第十章(最終章):五稜郭、燃ゆ ~蝦夷地の果て~
前章のあらすじ: 健在の旧幕府艦隊が、蝦夷共和国の命運を賭け、函館湾に侵入する新政府艦隊に決戦を挑む。
明治二年(1869年)五月。蝦夷地の短い春は、戦火の硝煙と血の匂いに覆い尽くされようとしていた。函館湾海戦での共和国海軍の壊滅。圧倒的な兵力と火力で五稜郭に迫る新政府軍。箱館市街は燃え、沿岸の防御陣地は次々と陥落し、敗残兵と負傷者で溢れた五稜郭は、まさに風前の灯火だった。食料は尽き、弾薬も残りわずか。共和国の夢は、北の果てで潰えようとしていた。
その絶望的な状況の中、旧箱館奉行所庁舎の一室に、蝦夷共和国の最後の運命を決するべく、首脳たちが集まっていた。総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三、そして遊撃隊頭取・伊庭八郎。彼らの顔には、疲労と苦悩の色が濃く浮かび、部屋の空気は張り詰め、息苦しいほどだった。窓の外からは、断続的に響く砲声と、遠い鬨の声が聞こえてくる。
「……もはや、万策尽きた、と言うべきか……」
最初に重い沈黙を破ったのは、榎本武揚だった。彼の声はかすれ、総裁としての威厳よりも、一人の人間の苦悩が色濃く滲んでいた。
「海軍は壊滅し、陸軍も各地で敗退。五稜郭は完全に包囲され、補給路も断たれた。このまま戦い続ければ、残った兵たちを無駄死にさせるだけだ……」
「ならば、どうすると言うのですか、総裁!」
松平太郎が、焦燥感を隠さずに問うた。
榎本は、深く息を吸い込み、意を決したように言った。
「……降伏、しかないのかもしれん。新政府に対し、将兵の助命を条件に、交渉を……」
「断じてならん!」
榎本の言葉が終わるか終わらないかのうちに、土方歳三が激昂して立ち上がった。椅子が床に倒れる大きな音が響く。
「降伏だと!? この期に及んで、敵に命乞いをしろと申すか! それが、我ら武士の選ぶ道か! ふざけるな!」
土方の目は血走り、負傷した肩を押さえながらも、その全身から怒りが発散されていた。
「土方君、気持ちは分かる! だが、現実を見るのだ!」永井尚志が冷静に諭そうとする。「玉砕して、何の益がある? 多くの若者の命を、犬死にさせて良いのか?」
「犬死にだと? 最後まで己の信念を貫き、戦って死ぬのが、なぜ犬死になのだ! 敵に尻尾を振って生き長らえる方が、よほど犬に近いわ!」土方の声は荒い。
「しかし、土方殿」大鳥圭介が慎重に口を挟む。「我々には、まだ交渉のカードが残されているやもしれません。我々の持つ洋式の知識や技術、蝦夷地の開拓に関する知見……これらを提供することで、少しでも有利な条件を……」
「黙れ! 大鳥殿まで、榎本総裁と同じようなことを!」土方は、もはや誰の言葉にも耳を貸そうとしなかった。「俺は戦う! 最後の一兵になるまで、この五稜郭で戦い抜く! それだけだ!」
降伏か、玉砕か。議論は再び平行線を辿り、部屋の空気はますます険悪になっていく。
その時、榎本が、思いがけない言葉を発した。
「……あるいは、第三の道があるかもしれん」
一同の視線が、榎本に集まる。
「第三の道……?」
「うむ」榎本は頷き、懐から一通の書状を取り出した。「これは、函館駐在のハワイ王国総領事、ユージン・ヴァン・リード氏から、非公式に受け取ったものだ」
【解説】ユージン・ヴァン・リードとハワイ移住
