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第五章 鬼副長、北の大地に吼える

前章のあらすじ: 軍事的勝利の一方で、共和国運営の方針を巡り、榎本ら文治派と土方ら武断派の対立が表面化する。

五稜郭内部に漂う不穏な空気と、日に日に深刻化する物資不足。蝦夷共和国を取り巻く状況は、春の訪れを前にして、ますます厳しさを増していた。外交交渉による和平の道を模索する榎本武揚ら穏健派に対し、陸軍奉行並・土方歳三の苛立ちは募る一方だった。彼の目には、榎本たちの動きは、新政府に媚びを売る弱腰な態度にしか映らなかった。


(待っていても、何も始まらん。敵が攻めてくる前に、こちらから仕掛けるか、あるいは、鉄壁の守りを固めるか……。いずれにせよ、行動を起こさねば、このまま朽ち果てるだけだ)


土方は、もはや榎本や評定の決定を待つことをやめた。陸軍奉行並としての権限と、彼自身のカリスマ性を最大限に利用し、来るべき決戦に向けた独自の準備を、半ば独断で推し進め始めたのである。その動きは、かつて京で新選組を最強の武装集団へと育て上げた、「鬼の副長」としての本領発揮とも言えた。


まず土方が着手したのは、情報収集能力の強化だった。

「相馬、島田! 信頼できる者を数名選んで、対岸に潜入させろ!」

土方は、腹心の相馬主計と島田魁に密命を下した。


「対岸……津軽へ、でございますか?」相馬が驚いて聞き返す。


「そうだ。新政府軍の動向を、もっと正確に掴む必要がある。奴らがいつ、どれくらいの規模で攻めてくるのか。どんな武器を持っているのか。それを知らずして、戦の計画など立てられん」


「しかし、危険すぎます! 捕まれば……」

「百も承知だ! だからこそ、腕が立ち、口が堅く、そして何より、この共和国に命を捧げる覚悟のある者を選べと言っているのだ!」

土方の眼光は鋭く、有無を言わせぬ迫力があった。


選ばれたのは、元新選組隊士の中でも特に隠密行動に長けた者たちだった。彼らは漁師や商人に身をやつし、小さな漁船で凍てつく津軽海峡を渡り、青森や函館近郊に潜入した。彼らが命がけで持ち帰る断片的な情報は、土方にとって貴重な判断材料となった。


「……ふむ。やはり、薩長の連中は、着々と準備を進めているようだな。軍艦も、続々と品川に集結しているとか。甲鉄艦こうてつかんとかいう、とんでもない化け物も手に入れたらしい」

土方は、もたらされた情報の一つ一つを吟味しながら、舌打ちした。甲鉄艦「ストーンウォール・ジャクソン」(後の「東艦あずまかん」)は、アメリカから購入した最新鋭の装甲艦であり、その存在は旧幕府海軍の艦艇にとって最大の脅威となりうる。


「対する我々の海軍は、どうだ? 荒井(郁之助)殿は、何か手を打っているのか?」

「海軍奉行も、開陽丸をはじめ、各艦の整備と乗員の訓練に余念がない様子ですが、いかんせん、甲鉄艦に対抗できるかは……。榎本総裁は、国際法を持ち出して、甲鉄艦の引き渡しを新政府に要求しているようですが……」

相馬の報告に、土方は鼻で笑った。


「国際法だと? そんなものが、戦場で何の役に立つ! 奴らが力で来るなら、こちらも力で迎え撃つしかねえだろうが!」


土方は、海軍の力だけに頼ることの危険性を感じていた。頼るべきは、やはり陸軍の力、そして地の利を活かした防御である。彼は、ブリュネ大尉の助言も得ながら、箱館周辺の防御陣地の構築を急ピッチで進めた。


「ブリュネ殿、あんたの国のやり方で、一番効果的な砦の作り方を教えてくれ。特に、敵の上陸を阻止するための海岸堡塁ほるいだ」

土方は、フランス語は話せなかったが、身振り手振りと、通訳を介して、ブリュネに積極的に教えを請うた。


「ウィ、ムッシュ土方。海岸線には、敵艦の砲撃に耐えうる土塁と、歩兵が身を隠せる塹壕ざんごうを組み合わせるのが有効です。そして、大砲は、敵の上陸地点を正確に狙える位置に、分散して配置するのです」

