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第八章:北斗、落つるか ~決戦前夜~

前回のあらすじ: 遊撃隊頭取・伊庭八郎が、名門剣術道場の跡取りとしての過去、左腕を失った戦い、そして今の戦いへの決意を回顧する。

明治二年(1869年)四月下旬。箱館湾を舞台に繰り広げられた海戦は、蝦夷共和国にとって悪夢のような結末を迎えようとしていた。共和国海軍の誇る旗艦「開陽丸」は、新政府軍の装甲艦「東艦(甲鉄艦)」の圧倒的な火力と防御力の前に、為す術もなかった。


「総員、退艦用意! 急げ!」

海軍奉行・荒井郁之助の悲痛な声が、大破し、黒煙を吹き上げながら傾きゆく開陽丸の甲板に響き渡った。側面装甲を打ち破られ、機関部にも損傷を受けた開陽丸は、もはや戦闘続行はおろか、浮いていることすら困難な状態だった。


「荒井殿! 我々も援護します!」

回天丸艦長・甲賀源吾が叫び、敵艦の砲火を浴びながらも開陽丸に接近しようとする。蟠竜丸艦長・松岡磐吉も、小回りの利く船体を駆使して敵の注意を引きつけようと奮闘していた。


しかし、多勢に無勢。そして何より、甲鉄艦の存在が大きすぎた。新政府軍の軍艦は、開陽丸にとどめを刺さんと集中砲火を浴びせ、回天丸や蟠竜丸の接近を阻んだ。


「もはや、これまでか……。我が開陽よ……。許せ……」

荒井は、唇を噛み締め、燃え盛る愛艦を見つめた。オランダで建造され、日本の海軍の未来を託されたはずの最新鋭艦が、今、目の前で海の藻屑と消えようとしている。それは、蝦夷共和国の制海権の喪失を意味していた。


ボートに移乗し、辛うじて陸地を目指す生存者たちの目に、巨大な水柱と共に開陽丸が海底へと姿を消していく光景が焼き付いた。共和国海軍は、事実上壊滅した。回天丸、蟠竜丸なども損傷を負い、かろうじて戦線を離脱するのが精一杯だった。


この海戦の結果は、陸上で戦う共和国軍にとって、致命的な打撃となった。海からの支援が絶たれただけでなく、新政府軍は制海権を完全に掌握し、兵員や物資を自由に陸揚げできるようになったのだ。


「……開陽丸が、沈んだだと……?」

五稜郭で戦況報告を受けていた榎本武揚は、絶句した。彼の描いていた、海軍力を背景とした国際社会へのアピールという戦略は、ここについえた。顔面は蒼白になり、総裁としての威厳も、今は見る影もない。


「総裁! しっかりなされませ!」副総裁の松平太郎が声をかけるが、榎本の動揺は隠せない。


その頃、箱館市街や各所の防御陣地では、陸戦が熾烈しれつを極めていた。新政府軍は、圧倒的な兵力と最新鋭のライフル銃、そしてアームストロング砲などの火砲を投入し、波状攻撃を仕掛けてきた。