ユージン・ヴァン・リードは、幕末から明治初期にかけて活動したアメリカ人商人であり、初代の駐日ハワイ王国総領事を務めました。彼は、日本の労働力をハワイのサトウキビプランテーションに導入しようと画策し、明治元年(1868年)には、新政府の許可を得ないまま、約150人の日本人(元年者と呼ばれる)をハワイへ送り出しています。この「元年者」移民は、過酷な労働条件や契約違反など多くの問題を抱え、日布(日本・ハワイ)間の外交問題にも発展しました。史実では榎本武揚は、蝦夷に向かう前に石巻にてハワイ亡命を進められるが断っています。
「ヴァン・リード総領事は、我々の窮状に同情し、もしもの時には、ハワイ王国への亡命を手引きすると申し出てくれている。ハワイは中立国であり、新政府の追及も及ばないだろう、と」
榎本の言葉に、部屋は再び静まり返った。亡命。それは、降伏でも玉砕でもない、全く予想外の選択肢だった。
「ハワイへ……?」
「そうだ。一時、彼の地へ身を寄せ、再起を図る。それが、第三の道だ。もちろん、全員が行けるわけではない。だが、私をはじめ、共和国の中枢を担う者、そして、開拓に必要な技術を持つ者だけでも、この地を脱出し、未来に繋げるべきではないだろうか?」
榎本の目は、真剣だった。彼は、共和国の理念そのものを、未来へと託そうとしていたのだ。
「……ふん、逃げ出す、ということか」
土方は、冷ややかに呟いた。
「逃げるのではない! 再起を図るのだ、土方君!」榎本は語気を強めた。「力尽きてここで全滅すれば、我々の理想も、何もかもが消え去る! それで良いのか!」
「……」土方は、何も答えなかった。
「私は、この道を選ぶことにした」榎本は、決然と言い切った。「同意してくれる者は、私と共に来てほしい。だが、それぞれの道を選ぶ者がいても、それを咎めはしない。最後の時まで、我々は同志だ」
榎本の決断は、他の者たちにも大きな影響を与えた。松平太郎、永井尚志、大鳥圭介らは、熟慮の末、榎本と共にハワイへ渡り、再起を図る道を選んだ。彼らには、それぞれの分野での知識と経験があり、それが新しい国づくりに役立つと考えたからだ。海軍奉行の荒井郁之助も、海軍再建の夢を諦めきれず、榎本に同行することを決めた。
評定が終わった後、榎本は一人、土方の部屋を訪ねた。土方は、窓の外を睨みつけながら、黙って酒を呷っていた。部屋には、血と硝煙の匂いが染み付いている。
「……土方君」
榎本が声をかけると、土方はゆっくりと振り返った。その目は、異様に据わっていた。
「……何の用だ、榎本さん。俺は、あんたたちの『亡命ごっこ』に付き合う気はねえぞ」
「分かっている。君が、最後まで戦う道を選ぶことも……」榎本は静かに言った。「だが、敢えて聞きたい。君も、我々と一緒に来ないか? ハワイへ渡り、再起を図ろうではないか。君の力が、未来には必要だ」
土方は、ふっと鼻で笑った。
「……冗談はよしてくれ。俺は、武士だ。敵に背を向けて逃げるなど、死んでもできん。それに……」
土方は、ぐいっと酒を飲み干した。
「これは、意地なんだよ。俺自身の、な。近藤さんや、死んでいった仲間たちへの……。俺は、ここで死ぬ。武士として、な」
その言葉には、揺るぎない覚悟が込められていた。
榎本は、黙って土方を見つめていた。この男の生き方を、自分は最後まで理解できなかったのかもしれない。しかし、その潔さ、その覚悟の強さには、敬意を抱かずにはいられなかった。
「……そうか」榎本は、小さく頷いた。「君らしいな」
しばしの沈黙の後、土方が口を開いた。
「……榎本さん。あんたのやり方は、気に食わねえことも多かった。だが……」
土方は、少しだけ視線を和らげた。
「考えてみれば、生き方が違うだけで、俺たちも、この国を何とかしようと、同じ方向を向いて歩いていたのかもしれんな……」
「土方君……」
