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第二章 共和国、揺籃(ようらん)の刻

前章のあらすじ: 無事に蝦夷地へ到着した旧幕府艦隊と旧幕臣たちが、箱館を占領し、蝦夷共和国の樹立を宣言する。

蝦夷共和国が産声を上げてから、ひと月が過ぎた。師走の蝦夷地は、すでに厳しい冬の表情を見せていた。五稜郭の稜堡りょうほや土塁にはうっすらと雪が積もり、吹き付ける風は身を切るように冷たい。箱館の港も、凍てつくような鉛色の波をたたえていた。


共和国総裁に選出された榎本武揚は、五稜郭内の旧箱館奉行所庁舎の一室を執務室とし、多忙な日々を送っていた。部屋には西洋式の机と椅子が置かれ、壁には蝦夷地の地図や海図が掛けられている。暖炉の火がぱちぱちと音を立てているが、それでも部屋の空気はひんやりとしていた。


「総裁、函館駐在のフランス領事、モンブラン伯より返書が」

副総裁の松平太郎が、一通の書状を手に部屋に入ってきた。


「おお、来たか!」

榎本は書類から顔を上げ、やや興奮した面持ちで書状を受け取った。共和国樹立後、榎本は矢継ぎ早に函館に駐在する列強各国の領事館に使者を送り、共和国の承認と、あわよくば支援を取り付けようと動いていたのだ。特に、ブリュネやカズヌーヴの存在もあり、フランスには期待を寄せていた。


書状に目を通す榎本の表情が、次第に険しくなる。

「……ふむ。予想通り、というか、厳しいな」

榎本はため息をつき、書状を机に置いた。


「いかがでしたか?」松平が尋ねる。

「内容は、丁重ではあるが、要するに『貴殿らの立場は理解するが、現時点ではフランス政府として公に承認することはできない。今後の推移を見守りたい』とのことだ。まあ、当然の反応だろう。我々はまだ、新政府から見れば反乱軍に過ぎん。国際社会は、そう簡単には動かん」


「やはり、そうですか……。イギリスやアメリカからも、同様の返答でしたな」

「うむ。だが、諦めるわけにはいかん。ブリュネ君を通じて、非公式なルートでの接触は続けよう。重要なのは、我々がこの地を実効支配し、近代的な法治国家として運営する能力があることを示し続けることだ。粘り強く交渉すれば、必ず道は開ける」

榎本の瞳には、まだ希望の光が宿っていた。国際法という、彼が最も得意とする土俵で戦うことに、ある種の興奮すら感じていた。


しかし、榎本の悩みは外交だけではなかった。

「それよりも、松平殿、喫緊の課題は財政だ」

榎本は机の上に広げられた帳簿を指さした。

「江戸から持ち出した軍資金も、いつまでもつか分からん。兵糧米も、この冬を越せるかどうか……。早急に、共和国独自の財源を確保せねばならん」


江戸脱出の際、榎本は幕府の軍艦だけでなく、多額の資金も持ち出すことに成功していた。しかし、二千を超える兵士とその家族を養い、軍備を維持するには、莫大な費用がかかる。


「開拓、ですな。蝦夷地には未開発の資源が眠っているはず。鉱山開発、漁業、農業……。これらを軌道に乗せることができれば……」

「その通りだ。早速、地質調査や資源探索の専門家を募り、計画を立てねばなるまい。永井様にも相談し、開拓に関する部署を立ち上げる必要があるな」

榎本は次々と指示を出す。彼の頭の中には、近代国家建設のための青写真が次々と描かれていく。港湾整備、道路建設、学校設立、病院建設……夢は無限に広がった。


だが、その理想を実現するには、あまりにも多くの障害があった。まず、人材が足りない。旧幕臣の中には優秀な官僚もいたが、その多くは旧態依然とした価値観に縛られており、榎本の描く近代的なシステムに戸惑いを見せた。


「総裁、また陳情でございます。『家禄の復活を』と……」

部下の報告に、榎本は眉をひそめた。共和国では、旧幕府時代の身分や家禄は一旦白紙とし、能力に応じて新たな役職と俸給を与える方針を打ち出していたが、それに不満を持つ者が少なくなかったのだ。


