第三章 松前・江差の激闘
前章のあらすじ: 榎本は外交と内政に、土方は軍の組織化に、伊庭は遊撃隊を率いて周辺地域の鎮撫に奔走する。
年が明け、明治二年(1869年)を迎えても、蝦夷地の冬は依然として厳しかった。五稜郭を覆う雪は深さを増し、兵士たちは寒さと食料不足に耐えながら、来るべき戦いに備えていた。張り詰めた空気の中、ついにその日は訪れた。
「報告! 松前藩の残党が、館藩(旧松前藩)藩主・松前徳広を擁し、館城(松前城)にて挙兵! 付近の村々から兵糧や武器を集め、我らへの抵抗の構えを見せている由!」
斥候からの急報が、五稜郭の評定の間に飛び込んできた。
「やはり来たか……」
総裁・榎本武揚は、険しい表情で地図を見つめた。松前城は箱館から西へ約九十キロ、蝦夷地南部の要衝であり、旧松前藩の拠点である。ここを放置しておけば、いずれ新政府軍と連携し、共和国の背後を脅かす存在となるだろう。
「奴ら、ただの残党ではありますまい。おそらく、対岸の津軽あたりから、新政府の息のかかった者が入り込み、扇動しているのではありませんか?」
副総裁の松平太郎が冷静に分析する。
「だろうな。だが、いずれにせよ、芽は早いうちに摘んでおかねばならん」
陸軍奉行並の土方歳三が、低い声で言った。その瞳には、すでに戦いの炎が宿っていた。
「榎本総裁、ここは我ら陸軍にお任せ願いたい。俺が主力部隊を率いて松前城を叩き、伊庭の遊撃隊は別動隊として、背後の江差方面を制圧する。これでいかがか」
土方の提案は迅速かつ具体的だった。江差は松前城の北西に位置する港町であり、日本海側の拠点でもある。ここを押さえることで、松前城への補給路を断ち、日本海側からの新政府軍の上陸にも備えることができる。
「うむ、それが最善であろう」榎本は頷いた。「陸軍奉行・大鳥(圭介)殿には、五稜郭の守備と後方支援を頼む。海軍奉行・荒井(郁之助)殿は、艦隊を率いて海から松前・江差を窺い、陸軍を支援してほしい。特に、我が『開陽』の火力は、松前城攻略の鍵となるやもしれん」
「承知いたしました」海軍奉行の荒井郁之助が力強く答えた。
「よし、決まりだ!」土方は立ち上がった。「相馬! 直ちに出撃準備にかかれ! 兵を集めろ!」
「はっ!」相馬主計はすぐさま部屋を飛び出していった。
「伊庭君、君の遊撃隊には江差をお願いしたい。敵は地の利を得ているかもしれん。くれぐれも油断はならんぞ」
榎本は、若き隻腕の剣士に声をかけた。
「お任せください、総裁!」伊庭八郎は、いつもの快活な笑顔で答えた。「我が遊撃隊の機動力を、存分にお見せしましょう。なあ、勝太郎!」
傍らに控える人見勝太郎も、力強く頷いた。
数日後、凍てつく大地を踏みしめて、二つの部隊が五稜郭を出発した。
土方率いる本隊は、新選組の生き残り、彰義隊の勇士、そして洋式訓練を受けた伝習隊の兵士など、総勢約七百。大砲数門も伴っている。目指すは松前城。
伊庭率いる遊撃隊は、選りすぐりの軽装兵約百五十名。険しい山道も踏破できる機動力が売りだ。彼らは山間部を抜け、江差を目指す。
【解説】松前藩(館藩)と松前城
松前藩は、江戸時代を通じて蝦夷地(主に和人地)を支配した藩です。戊辰戦争では当初、奥羽越列藩同盟に参加しましたが、後に新政府側に恭順しました。しかし、榎本軍の上陸により藩主らは一時避難。この物語では、旧藩主を担いだ勢力が松前城に立てこもり、共和国軍と対峙することになります。松前城は日本式城郭としては最後に築かれた城の一つですが、海からの艦砲射撃には弱い構造でした。
