第23話 底にいたもの
地下六階へと続く長い階段が姿を現した。
幅広い石段は、うっすらと白く輝き、その光はどこまでも高い天井に淡く反射している。壁にはところどころに龍の装飾が施され、それはまるで王城への参道のような荘厳さを放っていた。
延々と続く階段を下りながら、サラは思考を巡らせる。
段の途中に点々と残る血痕――おそらく、先ほどの女が流したものだろう。あの魔術士風の女性は、村長の娘メーラと共に行方不明となっていた侍女なのではないか?
だが疑念は尽きない。
なぜ彼女は、主を置いて一人助けを求めに来たのか? あの致命傷にもなりかねない深い傷は誰が負わせた? まして、この極寒の中でどうやって生き延びたというのか。魔術士であるならなおさら、護衛を離れた理由があるはずだ。
一体、この先に何があるのか――。
しかし、命を賭して彼女が助けを求めていたことだけは、紛れもない事実だった。ならば、進むしかない。
サラは決意を込めて、果ての見えぬ暗闇へと続く階段を見据えた。
◇ ◇ ◇ ◇
常の速度で歩けば、およそ一時間で四百から五百メートル下る。すでに体感では、それ以上の時間が過ぎているはずだ。足先はじんじんと痺れ、指先の感覚も薄れていた。
本来なら、標高が下がれば気温は上がる。だが、ここは逆だった。降りるごとに気温は下がり、すでにマイナス五十度を下回っている。深呼吸をすれば肺が凍りつきそうな冷気。正気の沙汰ではない。
鎧の防寒性能がなければ、とうに氷像と化していただろう。不可解な構造、そして多くの疑問が脳裏を巡るなか、彼女はただ前を見据え、歩みを止めなかった。
そして、どれほどの時が経ったか――うんざりするほど長く続いた階段の果て、その空間は唐突に姿を現した。
それは、サッカーグラウンドよりも遥かに広大な円形の空間だった。サラたちは、その最上部、まるで卵の殻の頂点に立つような場所にいた。壁面は青白い石と氷で覆われ、無数の龍のレリーフが彫られている。天井からは鋭い氷柱が垂れ下がり、まるで剥き出しの牙のように冷たく光っていた。
だが、下に降りる階段はどこにも見当たらない。
見下ろす底までは、およそ五十メートル。目がくらむほどの高さだ。そして、その底に――それはいた。
全身が氷山のように尖り、二十メートルを超える巨体。背に鍵爪のついた二枚の翼を持ち、分厚い碧氷のような皮膚が鈍い輝きを放つ。その顔は、鋭い犬歯を剥き出しにしたサーベルタイガーに似ているが、野蛮さはない。むしろ、圧倒的な威厳を湛えた、王者の風格があった。
冷たい碧眼がこちらを射抜く。その視線だけで、心まで凍てつきそうだった。
それは、神話や伝説に語られる魔物――『氷 龍』だった。
「まさか、こんな化け物が……」
サラは口角を吊り上げ、剣の柄に手を添える。その対照的に、リュートは氷龍の放つ圧倒的な殺気に気圧され、思わず一歩後ずさった。
「グオオオオオォ!!」
轟音の咆哮が響いた瞬間、サラたちの頬が凍りついた。睫毛が音を立ててびきびきと凍る。
リュートは咄嗟に顔を腕で覆った。それが、次の一手を遅らせる悪手となる。彼が視界を取り戻した時には、目の前一面が猛吹雪に包まれていた。
氷龍の放った『息吹』――触れるものすべてを瞬時に凍結させる吹雪だった。
(――直撃する!)
恐怖に体が硬直したその刹那、腰を掴まれ、リュートは下へ突き落とされた。サラが咄嗟に、氷龍の息吹を避けるため、彼を下層へと押し飛ばしたのだ。
落下の猶予は、わずか三秒。
その瞬間、サラが斬撃を放ち、爆風で落下速度を緩和する。二人は転がるように氷龍の背後へ回り込んだ。吹雪の中、体に薄氷が音を立てて張り付き、凍結が肌を包む。
リュートは思わず深く息を吸い込んだ――それが、最悪の選択だった。
「ダメだ!!」
サラの警告が届く前に、リュートの胸に焼けつくような激痛が走る。
「ぐ、あ……ごぶっ!」
赤黒い塊が喉を突き破り、床へと跳ねた。呼吸をしようとするたび、肺が軋み、内側から凍りついていく感覚。口から飛び出した氷片のようなものを、リュートは視認した。
(……これ、肺が……!?)