「後のことは、頼んだぜ。あんたなら、きっと……何かを成し遂げるだろう。俺にはできん、やり方でな」
それは、土方なりの、榎本への肯定であり、別れの言葉だった。
「……ああ、必ず」
榎本は、力強く頷いた。二人の間に、初めて、わだかまりのない空気が流れた気がした。これが、最後の別れになるだろう。
同じ頃、伊庭八郎もまた、自らの道を決めていた。彼は、評定の後、遊撃隊の腹心である人見勝太郎らを集めていた。
「八郎さん、我々は、どうするのですか? 榎本総裁と共に、ハワイへ?」
人見が尋ねる。
伊庭は、首を横に振った。
「いや、俺は行かん。それに、降伏も、玉砕も、まだ早い」
その瞳には、諦めとは違う、鋭い光が宿っていた。
「じゃあ、一体……?」
「おいらは、一つ賭けをしたい」伊庭は、にやりと笑った。「敵の一番やっかいな奴……あの鉄の化け物(甲鉄艦)を、沈められるかどうか、試してみたい」
「甲鉄艦を!? 無茶です! 我々の武器では……」
「まともに戦っても、勝てんさ。だがな、やりようはあるかもしれん」伊庭は、地図を広げ、作戦を説明し始めた。「夜陰に乗じ、小舟で接近する。そして、乗り込むんだ」
「乗り込む!? それこそ、自殺行為です!あの土方さんでさえ、アボルダージュ(接舷攻撃)は失敗したではありませんか!」
「いや、今度はさらに少数精鋭で行く。もし成功すれば、戦況を変えるきっかけになるかもしれん。それに……」
伊庭は、窓の外、函館湾に浮かぶ甲鉄艦の威容を睨みつけた。
「あの化け物に、一太刀浴びせずに終わるのは、どうにも癪に障るんでな!」
その言葉には、剣士としての意地と、遊撃隊頭取としての誇りが滲んでいた。
人見をはじめ、集まった遊撃隊士たちは、伊庭の無謀とも思える作戦に、最初は戸惑いを見せた。しかし、彼らの頭領である伊庭の、揺るぎない決意と、どこか楽しげですらある表情に、次第に引き込まれていった。
「……分かりました、八郎さん! やりましょう! この命、八郎さんに預けます!」
「おう! 面白そうだ!」
こうして、共和国の指導者たちは、それぞれの最後の戦いへと、歩みを進めていった。
五月十六日。新政府軍による五稜郭への総攻撃が、ついに始まった。夜明けと共に、無数の砲弾が五稜郭に降り注ぎ、土塁や建物が次々と破壊されていく。そして、鬨の声を上げながら、新政府軍の兵士たちが、蟻の大群のように城壁へと殺到してきた。
「撃て! 撃ち返せ!」
五稜郭の各所で、共和国軍の必死の抵抗が始まった。土方歳三は、負傷した身をおして、最も激しい攻防が予想される北側の防衛ライン、一の橋・二の橋付近で指揮を執っていた。
「敵をここから一歩も通すな! ここが、我らの最後の砦だ!」
土方の声が、轟音の中で響き渡る。
押し寄せる新政府軍の兵士たち。最新式のライフル銃から放たれる弾丸が、雨あられと降り注ぐ。共和国軍の旧式のゲベール銃や火縄銃では、太刀打ちできない。白兵戦に持ち込もうにも、圧倒的な数の差があった。
それでも、土方率いる部隊は、驚くべき粘りを見せた。新選組の生き残りや、土方の薫陶を受けた兵士たちは、死を恐れず、斬り込んできた敵兵と壮絶な斬り合いを繰り広げた。
「ブリュネ殿の言う通り、守りやすい。いい城じゃねえか……」
土方は、迫りくる敵兵を斬り伏せながら、不意にそんな言葉を漏らした。フランス人顧問が設計に関わった五稜郭の防御構造は、確かに効果を発揮していた。しかし、それも時間の問題だった。
次々と仲間が倒れていく。弾薬も尽き、刀は刃こぼれし、兵士たちの顔には絶望の色が浮かび始めた。
「副長……もう……」
相馬主計が、息も絶え絶えに言う。
