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第六章 隻腕の剣士、明日への道

前回のあらすじ: 陸軍奉行並・土方歳三が、多摩での日々、新選組結成、近藤勇との絆、そして北の大地で戦う意味を回顧する。

蝦夷共和国を覆う暗雲は、春の訪れと共に、ますますその濃さを増していた。食料・物資不足は解消されず、新政府軍来襲の脅威は日増しに高まり、そして何よりも、榎本総裁ら穏健派と、土方歳三ら強硬派との内部対立は、もはや共和国の存立そのものを揺るがしかねないほど深刻化していた。この息詰まるような状況の中で、遊撃隊頭取・伊庭八郎は、深い苦悩と、そして新たな決意を胸に秘めていた。


伊庭は、松前・江差での戦いから五稜郭へ帰還した後も、休む間もなく遊撃隊を率いて、箱館周辺の偵察や警戒任務に当たっていた。雪解けが進み、大地が顔を出すと、偵察範囲はさらに広がり、彼らの活動はますます重要になっていた。


「八郎さん、あちらの山陰に、何やら人の動きがあるようですぜ!」

馬上で斥候からの報告を受けた伊庭は、険しい表情でその方向を見据えた。

「よし、近づいてみよう。だが、慎重に行けよ。敵の伏兵かもしれん」


伊庭率いる数十騎の遊撃隊士は、音もなく馬を進め、山陰へと回り込んだ。そこには、数名の男たちが、焚き火を囲んで密談をしている様子だった。服装からして、地元の猟師や木こりではない。どこかよそ者めいた雰囲気があった。


「……者ども、かかれ!」

伊庭の鋭い号令一下、遊撃隊士たちは一斉に駆け出した。


「な、何奴!」

密談していた男たちは、突然の襲撃に驚き、慌てて武器を取ろうとしたが、すでに遅かった。


伊庭は、馬上で巧みに右手一本で刀を抜き放つと、逃げようとした男の一人に斬りかかった。隻腕とは思えぬ速さと正確さ。男は悲鳴を上げる間もなく、どうと馬から落ちた。


他の隊士たちも奮戦し、たちまちのうちに、残りの男たちも捕縛するか、討ち取った。


「こやつら、何者だ?」

伊庭は、捕らえた男の一人を睨みつけた。男は、恐怖に顔を引きつらせながらも、口を固く閉ざしている。


「懐を探ってみろ」

隊士が男の懐を探ると、一通の密書が出てきた。伊庭がそれを受け取り、目を通すと、顔色が変わった。


「……やはり、新政府の密偵か。箱館市内の協力者と接触し、我々の内部情報を探っていたようだ」

密書には、共和国軍の兵力配置や、食料備蓄状況などが、細かく記されていた。


「八郎さん、こいつら、どうします?」人見勝太郎が尋ねる。


伊庭は、しばらく考え込んだ。土方ならば、即刻斬り捨てろと命じるだろう。しかし、伊庭には、それが最善とは思えなかった。

「……五稜郭へ連行しろ。土方殿に引き渡す前に、俺が少し話を聞きたい」


五稜郭へ戻る道すがら、伊庭の心は重かった。新政府の諜報活動が、これほど活発になっているということは、本格的な攻撃が本当に間近に迫っている証拠だ。そして、共和国の内部にも、敵に内通する者がいる可能性が高い。土方のやり方は容認できないが、彼の警戒心は正しかったのかもしれない。


(しかし、恐怖と粛清だけでは、何も解決しない。むしろ、人心を離れさせ、敵を利するだけだ……)


五稜郭に帰還した伊庭は、捕らえた密偵たちを土方に引き渡した。案の定、土方は厳しい尋問の後、彼らを処刑しようとしたが、伊庭はそれに待ったをかけた。


「土方殿、お待ちください! 彼らを殺しても、情報は得られません! 彼らを生かしておき、逆に偽の情報を流させる、という手もあるのでは?」


「偽情報だと? そんな小細工が、いつまで通用するか!」土方は吐き捨てた。


「ですが、試してみる価値はあるかと! それに、彼らから、新政府側のさらなる情報を引き出せるかもしれません!」

伊庭は食い下がった。彼の脳裏には、江差での戦いで、捕虜から情報を得た経験があった。


榎本総裁も伊庭の意見に賛同し、結局、密偵たちは処刑を免れ、厳重な監視下に置かれることになった。しかし、この一件もまた、土方の伊庭に対する不信感を強める結果となった。


