第九章:函館湾大海戦
前章のあらすじ: 健在の旧幕府艦隊が、蝦夷共和国の命運を賭け、函館湾に侵入する新政府艦隊に決戦を挑む。
明治二年(1869年)五月。五稜郭が新政府軍に完全包囲され、陸上での敗色が濃厚となる中、蝦夷共和国に残された最後の希望は、文字通り風前の灯火となっていた。旗艦「開陽丸」を失い、主力艦の多くが損傷した共和国海軍。しかし、彼らはまだ完全に牙を抜かれたわけではなかった。海軍奉行・荒井郁之助の下、修復可能な艦艇は応急修理を施され、函館港の片隅で、水兵たちは再起の機会を、あるいは最後の奉公の時を、固唾を飲んで待っていた。
「……もはや、これまでか……」
五稜郭での最後の評定から数日。陸戦での敗報が続く中、榎本武揚は、総裁として、ついに降伏交渉の開始を決断しようとしていた。彼の脳裏には、国際法に則った降伏手続きと、将兵の助命嘆願の文面が巡っていた。
しかし、その榎本の苦渋の決断を、覆しかねない事態が発生する。それは、海からの予想外の反撃だった。
発端は、一人の男の、不屈の闘志だった。
「まだだ! まだ終わらせん!」
共和国海軍の快速艦「回天丸」の艦長、甲賀源吾は、損傷した愛艦の甲板で、部下たちを前に叫んでいた。開陽丸沈没の海戦で、回天丸も大きな被害を受けたが、甲賀は諦めていなかった。彼は、夜陰に乗じて港内で応急修理を続け、なんとか再度の出撃が可能な状態まで回復させていたのだ。
「敵の甲鉄艦さえいなければ、我々の回天が負けるはずがない! 奴らの不意を突き、一矢報いるのだ! 開陽丸の、そして散っていった海の仲間たちの仇を討つ!」
甲賀の熱弁に、水兵たちの目に再び光が宿った。彼らは、死地に赴く覚悟を決めた。
同じ頃、もう一隻の快速艦「蟠竜丸」の艦長、松岡磐吉も、同様の決意を固めていた。蟠竜丸は、開陽丸沈没時に殿を務め、多くの敵艦を引きつけながらも、その小型軽量な船体と優れた機動力を活かして、奇跡的に大きな損傷を免れていた。
「甲賀殿が動くなら、我ら蟠竜も黙って見ているわけにはいかぬ!」
松岡は、腹心の部下たちと密かに計画を練っていた。
そして、五月十一日の未明。函館湾に停泊し、勝利に油断していた新政府軍艦隊を、悪夢が襲う。
「総員、抜錨! 目標、敵主力艦隊!」
甲賀源吾の号令一下、修復された回天丸が、闇に紛れて静かに函館港を滑り出した。続いて、蟠竜丸も音もなく動き出す。彼らの狙いはただ一つ、敵艦隊の中枢、特に指揮官が乗艦しているであろう有力艦への奇襲攻撃だった。
その頃、新政府軍の艦隊は、湾内に分散して停泊し、陸上での戦闘を支援するための艦砲射撃の準備や、兵員の休息に当てていた。まさか、壊滅したはずの共和国海軍が、このタイミングで反撃に出てくるとは、誰も予想していなかった。
「敵艦接近! 回天丸です!」
新政府軍の見張りが、闇の中から迫る艦影に気づいた時には、すでに遅かった。
「撃てぇ!」
回天丸は、敵艦隊の懐深くへと突入しながら、左右の舷側砲を続けざまに発射した。不意を突かれた新政府軍の艦船からは、驚きと混乱の叫び声が上がる。
「応戦しろ! 奴らを止めろ!」
しかし、密集して停泊していたため、すぐには有効な反撃ができない。回天丸は、その隙を突き、敵艦の間を縫うように疾走する。
「蟠竜、続け!」
