第41話 今宵は三日月
峠を越えた鳥車は、整備された街道を滑るように進んでいた。驚くほど滑らかな走行で、車輪のきしみもなく、揺れさえほとんど感じられない。その静謐な移動は、一般的な馬車とはまるで別物だった。
さらに人目を引くのは、手綱を握る人影が見当たらないことだ。無人のまま、大鳥に曳かれて進む鳥車。その異様な光景は、道ゆく旅人たちの視線を釘付けにしていた。けれど、鳥車は悠然と街道を進み、視線を気にする様子すらない。
荷台には椅子とテーブルが設えられ、そこには女剣士サラと魔術士リュートが静かに腰掛けていた。彼らはティーカップを手に、まるで貴族の旅路のような優雅さでくつろいでいた。
「パトリシアは、本当に賢いですね」
リュートが、大鳥を見ながら感心したように言う。
「そうだな。通った道なら手綱も不要だし、何かあれば停まってくれる。魔物は私が探知しているから安心だ」
サラはティーカップを軽く揺らし、誇らしげに応じた。
「……快適すぎて、冒険者らしさを忘れそうだ」
そう言って軽く伸びをしたサラに、リュートは芝居がかった口調で返す。
「お褒めにあずかり光栄です! さらなる改良をお約束しますので、ご意見はいつでもどうぞ!」
その調子の良さに、サラは苦笑しながら頬を掻いた。
「……ほどほどにな」
サラはそう言いつつ、内心では――この調子なら、空さえ飛びかねないと密かに懸念していた。
ちなみに、自称“大森林の大精霊”モズは、鳥車を引くパトリシアの背で「zzz」と穏やかな寝息を立てている。どうやら鳥同士、妙に気が合うらしい。
リュートはティーカップをテーブルに置き、「さて」と軽く頷いた。
「行き先の確認をしましょう」
「ああ。サーレイ山脈を越えてナ・パリへ。調査報告をギルドに提出したら、王都オルビヤを目指す。ルートは山を越えるか、海岸沿いを行くかだな」
サラは地図を広げ、指でなぞる。
「その後は港町ムラガで船に乗り、ローラシア大陸に渡る。現地で情報を集めたら、ティエラ王国へ向かう流れだ」
「なるほど。オルビヤへは山越えと海沿い、どちらにします?」
「海沿いは安全だが、三カ月は余分にかかる。山越えは魔物のリスクがあるが、私たちなら問題ない」
「雪の心配は?」
「今の時期なら晩秋までに抜ければ問題ない。仮に降ったとしても、あのダンジョンほどの寒さにはならんさ」
「はは、確かに!」
二人は顔を見合わせて笑った。今では笑い話となったが――もし、ほんの少しでも違っていれば、この笑顔も、今ここにはなかった。その笑みの奥には、かすかな感慨が滲んでいた。
そのとき、サラの眉がぴくりと動いた。それとほぼ同時に、鳥車が滑らかに減速し、ぴたりと停止する。
「……リュート、魔物だ。一応、援護を頼む」
「了解」
サラは無言で荷台を降り、リュートも杖を手に続く。二人が立ち止まったのは、森の縁。二十メートルほど先で、狼蜘蛛と一角兎が対峙していた。
大岩を背に追い詰められた一角兎は、角を突き出し必死に威嚇していたが、狼蜘蛛はその威圧にまったく動じず、静かに距離を詰める。そして、一閃――毒牙が突き立てられた。
一角兎はよろめき、最後の抵抗として突進を試みたが、毒に侵された身体では決定打にはならなかった。やがて力尽きた兎の体に、狼蜘蛛が消化液を垂らし、淡々と捕食を始める。
「どうします?」
「放っておこう。どちらも人に害は少ない魔物だ」
サラは剣の柄から手を離し、鳥車へと引き返す。リュートもそれに続いた。
鳥車は再び静かに動き出す。
夕暮れの光が山道を、じわりと茜色に染めていった。
その夜、彼らは岩清水の湧く沢に到着した。空気にはすでに初冬の冷気が混じり始めていた。
「今日はここで野営しよう」
サラの提案にリュートは頷き、パトリシアに飲ませる水を汲みに向かう。魔術で水を出すこともできたが、自然の濾過を経た湧水には勝てないというのが、彼の持論だった。
一方、サラは灌木を伐って敷き藁を作り、パトリシアの寝床を整えていた。一日中旅路を支えてくれた愛鳥への、ささやかな労いだった。