「まだそんなことを言っているのか……。今は国難の時だぞ。個人の既得権益を主張している場合ではないだろう!」

思わず語気が荒くなる。

「……いや、すまぬ。彼らの気持ちも分からなくはない。長年仕えた幕府が瓦解し、路頭に迷う不安があるのだろう。だが、我々は過去に生きるのではない。未来を創るのだ。それを、粘り強く説いていくしかない」


榎本は、理想と現実のギャップに苦しみながらも、総裁としての重責を懸命に果たそうとしていた。その知性と情熱は、確かに共和国の進むべき道を照らす光であったが、その光はまだ、あまりにも弱々しかった。


【解説】蝦夷共和国の財政と内政

実際に樹立された(とされる)蝦夷共和国も、深刻な財政難に悩まされました。榎本らは蝦夷地の開発による財源確保を目指しましたが、短期間で成果を上げることは困難でした。また、旧幕臣たちの意識改革や、近代的な統治システムの導入も大きな課題でした。この物語では、それらの困難がより長期的に描かれることになります。


一方、陸軍奉行並に就任した土方歳三は、榎本とは対照的に、極めて現実的な視点から共和国の足元を固めようとしていた。彼の執務室は、榎本のそれよりも質素で、壁には刀掛けと、部隊編成や配置を示す簡単な図面が貼られているだけだった。部屋には常に、張り詰めた空気が漂っていた。


「相馬! 兵たちの訓練の進捗はどうなっている!」

土方の鋭い声が飛ぶ。


「はっ! 各隊、ブリュネ殿やカズヌーヴ殿の指導の下、洋式操練に励んでおります。銃の扱いにも慣れてきたかと」

腹心の相馬主計が、背筋を伸ばして報告する。


「まだ甘い! 敵は待ってくれんぞ! 新政府の連中は、必ずや我々を潰しに来る。それも、以前とは比較にならん大軍でだ。その時に備え、一日たりとも無駄にするな!」

土方は、常に最悪の事態を想定していた。会津での惨敗が、彼の脳裏から離れることはなかった。


共和国陸軍は、旧幕府陸軍の出身者、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして土方率いる新選組の残党など、様々な経歴を持つ者たちの寄せ集めだった。これを一つの強力な軍隊としてまとめ上げるのが、土方の最大の任務だった。


「特に、規律だ! 規律が乱れた軍隊は、烏合の衆に過ぎん! どんな些細な軍規違反も見逃すな! 必要とあらば、斬り捨てても構わん!」

「は、ははっ!」


土方は、かつて新選組で振るった「法度」の厳しさを、この共和国陸軍にも持ち込もうとしていた。甘えや惰性は、即、死に繋がる。それが彼の信条だった。


彼の厳しさは、訓練だけにとどまらなかった。陸軍奉行並の職務に加え、土方は箱館市中の取締(警察業務)も兼務していた。

「島田! 市中の様子はどうだ? 不穏な動きはないか?」

屈強な体躯を持つ元新選組隊士、島田魁に尋ねる。


「はっ。今のところ、大きな騒擾は起きておりませぬ。ただ、一部の町民の中には、我々を快く思わぬ者もいるようで……。食料や物資の不足に対する不満の声も聞こえてまいります」

「ふん、だろうな。だが、不満分子が新政府に通じるような動きがあれば、即刻捕らえろ。見せしめが必要だ」


土方の冷徹な判断は、時に周囲から「鬼」と恐れられたが、混乱しがちな占領下の都市において、治安維持に一定の効果を発揮していた。


しかし、土方にも悩みはあった。それは、武器弾薬と兵糧の不足である。

「大鳥(圭介)殿(陸軍奉行)は、武器の調達を何とかすると言っていたが、当てになるのか……」

独りごちる土方。大鳥圭介もまた、幕府の陸軍伝習所で学んだ洋式軍事の専門家であり、土方とは違ったアプローチで軍備増強を図っていたが、限られた資材と資金の中で、思うようには進んでいなかった。


「榎本さんは、外交だの開拓だの、夢みたいなことばかり言っているが、足元の兵が飢えて、弾がなければ、国も何もあったもんじゃねえ。まずは、食うこと、そして戦うこと。それが先決だろうが」