「伊庭の小僧め……。甘い理想論ばかり振りかざしおって……。奴も、榎本と同じ穴のむじなか……」


土方の冷たい視線を、伊庭は背中に感じていた。しかし、彼は自分の信念を曲げるつもりはなかった。


(俺は、剣の道を生きてきた。だが、剣だけでは、この戦いは乗り越えられない。もっと、違う力が必要だ……)


伊庭は、自分の剣技に絶対的な自信を持っていた。隻腕になってからも、血の滲むような鍛錬を続け、健常者にも劣らない、むしろそれ以上の技を身につけていた。しかし、松前や江差での戦いを経験し、そして共和国の現状を見るにつけ、剣の限界を感じ始めていた。


敵は、最新鋭の銃や大砲で武装している。個人の剣技がいかに優れていても、圧倒的な火力の前に、なすすべもなく斃れていく仲間たちの姿を、彼は何度も見てきた。


(これからの戦は、剣術だけでは駄目だ。銃の扱い、集団での戦術、そして何よりも、情報を制することが重要になる……)


伊庭は、遊撃隊の訓練に、これまで以上に銃の訓練を取り入れた。ブリュネやカズヌーヴに積極的に教えを請い、フランス式の散兵戦術や、馬術と射撃を組み合わせた訓練も導入した。


「いいか! 剣は、最後の切り札だ! まずは、距離を取って銃で敵を制圧する! そして、馬の機動力を活かして、敵を翻弄するんだ!」

伊庭は、自ら馬上で銃を構え、的を射抜いてみせた。その姿は、従来の剣士のイメージからはかけ離れたものだったが、若い隊士たちは、新しい戦い方を貪欲に吸収していった。


「八郎さんは、何でもできるんだな!」

「ああ、俺たちも、八郎さんについていけば、きっと生き残れる!」

伊庭の柔軟な思考と、常に新しいことを学ぼうとする姿勢は、遊撃隊の士気を高く保つ原動力となっていた。


しかし、伊庭の苦悩は、戦術面だけではなかった。共和国の指導者である榎本と土方の対立は、日に日に深刻さを増し、彼を深く悩ませていた。


榎本の執務室を訪れれば、

「伊庭君、土方君を説得してくれんか。彼の強硬な態度は、無用な敵意を煽るだけだ。今は、耐え忍び、外交で活路を見出すべきなのだ」

と、なだめるような口調で言われる。


一方、土方の部屋へ行けば、

「伊庭、お前からも榎本さんに言ってくれ! あの人の甘さが、皆を殺すことになるんだ! 徹底抗戦以外に、我々が生き残る道はない!」

と、厳しい口調で迫られる。


どちらの言い分にも一理あり、そしてどちらの人物にも、伊庭は敬意を抱いていた。榎本の知性と理想、土方の武勇と決断力。どちらも、共和国にとっては欠かせないもののはずだった。


(なぜ、この二人は手を取り合えないのだろう……。目指すものは、同じはずなのに……)


伊庭は、両者の間を行き来し、何とか和解の糸口を探ろうとした。時には、両者を同じ席に着かせ、話し合いの場を持とうとも試みた。しかし、一度こじれた感情と、根本的な価値観の違いは、容易には埋まらなかった。


「総裁! 土方殿! 今、我々が争っている場合ではありません! 敵はすぐそこまで迫っているのですぞ! どうか、私情を捨て、共和国のために一つになってください!」

伊庭は、声を張り上げて訴えた。


しかし、彼の言葉は、空しく響くだけだった。榎本は冷静に、土方は冷ややかに、伊庭の訴えを聞き流すだけだった。


(駄目だ……。俺の力では、どうにもならないのか……)


無力感が、伊庭の心を苛んだ。自分は、ただの剣士でしかないのか。この国の行く末を左右するような大きな問題の前では、自分の存在など、あまりにもちっぽけなものではないか。


そんな失意の中で、伊庭は、ある人物との出会いによって、新たな視点を得ることになる。それは、箱館の町で診療所を開いている、一人の年老いた医師だった。


伊庭は、偵察任務中に軽い怪我を負った隊士を連れて、その診療所を訪れた。医師は、黙々と隊士の手当てをしながら、ぽつりと言った。

「……戦ですか。また、若い命が失われるのですね……」

その声には、深い悲しみと諦念が滲んでいた。


「先生は、この戦をどう思われますか?」

伊庭は、思わず尋ねていた。


医師は、手を止めずに答えた。

「どちらが勝っても、負けても、我々のようなたみの暮らしが、すぐに良くなるわけではありますまい。ただ、願うのは、一日も早く、この争いが終わってくれることだけですじゃ……。そして、これ以上、傷つく人が増えないことを……」


医師の言葉は、伊庭の胸に突き刺さった。そうだ、自分たちは、一体何のために戦っているのだろうか。榎本総裁の言う「国家」のためか? 土方殿の言う「武士の意地」のためか? それとも、名誉や恩賞のためか?


