第83話 冷たい雨
「コイツが長きに渡り、我が一族を苦しめた罪は万死に値するわ!!
闇から生まれたお前は、
――今日、この場所で、セイレーン・アイリスが引導を渡す!!」
クラーケンに向けて啖呵を切るアイリスの周囲――
そこに、魂の叫びに応じた幾つもの光が降り立った。
――否、ただの光ではない。
それらは、謁見の間に飾られる彫像のごとく美しいセイレーンの魂達だ。
「――――!!」
何十人ものセイレーンが、一斉に歌い始める。
それは、鎮魂歌なのか。
讃美歌なのか。
霊歌なのか――定かではなかった。
だが、それは、何千ものセイレーンを喰らった怪物に聞かせるには、あまりにも尊い歌。
圧倒的な荘厳さと、神聖さを兼ね備えた魂の旋律。
――それは、美しく、儚く、悲哀を宿した歌。
その調べは、もはや聴覚の領域を超えていた。
魂に染み込み、神経に作用し、細胞の動きさえも抑えていく。
やがて、クラーケンの巨体は沈黙し、場に静寂が訪れた。
(……ふん。毒と歌による束縛か!? はっ!小賢しい。この程度で吾輩を抑え込めるとでも思っているのか? やはり、小さき者どもは喰われるだけの生き物でしかないな)
いかに毒や歌で肉体や神経を侵そうとも、クラーケンにとってそれは脅威ではなかった。
それもそのはず。
実体こそあれど、その本質は「灰汁」から生まれた怪物。
生物ですらない存在に、肉体的な束縛は意味を持たない。ーーが、
「――まさか、これで終わりだと思っているの?」
つまらなそうに、冷淡な目を向けるクラーケンに、アイリスの腕がすっと振り下ろされる。
それに合わせて、まるで指揮者の合図を受けたかのように、セイレーンたちの歌声が力強さを増した。
(――何ができるというのだ?)
力強く響き渡る歌声は、海溝そのものを振動させ、
――ボコン。
(――!? 今の音は?)
――ボコボコ。
――ゴゴゴゴォオオオオ……!
(――沈む!? 馬鹿な!?)
突如、海溝からおびただしい量の泡が溢れ出し、クラーケンを包み込む。
同時に、クラーケンの巨体は海溝の底へと向かい沈降を始めた。
無数の気泡がクラーケンの全身を包み込み、浮力が失われたのだ。
(ちょっと待て……この泡はマズイ。ただの空気だけじゃないぞ……まさか、これは……)
考えを巡らせる間にも、沈降速度はどんどん加速していく。
まるで水の中とは思えないほどの速さで、海溝の底深くへと落ちていく。
「空から落ちるような感覚は、さすがのお前でも味わったことないでしょう?
存分に恐怖なさい。でも、安心して。もちろん、それだけじゃないわ」
アイリスの声が、氷のように冷たく響く。
「この泡はね、海溝の底にある『燃える氷』を振動させ、溶かして作ったの。知ってるかしら?」
それは――メタンハイドレート。
海底深く、ごく稀に存在する、燃えるガスの塊。
セイレーンたちの歌声は海底を震わせ、その氷を溶かし、膨大な気泡を生み出していた。
「ッまさか!!――やめろ、この人でなし!? 何てこと考えやがる!!」
クラーケンの絶叫が響く。
「あら知らなかったの? 私はセイレーン。人じゃないわ。でも、安心して私は火魔法は使えないの……」
(――そうか奴は、水魔法しか使えないセイレーン……)
「だから、これを使うわ!」
アイリスはにっこり笑うと、リゥビアから真っ赤な火の魔石を受けとった。
「――――チョッと待って!?」
「何千人もの同胞の命を奪い、何千万もの命を弄んだ、お前にはこの星の底ですら居場所は無い!! 今ここで無に帰りなさい!!」
アイリスの手から真っ赤に染まった火の魔石が落とされ、海溝の底深くへと沈んでいった。
「―――馬鹿なアアアアぁ!!!!」
ドドドゴゥーーーン!!!
地鳴りのような音が響き、海溝から凄まじい水柱が吹き出した。
「リゥビア、私にしっかり掴まって!!」
水柱は周囲の海水を巻き込み、どんどん巨大化していく。
まるで瀑布の水が落ちるかのように、海上へと向かい――重力の束縛を無視して昇っていった。
それは、まるで龍が空へと昇るように、碧い海の中を貫き、青い空へと伸びていく。
そしてついに、海上を突き破り、空へと噴き出した。
「――水槍」
空へと向かって伸び続ける水柱から、水の槍が突き出る。
二つの影が、水の奔流から飛び出した。
「生きてる? リゥビア!?」
「ぷはああ―――!! 何とか……それよりも、やったな!! おめでとう!」
「ありがとう! 貴方のおかげよ!! あっ――見て!!」
大量の水飛沫を上げながら、噴き出した水柱が太陽光を浴び、きらきらと輝く。
やがて、その輝きは八色の光を帯び、大空に三本の虹を架けた。
「こんな大きな虹、初めて見た……」
「某も……だが、これはまるで某とアイリスみたいだな」
「えっ?」
意味が分からず首を傾げるアイリスに、リゥビアが微笑みかける。
「アイリスは『虹』、リゥビアは『雨』。
二人が揃えば、空に大きな虹が架かるのは当然だ!