松岡磐吉率いる蟠竜丸も、回天丸に呼応するように突入してきた。その小さな船体は、まるで水面を滑る忍びのように、闇の中を素早く移動する。
「狙うは、あの薩摩の旗艦だ!」
甲賀は、薩摩藩の有力艦「春日丸」に目標を定めた。この艦には、黒田清隆ら、討伐軍の首脳部が乗っている可能性が高い。
回天丸は、春日丸に急速に接近し、至近距離から砲撃を浴びせた。
「命中!」
砲弾は、春日丸の甲板に着弾し、火柱を上げた。春日丸の甲板は、一瞬にして混乱に陥った。
「くそっ! まさか、奴らがまだ……!」
春日丸に乗艦していた黒田清隆は、驚きと怒りに顔を歪めた。彼はすぐさま反撃を命じるが、回天丸はすでに次の目標へと向かっている。
一方、蟠竜丸は、別の敵艦に狙いを定めていた。
「衝角用意! あの輸送船に体当たりするぞ!」
松岡は、大胆不敵な命令を下した。蟠竜丸は小型艦であり、衝角攻撃は自殺行為に近い。しかし、彼は、一隻でも多くの敵を道連れにする覚悟だった。
「うおおおっ!」
蟠竜丸は、速度を上げ、大型の輸送船の側面に激突した。
「ゴォォン!」
鈍い衝撃音と共に、輸送船の船腹に大きな穴が開き、海水が流れ込み始める。蟠竜丸も、船首を大破したが、沈没は免れた。
この二隻の決死の奇襲攻撃は、新政府軍艦隊に大きな混乱と損害を与えた。数隻の艦船が損傷し、輸送船一隻が航行不能となった。何よりも、敵の意表を突いたことで、新政府軍の士気に動揺を与えたのだ。
しかし、多勢に無勢の状況は変わらない。夜が明け始めると、態勢を立て直した新政府軍の反撃が本格化する。そして、あの悪夢のような存在が、再びその姿を現した。
「甲鉄艦だ!」
東の空が白み始める中、函館湾の沖合に、ゆっくりと移動する甲鉄艦「東艦」のシルエットが浮かび上がった。その姿は、まるで死神のように、回天丸と蟠竜丸に迫ってきた。
「……やはり、奴が出てきたか」
甲賀は、唇を噛んだ。回天丸の砲では、甲鉄艦の装甲を破ることはできない。
「もはや、これまでか……。だが、最後まで!」
回天丸は、最後の力を振り絞り、甲鉄艦に向けて砲撃を加える。しかし、砲弾は虚しく弾き返されるだけだった。逆に、甲鉄艦の主砲が火を噴き、回天丸の船体を捉えた。
「ぐわあっ!」
先ほどの海戦で受けた損傷箇所に、再び砲弾が命中。回天丸の船体は、大きく傾き、浸水が急速に進み始めた。
「甲賀艦長! 退艦を!」
部下が叫ぶ。
「……やむを得んか……。総員、海へ飛び込め!」
甲賀は、無念の表情で命令を下した。回天丸は、奮戦空しく、函館湾の藻屑と消えていった。
残るは、蟠竜丸のみ。船首を大破しながらも、松岡は巧みな操船で、敵の追撃をかわし続けていた。
「まだだ! まだ沈むわけにはいかん!」
その時、五稜郭の方向から、新たな動きがあった。
「総裁! ご決断を!」
海軍の残存兵力をかき集めた荒井郁之助が、榎本武揚に必死に訴えていた。
「甲賀殿、松岡殿は、我々に最後の機会を与えてくれたのです! このまま、みすみす彼らを死なせるわけにはいきません!」
回天丸と蟠竜丸の決死の反撃は、五稜郭にも伝わっていた。それは、降伏を決意しかけていた榎本の心を、激しく揺さぶった。
(そうだ……。まだ、終わってはいない……。我々には、まだ戦う力が残されている……!)