ブリュネは、詳細な図面を描きながら、熱心に説明した。彼は、土方の実践的な思考と、迅速な決断力を高く評価していた。


土方は、ブリュネの設計に基づき、箱館湾を見渡せる要衝、弁天台場べんてんだいばや、五稜郭へ至る街道筋に、新たな砲台や塹壕を次々と構築させていった。作業は、凍てつく寒さと物資不足の中で、困難を極めた。兵士たちは、ツルハシで凍った土を掘り起こし、重い土嚢どのうを運び、凍傷に苦しみながらも、土方の厳しい監督の下、黙々と作業を続けた。


「もっと急げ! 敵は待ってくれんぞ! ここが完成するかどうかが、我々の生死を分けると思え!」

土方は、自ら現場に立ち、檄を飛ばし続けた。時には、手伝わない兵士に鞭を振るうこともあった。


その一方で、土方は兵力の増強にも力を入れていた。箱館や近郊の村々から、共和国に志願する若者を募ったのだ。旧幕府への恩義を感じる者、新政府の支配を嫌う者、あるいは単に食い扶持を求めて……動機は様々だったが、土方の持つ一種のカリスマ性に惹かれて集まってくる者も少なくなかった。


「ようこそ、諸君! この蝦夷共和国は、身分や家柄に関係なく、実力のある者が報われる国だ! 己の腕一本で、新しい時代を切り拓きたい者は、俺についてこい!」

土方の演説は、飾り気はなかったが、力強く、若者たちの心を掴んだ。


集まった新兵たちは、土方の直轄部隊として、厳しい訓練を課せられた。新選組仕込みの剣術、銃の扱い、そして何よりも、絶対的な規律。土方は、彼らを短期間で精鋭部隊に鍛え上げようとしていた。


「いいか! 戦場では、上官の命令は絶対だ! 死ねと言われれば死ね! それができん奴は、今すぐここを去れ!」

土方の訓練は、文字通り命がけだった。脱落者も少なくなかったが、それに耐え抜いた者たちは、土方への強い忠誠心と、精強な戦闘能力を身につけていった。


しかし、土方のこうした独断専行ともいえる動きは、当然ながら、榎本ら穏健派との軋轢あつれきをさらに深めることになった。


「土方君! 君は一体何を考えているのだ! 私に何の相談もなく、勝手に砦を築き、兵を募るなど! それでは、共和国の統制が取れなくなるではないか!」

榎本は、土方の部屋に乗り込み、激しい口調で詰問した。


「統制だと?」土方は冷ややかに言い返した。「あんたたちが、新政府に媚びへつらって、何も決められずにいる間に、敵は着々と準備を進めているんだ! 指をくわえて待っているだけが、統制だというのか!」


「私は、無用な犠牲を避け、和平の道を探っているのだ! 君のように、やみくもに戦争の準備を進めることこそ、敵を刺激し、破滅を招く!」

「和平だと? 敵が喉元に刃を突き付けてきても、あんたはまだそんな寝言を言うのか! 目を覚ませ、榎本さん! ここは戦場なんだ!」


二人の対立は、もはや修復不可能な段階にまで達していた。評定の場でも、両者は互いに非難し合い、議論は常に紛糾した。他の幹部たちも、どちらにつくべきか、あるいは中立を保つべきかで悩み、共和国の意思決定は完全に麻痺状態に陥りつつあった。


そんな中、土方はさらに過激な行動に出る。共和国の内部に潜む「不穏分子」の粛清である。


きっかけは、対岸に潜入させていた密偵からの報告だった。共和国の兵士の中に、新政府側に内通し、情報を流している者がいる、というのだ。


「……やはり、いたか。裏切り者が」

土方歳三は、引き据えられた若い兵士を、冷徹な目で見下ろした。兵士は恐怖に震え、顔面は蒼白になっている。傍らに立つ島田魁が、厳しい尋問の結果を報告する。故郷に残した家族の安否を新政府側にちらつかされ、やむなく内通していたこと、流した情報はまだ部分的であることなどを。


「……言い訳は聞かん」土方は、感情を押し殺した低い声で言った。「裏切りは裏切りだ。いかなる理由があろうとも、許されることではない。この共和国を、我々を裏切った罪は、万死に値する」


土方は、ゆっくりと腰の刀に手をかけた。その場の空気が、一瞬で凍りつく。兵士は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、失禁しそうになるのを必死でこらえた。相馬主計も島田魁も、固唾を飲んで主君の次の行動を見守っている。彼らは知っていた。土方歳三という男が、裏切りに対してどれほど厳しいかを。


