表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

第一章 北の星、輝き始まる

これは歴史の「IF」の物語である。

歴史に「もしも」はないが、物語の上ではそれがあり得る。

幕末期、榎本武揚率が抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸ほか八艦で江戸を脱出し、北に向うところから始まる。史実で北の地に追い払われ蝦夷地にて共和国を作るも新政府軍に降伏した面々。この物語での結末はどうなるのであろうか。(※全十章+三つの閑話)


海外留学経験を持つエリートで海軍や国際法知識は当代随一の榎本武明。

卓越した組織・戦闘指揮能力を持ち、武士の矜持と美学を貫き通す土方歳三。

忠義に厚く明朗快活で逆境に負けない不屈の心を持つ隻腕の剣士、伊庭八郎。

三人の個性が時にはぶつかり合い、時には歩み寄りを模索する。

慶応四年(明治元年)八月十九日、夜陰。品川沖に集結した八隻の軍艦は、時代の大きなうねりから弾き出された者たちの最後の希望を乗せ、静かに錨を上げていた。


「総員、出航用意!」


旗艦「開陽丸」の甲板に、凛とした声が響く。声の主は、この脱出行の首魁、榎本武揚えのもとたけあき。元幕府海軍副総裁であり、オランダで最新の海軍術と国際法を学んだ俊才である。齢三十三。その若さにもかかわらず、彼の肩には二千余名の旧幕臣とその家族、そして日本の未来をも左右しかねない重責がのしかかっていた。


「本当に、行くのですね、榎本様」


隣に立つのは、元若年寄という幕府の重職にあった永井尚志ながいなおゆき。白髪の混じる老練な政治家は、不安と期待の入り混じった表情で、闇に沈む江戸の街を見つめていた。


「行くしかありませぬ、永井様。徳川宗家は駿府七十万石にて存続を許されたとはいえ、我ら旧幕臣の全てが安住できる土地は、もはや日の本には残されておりませぬ。ならば、我らの手で新天地を切り拓くまでのこと」


榎本の声には、揺るぎない決意が込められていた。彼の脳裏には、オランダで学んだ知識、そして国際法に則った「国家」の理想像が描かれていた。それが、この無謀とも思える脱出行を支える力の源だった。


この艦隊――開陽丸、回天丸、蟠竜丸ばんりゅうまる千代田形ちよだがた神速丸じんそくまる美賀保丸みかほまる咸臨丸かんりんまる長鯨丸ちょうげいまる――は、旧幕府が精魂込めて育て上げた海軍力の残滓であり、最後の切り札だった。史実では、この脱出行の直後、房総沖で暴風雨に遭遇し、咸臨丸と美賀保丸が再起不能な損害を受け、開陽丸も少なからぬ被害を受けた。だが、この「もしも」の世界では、天候は彼らに味方していた。夜空には星が瞬き、海は凪いでいた。


「心配は要りませぬ。我が『開陽』はオランダで建造された最新鋭の軍艦。この程度の航海、赤子の手をひねるようなもの」

榎本は努めて明るく言った。その自信に満ちた態度は、周囲の不安をいくらか和らげた。


【解説】旧幕府艦隊の脱出

1868年、戊辰戦争で敗北した旧幕府勢力の一部は、新政府への降伏を拒否。海軍副総裁・榎本武揚を中心に、最新鋭艦「開陽丸」をはじめとする艦隊を率いて江戸を脱出しました。彼らの目的は、東北地方で新政府軍と戦っていた奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいを支援し、旧幕臣たちの新たな活路を蝦夷地(現在の北海道)に求めることでした。


艦隊の一翼、「回天丸」の甲板には、別の男が腕を組み、漆黒の海を見つめていた。鋭い眼光、厳しく引き結ばれた口元。新選組副長として京洛の巷にその名を轟かせた、土方歳三ひじかたとしぞうである。


「……ふん、星が綺麗だぜ」


隣に立つのは、腹心であり新選組最後の隊長とも呼ばれる相馬主計そうまかずえ


「土方副長。いよいよですな」

「ああ。ここが正念場だ。俺たちが死に場所を求めて彷徨う亡霊になるか、それとも新天地で武士の意地を見せるか……全てはこれからよ」


土方の脳裏には、鳥羽伏見の敗戦、流山での盟友・近藤勇との別離、宇都宮、会津での激戦、そして多くの仲間たちの死顔が焼き付いていた。彼はもはや、失われた幕府への忠誠心だけで動いているのではなかった。死んでいった者たちへの弔い、そして、最後まで自分を信じてついてきてくれた者たちを守り抜くという、鬼の副長としての最後の意地が、彼を突き動かしていた。


