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第四章 五稜郭の陰影

前回のあらすじ: 共和国総裁・榎本武揚が、オランダ留学時代や海軍副総裁時代の記憶、そして共和国への理想を回顧する。

松前・江差での勝利は、蝦夷共和国に束の間の高揚感をもたらした。五稜郭内では祝勝の宴が開かれ、兵士たちは厳しい冬の中で久しぶりに杯を酌み交わし、英気を養った。しかし、その華やかな雰囲気の裏側で、共和国が抱える問題は、より深刻な影を落とし始めていた。勝利の美酒は、根本的な問題を解決する特効薬にはならなかったのだ。


明治二年(1869年)二月。暦の上では春が近づいていたが、蝦夷地の寒さは依然として厳しく、人々の暮らしを圧迫していた。五稜郭や箱館市中では、食料と燃料の不足が、もはや隠しきれないレベルに達していた。


「総裁、備蓄米が、このままでは三月までもたない可能性があります!」

補給を担当する役人が、青ざめた顔で榎本武揚に報告した。


「何だと……。松前から接収した分もあるはずだろう?」

榎本の声に、焦りの色が浮かぶ。


「はい、しかし、予想以上に兵士とその家族の数が多く、また、冬の寒さで消費量が増大しておりまして……。周辺の村々からの徴発も、もはや限界に近づいております」


「くっ……。商人たちから買い上げることはできんのか?」

「商人たちも、出し渋っております。共和国の通貨である『蝦夷通宝』の信用が、まだ確立されておりません故……。それに、有力な豪商達との関係も能登屋以外、あまり上手くいっているとは言えません」


榎本は、額に手を当てて呻いた。財政難は、建国当初からの懸案事項だった。開陽丸をはじめとする軍艦の維持費、兵士への俸給、そして日々の食料。全てが金で動く。江戸から持ち出した資金は、急速に底をつき始めていた。蝦夷地の開拓による財源確保は、冬の間はほとんど進まず、春を待つしかない状況だった。


「……やむを得ん。兵士への俸給を一時的に減額する。食料の配給も、さらに厳しく制限せよ。そして、町民に対しても、さらなる供出を……」

苦渋の決断だった。兵士や町民の不満が高まることは必至だ。しかし、他に手がない。


「ですが、総裁、それでは士気に関わります!」

役人が懸念を示す。


「分かっている! だが、今は耐えるしかないのだ! 春になれば、必ずや状況は好転する! そう信じて、皆でこの苦境を乗り越えるのだ!」

榎本は、自らを鼓舞するように言った。しかし、その言葉が空虚に響くのを、彼自身も感じていた。


【解説】蝦夷共和国の財源、豪商との交易

蝦夷共和国は、本土より持ち出した金貨18万両(約2.16億ドル相当)を基本財源としました。松前城占領時の戦利品の具体的な金額は不明ですが、松前藩自時代の石高(米ではなく海産物収入など)は年間2万石程度。蝦夷地の主要豪商としては、高田屋嘉兵衛、銭屋五兵衛、小納宗吉、能登屋(密田家)などがいましたが、時代と共に事業縮小していたり松前藩復帰を期待して新政府に接近するなど、影響力は衰退していました。この物語では制海権を失っていない為、能登屋との繋がりは「有り」としています。


