第3話 混血熊vsサラ&リュート
「グオオオ――ン」
巨大な熊の荒々しいうなり声が木々を揺らす。涎を垂らしながら立ち上がった熊は、身の丈五メートルをゆうに超えていた。
野太い爪がシラビソの幹を熟れた果実のように握り潰す。潰された木からは清涼感のある香りが漂うが、それが清々しい気分をもたらすわけもなく、むしろ悪寒をさらに増幅させる。
「逃げろ少年!! 私が時間を稼ぐ!」
サラは、パトリシアを脇へ走らせると臆することなく魔物の正面に立った。
「熊の足では逃げても追いつかれます。僕も戦います!!」
一切の躊躇なく、リュートも参戦を表明。
熊には逃げた者を追う習性がある。この魔物も同じなら、逃げることは逆効果だろう。
立ち向かうことこそが、生き延びるための最善の選択肢だとリュートは判断した。
「――風弾!」
短い詠唱から放たれた風の弾丸は、枯葉を螺旋状に巻き込みながら、対象へ向かう。直撃したかに見えたが、寸前で巨大な爪が振り下ろされ、風の弾丸が霧散し、枯葉がパラパラと落下。
不意打ちを受けた熊は、二人を完全に敵と認識すると、土煙を巻き上げながら突進してきた。
サラは、怯むことなく背中の大剣を引き抜き、空を突き刺すような大上段の構えをとると、
「――はぁぁぁぁぁぁ! ゼァ!!!」
力強い掛け声とともに、気剣体が一つに集約され、身の丈ほどの大剣が真下へと振り下ろされた!
放たれた斬撃は紫電をまとった巨大な闘気の刃に変わり、粉塵を巻き上げながら熊を肩口から切り裂くと、その巨体を後方へと吹き飛ばす。
ドゴォ―――ン!!
熊は、大岩に激突してようやく静止。背中に走る落雷のような痛みに悶えていると、粉塵の中から喉元を狙う大剣が姿を現した。サラだ!
大剣が熊の喉元を突き刺した……かに見えたが、刃が触れる直前、熊の口から巨大な氷の塊が放たれる。
サラは、大剣を脇の大木に突き刺すと、それを支点にして体を捻り上方へと回避。胸元をわずかにかすめた氷塊は、光の粒を飛ばしながら彼方へ飛んでいった。
身動きの取れない空中に回避したサラを屠るべく、熊はさらに五つの氷塊を射出。
サラは迫りくる氷塊を腰から抜いたショートソードで受け流したものの、その反動でさらに上空へ弾き飛ばされた。動きが制限される空中から銀閃を放ったが、威力は乏しく、熊にダメージを与えることはできない。
熊が不敵な笑みを浮かべ、猫がネズミをいたぶるかのように追撃の矢を放とうと口を開いた、その時だった……。
「風弾」、「岩石掘削!!」
舞い上がる粉塵の中から魔術の連弾が姿を現す。
粉塵を払った風弾に続き、土の弾丸が熊の脇腹を貫いた!
「いっけぇぇぇぇ!」
リュートの咆哮と共に、岩塊が回転を加速させる。
どす黒い血と肉片が飛び散り、鼻をつく悪臭が辺りに満ちていく。
熊は、身を削り取る岩の弾丸を止めるべく、強引に太い爪を突き立てると、自らの肉ごと弾丸を剥ぎ取った。
それは魔物ならではの常軌を逸した行動だったが、傷口の大きさに反して流れ落ちる血は驚くほど少ない。
結果として、致命傷となる内臓への損傷は避けていた。
剥ぎ取られた肉の断面には、白く凍りついたような霜が張りついている。
どうやら熊は、自らの血肉を凍らせ出血を抑えている。
生きるための本能か。その異常な執念が、森に冷たい戦慄を走らせた。
「パトリシア! 来い!」
熊の注意がそれた隙に、サラは空中で体勢を立て直すと、地上で待ち構える相棒を呼び寄せ、その背に軽やかに着地。即座に、大木に突き刺した大剣を回収すると、その勢いを推進力に変え、再び熊の正面へと回り込む。
相対する熊は、二足歩行のまま赤黒い目を血走らせ、血を吐き牙をむき出しにして、サラを威嚇。
「タフなやつめ……」
発した言葉とは裏腹に、サラの口端は僅かに上がっていた。
「グアアアァ!!!!」
地鳴りのような咆哮を上げながら、熊は草でも毟るかのように、樹高三十メートルはあろうかというシラビソの大木を根こそぎ引き抜くと力任せに振り回した。
巨木の回転が木々をなぎ倒していく。
まるで、山肌を削りながら暴れ狂う土石流のようだった。
周囲の地形を破壊し尽くした直後、熊は手にしていた巨木をサラ目掛けて投げつけた。サラは縦回転で飛んでくる巨木を脇へ飛び退いて何とか回避。再び熊との距離を詰めようとしたーーその時だった。
熊は突如、サラに背を向け、魔術の弾丸が飛んできた方向へと向きを変えた。
