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閑話二:土方歳三 ~誠の旗、未だ胸に~

前章のあらすじ:土方は新政府軍の本格的な来襲に備え、諜報活動や要塞構築、兵力増強を独自に進める。

明治二年(1869年)三月。蝦夷地の雪は急速に解け始め、凍てついていた大地からは、微かに土の匂いが立ち上り始めていた。しかし、五稜郭を包む空気は、春の訪れとは裏腹に、依然として冷たく、張り詰めていた。陸軍奉行並・土方歳三の執務室も、その例に漏れない。質素な部屋には、刀掛けに立てかけられた愛刀・和泉守兼定と、壁に貼られた箱館周辺の防御陣地図面だけが、この部屋の主の性格を物語っていた。


土方は、窓の外に広がる、雪解けでぬかるんだ練兵場を、鋭い目で見つめていた。兵士たちが、ブリュネの指導の下、慣れない洋式操練に励んでいる。その姿を見ていると、彼の脳裏には、遠い過去の光景が、まるで昨日のことのように蘇ってくるのだった。


(……多摩の、あの百姓上がりの悪ガキが、まさか北の果てで、一軍を率いることになろうとはな……)


自嘲気味な笑みが、口元に浮かぶ。武州多摩郡石田村。薬屋の末っ子として生まれた自分が、幼い頃から憧れていたのは、ただひたすらに「武士」という存在だった。


喧嘩に明け暮れ、「バラガキ」(手に負えない乱暴者)と呼ばれた少年時代。行商を手伝いながら、各地の剣術道場に顔を出し、腕を磨いた。天然理心流てんねんりしんりゅう近藤周助こんどうしゅうすけの道場、試衛館しえいかんの門を叩き、そこで生涯の盟友となる近藤勇こんどういさみ、そして沖田総司おきたそうじ山南敬助やまなみけいすけ永倉新八ながくらしんぱち原田左之助はらださのすけといった仲間たちと出会った。


あの頃は、ただひたすらに剣の腕を磨き、仲間たちと語り合う日々だった。天下国家のことなど、まだ遠い世界の出来事のように感じていた。しかし、時代は急速に動いていた。黒船来航、尊王攘夷の嵐。自分たちのような、名もない田舎剣士にも、時代の大きなうねりが否応なく押し寄せてきた。


文久三年(1863年)、将軍・徳川家茂とくがわいえもちの上洛警護のために結成された浪士組ろうしぐみへの参加。それが、土方歳三と試衛館の仲間たちにとって、運命の転機となった。


(あの時の、京への道中の高揚感は、忘れられねえ……。これで、俺たちも本物の武士になれるんだと……)


しかし、現実は甘くなかった。浪士組はすぐに内部分裂を起こし、近藤、土方ら試衛館派は、芹沢鴨せりざわかもらと共に京に残留し、京都守護職・松平容保まつだいらかたもりの配下として、「壬生浪士組みぶろうしぐみ」を結成する。後の新選組である。


そこからの日々は、まさに血風の中にあった。不逞浪士ふていろうしの取り締まり、暗殺、そして内部での粛清。土方は、組織をまとめ、規律を維持するために、冷徹な「鬼」とならねばならなかった。


局中法度きょくちゅうはっと」。士道に背くこと、局を脱すること、勝手に金策を行うこと、訴訟を取り扱うこと、私闘を行うこと。これらに違反した者は、理由の如何を問わず、切腹。その厳しい掟は、土方自身が考案し、徹底させたものだった。


山南敬助の脱走と切腹。芹沢鴨一派の暗殺。伊東甲子太郎いとうかしたろう御陵衛士ごりょうえじとの分裂と、油小路あぶらのこうじでの殲滅。多くの仲間が、あるいは敵が、彼の目の前で死んでいった。


(俺は、多くの血を流しすぎたのかもしれん……。だが、そうしなければ、新選組は生き残れなかった。あの狂瀾きょうらんの京で、俺たちは、誠の旗の下に、武士として生き、武士として死ぬことを誓ったのだ……)


新選組の名を天下に轟かせた、池田屋事件。数に劣る新選組が、尊攘派志士たちの集会を襲撃し、多数を討ち取った、あの夜の激闘。近藤勇の「御用改めである!」の声、沖田総司の目覚ましい剣技、そして自分自身も、刀を振るい、敵を斬り伏せた。あの勝利が、新選組を、そして土方歳三を、時代の表舞台へと押し上げた。


しかし、栄光は長くは続かなかった。大政奉還、そして鳥羽伏見の戦い。最新鋭の銃砲を装備した薩長軍の前に、刀と槍を中心とした旧幕府軍は、なすすべもなく敗れ去った。


あの敗走の屈辱。淀千両松よどせんりょうまつでの奮戦も空しく、多くの仲間たちがたおれていく。大阪城へ退却するも、将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶはすでに江戸へ逃げ帰った後だった。


(慶喜公……。あんたに見捨てられたあの時、俺たちの幕府は、終わったのかもしれんな……)


それでも、土方は戦うことをやめなかった。江戸に戻り、勝海舟らと対立しながらも、新選組を再編成し、「甲陽鎮撫隊こうようちんぶたい」として甲州へ出陣するも、再び敗北。


そして、流山での、近藤勇との最後の別れ。


「トシ……。後は、頼んだぞ……」


新政府軍に包囲された陣屋で、近藤は静かに言った。投降すれば、助命されるかもしれないという淡い期待。しかし、土方は分かっていた。新選組局長・近藤勇に、敵が慈悲をかけるはずがない、と。