食料不足は、兵士たちの間に不満と焦りを生み、規律の緩みにも繋がった。些細なことで喧嘩が起きたり、町に出て食料を強奪しようとする者まで現れ始めた。


「何をしているか! 貴様ら!」

陸軍奉行並の土方歳三の怒声が、練兵場に響き渡った。数名の兵士が、食料の配給を巡って掴み合いの喧嘩をしていたのだ。


「申し訳ありません、土方副長! こいつが、俺の分の芋を……」

「黙れ! 理由は聞かん! 軍規違反は軍規違反だ! 営倉へ入れておけ!」

土方は、容赦なく兵士たちを罰した。彼の厳しい態度は、規律維持には効果があったが、同時に兵士たちの間に、彼への恐怖心と反感を募らせる結果にもなった。


「土方さんは、俺たちの気持ちなんかわかっちゃくれねえ……」

そんな囁きが、兵士たちの間で交わされるようになった。


土方自身も、状況の深刻さは理解していた。彼の部屋にも、食料不足を訴える部下からの報告が、ひっきりなしに届いていた。

「……ちっ。腹が減っては戦はできん、か。榎本さんは、一体どうするつもりなんだ」

土方は、机を拳で叩きたい衝動を、ぐっとこらえた。彼の現実主義的な思考では、外交や開拓といった悠長な話よりも、まず目の前の兵士たちを食わせること、そして来るべき戦いに備えて武器弾薬を確保することが最優先だった。


「相馬、大鳥殿は何と言っている? 武器の調達は進んでいるのか?」

「はっ。大鳥奉行も、懸命に手を尽くしておられますが、やはり資金難と資材不足で……。ブリュネ殿の助言で、五稜郭内に小規模な兵器廠を設け、弾薬の製造などを試みてはおりますが、焼け石に水かと……」


「そうか……」

土方の表情が、さらに険しくなる。武器弾薬がなければ、いくら兵士の練度を上げても意味がない。松前城攻めで、近代兵器の威力を目の当たりにしたばかりだ。新政府軍が、あれ以上の火力で攻めてきたら、どうなるか……。


そんな閉塞感が漂う五稜郭で、ある重要な議題を巡って、共和国首脳部の意見が真っ二つに割れることになる。それは、新政府への対応方針だった。


きっかけは、一通の書状だった。対岸の青森にいる新政府側の役人から、非公式ながら「降伏勧告」とも取れる内容の書状が、榎本のもとに届けられたのだ。

「……徳川宗家の安堵もなった今、いたずらに抵抗を続けることは、天意に背くものである。速やかに武器を捨て、恭順の意を示せば、寛大な処置も考慮しよう……」

という、型通りの文面だった。


「ふん、何を今更……」

榎本は、その書状を一瞥いちべつしただけで、脇に置こうとした。


しかし、副総裁の松平太郎は、違う考えを持っていた。

「総裁、お待ちください。この書状、無視すべきではないかもしれません。あるいは、これを機に、新政府と交渉のテーブルにつくという道もあるのでは?」


「交渉だと? 松平殿、何を仰る!」

真っ先に反論したのは、やはり土方だった。

「奴らは、我々を賊軍と決めつけ、殲滅せんめつしようとしている! そんな連中と、何を話すことがあるというのだ! 交渉など、時間の無駄だ! 奴らの言う『寛大な処置』など、信用できるものか!」


「しかし、土方君」冷静な口調で応じたのは、元若年寄の永井尚志だった。「このまま戦い続ければ、我々の消耗は激しくなる一方だ。食料も、武器も、いつまで持つか分からん。もし、ここで有利な条件で和睦を結ぶことができるなら、それも一つの選択肢ではないだろうか? 我々の目的は、旧幕臣たちの安住の地を確保すること。それは、必ずしも独立国家という形でなくとも、達成できるかもしれん」


永井の意見は、共和国首脳部の中に、少なからぬ動揺を与えた。特に、高齢の者や、戦いに疲れた者たちの中には、永井の現実的な提案に、密かに賛同する者もいた。


「永井様のお言葉、ごもっともにございます」陸軍奉行の大鳥圭介も、慎重に口を開いた。「我々の軍備では、新政府の本格的な討伐軍に、長期的に対抗するのは困難かと存じます。外交交渉によって、少しでも有利な条件を引き出し、蝦夷地における我々の自治権を認めさせる、という道を探るべきかもしれません」