陸軍奉行並りくぐんぶぎょうなみ、松平太郎様もご乗艦とか。あの方となら、陸の戦も上手くやりましょう」

「松平殿か……まあ、頼りにはなるだろう。だが、戦は数や役職だけじゃねえ。最後にものを言うのは、兵一人一人の覚悟だ。榎本さんは甘ぇところがあるからな、俺たちがしっかり手綱を握っておかねえと」


土方は、榎本の理想主義的な側面をやや危ういものと感じていた。海軍のエリートである榎本と、叩き上げの実戦指揮官である自分とでは、見ている世界が違う。それでも、蝦夷地へ向かうという一点においては、利害は一致していた。


「それにしても、フランスの軍人まで乗ってるとはな。ブリュ……何とか言ったか?」

「ジュール・ブリュネ大尉殿でありますな。カズヌーヴ殿と共に、フランス軍事顧問団から我々に合流されたとか」

「ふん、異人の助けを借りねばならんとは、武士も落ちたもんだ。だが、使えるものは使うしかねえか」


土方の傍らには、島田魁しまだかいら、数少なくなった新選組の隊士たちが控えていた。彼らの顔には、決死の覚悟が滲んでいた。


【解説】新選組と土方歳三

新選組は、幕末の京都で反幕府勢力の取り締まりにあたった武装集団です。副長の土方歳三は、厳しい規律と卓越した戦闘指揮能力で「鬼の副長」と恐れられました。戊辰戦争では各地を転戦し、榎本艦隊に合流して箱館へ向かいました。史実では蝦夷共和国の軍事を支え箱館戦争で戦死しますが、この物語では結末はわかりません


別の船、「蟠竜丸」の甲板では、若々しい笑い声が響いていた。


「はっはっは! いやあ、海の上というのは実に気持ちが良いものだな! 風が心地よい!」


声の主は、伊庭八郎いばはちろう。名門・心形刀流しんぎょうとうりゅう宗家の嫡男にして、元将軍親衛隊「奥詰」のエリート剣士。そして、箱根の戦いで左腕を失いながらも、隻腕で戦場に復帰した遊撃隊の若き頭領である。その色白の美貌と、隻腕というハンディキャップを感じさせない明朗快活さで、多くの兵から慕われていた。


「八郎さん、少しはしゃぎすぎですよ。夜風は体に毒ですぜ」

声をかけたのは、遊撃隊の隊士であり、伊庭の片腕ともいえる存在の人見勝太郎ひとみかつたろう


「何を言うか、勝太郎。この程度の風で参るような柔な体ではないわ。それより、見てみろ、あの星を! 江戸で見る星とはまた違う、澄んだ輝きだ。まるで我々の前途を祝してくれているようだ!」


伊庭の左袖は、力なく垂れている。しかし、その立ち姿には一点の曇りもなく、右腕一本で腰の刀を扱ってみせる様は、常人離れした鍛錬の賜物だった。


「前途、ですか……。八郎さんは、本当にこの先に希望があるとお思いで?」

人見は少し不安げに尋ねた。遊撃隊もまた、多くの仲間を失いながらここまで来たのだ。


「あるさ! いや、俺たちが作るんだよ、希望を! 榎本さんは頭が切れるし、土方さんだって戦には滅法強い。それに、俺たちにはまだ剣がある! …まあ、これからは鉄砲の時代かもしれんがな」

伊庭は悪戯っぽく笑った。

「それに、ブリュネ殿やカズヌーヴ殿のような、西洋の戦に詳しい方々もいる。学ぶことは多いぞ」


彼は、失われた左腕と、変わりゆく時代の戦い方を冷静に受け止めていた。剣一筋に生きてきた自分にとって、それは大きな変化だったが、悲観はしていなかった。むしろ、新しい知識や技術を吸収することに意欲を燃やしていた。