「ちっ!! 追え! パトリシア!」
サラは、リュートと熊の間に立たなかったことを後悔した。薙ぎ倒された巨木が行手を阻み、前進は容易ではなくなっていた。
熊は脇腹からはボトボトと血が流すも獣特有の痛覚の鈍感さで前へ前へと突き進んでいく。周囲の木々よりも太い四肢を波打たせながら、立木を次々とへし折りながらも加速していく。
迫りくる獰猛な殺気をビリビリと感じながらも、リュートは怯まない。少年とは思えない落ち着きのまま杖を突き出すと、
「――凍てつく蒼き矢よ、すべてを貫け!! 氷柱矢!!」
しかし、氷の矢は、リュートの狙いを嘲笑うかのように弾かれ、光の粒に還った。
「グオオオォ!!!!」
凄まじい咆哮と獰猛な殺意がリュートの間近に迫り来る。
「奴に氷魔法は効かない! 体毛が氷の魔術を散らすぞ!」
木々を乗り越えながら、懸命に追うサラから声が飛んだ。しかし、リュートの選択は……
「氷柱矢、氷柱矢……」
無数の氷の矢を放つも、全てマナに還元され次々と霧散。
「急げ パトリシア!」
サラは手綱に力を込め懸命に追う。一瞬、柄頭に手を掛けるも、距離を鑑みて取り止め、手綱を握り直すと身を低く構えた。
迫り来る熊を正面から待ち構えるリュートは、動揺したような行動は裏腹に、その顔は落ち着いていた。冷徹な笑みさえ浮かべると、大地に手を当て次なる一手を放った!
「――大地よ我が盾となれ! 土壁!!」
詠唱と共に熊の側面から巨大な土壁が次々と出現し、熊を挟み込んでいく。
熊は土壁を避けようと加速し、異様な臭いがリュートの鼻を刺す。
ついに射程に入ったその瞬間――。
……ズブリ。
――熊の猛進を遮るように、正面に槍を備えた土壁が出現。巨体が生み出す莫大な推進力が仇となり、土槍が熊の喉元から尻にかけて一直線に突き刺さった。
それだけではない。土槍には幾つもの返しが設けられており、熊がもがけばもがくほど深く食い込む容赦のない作りになっていた。
サラはわずかな差で追いつくと、目の前の光景に我が目を疑い、言葉を失った。呆然とするサラに、満面の笑みを浮かべたリュートが声を掛ける。
「それではサラさん 最後、お願いします!」
正直なところ、サラには熊よりもリュートの行動の方が信じ難かった。詠唱破棄、連射どれも高等とされている魔術だ。魔術の才能に恵まれなかった自分でも、その難しさは分かる。
B級冒険者となり、それなりに名が売れ、多くの冒険者に出会ったが、それらを会得した魔術士はほとんど見たことはない。
――この子は一体……
疑念が過ぎったが、サラは剣士としてそれを振り払った。
今は問い詰めるより、この少年の勇気に敬意を払うべきだ。
「相分かった!」
ズドンという音とともに大剣が振り下ろされ、魔物の頭と胴体が切り離された。同時に野太い四肢は、力なくダラリと下がり戦いの決着を告げた。
「ありがとう! リュートといったな。 助かった」
「いえ、仕留めたのはサラさんです」
「そう謙遜するな。詠唱を破棄し、連発するなど熟練の魔術士そうはできないぞ。もっと誇っていい。村の英雄といってもいいくらいだ!」
「……ありがとうございます」
リュートは、ぽりぽりと頬を掻いた後、ペコリと頭を下げた。
「ところで、この熊有名なんですか? 先ほど氷魔術が効かないと御助言いただきましたが……」
「こいつは多分、もっと魔力の濃い極地のポーラーベアとその境界付近にいるグレーベアの混血だ。混血の個体は時に巨大化して、より凶暴になることがあるらしい。だからこそ、魔力濃度が薄い、人間の村近くに現れるはずが無いんだが……。
実は、奇妙な魔物の出現が増えているとの情報があり、私はその調査のためにギルドから依頼を受けてここに来たんだ」
「……」
リュートは目線を下に考え込んでいる。
「不安にさせてしまったな。すまない。」
「いえ、来て下さり嬉しいです。ありがとうございます。……それで……あの、一つお願いがあるのですが」
「なんだ?」
「僕が魔術を使ったことは、誰にも言わないでくれませんか?」
「?? なぜだ、この熊が村へ行けば、村は壊滅したかもしれないぞ。この功績は正当に評価されるべきだ」
「……僕は忌子ですから」
一瞬、風が止んだ気がした。
サラは言葉を失い、ただその顔を見つめる。
リュートは、寂しげな笑みのまま、視線を地面へ落としていた。