土方は、血糊を拭い、空を見上げた。空は、皮肉なほど青く澄み渡っていた。
(……潮時か……)
彼は、覚悟を決めた。
その時、一人の伝令が駆け込んできた。
「報告! 陸軍参謀・山田顕義殿、自ら兵を率い、一の橋を突破! 本丸へ向かっております!」
「……山田、だと……?」
土方の目に、最後の炎が宿った。長州の小童、宿敵ともいえる男が、すぐそこまで来ている。
「……面白い。最後の相手に、不足はねえ……」
土方は、残った数名の部下に命じた。
「お前たちは、もう良い。生き延びろ。俺は、奴を迎え撃つ。そして……」
彼は、不気味な笑みを浮かべた。
「盛大な花火を、打ち上げてやる……」
土方は、部下たちを下がらせると、一人、本丸に近い弾薬庫へと向かった。そこには、最後の抵抗のために集められた、大量の火薬が積み上げられていた。
同じ頃、函館湾では、もう一つの死闘が繰り広げられていた。伊庭八郎率いる十数名の決死隊は、夜陰と悪天候に乗じて、小舟で甲鉄艦「東艦」への接近に成功していた。
「……今だ! 行け!」
伊庭の合図で、隊士たちは次々と縄梯子を使い、巨大な鉄の船体に取り付いた。幸い、悪天候のため見張りは手薄になっており、彼らは音もなく甲板へと忍び込むことができた。
「二手に分かれる! 俺と半数は機関部へ! 残りは弾薬庫を目指せ! 目的は、爆破だ!」
伊庭は、小声で指示を出す。彼らは、まるで忍者のように、暗い船内を進んでいく。途中、数人の見張りの兵士と遭遇したが、伊庭の神業のような剣技と、隊士たちの連携で、音もなく仕留めていった。
機関部にたどり着いた伊庭たちは、驚きを隠せなかった。巨大な蒸気機関が、轟音と共に熱気を発している。
「こいつを止めれば、この船は動けなくなる……。だが、爆破するしかない!」
彼らは、持ってきた爆薬を、機関部の重要箇所に手際よく仕掛けていった。
一方、弾薬庫を目指した部隊も、目的地に到達していた。そこには、巨大な砲弾や火薬が、山のように積まれていた。
「ここに火を付ければ……!」
しかし、彼らの動きは、ついに新政府軍に察知された。警報が鳴り響き、船内に兵士たちが殺到してくる。
「敵襲! 曲者だ!」
激しい銃撃戦が始まった。狭い船内での戦闘は、壮絶を極めた。伊庭たちも、刀と銃を駆使して応戦するが、次々と仲間が倒れていく。
「八郎さん! もう時間がありません!」
人見勝太郎が叫ぶ。彼は、すでに片腕を負傷していた。
「分かっている! 勝太郎、お前は生きろ!」
伊庭は、爆薬の導火線に火を付けた。
「皆、海へ飛び込め!」
伊庭は、最後の力を振り絞り、追ってくる敵兵を斬り伏せながら、甲板へと駆け上がった。そして、燃え盛る導火線が短くなっていく様を見守ると、夜の海へと身を躍らせた。
直後、甲鉄艦の内部で、二つの巨大な爆発が連続して起こった。機関部と弾薬庫が、同時に破壊されたのだ。日本最強を誇った装甲艦「東艦」は、轟音と共に大きく傾き、船体から黒煙と炎を吹き上げ始めた。
「な、何だ!? 甲鉄艦が……!」
陸上で戦闘を指揮していた黒田清隆は、その光景に愕然とした。
五稜郭、弾薬庫。土方歳三は、静かにその時を待っていた。扉が蹴破られ、山田顕義が、血相を変えて飛び込んできた。
「土方歳三! ここにいたか! 往生際が悪いぞ!」
「……ようこそ、山田殿。地獄への道案内をしてやろう」
土方は、ゆっくりと立ち上がり、右手に隠し持っていた火種を見せた。
「なっ……貴様、まさか!」
山田の顔が、恐怖に引きつった。
「さらばだ」
土方は、静かに呟き、火種を足元の火薬の粉へと落とした。
閃光。