弁天台場では、土方歳三自らが指揮を執り、必死の防戦を続けていた。

「撃て! 撃ち続けろ! 敵を近づけるな!」

土方は、刀を抜き放ち、胸壁の上から兵士たちを叱咤激励する。彼の着物の袖は、硝煙と返り血で汚れていた。


新政府軍の兵士たちは、薩摩・長州を中心とした精鋭であり、その突撃は凄まじいものがあった。

「うおおおっ!」

「死ねい!」

銃剣を構えた新政府軍兵士が、土嚢どのうを乗り越え、台場内へと突入してくる。


「新選組、推参!」

相馬主計、島田魁ら、土方の腹心たちが、迎え撃つ。かつて京洛のちまたで鍛え上げた剣技は、今も健在だった。白刃が閃き、銃声と怒号の中で、壮絶な白兵戦が展開される。


「土方副長! 敵の数が多すぎます! このままでは……!」

島田魁が、巨体を揺らしながら叫んだ。彼の額からは、血が流れている。


「弱音を吐くな! 俺たちが退けば、五稜郭が危うくなる! ここで食い止めるんだ!」

土方は、鬼神のごとく刀を振るい、迫りくる敵兵を斬り倒していく。しかし、敵は倒しても倒しても、次から次へと現れる。弾薬も尽きかけていた。共和国軍の兵士たちは、次々と銃弾に倒れ、あるいは銃剣に貫かれていく。


「副長! 危ない!」

相馬主計が叫んだ瞬間、土方のすぐそばで砲弾が炸裂した。爆風と土砂が、土方を襲う。

「ぐっ……!」

土方は、地面に叩きつけられ、一瞬意識を失いかけた。


「副長! ご無事ですか!」

相馬らが駆け寄る。幸い、大きな怪我はなかったが、土方は己の限界を感じ始めていた。

(これまでか……。だが、まだだ……。まだ、死ねん……)


一方、函館山の麓で奇襲攻撃を仕掛けていた伊庭八郎の遊撃隊も、苦戦を強いられていた。初期の奇襲は成功し、敵に混乱を与えたものの、すぐに態勢を立て直した新政府軍の反撃は激しく、遊撃隊は逆に包囲されつつあった。


「八郎さん! 敵が背後にも回り込んできます!」

人見勝太郎が、焦りの声を上げる。


「くそっ! さすがに数が違いすぎるか……」

伊庭は、馬上で銃を撃ちながら、状況を判断しようとした。右腕一本での戦闘は、長引けば体力の消耗も激しい。

「一旦退くぞ! 山中に逃げ込み、機を窺う!」


伊庭は、撤退の合図を送った。しかし、退路にはすでに新政府軍の兵士たちが待ち構えていた。

「しまった!」


「伊庭八郎! 覚悟!」

新政府軍の士官らしき男が、刀を構えて伊庭に斬りかかってきた。

「させるか!」

伊庭は、馬を操りながら、右手一本で刀を受け止める。金属音が激しく鳴り響く。馬上での一騎打ち。


伊庭の剣技は、隻腕とは思えぬほど巧みだったが、相手もかなりの手練れだった。数合打ち合ったところで、伊庭の馬が敵の銃弾を受け、いななきと共に崩れ落ちた。


地面に投げ出された伊庭に、敵兵たちが殺到する。

「八郎さん!」

人見らが助けに入ろうとするが、敵の数が多い。絶体絶命かと思われたその時、


「援軍だ! 陸軍奉行、大鳥様の部隊だ!」

後方から、共和国軍の別部隊が現れ、新政府軍の背後を突いた。大鳥圭介が率いる伝習隊の兵士たちだった。


「伊庭君! 無事か!」

大鳥が馬で駆けつけながら叫ぶ。

「大鳥殿! 助かりました!」

伊庭は、辛うじて窮地を脱した。


しかし、戦況全体が好転したわけではなかった。箱館市街にも戦火は及び、各所で市街戦が繰り広げられていた。千代ヶ岱陣地も陥落寸前となり、共和国軍の防衛線は、次々と破られていく。


「もはや、これまで……。全軍、五稜郭へ撤退せよ!」

陸軍奉行・大鳥圭介は、苦渋の決断を下した。各地で奮戦していた部隊に、撤退命令が出された。


撤退は、困難を極めた。追撃してくる新政府軍と戦いながら、負傷者を運び、五稜郭を目指す。多くの兵士が、その道中で命を落とした。箱館の町は炎に包まれ、住民たちの悲鳴が響き渡る。


土方歳三も、相馬主計らに半ば強引に説得され、弁天台場を放棄し、少数の手勢と共に五稜郭へと向かった。彼の顔には、屈辱と怒りの色が濃く浮かんでいた。

(……俺は、また負けたのか……。近藤さん……。すまねえ……)


