第21話 地下三階
地下三階。そこは、さらに気温が低下していた。
床には氷が張り、天井のあちこちからは鋭いつららが垂れ下がっている。吐息が白く染まり、サラが凛々しい瞳で歩み出そうとしたその時――
「サラさん、少し休憩しましょう。唇が乾燥していますよ」
リュートが制止の声をかけた。
だが、サラは首を横に振り、毅然とした声で応じる。
「いや、問題ない。先を急ごう」
それでも諦めないリュートは、理屈で説き伏せようとする。
「気温が下がると空気が乾燥して、体内の水分も失われやすくなります。甘いものを用意しますので、立ったままでも少し休みましょう」
その“甘いもの”という言葉に、サラの足が止まる。
次の瞬間には、目をキラキラと輝かせていた。
そんな変化を微笑ましく見守りながら、リュートは地面に手をかざし、土魔術で即席のカップを成形。人差し指から水球を発生させ、親指からは小さな炎を灯し、器用に加熱していく。水がたちまちお湯となり、カップに注がれた。
続いて腰袋から何かを取り出しては投入し、とろりとした黄金色の液体――蜂蜜を最後に垂らし、ゆっくりと撹拌する。
「どうぞ」
湯気が立ちのぼるカップをサラに差し出すと、甘い香りがふんわりと漂った。
サラは両手でそっとカップを包み、指先を温めながら、一口をゆっくりと味わう。鼻腔に抜ける甘い香りと、喉元から広がる温もりが、冷え切った体を芯から癒していく。
「……美味い。体の芯から温まるな。何が入っている?」
「果物由来の果糖に生姜を加えて、最後に蜂蜜を少々。疲労回復にも効果がありますよ!」
そう言いながら、リュートは同じものをバケツいっぱいにして、パトリシアにも用意していた。
愛鳥は満足げに頭を擦り寄せて感謝を示し、サラは微笑む。
「……やはり、ダンジョンは一人で入るべきではないな」
呟くような声だった。
「それにしても、こんなに寒いのに蜂蜜は凍らないんだな」
「混じりけなしの純粋な蜂蜜ですから。マイナス四十度くらいまでは凍らないんですよ」
リュートはにこりと笑い、小瓶を傾けてみせた。
サラは湯を飲み干すと、ほっと一息をつく。指先にはまだ温もりが残っていた。
「ありがとう。――よし、行こうか」
気を引き締め、サラはパトリシアとリュートと共に再び歩を進めた。
短い休息だったが、鋭気は確かに回復していた。
この調子ならダンジョンの攻略も順調に進むかに思えた――だが、その見通しはすぐに打ち砕かれる。
地下三階に現れた魔物たちは、数も質も段違いだった。
氷騎士――氷のランスを携え、氷馬に跨がって突撃してくる騎兵。
凍てつく影――毒吹雪を吐き、視界を奪いながら体力をじわじわと削る青白い影。
雪妖魔――地雷を仕掛けたり、氷の弓矢を放ったりする小柄な妖魔。
どれも単体なら大した脅威ではない。
だが――奴らは連携してきた。
たとえば、雪妖魔を追い詰めれば、脇から氷騎士が突撃し、後退すれば罠が待っている。正面突破を試みれば、毒吹雪が横から襲いかかる。
初動では、リュートが毒吹雪を炎で無効化しようとしたが、結果は逆効果。毒を含んだ水蒸気が蔓延し、視界と呼吸を奪った。サラが吹雪ごと剣で払い退け、なんとか被害を抑えたものの、今度は地雷に足を取られる――そんな連携不足が続いた。
だが、徐々に戦況が変わり始める。
リュートが天井から氷の矢を降らせ、地雷を爆破。雪妖魔の足を封じつつ、罠も破壊した。
サラはフローズンシャドウの吹雪を剣で捌き、露出した隙にリュートが炎弾を放ち、氷騎士を撃ち抜く。
連携が噛み合い始めると、ようやく前進が可能になった。
いくつかの部屋を突破した先、再び例の“落とし穴”に行き当たる。
先行したゴーレムは縁を掴もうとするが、氷に滑り、そのまま無念の墜落。二体とも、役に立つ間もなく落下していった。落ちた先で囮になってくれていれば良いのだが……。
やっとの思いでたどり着いた三階の最深部には、やっかいな仕掛けがあった。
