第七章:黒船来襲 ~新政府の逆襲~
前章のあらすじ: 伊庭八郎は剣の限界を感じつつも、遊撃隊を率いて奮戦し、榎本と土方の間の調停役としても苦悩する。
明治二年(1869年)四月。蝦夷地に、遅い春が本格的に訪れようとしていた。桜はまだ固い蕾のままだが、大地は緑を取り戻し始め、津軽海峡を渡る風も、どこか温かみを帯びてきた。しかし、その穏やかな季節の訪れとは裏腹に、蝦夷共和国を取り巻く状況は、かつてない緊張感に包まれていた。対岸の青森湊には、新政府軍の大艦隊が集結しつつあるという情報が、連日のように五稜郭にもたらされていたのだ。
東京、兵部省。日本の近代軍政の礎を築こうとしている兵部大輔・大村益次郎は、冷静沈着な表情で、蝦夷地の地図を睨んでいた。彼の周りには、薩摩藩出身の参謀・黒田清隆、長州藩出身の参謀・山田顕義ら、蝦夷討伐軍の首脳たちが顔を揃えていた。
「……報告によれば、榎本らは依然として箱館・五稜郭を拠点とし、抵抗を続けている模様。松前・江差を制圧するなど、その勢力は侮りがたいものがあります」
一人の部下が、最新の情報を報告する。
「ふん、賊軍どもが、いつまでも持ちこたえられると思うな」
山田顕義は、苛立たしげに吐き捨てた。彼は、戊辰戦争の緒戦から各地を転戦し、旧幕府軍の抵抗に煮え湯を飲まされてきた経験から、榎本らへの憎しみは人一倍強かった。
「もはや、躊躇は無用! 速やかに大軍を送り込み、一気に殲滅すべきです!」
「山田君、気持ちは分かるが、焦りは禁物だ」
黒田清隆が、落ち着いた口調で言った。彼は、山田とは対照的に、冷静に状況を分析するタイプだった。
「敵は、開陽丸をはじめとする強力な艦隊を有している。海からの支援がある限り、陸戦で五稜郭を落とすのは容易ではない。まずは、敵の海軍力を無力化することが先決であろう」
「黒田殿の言う通りです」
大村益次郎が、静かに口を開いた。彼の言葉には、有無を言わせぬ重みがあった。
「幸い、我々の手には、かの『甲鉄艦』がある。これを用いれば、開陽丸とて敵ではありますまい」
甲鉄艦「ストーンウォール・ジャクソン」(東艦)。アメリカから購入した、当時最新鋭の装甲艦である。その存在は、新政府にとって、まさに切り札だった。
「甲鉄艦を主力とし、輸送船団を護衛させつつ、一気に箱館湾へ突入。敵艦隊を撃破し、同時に大軍を上陸させる。これが、最も確実な策と考えます」
大村は、淀みなく作戦の骨子を述べた。彼の頭の中には、兵力、兵站、天候、地形など、あらゆる要素を計算し尽くした、冷徹なまでの合理的な計画が出来上がっていた。
「しかし、大村先生」黒田が懸念を示した。「甲鉄艦は強力ですが、速力に劣り、喫水も深い。箱館湾のような狭い湾内での運用には、危険も伴うのでは? 敵には、蟠竜丸のような、小型で機動力のある艦もおります」
「ふむ……。確かに、油断は禁物ですな。だが、火力と装甲において、甲鉄艦に勝るものはない。他の艦艇との連携を密にし、敵の奇襲に備えれば、問題はあるまい」
大村は、自信を崩さなかった。
「問題は、むしろ陸戦の方です。敵将には、かの土方歳三や伊庭八郎といった、歴戦の勇士がいると聞く。特に、土方の指揮する部隊は、規律正しく、侮れん。上陸後の戦闘は、激しいものになることを覚悟せねばなりますまい」