「……引き立てろ。練兵場の隅で、首をねる。他の者への見せしめだ」

土方は、冷酷に言い放った。


「お待ちください!」


その時、部屋の入り口から、鋭く、しかし凛とした声が響いた。声の主は、報告を受けて駆けつけた伊庭八郎だった。彼は、土方の前に進み出て、真っ直ぐにその目を見据えた。


「伊庭か……。何の用だ。邪魔をするな」

土方は、不機嫌そうに眉をひそめた。


「邪魔をするつもりはありません。ただ、お聞きしたい。本当に、この者を殺すのですか?」伊庭の声は、静かだったが、強い意志が込められていた。


「当然だ。軍規を乱し、敵に内通したのだぞ。生かしておく理由などない」


「ですが、彼にも事情があったはずです!」伊庭は語気を強めた。「故郷の家族を人質に取られたようなものだと聞きました。それに、まだ若い。一度の過ちで、命まで奪う必要がありましょうか!」


「甘いな、伊庭」土方は、冷笑を浮かべた。「戦場では、そんな甘さが命取りになる。一度許せば、示しがつかん。軍隊の規律は、何よりも優先されねばならんのだ」


「規律のためなら、人の道を踏み外しても良いと!? 見せしめのために人を殺す……それは、武士のすることではありませぬ! それは、やっちゃならねえことだ!」

伊庭の言葉は、もはや懇願ではなく、明確な非難の色を帯びていた。


「……何だと?」

土方の顔から、表情が消えた。空気が、ぴんと張り詰める。部屋にいる誰もが、息を呑んだ。


「どけ、伊庭」土方の声は、地を這うように低くなった。「これは、俺の裁量だ。お前が口を出すことではない」


「いいえ、口を出します!」伊庭は、一歩も引かなかった。彼の右手は、自然と腰の刀の柄にかかっていた。「土方殿、あなたのやり方は間違っている! 恐怖で人を縛っても、真の忠誠は得られません! それどころか、人心を離れさせ、敵を利するだけだ!」


「……黙れ」

土方の右手が、ゆっくりと刀の柄に伸びる。


「!」

伊庭も、反射的に身構えた。


あわや、斬り合いか――。


部屋の中の緊張は、最高潮に達した。相馬主計が慌てて二人の間に割って入ろうとする。

「お、お二人とも、お止めください!」


しかし、土方と伊庭は、互いを睨みつけたまま、動かない。土方の目には、怒りと、裏切られたような感情、そしてわずかな殺意が揺らめいていた。伊庭の目には、強い意志と、目の前の男への悲しみ、そして決して譲らないという覚悟が宿っていた。


まるで時間が止まったかのような、長い長い沈黙。聞こえるのは、風の音と、遠くで響く訓練の掛け声だけだ。


やがて、ふっと、土方が息を吐いた。それは、諦めとも、あるいは自嘲とも取れるような、奇妙な溜息だった。彼は、ゆっくりと刀の柄から手を離した。


「……ちっ。興醒きょうざめめだ」

土方は、苦々しげに吐き捨てた。


そして、伊庭に鋭い視線を向けたまま、言った。

「……分かった。殺しはせん」


伊庭の肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。周囲の者たちも、安堵の息を漏らした。


だが、土方の言葉は続いた。

「だが、牢にぶち込んでおけ! 二度と日の目を見ることのないよう、厳重にな!」

その声は、やはり冷たく、厳しかった。


「……ありがとうございます」

伊庭は、静かに頭を下げた。


土方は、もはや伊庭を見ようともせず、背を向けた。

「行くぞ、相馬、島田」

そして、部屋から出て行った。その背中は、どこか以前よりも硬直しているように見えた。


残された伊庭は、その場に立ち尽くしていた。処刑は止められた。しかし、土方との間にできた溝は、もはや修復不可能なくらいに深いものになってしまったことを、彼は痛感していた。そして、この出来事は、五稜郭の兵士たちの間にも、静かに、しかし確実に、波紋を広げていくことになるだろう。恐怖だけではない、指導者たちの対立という、新たな不安の種を蒔きながら。

五稜郭に漂う陰影は、春の気配と共に、決戦の予感をはらんで、ますますその濃さを増していくのだった。


(第五章 終わり)

閑話二:土方歳三 ~誠の旗、未だ胸に~

次をお楽しみに!

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