そして、五稜郭全体を揺るがす、空前絶後の大爆発。轟音と共に、弾薬庫は跡形もなく吹き飛び、巨大な火柱が天高く昇った。土方歳三は、宿敵・山田顕義を道連れに、その生涯を終えた。享年三十五。最後まで武士としての意地を貫き通した、壮絶な最期だった。
五稜郭は、断末魔の叫びを上げていた。城壁は崩れ、建物は燃え盛り、至る所で白兵戦が繰り広げられている。硝煙と土埃が立ち込め、味方と敵の区別もつきにくいほどの混乱状態だった。
その地獄のような喧騒の中、榎本武揚は、ブリュネ、荒井郁之助、そして数名の腹心と共に、五稜郭の裏手、海岸へと続く秘密の通路を目指していた。ユージン・ヴァン・リードの手配した小型蒸気船が、彼らを待っているはずだった。手には、共和国の未来を託す重要書類の詰まった鞄を固く握りしめている。
「急げ! もう時間がない!」
ブリュネが、後方を警戒しながら叫ぶ。すぐそこまで、新政府軍の追っ手が迫っていた。
角を曲がった、その瞬間だった。
「止まれ!」
鋭い薩摩訛りの声と共に、数名の兵士を引き連れた一人の男が、彼らの前に立ちはだかった。軍服は汚れ、顔には煤が付いているが、その精悍な顔つきと鋭い眼光は、紛れもなく新政府軍参謀・黒田清隆だった。
「……黒田殿!」
榎本は、思わず足を止めた。最悪のタイミングでの遭遇だった。
「榎本! 貴様か! やはり逃げるつもりだったか! 往生際が悪いぞ!」
黒田は、即座に腰の回転式拳銃を抜き、その銃口を真っ直ぐに榎本へと向けた。カチリ、と撃鉄を起こす音が、やけに大きく響いた。黒田の背後の兵士たちも、一斉に銃を構える。絶体絶命。
「……お久しぶりですな、黒田殿」
榎本は、死を覚悟しながらも、不思議と冷静だった。彼は、ゆっくりと黒田に向き直った。その顔には、恐怖の色はなかった。
「問答無用! 投降しろ! 賊軍の首魁として、捕縛する! さもなくば、ここで撃ち殺すまでだ!」
黒田の声は、怒りと、そして長きにわたる戦いの疲労が滲んでいた。榎本が素直に投降するとは思っていなかった。ここで抵抗すれば、射殺する。それが任務であり、当然の帰結のはずだった。
しかし、榎本は投降の意思を見せなかった。それどころか、彼は黒田の目を真っ直ぐに見据え、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「投降はしません。私には、まだ為すべきことがあるのです」
「何……だと……?」
黒田は、榎本のその態度に、一瞬、言葉を失った。この期に及んで、まだ何かをしようというのか。その傲慢さ、あるいは狂気とも取れる姿勢に、黒田は言いようのない感情を覚えた。
二人は、銃口を挟んで、しばし見つめ合った。燃え盛る建物の炎が、互いの顔を赤く照らし出す。黒田は、榎本の瞳の奥を覗き込もうとした。そこに、敗北者の諦めや、命乞いの懇願を探そうとした。
だが、そこにあったのは、黒田の予想とは全く違うものだった。
深い絶望の淵にありながら、なお揺るがぬ意志の光。現状をただ受け入れるのではなく、その先の未来を、遥か遠くを見据えているかのような、強い眼差し。それは、単なる覚悟や意地を超えた、何か尋常ならざる決意――狂気に近いほどの執念のようなものが、その瞳の奥で、静かに、しかし激しく燃えているように見えた。
(こ、この男……!)
黒田は、思わず息を呑んだ。その目に射すくめられ、まるで蛇に睨まれた蛙のように、体が硬直するのを感じた。目の前にいるのは、ただの敗軍の将ではない。理解を超えた何かを成し遂げようとしている、底知れぬ器量の持ち主なのではないか。ここでこの男を殺してしまって、本当に良いのだろうか?