「土方、伊庭……。幕府の亡霊どもめ!」山田は、苦々しげに呟いた。「ご心配なく、大村先生! 我ら長州の兵が、奴らの時代錯誤な剣術など、最新のライフルで粉砕してご覧にいれます!」
「山田君、勇ましいのは結構だが、油断は禁物だぞ」黒田が釘を刺す。「敵も、フランス人の指導を受け、洋式戦術を取り入れている。決して、侮ってかかれる相手ではない」
こうして、新政府軍の蝦夷討伐作戦は、大村益次郎の基本計画に基づき、黒田清隆と山田顕義が現地指揮官として、最終的な詰めが行われていった。
【解説】新政府軍の体制と甲鉄艦
明治新政府は、戊辰戦争を通じて軍備の近代化を急速に進めました。特に、長州藩出身の大村益次郎は、身分にとらわれない国民皆兵と西洋式軍隊の導入を強力に推進しました。薩摩藩の黒田清隆、長州藩の山田顕義らは、戊辰戦争で実戦経験を積んだ有能な指揮官でした。甲鉄艦(後の東艦)は、日本海軍が初めて保有した装甲艦であり、その戦力は当時のアジアでは群を抜いていました。
…一方、五稜郭の蝦夷共和国側でも、迫りくる脅威に対し、対策が急がれていた。連日のように対岸の動向を探る斥候からの報告がもたらされ、新政府軍の大艦隊が間もなく津軽海峡を渡ってくることは、もはや疑いようのない事実となっていた。
「……敵は、あの甲鉄艦を擁している。まともに海戦を挑んでも、勝ち目はないかもしれん」
海軍奉行の荒井郁之助は、苦渋の表情で榎本武揚に報告した。開陽丸をはじめとする共和国艦隊も強力ではあるが、装甲艦「東艦」の存在は、あまりにも大きかった。
「うむ……。津軽海峡の制海権を失えば、我々は完全に孤立する。開陽は、あくまで海峡防衛の最後の切り札として温存すべきだろう」
榎本も、慎重な姿勢を崩さなかった。彼の戦略の根幹は、海軍力、特に開陽丸の存在を背景とした外交交渉にあったからだ。主力艦を失うわけにはいかない。
しかし、この榎本の慎重策に、真っ向から異を唱えたのが、陸軍奉行並の土方歳三だった。
「待て、榎本さん! 敵が来るのをただ待っているだけだというのか! それでは、じり貧になるだけだぞ!」
土方は、評定の席で声を荒らげた。
「敵が海峡を渡ってくる前に、こちらから仕掛けるべきだ! 奴らが油断している今こそ、好機ではないか!」
「仕掛けると言っても、土方君」荒井が反論する。「甲鉄艦相手に、どうやって戦うというのだ?」
「甲鉄艦だけが敵ではないだろう!」土方は地図を指さした。「奴らの本隊は、まだ江戸や品川にいるはずだ。今、青森に集結しているのは、先遣隊と輸送船が中心のはず。ならば、その主力、特にあの甲鉄艦が蝦夷地に到着する前に、叩けばいい!」
「しかし、危険すぎる! 敵の戦力も不明なのだぞ!」
「だからこそ、奇襲だ!」土方の目は、鋭い光を放っていた。「敵が、まさか我々が本州まで攻め込んでくるとは思うまい。その油断を突くのだ!」
土方の提案は、大胆不敵、いや、無謀とも思えるものだった。しかし、彼の持つ独特の迫力と、現状を打開したいという強い意志は、一部の海軍士官たちの心を動かした。特に、血気盛んな艦長たち、回天丸の甲賀源吾や蟠竜丸の松岡磐吉らは、土方の意見に賛同した。
「土方殿の言う通りかもしれん! このまま手をこまねいていては、戦わずして負けるようなものだ!」
「我ら海軍の意地を見せる時ではないか!」
また、フランス顧問団のジュール・ブリュネの意見も後押しした。
「ストーンウォール号(甲鉄艦)を倒すにはアボルダージュ(移乗攻撃)しかないように思います」