土方隊は、雪中の困難な行軍を経て、松前城下に到達した。目の前には、海を背にした堅固な城郭がそびえ立っている。城壁の上には、松前藩の旗印と共に、「錦の御旗」(新政府軍の旗)もどきが翻っているのが見えた。
「ふん、官軍気取りか。片腹痛いわ」
土方は吐き捨てるように言った。
「大砲方、用意! 城門を狙え!」
土方の号令一下、共和国軍が持ち込んだアームストロング砲や四斤山砲が火を噴いた。近代的な大砲の威力は凄まじく、轟音と共に放たれた砲弾が、松前城の本丸御門や太鼓櫓に次々と命中し、木っ端微塵に吹き飛ばした。
「な、何だ、この威力は!?」
城内の松前兵たちは、経験したことのない破壊力に度肝を抜かれた。彼らの多くは、旧態依然とした戦しか知らない武士たちだった。
「怯むな! 敵は少数ぞ! 撃ち返せ!」
城将らしき武士が檄を飛ばすが、城に備え付けられた旧式の火縄銃や青銅砲では、土方軍の射程外から撃ち込まれる砲弾に対抗する術はなかった。
「よし、頃合いか! 全軍、突撃!」
土方は刀を抜き放ち、自ら先頭に立って城門へと駆け出した。
「続けぇ!」
相馬主計や島田魁ら新選組の猛者たち、彰義隊の生き残りらが、鬨の声を上げて続く。
「敵襲! 城門を守れ!」
城内は混乱に陥った。砲撃で破壊された城門から、共和国軍の兵士たちが雪崩れ込んでくる。
「うおおおっ!」
土方は、鬼神のような形相で刀を振るった。彼の太刀筋は鋭く、立ちふさがる松前兵を次々と斬り伏せていく。その姿は、かつて京洛で恐れられた「鬼の副長」そのものだった。
「新選組隊士、島田魁! 推して参る!」
巨漢の島田も、その怪力で敵兵を薙ぎ倒していく。
しかし、松前藩士たちも、故郷の城を守るために必死だった。彼らは地の利を活かし、狭い通路や櫓から、必死の反撃を試みた。
「者ども、退くな! ここは我らの城ぞ!」
一人の武士が、槍を構えて土方の前に立ちはだかった。
「む、見事な構えだ。名を名乗れ」
土方は一瞬、動きを止めた。
「松前家家臣、正義隊隊長、三上超順! 貴様ら賊軍に、この城は渡さん!」
「そうか。ならば、武士として散るがよい!」
一瞬の交錯。武士の槍が繰り出されるよりも早く、土方の刃が閃き、武士は崩れ落ちた。
「……見事」
土方は小さく呟き、再び前へと進んだ。
激しい白兵戦が繰り広げられる中、沖合から新たな轟音が響き渡った。海上に姿を現した「開陽丸」と「回天丸」が、松前城に向けて艦砲射撃を開始したのだ。
「ドォォォン!」
開陽丸の搭載するクルップ砲から放たれた巨大な砲弾が、城の天守や櫓を直撃し、巨大な爆炎と黒煙を上げた。
「うわあああっ!」
「も、もう駄目だ!」
陸からの砲撃と海からの艦砲射撃、そして城内への突入という挟み撃ちに、松前兵の士気は完全に打ち砕かれた。抵抗していた者たちも、次々と武器を捨てて逃げ惑う。
「勝鬨を上げよ! 松前城は、我らが制圧したり!」
土方の声が、煙の立ち込める城内に響き渡った。共和国軍の兵士たちは、喜びの声を上げた。わずか半日ほどの戦闘で、松前城は陥落したのである。
しかし、勝利の代償は小さくなかった。土方軍も、数名の戦死者と、少なくない負傷者を出していた。中には、彰義隊の生き残りとして奮戦していた古参の兵士も含まれていた。