土方は、榎本の理想主義に苛立ちを覚えることが少なくなかった。榎本が描く近代国家像は理解できないわけではなかったが、あまりにも現実離れしているように思えたのだ。

「まあ、いい。俺は俺のやるべきことをやるだけだ。この北の地で、もう一度、誠の旗を掲げるためにな」

土方は、壁に掛けられた愛刀・和泉守兼定いずみのかみかねさだに目をやり、静かに闘志を燃やした。


【解説】共和国陸軍の組織化

旧幕府軍は、フランス軍事顧問団の指導を受け、西洋式の軍隊編成や訓練を取り入れていました。土方歳三や大鳥圭介は、その中心人物でした。しかし、装備や兵站(補給)の問題は常に深刻であり、寄せ集めの兵士たちの士気や規律を維持することも大きな課題でした。この物語では、土方の実戦経験と組織運営能力が、共和国軍の骨格を作る上で重要な役割を果たします。


遊撃隊頭取であり、陸軍歩兵頭並も兼ねる伊庭八郎は、五稜郭の外で活動することが多かった。彼の率いる遊撃隊は、機動力を活かした偵察、警戒、そして未だ共和国の支配が及んでいない地域への鎮撫活動を主な任務としていた。


「よし、今日はあの丘の向こうまで足を延ばしてみるか!」

伊庭は、愛馬に跨り、快活に号令した。雪の積もった原野を、伊庭と十数名の遊撃隊士たちが進んでいく。左袖は風にはためいているが、右手で巧みに手綱を操る姿は、実に堂に入っていた。


「八郎さん、あまり深入りするのは危険では? 松前藩の残党が潜んでいるやもしれません」

心配そうに進言するのは、やはり人見勝太郎だ。


「はは、大丈夫だ、勝太郎。臆病風に吹かれているのか? まあ、油断は禁物だがな。敵の動きを探るのも我々の役目だ。それに、この辺りの地理を把握しておかねば、いざという時に戦えんだろう?」


伊庭の遊撃隊は、箱館から西、松前方面へと続く街道沿いや、山間部を偵察して回った。時には、旧松前藩に忠誠を誓う者たちとの小競り合いも発生した。


ある日、山中で野営の準備をしていると、数名のアイヌの男たちが近づいてきた。彼らは弓矢や槍で武装しており、警戒心を露わにしていた。


「待て、撃つな!」

弓を構えようとした隊士を、伊庭が制した。

「我々は、蝦夷に住む者たちと争うつもりはない。我々は、新しい国を作りに来た者だ。お前たちの暮らしを脅かすつもりはない」

伊庭は、身振り手振りを交え、できるだけ穏やかな口調で語りかけた。


アイヌの男たちは、しばらく伊庭たちの様子を窺っていたが、やがて敵意がないことを察したのか、武器を下ろした。言葉は完全には通じなかったが、身振りや表情で、ある程度の意思疎通はできた。


「八郎さん、彼らと上手くやれるでしょうか?」

アイヌたちが立ち去った後、人見が尋ねた。


「そう願いたいな。彼らはこの地の先住民だ。我々がこの地で生きていくには、彼らの協力が不可欠になるかもしれん。力で押さえつけるのではなく、共存の道を探るべきだろう」

伊庭の考え方は、榎本や土方とはまた少し違った、柔軟なものだった。彼は、身分や出自に関係なく、人と人との繋がりを大切にしようとしていた。


遊撃隊の訓練では、従来の剣術に加え、銃の扱いやゲリラ戦術も取り入れられた。

「いいか! これからの戦は、ただ斬り合うだけでは勝てん! 地の利を活かし、敵の意表を突く! 少数でも大軍を翻弄する術を身につけろ!」

伊庭は、隻腕のハンディを感じさせない動きで、自ら銃を構え、戦術の手本を示した。彼の指導は実践的で分かりやすく、若い隊士たちは目を輝かせて教えを受けた。


「伊庭様は、本当に凄いお方だ。あの腕であれだけの動きをなされるとは……」

「ああ、それに、俺たちのような若輩者にも、気さくに声をかけてくださる」

隊士たちの間での伊庭の人気は、絶大なものがあった。


五稜郭に戻ると、伊庭は榎本や土方のもとを訪れ、外部の状況を報告し、意見交換をすることもあった。

「榎本総裁、やはり外交だけでは心許ないかと。軍備の充実も急務ですぞ。土方殿の言うことにも、耳を傾けていただきたい」

榎本に対しては、現実的な軍備の必要性を説いた。


「土方殿、あまり兵たちを締め付けすぎても、士気が下がります。時には、息抜きも必要では? それに、榎本総裁の目指す国の形も、我々武士が頭から否定するわけにはいきませんぜ」