榎本は、土方の無謀な作戦に難色を示した。開陽丸の出撃は断じて認められない。しかし、土方の強い押しと、一部海軍士官たちの熱意に押され、ついに折れた。
「……分かった。だが、開陽丸は出さん! それでも行くというなら、回天、蟠竜、そして先日拿捕した高雄(第二回天と改名)の三隻で、自己責任において行うのだな」
榎本は、苦々しい表情で許可を与えた。内心では、この作戦の成功を期待していなかったが、土方のエネルギーを抑えつけることも、もはや困難だと感じていた。
「それで十分だ!」土方は、にやりと笑った。「見ていろ、榎本さん。俺たちが、新政府の度肝を抜いてやる!」
こうして、土方歳三の発案と主導により、後に「宮古湾海戦」と呼ばれることになる奇襲作戦が決定された。陸軍の将である土方が、海軍の作戦を主導するという異例の事態だったが、彼の持つ強いリーダーシップが、それを可能にした。
三月二十日。土方歳三、荒井郁之助、そしてフランス軍事顧問のアンリ・ニコールらが乗り込んだ旗艦「回天丸」(甲賀源吾艦長)を筆頭に、「蟠竜丸」(松岡磐吉艦長)、「高雄丸(第二回天)」(元新選組隊士・古川主馬艦長)の三隻が、密かに出航した。彼らの目的は、新政府軍の主力艦隊、特に甲鉄艦「東艦」が停泊していると予想される宮古湾(現在の岩手県宮古市)を奇襲し、甲鉄艦を奪取、あるいは撃沈することだった。
航海の途中、艦隊は激しい嵐に見舞われた。回天丸と蟠竜丸はどうにか乗り切ったものの、蒸気機関の調子が悪かった高雄丸は、嵐の中で隊列から落伍し、行方不明となってしまう。戦力は、わずか二隻に減少してしまった。
「……高雄丸が遅れているだと?」
回天丸の艦上で、土方は眉をひそめた。
「構わん! 二隻でもやるぞ! 甲賀艦長、予定通り、宮古湾へ向かえ!」
土方の決意は揺るがなかった。
三月二十五日早朝。宮古湾に、回天丸と蟠竜丸が到着した。湾内には、予想通り新政府軍の艦船が停泊していた。甲鉄艦「東艦」、そして春日丸、丁卯丸など数隻の軍艦と輸送船。敵は、完全に油断しきっている様子だった。
「よし、絶好の機会だ!」
甲賀源吾は、興奮を隠せない。彼は、回天丸の艦首にアメリカ国旗(星条旗)を掲げ、新政府軍の艦船に偽装するという奇策を用いた。
「目標、甲鉄艦! アボルダージュ用意!」
アボルダージュとは、敵艦に接舷し、兵士が乗り込んで制圧する、古くからの海戦戦術である。近代海戦では廃れつつあったが、甲鉄艦の厚い装甲を破れない以上、これしか方法はないと判断したのだ。
回天丸は、星条旗を掲げたまま、ゆっくりと甲鉄艦に接近していく。新政府軍の兵士たちは、まさか敵艦だとは思わず、怪訝な顔で見ているだけだった。
「今だ! 旗を降ろせ! 突っ込め!」
甲賀の号令と共に、星条旗が降ろされ、回天丸は一気に速度を上げて甲鉄艦に接舷しようとした。同時に、甲板に待機していた土方歳三や、抜刀した兵士たちが、鬨の声を上げる。
「何だ!? 敵襲!」
ここでようやく、新政府軍は奇襲に気づいた。甲鉄艦の甲板は大混乱に陥る。
しかし、回天丸の動きは、わずかに遅れた。接舷する直前に、甲鉄艦に備え付けられていたガトリング砲(当時の最新式機関砲)が火を噴いたのだ。
「ダダダダダッ!」
凄まじい連射速度で放たれる弾丸が、回天丸の甲板を薙ぎ払う。
「ぐわあっ!」