この旅では、見張りも夜警も不要だった。リュートが張る認識疎外の術式と防御結界が、外敵の接近を確実に防いでくれるからだ。鳥車には簡易キッチンまで備えられており、温かな食事を囲みながら、二人は毎夜安心して眠ることができた。
もちろん、旅路には適度な事件も起こる。数日前には、農地を荒らす悪獣・尾白鹿の群れに遭遇し、食糧調達を兼ねてこれを駆除した。肉は栄養価が高く、干し肉にも向いている。
そんな日々を積み重ね、旅は順調に進んでいく。
そして十日後、山道が険しさを増す頃、ついにサーレイ山脈の頂に到達した。
そこには、巨大な噴火口が広がっていた。湖面のように水を湛えるそれは、「天空の湖」とも呼ばれるクレーターレイク。一周するだけでも一日を要するほどの広さを持つ。
湖畔には、かつて魔紙の輸出で栄えた時代に建てられた宿舎が残っていたが、今では無人の避難小屋となり、庇は崩れかけていた。
「三日も早く着いたな。パトリシアは背に乗るより、車を曳いた方が疲れないようだ」
サラが感心したように言うと、リュートは満足げに頷く。
「いやあ、パトリシアが優秀なんですよ。でもまあ、軸と車輪をカルダンジョイントに替えたのが効いてるんです」
「……すまん。ちっとも分からん」
サラは両手をお手上げのように広げ、笑った。
その横で、リュートは桶に汲んだ水でパトリシアの毛づくろいを始める。喉をゴロゴロ鳴らしながら、大鳥は満足げに頬を擦り寄せた。
「せっかくだし、今日は小屋に泊まりますか?」
リュートの提案に、サラは即座に首を横に振る。
「いや、あの小屋……ダニがひどくてな。私は鎧で守られてるが、お前は……保証できん」
「うわ、それは遠慮しておきます! 鳥車最高!」
二人は笑いながら鳥車に戻り、夕食の支度に取りかかった。そうして、穏やかな一日が静かに終わっていく。
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今宵は三日月――空に弧を描く光が、冷えた湖面に静かに揺れていた。
山頂の空気は鋭く冷たく、水辺には薄氷が張り始めていた。
そんな静寂の湖畔に、サラは一人腰を下ろしていた。盃を手に、少量の酒を静かに嗜む。
その背には、凛とした気配とともに、どこか孤独の影が漂っていた。
「……ここにいらしたんですね」
白い息を吐きながら、リュートがそっと声をかける。手には熊革の羽織を抱え、それをそっと彼女に差し出した。
「すまん。起こしたか」
「いえ、たまたまです」
サラは軽く頭を下げ、羽織を肩に掛ける。ひんやりとした夜気を遮り、再び盃を見つめた。
「あの……僕のことは気にせず、好きな時に飲んで大丈夫ですよ。気遣っていただかなくても……」
「いや、人族は成人するまで酒は禁止されてるんだろ? 教育上、良くないからな。お前の前では極力控えるつもりだ」
そう言って徳利の栓を閉めるその仕草には、どこか照れくささがにじんでいた。
「お気遣い、ありがとうございます。……でも、僕の母様は飲んでましたよ?」
「そうなのか? ……それでも、私は止めておく。一度決めたことだからな」
「……やっぱり、意思が強いんですね」
「ああ、ドワーフの国の出だからな」
サラは夜空を見上げ、微笑を浮かべた。その横顔は、凛々しさと、どこか儚さを帯びていた。
「……少し、お話しませんか」
リュートが恐る恐る言葉を紡ぐ。その声音には、どこか緊張がにじんでいた。
だがサラは優しく視線を戻し、静かに頷いた。
「ああ。ちょうど、私も話そうと思っていた。……それで? 私に、何を聞きたい?」
「その……もし、辛ければ無理には聞きません。でも、迷宮でうなされていた時に、名前を呼ばれていた……『リヒト』さんについて、教えていただけませんか?」
その瞬間、サラの表情が変わった。
穏やかだった瞳から微笑みが消え、代わりに深い悲しみの影が宿る。リュートを一瞬だけ見て――そして、視線はふと湖面へと落ちていく。
彼女は唇を閉ざし、動かなくなった。
声をかけるべきか、立ち去るべきか。リュートは言葉を失い、その場に立ち尽くすしかなかった。
沈黙だけが湖畔を支配し、三日月の光だけが、凍るように静かに降り注いでいた。