彼は苦しげに胸を押さえ、喘ぎ、震えた。サラは自らの判断を悔い、唇を噛みしめる。
だが、氷龍は容赦なく尾を振るった。大木のような尾が唸り、サラはそれを迎え撃つようにショートソードを交差させたが――衝撃を完全に殺しきるには至らず、床へと叩きつけられる。
頭が割れ、流れ出した血は瞬時に凍り、皮膚に張り付いた。気づけば、一分も経たぬうちに、二人は半死半生へと追い込まれていた。
氷龍は、瀕死の二人をあざ笑うように、低く唸る。その声は鼓膜を震わせ、骨の芯まで凍てつかせるような冷たさを孕んでいた。
背後で「ごぶっ」と血を吐くリュートを背に、サラはショートソードを鞘へと納める。次の瞬間、背中の大剣を引き抜いた。闘気を全身に巡らせ、体温を急激に上昇させていく。凍りついていた皮膚の表面が蒸気を纏い、白い霧が立ちのぼる。
「ゼアアアァ!!」
気合と共に放たれた一撃が、氷龍の足先を狙い、振り下ろされる。
「ガキィン!!」
鋼がぶつかる音が響いた。渾身の斬撃は直撃したが、切断には至らない。流れ出た血液が瞬時に凍り、傷口を塞ぐ。
足先を傷つけられた氷龍は、怒りに顔を歪めると、両腕を広げ、空間に魔力を収束させる。無数の氷の刃が生み出され、二人に向かって放たれた。
サラはリュートの前に立ち、大剣を盾のように構える。迫りくる氷刃の嵐。逃げ場はない――
その瞬間、不意に空間が揺れた。
高さ五メートルはある火の壁が、サラたちの背後に出現。氷の刃がその壁に突き刺さると、即座に蒸発して消えた。
サラが振り返ると、凍った血だまりの中で、リュートが杖を掲げていた。
溶けた氷がもうもうと水蒸気を巻き上げ、やがてそれは空気中で急速に冷え、無数の氷粒となって床へと降り注ぐ――
……だが、それで終わりではなかった。
氷粒は床に落ちる寸前で、ふわりと宙に浮かび上がると、渦を巻きながら氷龍の口元へと吸い込まれていく。
――ゴリ……ゴリ……
氷を砕く鈍い音が響く。氷龍の胸が大きく膨らみ、碧眼が爛々と光った。
(来る――! 再び、息吹が放たれる!)
サラは覚悟を決めた。逃げ場のない距離。ならば爆風で跳ね返すしかない。彼女は大剣を構え、闘気を極限まで凝縮させた。
一秒、二秒――時が張り詰めた糸のように伸びていく。氷龍が胸いっぱいに空気を溜め、口を開いた、その刹那。
――エコーのかかった声が、どこからともなく響いた。
「火炎矢×5!」
連続する発音と共に、「ズダダダダ!」という音が轟き、五本の炎の矢が氷龍の翼に突き刺さった。
大きなダメージこそなかったが、自慢の翼を傷つけられた氷龍は怒り狂い、「ガアァ!」と怒声を上げると、矢が放たれた方向に顔を向け、溜め込んだ息吹を吐き出した。
吹雪のような白い濁流が空間を埋め尽くす。その余波に視界が塗り潰される中、サラたちを呼ぶ声がした。
「こっちや!」
小さな声が、壁の中から響く。よく見れば、正面からは分からなかったが、氷壁には斜めに走る隙間があった。
迷う暇などない。
サラはリュートを抱き上げ、瞬時にその隙間へと飛び込んだ。
背後で轟音が響く。氷龍の怒りが空間を揺るがす中、彼らは、わずかに開いた「希望の裂け目」へと滑り込んだのだった――。