乗り込もうとしていた兵士たちが、次々と薙ぎ倒されていく。土方も、危うく被弾するところだったが、間一髪で身を伏せた。
「くそっ! あの武器は何だ!」
土方は、初めて見る機関砲の威力に舌を巻いた。
さらに不運が重なる。回天丸の機関が、この極めて重要な場面で故障を起こし、完全に接舷することができなかったのだ。わずかな隙間が、乗り込みを不可能にした。
「艦長! 機関が!」
「ええい! 忌々しい!」
甲賀源吾は、拳を叩きつけた。彼は、自らもライフルを手に取り、甲鉄艦の甲板に向けて応戦しようとしたが、敵の銃弾が彼の右腕を掠めた。
「ぐっ…!」
激痛が走り、ライフルを取り落とす。
「甲賀艦長!」
作戦は、完全に失敗した。アボルダージュは不可能となり、回天丸は敵艦隊の集中砲火を浴びる危険な状況に陥った。
「土方殿! ここは撤退するしかありませぬ!」
荒井郁之助が叫ぶ。
「……ちっ! やむを得んか!」
土方は、悔しさに顔を歪めながらも、撤退を指示した。
回天丸は、機関の不調と損傷を抱えながら、蟠竜丸の援護を受けて、命からがら宮古湾を離脱した。蟠竜丸も、追撃を受けながら奮戦し、どうにか離脱に成功した。
宮古湾海戦は、蝦夷共和国側の大胆な奇襲作戦であったが、結果としては失敗に終わった。甲鉄艦の奪取・撃沈は果たせず、逆に回天丸が損傷し、甲賀艦長も負傷、高雄丸は新政府軍に拿捕されるという損害を出した。
五稜郭に帰還した土方らは、文治・穏健派から厳しい叱責を受けた。
「だから言わんことではない! 無謀な作戦で、貴重な艦と兵を危険に晒しおって!」
だが、榎本武揚はそんな土方に労いの声をかけた。
「いや、勝敗は兵家の常である。土方君が生きて帰ってきてくれただけで良い」
「……申し訳ない」
土方は、珍しく素直に頭を下げた。作戦の失敗は、彼のプライドを深く傷つけた。しかし、この失敗が、彼の闘争心に更なる火を付けたことも事実だった。
(……このままでは終わらせん。次は、陸の上で、奴らに目にもの見せてくれるわ……!)
この宮古湾での失敗は、新政府軍の警戒心を高めさせると同時に、彼らに甲鉄艦への絶対的な自信を与える結果となった。そして、この戦いが、来るべき箱館湾海戦、そして五稜郭攻防戦へと繋がっていく前哨戦となったのである。
四月中旬。青森湊には、続々と新政府軍の兵士と軍艦が集結していた。薩摩、長州、土佐、佐賀など、各藩から動員された兵力は、総勢七千を超える。輸送船の数も数十隻に上り、湊はかつてないほどの活気に満ちていた。そして、その中心には、異様な威容を放つ一隻の軍艦が停泊していた。甲鉄艦「東艦」である。
低い船体、傾斜した装甲、そして船首に突き出た衝角。その姿は、従来の木造軍艦とは全く異なり、見る者に畏怖の念を抱かせた。
「あれが、噂の甲鉄艦か……。化け物だな……」
集まった兵士たちは、口々に噂し合った。
討伐軍の総指揮を執る黒田清隆は、甲鉄艦の甲板に立ち、眼下に広がる大船団を見渡していた。彼の胸には、国家統一という大義と、個人的な感情が複雑に交錯していた。
(榎本……。貴様の才能は惜しい。だが、国を二つに割ることは、断じて許されん。これも、新しい時代のためだ……)
一方、山田顕義は、陸軍部隊の閲兵に忙しかった。彼の目は、兵士たちの装備や士気を厳しくチェックしていた。
(よし、これならば、五稜郭の賊軍どもを一蹴できる……。土方、伊庭、首を洗って待っていろ!)