伊庭八郎も、遊撃隊の生き残りと共に、五稜郭へとたどり着いた。彼の体は泥と汗にまみれ、その表情には深い疲労と、失われた仲間たちへの悲しみが刻まれていた。


五稜郭。かつて共和国建国の希望の象徴だった星形の要塞は、今や最後の砦となっていた。城内には、敗走してきた兵士たち、負傷者、そして一部の避難民が溢れ、混乱を極めていた。


食料は、もはや底をつきかけていた。弾薬も、残りは僅か。薬も不足し、負傷者たちは十分な手当ても受けられずに、苦痛の声を上げていた。


「水……水をくれ……」

「痛い……痛いよ……」

野戦病院と化した建物からは、うめき声が絶え間なく聞こえてくる。


兵士たちの士気は、地に落ちていた。絶望的な状況に、自暴自棄になる者、故郷を思って涙する者、そして、ただ呆然と空を見上げる者……。


フランス人顧問のブリュネやカズヌーヴも、五稜郭に籠城していた。彼らは、最後まで共和国軍と共に戦う道を選んだのだ。しかし、その表情にも、諦めの色が浮かび始めていた。

「……もはや、軍事的な勝利は不可能でしょう、アミラル」

ブリュネは、榎本に静かに告げた。


この絶望的な状況の中で、共和国首脳部による最後の評定が、旧箱館奉行所庁舎の一室で開かれた。榎本武揚、松平太郎、永井尚志、大鳥圭介、土方歳三、そして伊庭八郎。共和国の中枢を担ってきた男たちが、重い表情で顔を突き合わせていた。部屋の空気は、鉛のように重かった。


最初に口を開いたのは、総裁・榎本武揚だった。彼の声は、かすかに震えていた。

「……諸君、ご覧の通り、我々の状況は絶望的だ。海軍は壊滅し、陸軍も大きな損害を受け、五稜郭は完全に包囲された。食料も弾薬も、もはや幾ばくも残ってはいない……」

彼は、一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。

「……最早、戦いを続けることは、兵たちの命を無為に失わせるだけかもしれん。私は……総裁として、将兵の助命を条件に、新政府と降伏交渉に入るべきではないかと考えている。国際法に則り、最後まで、彼らの命を守る責任があると思うのだ」


榎本の提案に、一座は水を打ったように静まり返った。降伏。それは、誰もが心のどこかで考えていたことかもしれないが、口に出すにはあまりにも重い言葉だった。


「……ふざけるな!!」

沈黙を破ったのは、土方歳三だった。彼は、椅子を蹴立てるように立ち上がり、榎本を睨みつけた。

「降伏だと!? 今更、敵に命乞いをしろと言うのか! それが、武士のすることか! 我々は、死に場所を求めて、ここまで来たのではないのか!」


「土方君、落ち着きたまえ!」松平太郎が制するが、土方の怒りは収まらない。

「俺は断じて認めん! 降伏など、断固拒否する! 最後の一兵になるまで戦い抜き、この五稜郭を枕に討ち死にする! それが、俺の道だ! 臆病者は、勝手に降伏するがいい!」


「土方殿の言う通りでござる!」土方に同調する声も上がった。特に、新選組や彰義隊の生き残りなど、最後まで戦うことを望む者たちは、土方の言葉に強く共感した。


「しかし、土方君」今度は、老練な永井尚志が、静かに語りかけた。「玉砕が、果たして最善の道だろうか? 我々の目的は、旧幕臣の安寧ではなかったのか? ここで我々が全滅すれば、残された者たちはどうなる? もし、降伏によって、少しでも多くの命が救われ、将来に繋がる道が残るのであれば、それを選ぶことも、また指導者の責任ではないだろうか?」