「……手厚く葬ってやれ」
土方は、戦死した兵士たちの亡骸を前に、静かに命じた。勝利の興奮は消え、彼の顔には厳しい現実を見据える影が差していた。
「新政府軍が本格的に乗り込んできたら、こんなものでは済まんぞ……」
【解説】洋式戦術と旧式城郭
戊辰戦争では、新政府軍が用いたアームストロング砲などの最新兵器が、旧来の日本の城郭に対して圧倒的な威力を見せました。会津若松城なども、砲撃によって大きな損害を受けています。この物語の松前城攻防戦でも、その様子を描写しています。また、海からの艦砲射撃も、沿岸部の戦闘では大きな脅威となりました。史実では江差沖において暴風雨に遭い沈没した開陽丸ですが、この物語では蝦夷入り時機が早かった為、沈没を免れています。
一方、伊庭八郎率いる遊撃隊は、険しい山道を越え、江差を目指していた。雪深い山道は、彼らの機動力を奪い、行軍は困難を極めた。
「八郎さん、この雪では、思ったように進めませんな」
人見勝太郎が、息を切らしながら言った。
「うむ……。だが、弱音を吐いている場合ではないぞ。我々が江差を抑えねば、土方殿の背後が危うくなる。それに、この道を選んだのは、敵の意表を突くためだ。もう少しの辛抱だ!」
伊庭は、自ら先頭に立って雪を掻き分け、隊士たちを励ました。彼の左袖が、寒風に痛々しく揺れている。
数日後、ようやく山間部を抜け、江差の町が見渡せる丘にたどり着いた。眼下には、日本海に面した港町が広がっている。しかし、町の様子はどこかおかしい。人の気配が少なく、妙に静まり返っているのだ。
「……罠、かもしれんな」
伊庭は眉をひそめた。
「勝太郎、斥候を放て。慎重に町の様子を探らせろ」
斥候からの報告は、伊庭の予感を裏付けるものだった。
「町には、松前藩の兵と思われる者たちが多数潜んでおります! 我々を待ち伏せている様子!」
「やはりか。どうやら、我々の動きは読まれていたようだな」
伊庭は苦笑した。
「さて、どうするか……。まともに突っ込めば、袋の鼠だ」
伊庭はしばらく考え込んだ後、にやりと笑った。
「よし、ならば、こちらも意表を突くまでよ。夜陰に乗じて、少数で奇襲をかける!」
「少数で、ですか!? 危険すぎます!」人見が反対する。
「多人数では、敵に察知される。それに、我々は遊撃隊だ。こういう戦いこそ、我々の真骨頂だろう?」
伊庭は自信に満ちた表情で言った。
「俺と、腕に覚えのある者十名ほどで決行する。残りの者は、ここで待機し、合図と共に突入するんだ」
その夜、伊庭は黒装束に身を包み、選りすぐりの隊士十名と共に、闇に紛れて江差の町へと忍び込んだ。彼らは音もなく移動し、敵が潜むと思われる網元の大きな屋敷を目指した。
屋敷の周囲には、見張りの兵が立っている。
「……行くぞ」
伊庭の合図で、隊士たちは一斉に飛び出した。
「何奴!」
見張りが気づいた時には、すでに遅かった。伊庭の右腕から繰り出される剣閃が、見張りの喉を掻き切る。他の隊士たちも、素早く残りの見張りを仕留めた。
「突入!」
伊庭を先頭に、隊士たちは屋敷の中へと飛び込んだ。中は、酒盛りでもしていたのか、油断しきった松前兵たちが多数いた。
「て、敵襲! 敵襲だ!」
屋敷内は大混乱に陥った。
「遊撃隊、伊庭八郎! 見参!」
伊庭は、狭い室内で巧みに刀を振るった。隻腕のハンディを感じさせない、流れるような剣捌き。心形刀流の奥義が、暗闇の中で煌めく。