彼の心は、すでに箱館での勝利に向け、燃え上がっていた。
四月二十日。天候晴朗、波高し。
ついに、新政府軍の大艦隊が、青森湊を出航した。甲鉄艦「東艦」を先頭に、春日丸、陽春丸、丁卯丸などの軍艦が輸送船団を護衛し、一路、津軽海峡を越えて箱館を目指す。その光景は、まさに「黒船来襲」と呼ぶにふさわしい、圧倒的な威容だった。
蝦夷共和国側も、この動きを察知していた。対岸に潜入させていた密偵からの報告や、遊撃隊による沿岸監視によって、新政府軍の出撃は、ほぼリアルタイムで五稜郭に伝えられていた。
「……来たか」
榎本武揚は、報告を受けると、静かに呟いた。彼の顔には、覚悟を決めた者の落ち着きがあった。
「全軍に、臨戦態勢を通達せよ。海軍は直ちに出撃準備。陸軍は、各持ち場にて敵の上陸に備えよ」
五稜郭内は、一気に緊張感が高まった。伝令が走り回り、兵士たちは慌ただしく武器を手に取る。これまでの内部対立や不満は、眼前に迫った脅威の前で、一時的に鳴りを潜めたかのように見えた。
海軍奉行・荒井郁之助は、旗艦「開陽丸」の艦橋に立ち、双眼鏡で水平線を睨んでいた。
「敵艦隊、視認! 多数! ……あれは……間違いない、甲鉄艦だ!」
見張りからの報告に、荒井の顔が引き締まる。
「全艦、戦闘用意! 蟠竜、回天は先行し、敵の先鋒を叩け! 開陽は、その後方から援護する!」
荒井の号令一下、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形など、蝦夷共和国海軍の主力艦が、次々と箱館港から出撃していく。彼らの数も練度も、決して侮れるものではない。特に、オランダで建造された開陽丸は、甲鉄艦を除けば、依然として強力な戦闘力を有していた。
「榎本総裁に伝えよ! 我ら海軍、共和国の存亡を賭け、敵艦隊を函館湾頭にて迎え撃つ、と!」
荒井は、力強く言い放った。海の男たちの意地が、彼を突き動かしていた。
一方、陸上では、土方歳三が各防御陣地の最終確認に奔走していた。彼は、自ら馬を駆り、弁天台場、千代ヶ岱陣地、そして五稜郭本体の守備状況を見て回った。
「大砲の照準は合っているか! 弾薬は十分か! 兵士たちの配置に隙はないか!」
土方の指示は、具体的かつ厳格だった。兵士たちは、彼の鬼気迫る表情に、否応なく緊張感を高められた。
「いいか、貴様ら! ここが死に場所だと思え! 一歩たりとも退くな! 敵を一人でも多く、道連れにするんだ!」
土方の檄が、各陣地に響き渡る。
伊庭八郎率いる遊撃隊は、機動力を活かし、敵の上陸地点を予測し、奇襲をかける準備を進めていた。彼らは、箱館周辺の海岸線に分散し、息を潜めて敵の接近を待っていた。
「勝太郎、敵はどこから上陸してくると思う?」
伊庭は、双眼鏡で沖合の敵艦隊を観察しながら、人見勝太郎に尋ねた。
「……おそらく、兵力の多い主力部隊は、箱館港に近い砂浜を狙ってくるでしょう。しかし、陽動として、別の地点にも上陸してくる可能性があります。我々は、その陽動部隊を叩き、敵の計画を混乱させるべきかと」
人見は冷静に分析した。
「うむ、俺もそう思う。よし、我々は、函館山の麓あたりに網を張ろう。あそこなら、敵の目にもつきにくいし、いざとなれば山中に退くこともできる」
伊庭は、素早く決断した。
「者ども、行くぞ! 俺たちの腕の見せ所だ!」
遊撃隊は、馬を駆り、函館山の麓へと急行した。彼らの顔には、緊張と共に、どこか高揚した表情も浮かんでいた。これから始まるであろう激しい戦いに、彼らは自らの存在意義を賭けようとしていた。
四月二十五日早朝。ついに、箱館湾の沖合に、新政府軍の大艦隊がその全容を現した。黒煙を上げる蒸気船、帆を張った輸送船、そしてその中心に鎮座する、異様な姿の甲鉄艦。その数は、共和国海軍の艦艇を遥かに凌駕していた。
「……来たな」
開陽丸の艦橋で、荒井郁之助が呟いた。
「全艦、突撃! 敵の甲鉄艦に構うな! 狙うは輸送船団だ! 敵の上陸を阻止するぞ!」