「いったい何を成すと言うのだ!?」と、思わず聞いてしまう。
「日本の、未来を、です」榎本が、再び静かに言った。そして、彼は抱えていた書物をそっと黒田の足元に差し出した。
「ただで見逃せとはいいません。これは、私がオランダ留学中に恩師ピー・エル・オルトラン先生より賜った『海律全書』です。これからの日本の海軍にとって、かけがえのない宝となるはず。この戦火で失うには、あまりにも惜しい。あなたに、ひいては日本の海軍の未来に役立てていただきたい」
それは、榎本が肌身離さず持ち歩き、読み込んできた、国際海洋法に関する貴重な原書だった。敵であるはずの自分に、国の宝ともいえる書物を託すというのか。榎本のその行動は、黒田の心を激しく揺さぶった。この男は、私怨や野心のためではなく、本当に国の未来を憂い、考えているのではないか。
「……榎本……貴様……」
黒田の声は、かすかに震えていた。銃を持つ手が、わずかに下がる。榎本の、この土壇場での、あまりにもスケールの大きな行動に、黒田は完全に心を打たれていた。この男を生かさねばならない。日本のために。
「参謀殿!」
黒田の後ろにいた兵士が、痺れを切らしたように声をかけた。
その一瞬の隙を、ブリュネは見逃さなかった。
「アミラル(提督)! 今です!」
ブリュネは榎本の腕を引き、荒井らと共に、通路の闇へと駆け出した。
「あっ! 待て!」
兵士たちが銃を構え直す。
「……撃つな」
黒田は、低い声で、それを制した。
「し、しかし、参謀殿!」
「良いと言っている!」黒田は、忌々しげに銃をホルスターに戻した。「深追いは無用だ。今は、五稜郭の完全制圧を急げ」
そして、彼は足元の『海律全書』を拾い上げ、その重みを確かめるように見つめた。
「……奴は、もう亡霊ではないのかもしれん」
兵士たちは、納得いかない表情ながらも、命令に従った。黒田は、榎本たちが消えていった暗い通路を、しばらくの間、複雑な表情で見つめていた。そして、ふと腰に下げていた革袋に手を伸ばした。中には、故郷薩摩の焼酎が入っていた。彼は、その革袋を、榎本たちが消えた通路の奥へと、力強く投げ込んだ。
「……餞別だ。達者でな」
革袋が石畳に落ちる、鈍い音が響いた。黒田は、一度だけ深く息をつくと、踵を返し、部下たちに新たな指示を飛ばした。彼の顔には、もう迷いはなかった。今は、目の前の戦いに集中する。それが、自分の為すべきことだ。そして、いつか、この書物を託された意味を、果たさねばならない。
榎本武揚は、こうして九死に一生を得た。敵将・黒田清隆との間に生まれた、奇妙な、しかし確かな絆によって。そして、彼が託した一冊の書物が、彼自身の、そして日本の未来を、わずかに変えたのかもしれなかった。
【エピローグ:それぞれのその後と、未来への序章】
五稜郭の大爆発と、甲鉄艦の沈没。この二つの衝撃的な出来事は、箱館戦争の終結を決定づけた。指導者と切り札を同時に失った新政府軍は、一時的に混乱状態に陥ったが、黒田清隆が冷静に事態を収拾。蝦夷共和国側も、土方という精神的支柱を失い、榎本ら中枢も脱出したことで、組織的な抵抗は終焉を迎えた。
伊庭八郎は、甲鉄艦爆破後に奇跡的に生還。蝦夷地の広大な山野に身を潜め、新政府の支配に抵抗するゲリラ活動を開始する。遊撃隊の生き残りや、共和国の残党、北に向かった蟠竜丸や松岡磐吉、そして新政府の支配を嫌うアイヌの人々などをまとめ上げ、神出鬼没の戦いを繰り広げる。彼は「北の狼」と呼ばれ、新政府にとっては厄介な存在であり続けた。彼は榎本の帰還を、そして再起の時を待ち続けていたのだ。
ジュール・ブリュネとその部下たちは、 榎本武揚からこれまでの協力への深い感謝の言葉を受け、混乱が収まるのを待って、函館港に停泊していたフランス軍艦コエトロゴンに保護された。彼らは、蝦夷共和国での経験を胸に、フランスへと帰国の途についた。ブリュネは、帰国後、皇帝ナポレオン三世に宛てて書簡を送ったとされる。その内容は、蝦夷共和国の顛末、そして日本の内戦における英米の影響力増大への警鐘を鳴らすものだったという。
【解説】ブリュネの書簡と当時の国際情勢