「榎本さんと土方さん、上手くやっていけると良いのですが……」

「はは、確かにあの二人は水と油かもしれんな。だが、目指す港は同じはずだ。俺が間に入って、上手く潤滑油になってみせるさ。それが、俺のような若輩者の役目だろう?」


伊庭の屈託のない笑顔は、周囲の兵士たちの心を和ませた。たとえ明日、死ぬかもしれなくとも、この頭領と共にいる限り、前を向いて戦える。兵士たちはそう感じていた。


【解説】伊庭八郎と遊撃隊

伊庭八郎は、江戸の名門剣術道場・練武館の跡取りで、若くしてその才能を認められ、将軍の親衛隊を務めました。戊辰戦争では遊撃隊を率いて奮戦しますが、箱根戦争で左腕を失う重傷を負います。しかし、驚異的な精神力で回復し、隻腕の剣士として戦線に復帰。榎本艦隊に合流しました。史実では箱館戦争で重傷を負い、それが元で亡くなりますが、この物語では結末はわかりません。


艦隊は順調に北上を続けた。途中、多少の時化に見舞われることはあったが、榎本の的確な指示と各艦長の奮闘により、史実のような大きな損害を出すことなく、八隻全てが航行可能な状態を保っていた。船酔いに苦しむ者、故郷に残した家族を思う者、先の見えない戦いに不安を募らせる者……様々な思いが狭い船内に渦巻いていた。


土方は、持ち前の厳格さで規律維持に努めた。少しでも緩みを見せる隊士がいれば、容赦なく鉄拳が飛んだ。

「いいか、てめえら! ここはもはや遊びじゃねえんだ! 一瞬の油断が命取りになる! 陸に上がればすぐに戦だ! それを忘れんじゃねえぞ!」

その厳しさの裏にある、仲間を守りたいという強い意志を、隊士たちは理解していた。


一方、伊庭は持ち前の明るさで、沈みがちな船内の空気を和ませようとした。手慰みに得意の剣技(もちろん右腕一本で!)を披露したり、身分に関係なく兵士たちに声をかけ、冗談を飛ばしたりした。

「おい、そこの若い衆! 顔色が悪いぞ。船酔いか? まあ無理もないが、蝦夷に着けば美味い魚が食えるぞ! それを楽しみに、もうひと頑張りだ!」

彼の周りには、自然と人の輪ができた。


榎本は、船室で海図や国際法の書物を広げ、来るべき時に備えていた。傍らには、フランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ大尉とアンドレ・カズヌーヴの姿もあった。


「ムッシュ・ブリュネ、カズヌーヴ君。蝦夷地に我々の拠点を築いた後、貴国フランスをはじめ、列強諸国に我々の存在をどう認めさせるか、それが鍵となる」

榎本は流暢なフランス語で語りかけた。


「ウィ、提督アミラル。まずは、我々が蝦夷地を実効支配しているという事実を示すことが重要です。そして、国際法に則った公正な統治を行うこと。我々はそのための助言を惜しみません」

ブリュネは、冷静に、しかし熱意を込めて答えた。彼らはフランス本国の意向とは別に、個人的な信念と冒険心から、この旧幕府軍に身を投じた男たちだった。


「頼りにしている。我々は単なる反乱軍ではない。新政府の圧政から逃れ、自らの手で新たな国を打ち立てようとする、独立した勢力なのだということを、世界に示さねばならん」


慶応四年(明治元年)十月十九日。江戸を出て二ヶ月。長旅と多少の疲労はあったものの、艦隊はついに目的地の蝦夷地、噴火湾(内浦湾)の入口へと到達した。


「見えました! 蝦夷地のおかです!」

見張り台からの声に、甲板にいた誰もが身を乗り出した。霧の合間から、荒々しくも雄大な海岸線が見える。まだ雪には早い晩秋の蝦夷地は、どこか物寂しく、しかし、これから始まるであろう新しい歴史の舞台としての厳かさを漂わせていた。