扉には、ただ魔力を流すだけでは開かない“多属性解錠装置”が施されていた。
天井に刻まれた模様から、土・火・風・水の四属性の魔力を使う必要があることは読み取れた。だが、問題は“順番”だった。
二百五十六通り――つまり、四属性の並び順を正確に当てねば、鍵は開かない。
しかも、作業中にも魔物の襲撃は止まない。
延々と続く戦闘と開錠作業――。だが、ようやくすべての組み合わせを試し終えた時、バキバキと氷を砕く音とともに、新たな通路が姿を現した。
リュートは「ふぅ」と肩を落とし、パトリシアにもたれかかる。
「私ひとりでは開けられなかった……助かった、リュート。少し休憩するか?」
サラが声をかけると、リュートは「すみません、少しだけ」と呟き、パトリシアの羽毛に顔を埋め、目を閉じた。
愛鳥はそれを包むように身体を丸める。辺りには魔物の死骸が散乱していたが、氷点下の世界では血も腐敗も凍りつき、異臭もないのが唯一の救いだった。
サラは壁を背にし、立ったまま警戒を続ける。
しばらくして、魔物の気配がすっかり消えていることに気づいた。どうやら、この開錠が“試練の終わり”を意味していたようだ。
サラは柄から手を離し、指を口元に添えながら、冷静に思考を巡らせる。
階層が深まるほど魔力濃度が増し、魔物が強くなるのはダンジョンの常識だ。だが、この三階は異常だった。一・二階と比べ、あまりにも難度が跳ね上がっている。
A級上位か、下手をすればS級下位相当。
これが事前情報なしで訪れた冒険者なら、壊滅していてもおかしくはない。
リュートが毒吹雪の対処に失敗したことを気にしていたが、本来であれば解毒魔術で十分対処できる状況だった。
氷騎士の装甲も、サラが雷神の力を降ろして放った斬撃――“雷鳴”ですら破れなかった。
雷撃を弾くその装甲に、接近戦は無謀。地雷と弓を避けつつ戦うには、やはり炎弾での遠距離攻撃が最適解だった。
リュートの力がなければ、突破は叶わなかっただろう。
だが――この階でギリギリだとすれば、次はどうなる?
――子どもたちを見捨て、ここで撤退すべきか?
一瞬、そんな思いが頭をよぎった。
すぐに打ち消す。悔しげに奥歯を噛み、サラは拳を強く握った。
五分ほど経った頃、リュートが目を覚ます。
「ん~、パトリシアありがとう! 温かかったよ。……サラさん、冷えてませんか?」
「ああ。この鎧の効果で、なんとか耐えている」
その返答を聞いたリュートは、ふいにサラへ歩み寄ると――
「っ……!」
唐突に彼女の胸元へ手を当てた。
サラは驚愕と共に柄へ手をかけかけるが、直後、体内がじんわりと温まり始める。
「……一体、何をした?」
「この前、鎧を見せていただいた時に気づいたんです。外部から魔力を流せば、体温調節の術式が強化される構造になっていました。恐らく、仲間との連携を前提に作られたものですね」
小動物のような無邪気な笑顔を浮かべるリュートの頭を、サラはこつんと軽く叩いた。
「……体が温まったことは感謝する。だが、突然女子の胸を触るな。不届き者なら斬っていたぞ」
リュートはきょとんとし、「ああ、しまった」と気づいた顔で、素直にぺこりと頭を下げた。だが次の瞬間、顔を上げた彼は眉をひそめ、こう告げる。
「サラさん……モズと一緒に落ちたはずのゴーレムが、一体消えました」
「それは……」
返す言葉が見つからず、沈黙だけが空気を支配した。
サラは無言でパトリシアの背から「見守りの魔石」を取り出す。
血のように赤いその石は、不気味な光を発し、断続的に点滅していた。
この石は、持ち主に命の危機が迫るとき、赤く点滅する。
つまり――
「……この石が暗転しない限り、生きている。行こう、急ぐぞ」
「はい!」
その歩みには、確信と不安が交錯していた。
冷たさを増していく階段が、これからの戦いの苛烈さを、静かに物語っているかのようだった。