荒井の狙いは、防御力に優れた甲鉄艦との直接対決を避け、兵士を乗せた輸送船を沈めることで、敵の陸上戦力を削ぐことにあった。
「回天、蟠竜、続け!」
共和国艦隊の快速艦、回天丸と蟠竜丸が、先陣を切って敵艦隊へと突っ込んでいく。
「撃ち方、始め!」
回天丸の艦長、甲賀源吾の号令で、搭載された大砲が火を噴いた。砲弾は、敵輸送船の近くに着弾し、大きな水柱を上げた。
「敵艦、接近! 迎撃せよ!」
新政府軍の護衛艦艇も、すぐさま応戦を開始した。春日丸や丁卯丸が、回天丸、蟠竜丸に向けて砲撃を加える。
海上に、轟音が響き渡り、硝煙が立ち込める。箱館湾海戦の火蓋が切られた瞬間だった。
回天丸と蟠竜丸は、その速力を活かして敵弾を避けながら、巧みに輸送船団へと迫っていく。しかし、新政府軍の護衛艦も数で勝り、執拗な追撃を加えてくる。
「くそっ、しつこい!」
蟠竜丸の艦長、松岡磐吉は、歯噛みした。彼の操る蟠竜丸は、小型ながら機動力に優れ、敵艦の間を縫うように進んでいく。
その時、満を持して、甲鉄艦「東艦」が動き出した。低い船体から黒煙を上げ、ゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を放ちながら、共和国艦隊へと接近してくる。
「来たか、化け物め……」
開陽丸の荒井は、双眼鏡でその姿を捉えた。
「怯むな! 開陽の力を見せてやれ! 照準、甲鉄艦! 撃て!」
開陽丸の誇るクルップ砲が、甲鉄艦に向けて咆哮した。しかし、放たれた砲弾は、甲鉄艦の厚い装甲に弾き返され、効果がない。
「何だと!? 効かないのか!?」
荒井は愕然とした。
逆に、甲鉄艦の前部砲塔が旋回し、開陽丸に向けて火を噴いた。
「ドォォォン!」
これまでとは比較にならない、重く腹に響く轟音。放たれた巨大な砲弾が、開陽丸の船体側面に命中した。
「ぐわあああっ!」
凄まじい衝撃と共に、木製の船体が大きく軋み、破片が飛び散る。数名の水兵が、爆風で吹き飛ばされた。
「被害状況、報告!」
「船体側面、大破! 浸水あり!」
「だ、駄目です! 浸水が止まりません!」
開陽丸は、わずか一撃で、深刻なダメージを負ってしまったのだ。
「くっ……。これが、甲鉄艦の力か……」
荒井は、唇を噛み締めた。あまりにも一方的な力の差。
「回天、蟠竜! 開陽を援護せよ!」
荒井は、他の艦艇に指示を出す。しかし、回天丸も蟠竜丸も、敵護衛艦との戦闘で手一杯だった。
新政府軍は、この機を逃さなかった。黒田清隆の指揮の下、輸送船団は護衛艦に守られながら、箱館港近くの砂浜へと次々と接近し、上陸用舟艇を下ろし始めた。
「敵、上阪山付近に上陸を開始!」
五稜郭の物見櫓から、報告が入る。
「よし、来たか!」
その報告を待っていたかのように、土方歳三が叫んだ。
「弁天台場、千代ヶ岱、砲撃開始! 敵の上陸部隊を叩け!」
海岸線に配置された共和国軍の砲台が、一斉に火を噴いた。砲弾は、砂浜に殺到する上陸用舟艇や、上陸を果たしたばかりの新政府軍兵士たちの頭上に降り注いだ。
「うわあっ!」
「伏せろ!」
砂浜は、たちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。砲弾の炸裂音、兵士たちの叫び声、そして指揮官の怒声が入り乱れる。
「怯むな! 前へ進め! 敵の砲台を沈黙させろ!」
山田顕義は、自ら先頭に立って兵士たちを鼓舞し、砂浜を駆け上がっていく。彼の率いる長州兵たちは、最新式のスナイドル銃を構え、応戦しながら前進する。
陸と海、双方で激しい戦闘が始まった。蝦夷共和国の命運を賭けた、最後の戦いが、ついに火蓋を切ったのだ。
黒船来襲。それは、共和国にとって、悪夢の始まりを告げる鐘の音だった。圧倒的な物量と火力で迫る新政府軍に対し、榎本、土方、伊庭、そして共和国の兵士たちは、いかにして立ち向かうのか。北の大地は、今、血と硝煙に染まろうとしていた。
(第七章 終わり)
第八章:北斗、落つるか ~決戦前夜~
次をお楽しみに!