「よし、全艦、鷲ノわしのき沖に投錨!」

榎本の号令一下、八隻の軍艦は隊列を整え、現在の北海道森町にあたる鷲ノ木沖へと進んだ。


「ここが……蝦夷か」

土方は、初めて見る北の大地に、感慨とも決意ともつかぬ複雑な表情を浮かべた。


「おお、広いなあ! 空気も美味い!」

伊庭は、まるで遠足にでも来たかのように、目を輝かせている。


十月二十日早朝、ついに上陸が開始された。先陣を切るのは、土方歳三率いる陸軍部隊と、伊庭八郎率いる遊撃隊である。総勢およそ千五百。彼らは小舟に分乗し、静まり返った鷲ノ木の浜辺へと降り立った。


「斥候を出せ! 周辺に敵影がないか確認しろ!」

土方の鋭い声が飛ぶ。隊士たちは緊張した面持ちで、素早く散開していく。


「八郎さん、どうやら敵の備えはなさそうですぜ」

斥候から戻った人見が報告する。


「うむ。箱館府の連中も、まさか我々がこれほどの大軍勢で、しかも無傷で現れるとは思っていなかったのだろう。まずは幸先が良いな」

伊庭は頷き、右腕で刀の柄を握りしめた。


上陸した部隊は、直ちに箱館・五稜郭ごりょうかくを目指して進軍を開始した。五稜郭は、幕府が北方防備の拠点として築いた、当時としては最新鋭の星形要塞である。ここを拠点とすることが、榎本たちの当初からの計画だった。


【解説】五稜郭

五稜郭は、江戸時代末期に箱館(現在の函館市)に建造された星形の要塞です。ヨーロッパの城塞都市を参考に設計され、大砲による攻撃に対応した構造になっていました。戊辰戦争の最終局面である箱館戦争では、榎本武揚率いる旧幕府軍(蝦夷共和国軍)の本拠地となりました。


一方、榎本が座乗する開陽丸をはじめとする艦隊は、海路から箱館港を目指した。圧倒的な海軍力を背景に、箱館府知事・清水谷公考しみずだにきんなるに降伏を勧告するためである。


しかし、彼らが箱館港に到着する前に、陸路を進んだ土方・伊庭の部隊の威容と、艦隊接近の報に恐れをなした清水谷知事は、早々に五稜郭を放棄し、青森へと逃走していた。


「何だと? 敵将はすでに逃げた後だと?」

五稜郭に到達した土方は、呆気にとられたような表情を浮かべた。門は開け放たれ、内部にはほとんど人影がなかった。


「ははは、戦わずして勝つ、とはこのことか! 清水谷とやら、よほどの臆病者と見える!」

伊庭は笑い飛ばした。


こうして、旧幕府軍は一滴の血も流すことなく、蝦夷地の拠点である箱館と五稜郭の占領に成功したのである。十月二十六日には、榎本以下の首脳陣も五稜郭に入り、ここに正式な本拠地が定まった。


箱館湾には、開陽丸を筆頭とする八隻の軍艦が威容を誇示するように停泊していた。その光景は、箱館の住民たちに驚きと畏怖を与えると同時に、一部の旧幕府に心を寄せる者たちには、新たな時代の到来を予感させた。


占領後の数日間は、治安維持と戦後処理に追われた。逃げ遅れた箱館府の役人や、抵抗を試みた少数の兵士が捕らえられたが、榎本は寛大な処置を命じた。


「無用な殺生は避けよ。我々は侵略者ではない。この地に新たな秩序を築きに来たのだ」


その一方で、今後の体制をどうするか、早急に決定する必要があった。五稜郭の一室に、榎本、永井、そして陸軍奉行並に任じられた松平太郎まつだいらたろう、土方歳三、伊庭八郎らが集まり、評議が開かれた。重苦しい空気が漂う中、最初に口火を切ったのは榎本だった。


「諸君、我々は無事に蝦夷地へ到達し、箱館・五稜郭を確保した。これは天佑であり、皆の尽力の賜物である。しかし、我々の戦いはこれからだ。新政府がこの事態を座視するはずがない。いずれ、大軍を送ってくるだろう」


一同は黙って頷く。


「そこで、だ。我々は単なる寄せ集めの反乱軍であってはならない。明確な組織と目標を持ち、この蝦夷地を統治する正統な政権であることを、内外に示さねばならん。ついては、ここに『蝦夷地領有宣言』を行い、我々の政権を樹立したいと考えている」