大鳥は、土方と同じ陸軍の責任者でありながら、元々は学者肌の技術官僚であり、榎本に近い考えを持っていた。


「何を弱気な!」土方は、大鳥の意見にも噛み付いた。「我々は、松前・江差で勝利したばかりではないか! 敵に弱みを見せるような真似は、断じてならん! 今こそ、さらに攻勢に出て、我々の力を示すべきだ! そうでなければ、奴らはますます我々を侮るだろう!」


「攻勢に出ると申されても、土方殿」榎本が静かに口を挟んだ。「現状の兵力と補給で、どこを攻めるというのです? それこそ、無謀な消耗戦になりかねませんぞ」


「ならば、どうしろと!? このまま、五稜郭に籠って、飢え死にするのを待てとでも言うのか!」

土方の声が荒くなる。


ここに、共和国の根本的な路線対立が、明確な形で噴出した。


榎本・永井・大鳥ら(文治・穏健派):

外交交渉による早期和平、あるいは有利な条件での和睦を目指す。

和平・和睦ががならなくとも交渉引き延ばしで戦闘行為を回避・遅延させる。

蝦夷地における自治権の確保を現実的な目標とする。

国際社会からの承認を得るため、近代的な国家運営を重視する。

軍事力による徹底抗戦は、最終手段、あるいは交渉のためのカードと考える。


土方・相馬ら(武断・強硬派):

新政府への不信感が強く、交渉には否定的。

武力による徹底抗戦と、共和国の完全独立を主張する。

外交や内政よりも、軍備の強化と規律維持を最優先する。

降伏や妥協は、武士の恥と考える。


評定の間は、両派の激しい議論で、かつてないほどの緊張感に包まれた。


「榎本総裁! あなたは、江戸を出る時、我々に何と約束したか! 新天地を切り拓き、我らの国を創ると言ったはずだ! それを、今になって日和ひよるおつもりか!」

土方は、榎本を真正面から睨みつけた。


「日和っているわけではない!」榎本も声を強めた。「私は、総裁として、二千余名の命を預かっているのだ! 無益な戦いで彼らを死なせるわけにはいかない! 外交も、戦いの一部だ! 冷静に、最善の道を探るべきだと言っているのだ!」


「最善の道だと? 敵に尻尾を振ることが、最善の道だというのか! それでは、死んでいった者たちに顔向けができん!」


「言ってしまえば、我々は新政府軍に勝つ必要はない。国際海峡である津軽海峡の制海権、これさえ維持する事ができれば必ず諸外国からの調停、及び共和国の承認が得られるはず」


「悠長に構えて皆飢え死にせんと良いがな!道を切り開くには決死の覚悟が必要だ」


両者の主張は、どこまでも平行線を辿った。


その様子を、複雑な表情で見つめていたのが、伊庭八郎だった。彼は、どちらの言い分も理解できた。榎本の言う、犠牲を最小限に抑えたいという気持ちも、土方の言う、武士としての意地を貫きたいという気持ちも、痛いほど分かる。


(このままでは、共和国は内側から崩壊してしまう……)


伊庭は、何とか両者の間を取り持とうとした。

「総裁、土方殿、どうかお静まりください! 今、我々が仲間割れをしていては、新政府の思う壺ですぞ! まずは、新政府の真意を探るために、使者を送ってみてはいかがでしょう? それで、交渉の余地があるかどうかを見極めてから、今後の策を練っても遅くはないかと」


伊庭の提案は、一見、穏当なものに思えた。しかし、それは根本的な解決にはならなかった。


「ふん、使者を送るだと? 敵に舐められるだけだ」と土方は吐き捨てた。

榎本も、「確かに、それも一手かもしれんが、下手に期待を持たせるような動きは、かえって足元を見られることになりかねん」と、慎重な姿勢を崩さなかった。


結局、この日の評定では、明確な結論は出なかった。新政府への対応方針は、先送りにされた。しかし、一度表面化した対立の溝は、容易には埋まらなかった。五稜郭の中には、疑心暗鬼と不信感が、じわじわと広がっていく。