史実では五稜郭決戦前にブリュネは退避し、フランスへ帰国しています。彼は戊辰戦争に際して、皇帝であるナポレオン三世へ書簡を送っています。当時のフランスは幕府側に肩入れしており、薩長を中心とする新政府の背後にイギリスがいると見て警戒していました。戊辰戦争は、単なる日本の内戦ではなく、英仏の代理戦争的な側面も持っていたと言われています。ブリュネの書簡には、薩長勢力内に英米の退役軍人などが存在し、フランスの国益に反する動きがある、といった内容を送っていたようです。
榎本武揚とその一行は無事に太平洋へ脱出。ハワイ王国総領事ヴァン・リードの手引きで、ハワイ王国へと亡命を果たす。当初は労働力として利用されかけるなどの苦難もあったが、榎本の卓越した知識と交渉力、そして持ち前の不屈の精神で、次第に現地の有力者や海外資本家との繋がりを築いていく。彼は、決して諦めていなかった。蝦夷共和国の再建という夢を。
大村益次郎は 蝦夷共和国の鎮圧を見届けた後、日本の軍制近代化に邁進していたが、その急進的な改革は多くの守旧派の恨みを買い、明治二年九月、京都で刺客に襲われる。一命は取り留めたものの、傷がもとで同年十一月に死去した。彼は臨終の床にあっても、日本の国防と軍隊の未来を案じ、口述で指示を出し続けたという。彼の死は、日本の近代化にとって大きな損失となった。
【そして、10年後…】
明治十二年(1879年)。蝦夷地(北海道と改称されていた)の深い森の中。焚き火を囲む、数人の男たち。その中心には、歴戦の古強者の風格を漂わせる、隻腕の男がいた。伊庭八郎である。彼の顔には深い皺が刻まれ、左袖は相変わらず空しく揺れているが、その右腕は太く逞しく、鋭い眼光は少しも衰えていない。
そこへ、一人の男が、案内人に連れられて現れた。洋装に身を包み、どことなく異国の空気をまとっているが、その知的な顔立ちは、紛れもなく榎本武揚だった。10年の歳月は、彼にも変化をもたらしていたが、その瞳の奥には、かつての理想の炎が、まだ確かに燃えていた。
「……伊庭君。久しぶりだな」
榎本が、静かに声をかけた。
伊庭は、ゆっくりと立ち上がり、榎本を見つめた。言葉はいらなかった。互いの目を見れば、10年間、それぞれがどのような思いで生きてきたのか、痛いほど分かった。
「お待ちしておりました、榎本総裁」
伊庭の声は、低く、力強かった。
榎本は、頷いた。そして、集まった者たちを見渡し、宣言した。
「皆、待たせたな。私は、約束通り、帰ってきた。我々の夢を、再びこの地に打ち立てるために」
彼は、伊庭に向き直り、右手を差し出した。
「さあ、蝦夷共和国の再建を始めようか」
伊庭は、その手を、力強く握り返した。
「はっ!」
二人の指導者の再会。それは、北の大地に、再び希望の灯をともす瞬間だった。榎本の知略と国際的なネットワーク、伊庭の武勇とゲリラ戦の経験、そして、この10年間、彼らを待ち続けた者たちの思い。それらが一つとなり、新たな戦いが始まろうとしていた。振り返る二人の後ろには、榎本武揚が準備してきた十隻を超える数の最新鋭艦が見える。
榎本と伊庭、そして残された同志たちは、夜明け前の薄明りの中、かつての夢の跡である五稜郭へと、力強く歩き出した。彼らの戦いは、まだ終わらない。北海の星は、再び輝きを取り戻そうとしていた。
(最終章 終わり)
こちらで歴史IFの物語は終了です。
海外留学経験を持つエリートで海軍や国際法知識は当代随一の榎本武明。
卓越した組織・戦闘指揮能力を持ち、武士の矜持と美学を貫き通す土方歳三。
忠義に厚く明朗快活で逆境に負けない不屈の心を持つ隻腕の剣士、伊庭八郎。
私の好きな三人の生き方を元に、物語を紡いで見ましたがいかがだったでしょうか。
この物語の結末は皆さまが考えて頂けると幸いです。
また武力衝突が起こるのか、それとも交渉の末別の道を模索するのか。
黒田清隆と榎本武揚は再開するのか、諸外国との関係はどうなっていくのか。
など、考えるだけでも楽しいですね。
ちなみに最後、榎本武揚が黒田清隆に「海律全書」を渡したのは史実へのオマージュです。
実際、榎本は焼失させるのは惜しいとして新政府軍へ「海律全書」渡します。これに感動した黒田清隆は酒樽を送り、降伏後も助命嘆願の為に剃髪までしました。
初めて書いた小説ですので、拙い出来だったかも知れません。
それでもお読みいただいた皆様、ありがとうございました!