「永井様の仰ることも、一理あります」陸軍奉行の大鳥圭介も続いた。「無駄死には、避けるべきです。降伏するにしても、ただ無条件に降るのではなく、我々の主張を伝え、できる限り有利な条件を引き出すよう、交渉すべきでしょう。例えば、蝦夷地の開拓に関する我々の知識や経験を提供することと引き換えに、将兵の寛大な処置を求めるとか……」


降伏か、玉砕か。穏健派と強硬派の意見は、真っ向から対立した。評定の間は、再び激しい議論の場となった。


榎本は、総裁としての責任感から、将兵の助命を最優先に考え、降伏交渉の道を探ろうとする。

土方は、武士としての美学と、死んでいった仲間たちへの思いから、徹底抗戦と玉砕を主張する。

永井、松平、大鳥らは、現実的な判断として降伏はやむなしと考えつつも、少しでも有利な条件を引き出そうとする。


その中で、伊庭八郎は、黙って議論を聞いていた。彼の心は、激しく揺れ動いていた。土方の言う、武士としての意地も分かる。榎本の言う、命の重さも分かる。どちらが正しいのか、彼には判断がつかなかった。


(俺は……どうしたいのだろう……?)


仲間たちの顔が、次々と脳裏に浮かんだ。共に戦い、傷つき、そして死んでいった者たち。今も、五稜郭の中で、息も絶え絶えに苦しんでいる負傷者たち。そして、自分を信じてついてきてくれた、遊撃隊の隊士たち。


(彼らを、死なせたくない……。だが、敵に無様に降ることも、したくない……)


伊庭は、ふと顔を上げた。そして、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。

「……降伏か、玉砕か、どちらか一方を選ぶ必要はないのかもしれません」

彼の言葉に、一同の視線が集まった。


「……どういう意味だ、伊庭君?」榎本が尋ねる。


「我々は、最後まで戦う。しかし、それは犬死にするためではない。我々の誇りを示すため、そして、敵に我々の力を認めさせ、少しでも有利な条件で、この戦いを終わらせるためです」

伊庭は続けた。

「降伏するにしても、ただ武器を捨てるのではなく、最後まで抵抗し、敵に相応の損害を与えた上で、堂々と交渉する。あるいは……あるいは、我々の一部だけでも、この五稜郭を脱出し、再起を図るという道もあるかもしれません」


伊庭の提案は、玉砕でも無条件降伏でもない、第三の道を示唆するものだった。それは、現実的ではないかもしれない。しかし、絶望的な状況の中で、わずかな希望の光を見出そうとする、彼の必死の思いが込められていた。


土方は、伊庭の言葉に、少しだけ表情を和らげたように見えた。榎本も、永井も、松平も、大鳥も、伊庭の言葉を吟味するように、黙り込んだ。


結局、この最後の評定でも、明確な結論が出ることはなかった。降伏か、抗戦か。共和国の指導者たちは、それぞれの考えを胸に、運命の時を待つことになった。


評定が終わった後、伊庭は一人、五稜郭の胸壁に立った。夕暮れの空が、赤く染まっている。眼下には、新政府軍の無数の篝火かがりびが見え、五稜郭を幾重にも取り囲んでいた。


(……明日か、明後日か……。いずれにせよ、最後の時が来る……)


伊庭は、右腕で、腰の刀の柄を強く握りしめた。そして、空にかすかに輝き始めた北斗七星を見上げた。


(北の星よ……。俺たちの夢は、ここで潰えるのか……。いや、まだだ。まだ、終わらせない……)


隻腕の剣士は、静かに覚悟を決めた。自分の信じる道のために、最後まで戦い抜こう、と。たとえ、その先に待つのが、どのような運命であろうとも。


五稜郭に、重く、静かな夜が訪れようとしていた。それは、嵐の前の静けさ。蝦夷共和国の、そして、そこに生きた者たちの、運命を決する戦いが始まろうとしていた。


(第八章 終わり)

第九章:函館湾大海戦

次をお楽しみに!

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