穏健派の者たちは、土方ら強硬派の暴走を恐れ、強硬派の者たちは、榎本ら穏健派の弱腰が共和国を滅ぼすのではないかと危惧した。


フランス人顧問のブリュネも、この状況を憂慮していた。

「アミラル(提督=榎本)、このままでは危険です。内部の結束がなければ、いかに優れた戦略も、強力な軍備も意味を成しません。総裁として、断固たるリーダーシップを示すべきです」

ブリュネは、榎本に進言した。


「分かっている、ブリュネ君。だが、土方君たちの気持ちも、無視することはできんのだ。彼らは、命を賭してここまでついてきてくれた者たちなのだから……」

榎本は、苦悩を滲ませた。総裁としての決断の重さが、彼の肩にのしかかる。


一方、土方もまた、自室で一人、酒をあおっていた。

(榎本さんは、やはり甘い……。あの人は、戦を知らんのだ。敵は、こちらの都合など待ってはくれん。一瞬の油断、一瞬の迷いが、全てを失わせるということを……)


彼の脳裏には、近藤勇の顔が浮かんだ。

(近藤さん……。あんたなら、こんな時、どうしただろうな……)


盟友への思いが、土方の心を締め付ける。彼は、共和国の未来のためというよりも、死んでいった仲間たちへの義理、そして最後まで自分を信じる者たちを守るという、個人的な意地で、強硬路線を突き進もうとしているのかもしれなかった。


そんな中、事態をさらに悪化させる事件が起こる。

五稜郭の食料庫から、備蓄米が大量に盗まれるという事件が発生したのだ。犯人はすぐに見つかった。食料不足に窮した数名の兵士が、仲間内で分け合うために盗み出したのだった。


「断じて許さん! 軍規を乱す者は、見せしめに厳罰に処す!」

土方は激怒し、犯人たちを即刻、斬首に処すよう命じた。


これに対し、榎本や永井らが「処罰が厳しすぎる」「まずは事情を聴くべきだ」と待ったをかけたことで、再び両者の間で激しい口論となった。


「彼らも、飢えに苦しんだ末の犯行だ! 酌量の余地はあるはずだ!」

「甘いことを言うな! 一度許せば、示しがつかん! 軍隊の規律は、何よりも優先されねばならんのだ!」


最終的に、榎本の総裁としての権限で、斬首は免れ、厳しい労役刑に減刑された。しかし、この一件は、土方とその配下の者たちに、「榎本総裁は、我々の足元をすくおうとしているのではないか」という疑念を抱かせる結果となった。逆に、穏健派の者たちからは、「土方は、恐怖で人を支配しようとしている」という反発が強まった。


五稜郭に漂う陰影は、ますます濃くなっていた。松前・江差の勝利がもたらした光は、内部の対立と不信感によって、急速にかき消されようとしていた。


伊庭八郎は、この状況を深く憂いていた。

(このままでは、本当に駄目になってしまう……。何とかしなければ……)


彼は、榎本と土方の間を行き来し、懸命に関係修復を図ろうとした。

「総裁、土方殿も、国を思う気持ちは同じはずです。どうか、もう少し彼の言い分も聞いてやってはいただけませんか」

「土方殿、総裁も、多くの命を預かる身として、苦悩されているのです。あまり、追い詰めるようなことは……」


しかし、一度こじれた関係は、容易には元に戻らない。伊庭の努力も、空しく感じられることが多かった。


(俺にできることは、何だろうか……。剣を振るうだけでは、この国は守れないのか……)


隻腕の剣士は、これまで経験したことのない種類の苦悩に、深く沈み込んでいた。


外では、相変わらず雪が降り続いている。しかし、五稜郭の内側では、雪解けとは程遠い、冷たく、そして危険な空気が満ち満ちていた。それは、やがて来るであろう、新政府軍との決戦以上に、共和国の命運を左右しかねない、不吉な影であった。


(第四章 終わり)

第五章:鬼副長、北の大地に吼える

次をお楽しみに!

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