「ぐわっ!」
「ひいっ!」
松前兵たちは、次々と伊庭の刃の餌食になっていく。伊庭の部下たちも、それぞれ得意の武器を振るい、奮戦した。
しかし、敵の数はこちらを遥かに上回っていた。次第に伊庭たちは囲まれ、苦しい状況に追い込まれていく。
「八郎さん! きりがありません!」
隊士の一人が叫ぶ。伊庭の額にも、汗が滲んでいた。
その時、屋敷の外から鬨の声が聞こえた。
「八郎さーん! 加勢しますぞ!」
人見勝太郎率いる遊撃隊の本隊が、合図を受けて突入してきたのだ。
「よし、来たか!」
伊庭は再び奮い立った。内外からの攻撃に、松前兵たちは完全に浮き足立った。
「もはやこれまでか!」
指揮官らしき武士が、観念したように叫び、自刃しようとする。
「待て! 早まるな!」
伊庭が叫び、その武士の腕を打ち払った。
「命を粗末にするな! 降伏すれば、悪いようにはせん!」
伊庭の言葉に、指揮官はしばらく逡巡していたが、やがて力なく刀を落とした。他の兵士たちも、それに倣って武器を捨てた。
こうして、伊庭の機転と遊撃隊の奮戦により、江差は最小限の損害で共和国の手に落ちた。夜明けの光が、激戦の跡が残る江差の町を照らし始めていた。
伊庭は、捕らえた松前藩の指揮官から話を聞いた。
「やはり、新政府からの密使が来ていたか……。本格的な討伐軍が来るのも、時間の問題かもしれんな」
伊庭の顔に、安堵と同時に、新たな戦いへの覚悟が浮かんだ。
【解説】ゲリラ戦と奇襲
伊庭八郎の率いた遊撃隊は、史実でもゲリラ戦を得意とした部隊でした。この物語では、その特徴を活かし、江差での奇襲作戦を描写しました。隻腕のハンディを負いながらも、卓越した剣技と機転で困難な状況を打開する伊庭の姿は、物語の見せ場の一つとなります。
松前城と江差の制圧。蝦夷共和国にとって、これは大きな軍事的勝利だった。五稜郭には、戦勝の報がもたらされ、兵士たちの士気は高まった。
「よくやってくれた、土方君、伊庭君!」
榎本は、帰還した二人を労った。
「これで、当面の背後の憂いはなくなった。しかし、これはあくまで前哨戦に過ぎん」
榎本の表情は、勝利に酔うことなく、冷静だった。
「松前・江差での我々の勝利は、必ずや新政府を刺激するだろう。彼らは、今度こそ本腰を入れて、大軍を送り込んでくるはずだ。我々は、その日に備えねばならん」
土方も、無言で頷いた。松前城での戦いで、近代兵器の威力と、それを運用する訓練の重要性を改めて痛感していた。
「陸軍のさらなる強化が必要だ。ブリュネ殿の助言も得て、五稜郭の防御を固め、兵の練度を上げねば」
伊庭もまた、江差での戦いを振り返っていた。
「敵の動きを読むこと、そして地の利を活かすこと……。戦は、力押しだけではない。もっと、頭を使わねばならん」
彼は、隻腕の剣士として、そして遊撃隊の指揮官として、新たな戦い方を模索し始めていた。
松前・江差の激闘は、蝦夷共和国に最初の勝利をもたらした。しかしそれは同時に、より大きな戦いの始まりを告げる序曲でもあった。共和国の三人の指導者たちは、それぞれの胸に決意を新たに、来るべき決戦の日に向けて、準備を進めていく。
北の空に輝く七稜星の旗の下、共和国の揺籃の刻は終わりを告げ、試練の時が始まろうとしていた。
(第三章 終わり)
閑話一:榎本武揚 ~洋学と武士道の間で~
次をお楽しみに!