(近藤さん……。あんたを置いて、俺だけが生き延びてしまった……。あの時、一緒に死ぬべきだったのかもしれん……)


その後悔は、今でも土方の胸を締め付ける。近藤勇は、板橋の刑場で斬首された。その知らせを聞いた時、土方は声を上げて泣いた。


だが、悲しみに暮れている暇はなかった。土方は、残った隊士たちを率い、北へ、さらに北へと転戦を続けた。宇都宮城の戦いでは、足を負傷しながらも指揮を執り、一時的に城を奪還する活躍を見せた。


そして、会津。京都守護職として新選組を庇護してくれた松平容保の籠る、鶴ヶ城。ここで、最後の抵抗を試みた。しかし、圧倒的な物量の前に、会津藩も、そして土方らも、力尽きていく。斎藤一さいとうはじめら、一部の隊士は会津に残り、城と運命を共にすることを選んだ。


(斎藤……。お前は、最後まで会津藩への義理を貫いたな……。それが、お前の武士道だったのだろう……)


土方は、榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流し、仙台へ、そして蝦夷地へと渡った。もはや、彼を突き動かしていたのは、幕府への忠誠心だけではなかった。死んでいった者たちへの思い。そして、最後まで自分についてきてくれた者たちを、無駄死にさせるわけにはいかないという、意地。


(ここで終わるわけにはいかない。俺たちが生きた証を、武士としての誇りを、この北の果てに、刻みつけてやる……)


蝦夷共和国の樹立。選挙で榎本が総裁に選ばれた時、土方は正直、面白くなかった。洋学かぶれのインテリが、国のトップだと? 戦を知らぬ者に、何ができる?


しかし、彼は陸軍奉行並という役職を受け入れた。それは、自分の力が、この新しい「国」を守るために必要とされていることを、彼自身が一番よく分かっていたからだ。


共和国の運営が始まると、やはり榎本との意見の対立は避けられなかった。外交だ、国際法だ、開拓だ……。榎本の語る理想は、土方には空虚な言葉遊びにしか聞こえなかった。


(そんなもので、腹が膨れるか? 敵が退くか? 必要なのは、食い物と、武器と、そして兵の覚悟だ。それ以外に、何があるというんだ)


松前・江差での勝利は、土方の考えが正しかったことを証明したかに見えた。しかし、その後の物資不足と内部対立は、彼の苛立ちを増幅させた。


(やはり、榎本さんでは駄目だ。あの人は、甘すぎる。俺がやらねば……。この国を守るためなら、どんな汚い手を使っても……)


密偵の派遣、要塞の構築、兵の調練、そして、裏切り者の粛清。土方は、鬼になることを決めた。かつて、京でそうしたように。多くの者から恐れられ、憎まれることになろうとも、それが自分の役割だと信じて。


しかし、彼の心の奥底には、常に迷いがあったのかもしれない。本当に、これで良いのだろうか、と。


(伊庭の小僧……。あいつは、俺とは違う目で、物事を見ているようだな……)


遊撃隊の伊庭八郎。あの隻腕の若者は、不思議な魅力を持っていた。剣の腕も立つが、それ以上に、人を惹きつける明るさと、柔軟な思考力がある。榎本とも、自分とも、上手くコミュニケーションを取ろうとする。


先日の裏切り者の処遇に際して、一瞬二人は対峙した。新選組の猛者にも劣らない胆力と自分の意見を通す勇気を感じた。


(あいつのような男が、これからの時代を作るのかもしれん……。俺のような、古い時代の人間は、ただ斬り結ぶことしか知らん……)


時折、そんな弱気な考えが頭をよぎる。だが、すぐにそれを打ち消す。


(いや、まだだ。まだ、俺の戦いは終わっていない。この刀が、この腕が動く限り、俺は戦い続ける。それが、近藤さんや、死んでいった仲間たちへの、俺なりの弔いだ)


彼は、刀掛けの和泉守兼定を手に取った。ずっしりとした重みが、彼の覚悟を改めて確認させる。この刀と共に、いくつの修羅場を潜り抜けてきたことか。


(こいつが、俺の魂だ。俺が、武士・土方歳三である証だ)


窓の外では、雪解け水が、勢いよく流れ始めていた。それは、津軽海峡の氷が解け、新政府の大艦隊が、間もなくこの函館湾に姿を現すであろうことを告げていた。


(来るなら来い……。薩長の犬どもめ……)


土方の瞳に、再び闘志の炎が燃え上がった。それは、破滅へと向かう者の狂気か、あるいは、最後まで己の信念を貫こうとする武士の意地か。


彼は、部屋を出て、再び練兵場へと向かった。兵士たちに檄を飛ばし、自らも剣を抜き、型を示す。その姿は、厳しく、孤高で、そしてどこか悲壮感を漂わせていた。


(誠の旗……。あの旗を、もう一度、この北の空に……)


多摩のバラガキが夢見た、武士としての生き様。その終着点が、この蝦夷地になるのかもしれない。土方歳三は、己の運命を受け入れ、最後の戦いへと、その身を投じようとしていた。彼の胸には、色褪せることのない「誠」の一字が、未だ確かに刻まれていた。


(閑話二 終わり)

第六章:隻腕の剣士、明日への道

次をお楽しみに!

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