榎本の脳裏に、ある策が閃いた。それは、国際法に関する彼の知識と、ブリュネらフランス人顧問の助言に基づいた、大胆なものだった。
「……よし、分かった! 荒井君、最後の賭けに出るぞ!」
榎本の指示は、迅速だった。残存していた小型蒸気船「千代田形」に、白旗と、共和国総裁の名で書かれた書状を持たせた使者を乗せ、甲鉄艦へと向かわせたのだ。
「何だ? 降伏の使者か?」
甲鉄艦の艦上で、黒田清隆は眉をひそめた。しかし、使者が届けた書状の内容は、彼の予想を裏切るものだった。
書状には、こう記されていた。
「貴軍の甲鉄艦は、元はアメリカ合衆国が建造し、中立義務に違反して我が共和国に引き渡される予定だったものを、貴軍が横取りしたものである。これは、明白な国際法違反であり、我々はこれを断じて認めない。よって、戦闘行為を直ちに停止し、国際的な調停の場で、その正当性を問うことを要求する。もし、この要求を無視し、戦闘を継続するのであれば、貴軍は国際社会から、無法な侵略者として非難されるであろう」
「な……何を馬鹿な!」
黒田は、書状を叩きつけた。榎本の主張は、詭弁に近いものだったが、全く根拠がないわけでもなかった。甲鉄艦の購入経緯には、確かに複雑な事情があったのだ。そして、当時、列強各国は日本の内戦に神経を尖らせており、国際法違反という指摘は、新政府にとって無視できないものだった。
「……小賢しい真似を……。だが、ここで下手に戦闘を続ければ、列強に介入の口実を与えることになりかねん……」
黒田は、苦々しい表情で、攻撃停止の信号を送るよう命じた。
榎本の放った「国際法」という矢は、土壇場で、新政府軍の動きを鈍らせる効果を発揮したのだ。
この予期せぬ「停戦」の時間は、蟠竜丸にとって、まさに天佑となった。松岡磐吉は、この隙を突き、損傷した船体を巧みに操り、箱館湾を脱出。一路、北へと向かった。彼の目的地は、共和国がまだ支配権を維持している、蝦夷地の北部、あるいは樺太だった。再起を図るためである。
函館湾の海戦は、こうして、奇妙な形で一時的な終結を迎えた。共和国海軍は、回天丸を失い、事実上壊滅状態となったが、蟠竜丸は脱出に成功。そして何よりも、榎本の外交的駆け引きによって、新政府軍の全面的な攻勢を、一時的に食い止めることができたのだ。
五稜郭では、この予想外の展開に、安堵と、そして新たな決意が生まれていた。
「……やったか」
榎本は、震える手で汗を拭った。彼の知略が、土壇場で功を奏したのだ。しかし、これが根本的な解決でないことも、彼は理解していた。
「……だが、これで時間が稼げた。我々にはまだ、やれることがあるはずだ……」
一方、土方歳三は、この海戦の結果を、複雑な思いで受け止めていた。
「……甲賀も、松岡も、見事な戦いぶりだったな……。それに引き換え、榎本さんのやり方は……」
彼は、榎本の外交策を、武士として潔しとしない気持ちもあったが、同時に、それが一時的とはいえ敵の足を止めたという事実も認めざるを得なかった。
伊庭八郎もまた、この海戦の顛末を、五稜郭から見守っていた。
「……これが、戦いなのか……。力だけではない、知恵や、駆け引き……。そして、運……」
彼は、ますます、戦というものの奥深さと、複雑さを感じていた。そして、脱出した蟠竜丸の行く末に、わずかな希望を託したい気持ちにもなっていた。
函館湾に、一時的な静寂が戻った。しかし、それは嵐の前の静けさに過ぎない。海戦は終わっても、陸での包囲は続いている。食料も弾薬も、刻一刻と尽きていく。
北斗の星は、まだ落ちてはいない。しかし、その輝きは、風前の灯火のように揺らめいていた。蝦夷共和国の、そして榎本、土方、伊庭たちの最後の戦いは、陸上の五稜郭へと、その舞台を移そうとしていた。
(第九章 終わり)
第十章(最終章):五稜郭、燃ゆ ~蝦夷地の果て~
次をお楽しみに!