土方に対しては、兵士への配慮や、榎本の理想への理解を促した。


彼は、両者の間に立ち、対立が深刻化しないよう、潤滑油のような役割を果たそうと努めていた。しかし、その立場は、時として彼自身を苦しませることもあった。


「俺は、一体何のために戦っているのだろうな……」

一人、星空を見上げながら、伊庭はふと呟くことがあった。失われた左腕。滅び去った幕府。新しい国。揺れ動く時代の中で、彼は自分自身の戦う意味を、まだ完全には見出せずにいた。


【解説】アイヌとの関係

蝦夷地(北海道)には、先住民であるアイヌ民族が暮らしていました。幕末から明治にかけて、和人(日本人)の移住が進む中で、アイヌの人々は土地を追われたり、文化を否定されたりするなど、厳しい状況に置かれました。蝦夷共和国がもし存続した場合、アイヌ民族とどのような関係を築くのかは、重要なテーマとなります。この物語では、伊庭八郎が比較的友好的な姿勢を示す可能性を描いています。


共和国の運営には、フランス軍事顧問団のブリュネやカズヌーヴの存在も大きかった。彼らは、榎本には外交戦略や近代的な行政システムについて助言を与え、土方や大鳥には、フランス式の最新軍事技術や戦術、特に要塞の防御や砲術について知識を提供した。


「ノン、ムッシュ土方。大砲の配置はもっと集中させるべきです。火力を一点に集め、敵の主力を叩くのです」

五稜郭の防備計画について、ブリュネが熱心に土方に説明している。


「ふん、異人の言うことにも一理あるか……。よし、試してみるか」

土方は、最初は懐疑的だったものの、彼らの専門知識と熱意に触れるうちに、次第にその意見を取り入れるようになっていた。


カズヌーヴは、若い士官たちを集めて、小銃の射撃訓練や散兵戦術の指導にあたった。

「アテンション! 敵を発見したら、すぐに伏せる! そして、正確に狙いを定めて撃つ! 無駄弾は使うな!」

彼の指導は厳しくも的確で、共和国軍の戦力向上に貢献した。


彼らがなぜ、敗れた旧幕府軍に味方するのか、その真意は定かではなかった。フランス本国の意向か、個人的な騎士道精神か、あるいは単なる冒険心か。しかし、彼らが共和国にとって貴重な存在であることは、間違いなかった。


共和国の内部は、希望と不安が複雑に交錯していた。選挙という新しい試みで指導者が選ばれたとはいえ、旧来の派閥意識や人間関係が完全に消えたわけではなかった。特に、榎本を中心とする開明派と、土方を中心とする武断派の間には、目に見えない溝が存在した。


食料や物資の不足も、日増しに深刻になっていた。兵士たちの食事は日に日に質素になり、暖を取るための薪も不足しがちだった。箱館の町民たちの中にも、不満の声が上がり始めていた。厳しい冬は、人々の心を蝕んでいく。


そんな中、遠く本州の新政府の動向も、断片的ながら伝わってきた。

「京都の朝廷と江戸の太政官が、ついに東京とうけいへの遷都を決定したらしい」

「蝦夷地の反乱に対し、断固たる処置を取るべし、との声が上がっているとか」

「薩摩の黒田清隆くろだ きよたか、長州の山田顕義やまだ あきよしらが、討伐軍の編成を進めているようだ」

「長州の大村益次郎おおむら ますじろうとかいう男が、軍制改革を推し進め、西洋式の軍隊を急速に強化しているらしいぞ」


これらの情報は、共和国の幹部たちに、来るべき戦いが避けられないことを改めて認識させた。


「時間の猶予は、あまり残されていないかもしれんな……」

榎本は、窓の外に広がる雪景色を見つめながら呟いた。


五稜郭に掲げられた七稜星の旗が、寒風にはためいている。北の果てに生まれたばかりの共和国は、まさに揺籃(ようらん)の刻にあった。希望の光は見えたものの、その行く手には暗雲が垂れ込めている。榎本、土方、伊庭――三人の男たちは、それぞれの立場で、それぞれの覚悟を胸に、迫りくる嵐に備えようとしていた。蝦夷地の長く厳しい冬は、まだ始まったばかりだった。


(第二章 終わり)

第三章:松前・江差の激闘

次をお楽しみに!

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