「蝦夷地領有宣言……」永井が呟く。


「左様。そして、その首脳部は、旧来の身分や家格にとらわれず、入札にゅうさつ――すなわち選挙によって選出するのが、最も公正かつ、近代的なやり方であると考えるがいかがか?」


「選挙だと!?」

真っ先に声を上げたのは土方だった。

「榎本さん、あんた、正気か? 戦の最中に、そんな悠長なことを言ってる場合じゃねえだろう! 大事なのは、誰が一番強いか、誰が一番戦を知ってるかじゃねえのか!」


「土方君、落ち着きたまえ」松平太郎が穏やかに制した。「榎本君の言うことにも一理ある。我々が単なる賊軍でないことを示すには、新しい時代のやり方を取り入れることも必要かもしれん」


「しかし、選挙などといっても、我々は武士だ! そんな商人のような真似ができるか!」

根っからの武断派である土方は、納得がいかない様子だ。


伊庭は、二人の意見を聞きながら、静かに考えていた。選挙、という響きは新鮮だったが、確かにこれまでのやり方だけでは、この先行き詰まるかもしれない。


「榎本殿の考え、面白いかもしれませぬな」伊庭が口を開いた。「身分に関係なく、人々の信任を得た者が上に立つというのは、ある意味、実力主義とも言えるのでは? それに、そうやって選ばれた指導者ならば、皆、文句なく従うでしょう」


「伊庭の言う通りかもしれん」永井も同調した。「ここで我々が内輪揉めをしていては、新政府の思う壺だ。一つ、榎本君の提案に乗ってみるのも手かもしれぬ」


榎本は、皆の反応を見ながら、さらに言葉を続けた。

「もちろん、軍事に関しては、土方君、松平殿、そして伊庭君のような実戦経験豊富な者たちの力が不可欠だ。選挙はあくまで、我々の政権の正統性を示すための一つの手続きに過ぎない。だが、この手続きこそが、我々を単なる私兵集団ではなく、『国家』へと昇華させるのだ」


榎本の熱のこもった説得と、永井、松平、伊庭らの賛同もあり、土方も渋々ながら異を唱えるのをやめた。


「……分かった。そこまで言うなら、やってみるしかあるめえ。だが、選挙で誰が選ばれようと、俺は俺のやり方で、この地を守るだけだ」


こうして、旧幕臣たちによる政権――後に「蝦夷共和国」と呼ばれることになる組織の樹立と、その首脳部を入札(選挙)によって選出することが決定された。


数日後、五稜郭において、士官以上の幹部による投票が行われた。その結果、最高得票数を獲得したのは、やはりこの脱出行を主導し、明確なビジョンを示した榎本武揚であった。彼は、初代「総裁」に選出された。


他の主な役職も決定された。副総裁には松平太郎、海軍奉行には荒井郁之助あらいいくのすけ、そして陸軍奉行には大鳥圭介おおとりけいすけ、陸軍奉行並には土方歳三が就任した。伊庭八郎は、遊撃隊頭取の任に加え、陸軍歩兵頭並の役職も与えられた。フランス人のブリュネとカズヌーヴも、それぞれ陸軍や要塞構築の顧問として、共和国の中枢に関わることになった。


慶応四年(明治元年)十二月十五日。五稜郭に、七つのかどを持つ星を描いた、新しい旗が掲げられた。蝦夷共和国の誕生である。


「総裁、榎本武揚である。我々は、ここに蝦夷地の開拓と、旧幕臣の安寧を目的とする、独立した政権の樹立を宣言する!」


榎本の宣言が、冬の澄んだ空気に響き渡った。集まった兵士たちの間から、どよめきと歓声が上がる。


土方は、腕を組み、複雑な表情でその光景を見つめていた。「共和国、か……。さて、どこまでやれるものやら」


伊庭は、隣に立つ人見に笑いかけた。「おい、勝太郎! 新しい国の始まりだ! 俺たちの腕の見せ所だな!」


北の果て、蝦夷の大地に、歴史の「もしも」が産声を上げた瞬間だった。しかし、彼らの前途には、新政府との避けられぬ対決、列強諸国の思惑、そして内部に潜む対立の火種など、数多くの困難が待ち受けている。新しい戦いは、まだ始まったばかりであった。


(第一章 終わり)

第二章:共和国、揺籃ようらんの刻

次をお楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