(違う……。俺たちが守るべきは、この北の大地で、ささやかに生きている、名もない人々ではないのか……?)


箱館の町を歩けば、厳しい冬を耐え、ようやく訪れた春の陽光の下で、懸命に生きる人々の姿があった。漁に出る準備をする漁師たち。畑を耕し始める農民たち。店先で客を呼び込む商人たち。彼らの多くは、共和国にも新政府にも、強い関心を持っているわけではない。ただ、平和な暮らしを願っているだけなのだ。


(俺の剣は、俺の力は、この人たちのために使われるべきではないのか……)


伊庭の中で、何かが変わり始めていた。失われた幕府への忠誠でもなく、蝦夷共和国という新しい組織への帰属意識でもなく、もっと普遍的な、「人を守る」という思い。それが、彼の新しい戦う意味になりつつあった。


その日から、伊庭の行動は、少しずつ変化していった。彼は、偵察任務の合間に、積極的に村々を訪れ、住民たちと交流するようになった。食料を分け与えたり、困っていることがあれば相談に乗ったりした。遊撃隊の隊士たちにも、住民に対して威圧的な態度を取らないよう、厳しく指導した。


「我々は、この地の人々を守るためにいるのだ。決して、彼らを苦しめるようなことがあってはならん。それを、肝に銘じておけ」


伊庭のこうした姿勢は、当初は他の部隊から「甘い」と見られることもあったが、次第に地域住民からの信頼を得ることに繋がっていった。遊撃隊が通ると、子供たちが笑顔で手を振るようになり、村人たちからは、新政府軍の動向に関する情報などが、自然と寄せられるようにもなった。


(これだ……。力だけではない、信頼という力……。これも、戦いを有利に進めるための、大切な要素なのかもしれない……)


伊庭は、自分なりのやり方で、この国を守る道を見つけ始めていた。それは、榎本や土方とは違う、第三の道と言えるかもしれない。


しかし、現実は甘くなかった。雪解けと共に、津軽海峡を渡ってくる新政府軍の艦船の目撃情報が、急増していた。偵察に出ていた遊撃隊の小部隊が、上陸してきた新政府軍の先遣隊と遭遇し、激しい戦闘になることもあった。


ある戦闘で、伊庭は一人の若い隊士を失った。まだ元服したばかりのような、将来を有望視されていた若者だった。敵の銃弾に胸を撃ち抜かれ、伊庭の腕の中で息を引き取った。


「……すまない……。俺が、もっと早く気づいていれば……」

伊庭は、血に濡れた若者の亡骸を抱きしめ、声を詰まらせた。隻腕の剣士の目から、熱い涙が溢れ落ちた。


戦いの現実は、常に死と隣り合わせだ。理想や信念だけでは、仲間を守りきれないこともある。その事実が、伊庭の心を容赦なく打ちのめした。


(それでも……。俺は、前を向かねばならない。死んでいった者のためにも、生き残った者のためにも、そして、この地で生きる人々の明日を守るためにも……)


伊庭八郎は、悲しみを乗り越え、再び立ち上がった。彼の右腕には、刀だけでなく、新しい時代の武器である銃が握られていた。そして、彼の心には、剣の技や戦術だけではない、人を思いやる心と、明日への希望が宿り始めていた。


隻腕の剣士が見出した、新しい道。それは、まだ細く、険しい道かもしれない。しかし、その先には、単なる勝利や敗北を超えた、何か大切なものが待っているような気がした。


迫りくる決戦の時を前に、伊庭八郎は、静かに、しかし確かな決意を固めていた。自分の信じるやり方で、この戦いを最後まで戦い抜こう、と。


(第六章 終わり)

第七章:黒船来襲 ~新政府の逆襲~

次をお楽しみに!

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