 ……ごめんね。脅してまで一緒にいたいなんて、ほんと嫌な女だよね、私。

 でもさ、私が今生きてるのは、本当に彼のおかげだから。始まりはたった一個の果物だったけど、それがどれだけ嬉しかったかなんて、誰にも分かりっこないよね。


 一緒に国を出たら、まずは名前を教えてもらわないと! 仕事の名前じゃなくって、本当の名前を――


---

 

 クロウはそこで頁を閉じた。表情に驚きはない。ただ「そうか」とだけ呟いた。


 セドリックは、やりすぎたのだ。マリアベルの英雄を気取るのなら正面から救いの手を差し伸べるべきだった。

 だが気質ゆえに策を弄し、彼女の関心が自分だけに向かうと信じて疑わなかった。そこに愛情があったのかすら疑わしく、兄に対する卑屈な感情とただの醜悪な執着なようなものだった。

 手記を見る限り、マリアベルも愚かな女ではない。すべて見透かされていた結果ともいえよう。

 

 ソラリが滅んだ今、マリアベルに政治的な価値はなかったにせよ、みすみす逃したとなれば王としての資質を問われかねない。

 その責任は影にも及ぶと主張するだろうが――もとよりクロウは、国王から別の命を受けていた。

 

 三人の王子の『王』としての資質を見極めよ、と。


 第一王子アイザックは、噂とテティスの甘言に振り回される愚鈍さを露わにした。

 第三王子セドリックは、才覚こそあるが策に溺れる浅はかさが致命的である。

 そして第二王子ユリウスは、際立った才には欠けるものの、一歩引く冷静さと安定した無難さを備えていた。


 クロウは国王の御前に出て、簡潔に報告した。


「陛下。この国の次代を担うべきは、第二王子ユリウス殿下にございましょう」

「……そうか。猛勇のアイザック、策謀のセドリック。いずれも戦乱には役立ったが、平時に必要なのは安定。ユリウスが無難であるか」


 とはいえ凡夫であることに変わりはない。大過なく治めはすれど、大きな繁栄は望めまい。

 国王も老齢で判断が鈍り始めている。だからこそ影を頼ったのだろうが――。


「城を出たマリアベルは、いかがいたしましょうか」

「ふむ……。帰る国もなく、ただの女ひとり。いずれ野垂れ死ぬであろうが、セドリックがいつまでも執着しては面倒だ。密かに見つけ出し、始末しておけ」


 冷徹な命令に、クロウは無言で頭を垂れた。


「……それにしても、まさか影が脱出の手引きをしたとはな。始末は済ませたのだろうな」

「追手を放っております。直にマリアベル共々葬り去ることでしょう」

「なれば此度は不問とする。だが、しかと胸に刻め。――お前の代わりなど、いくらでもいる」

「肝に銘じます」


 ……などと。僅かな領土を平らげただけですべてを掌握した気でいる、井の中の蛙の戯言にこれ以上付き合う気はない。

 

 クロウは深々と頭を下げ、退出の途についた。石畳の回廊を歩きながらひとつ溜息を吐く。


「始まりは女ひとりと言えど、この有様ではこの国に未来は無さそうだ。……俺の役目もここまでか」


 長らく潜入してきたが、見極めは終わった。本来の主のもとへ戻り、シルフィード進軍を進言すべき時である。

 可愛い部下も母国に連れていくつもりだったが、守るべき者を見つけたならそれでいい。影としての適性には欠けたが、追手代わりに送った紹介状がそろそろ届く頃だろう。

 

「……しかし、俺も老いたものだ。駆け落ちまでは読めなかったな」


 自嘲めいた呟きを残し、クロウは姿を消した。

 影も形も残さずに――最初から存在していなかったかのように。

 

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