某は、アイリスの心に虹を架けるためにここにいる」
「リゥビアって、そういうこと、本当に恥ずかしがらずに言うよね……聞いてるこっちが恥ずかしくなる……」
「ダメか?」
「――ううん。ダメじゃない」
降りしきる大量の水飛沫。
空に架かる巨大な虹。
その下で、二人は見つめ合う。
アイリスの真珠の瞳がそっと閉じ、次の瞬間――
二人の影が重なり、一つになった。
〓〓〓〓〓
どれほど沈んだだろうか。
上を見上げても、光は届かない。
上下の感覚すら失うほど、あたりは闇に包まれていた。
空間には、ただただ鉄臭い『死』の匂いが充満していた。
無残に爆散した身体は、生まれた頃の淀んだ液体へと戻っていた。
そんな地獄の中で、クラーケンは呟いた。
「――あぁ。ここは、吾輩を見る奴らの瞳のようだ……」
誰にも届くことのないその声は、さらに深い闇の底へと沈んでいき、
「……しかし、奴だけは許さん」
よりいっそうドス黒い負の感情を生み出した。
〓〓〓〓〓
「??――リゥビ……ア!? 」
桃色に染まっていたアイリスの頬が、一瞬で緊張に包まれた。
契りを交わしたばかりのリゥビアが、腕を押さえ、その場に蹲っている。
見ると、黒い海蛇のような何かが、リゥビアの腕に巻き付き、ブスブスと音を立てながら肉を焦がしていた。
「――がっ!? なんだこれは……焼ける――」
「大丈夫!? こんなのすぐ外す!!」
アイリスが手を伸ばす――その瞬間、海蛇は即座に目標を変え、アイリスの腕へと巻き付いた。
その動きを見て、リゥビアは一瞬の躊躇もなく――自らの腕を斬り落とした。
「リゥビア何てことを!?」
アイリスを捕まえ損ねた海蛇は、まるで巣に戻るかのような所作で再びリゥビアの千切れた腕に巻きついた。
「――呪いか……」
苦悶の表情を浮かべ、ぽつりと呟いたリゥビアの言葉にアイリスの顔が絶望に染まった。
「まさか……あいつは海溝に沈んだはず」
「ぐゥ……どうやら、海溝に引きずり込まれる直前に分体を仕込まれたようだ」
「そんな……」
真珠の瞳に影が差し、重苦しい空気が流れた。しかし、徐々に肥大化していく海蛇が事態に一刻の猶予も無いことを告げていた。
「――アイリス。こやつは某が地獄へ連れていく。其方は歌でも歌って気長に待っていてくれ」
「……リゥビア!? 何をする気?」
「――水泡」
リゥビアの体が、微細な泡に包まれる。
それは、潜水時間を僅かに伸ばす魔術だった。
だが、それにはもう一つの効果があった。
微細な泡が水との接触面を奪い、浮力を低下させ沈降を加速させる。
先ほどクラーケンを海溝に落としたのと同じ仕組みだった。
意識を共有しているのか、二度目の落下に焦り、抗うように海蛇は身をくねらせる。
だが、暴れれば暴れるほど、微細な泡が付着し、沈降速度は増していく。
「――だめ!!」
「……アイリス来てはいけない。ここでアイリスが取り込まれてしまえば、こやつは、海中を自在に泳いでどこぞへ逃げて行ってしまう。
これは、水の中で生きてはいけない某しかできない役目だ。
――約束する。たとえ生まれ変わってでも某は、必ずそなたの元へ戻る。
その時は、泣き顔ではなく、笑顔を見せておくれ。某は、美しいそなたの笑顔が大好きだから」
「そんな、だめ。リゥビア――――」
アイリスは、どうすることもできず、ただその場に泣き崩れた。
その肩に、リゥビアの手がそっと触れる。
暖かな体温が伝わる。
アイリスが顔を上げると、目と目が合う。
リゥビアの口が開いた――
「――――」
リゥビアの口から零れたのは、声ではなく――
ブクブクと音を立てる泡だった。
それはやがて大きな泡となり、アイリスを地上へと浮かび上がらせた。
アイリスは、どうすることもできなかった。
ただ、碧く深い海の底から力弱く浮かび上がる水泡を見つめることしか出来なかった。
それしか、できない自分が許せなかった。
どうしようもなく悔しくて、悲しくて――
ただ泣き続けた。
いつの間にか、太陽は雲に隠れ、虹は消えていた。
ぽとり、ぽとりと。
アイリスの肩に、冷たい雨が降り注いでいた。




