第2話 リュート
高くそびえる木々の間、茶色いローブに身を包んだ黒髪の少年が、苔むした石像の前に立つ。
「――絶対に両親を助けにいくんだ!!」
決意を口にし、覚悟に変えた彼の名前はリュート。
幼い頃に両親を魔族に攫われ、以来一人でこの深い森で暮らしている。
この特訓用の術式が練られた石像を倒せれば、独り立ちできるはず。
黒い瞳がわずかに揺れ、やがて決意を込めて閉じられた。
「よし!」
短く頷くと、リュートは右手を伸ばした。
「解呪」
その声が静寂を破った瞬間、石像が淡い光を放ちはじめ、
「キィィィィン」
何かが高速で回転するような高い音が空気を震わせ、石像が共鳴しだす。音はさらに高まり、やがて耳では捉えきれぬほどの鋭い金属音へと変わった。
その刹那――。
空気の歪みと同時にリュートに向かって、風の弾丸が放たれた。
シルルと音を立て眼前に近づく弾丸を前にしても、彼は微動だにしない。まるでこの展開を予見していたのか、右足をぐっと踏み込むと、
「――大地よ、我が盾となれ土壁!!」
大地がひび割れ、小石が跳ねる。次の瞬間、足元から突き上がるように、二メートルもの土の壁がせり上がる。風の弾丸は壁に激突し、衝撃と共に霧散した。
「はああぁ!!」
リュートは決意を吐き出し、石像の周りを円を描くように走り出す。
後を追うように、彼に向けて風弾が次々に射出されるも、連続して飛び出す土壁がそのことごとくを防いでいく。
しかし、ただの風弾ではなかった。土壁で霧散した風が周囲の木々を揺らすと、木の上からぼたぼたとリスや小型のトレントなどが落ちてくる。
小さな者たちは、錯乱し泡を吐くものもいれば、涎を垂らして恍惚とする者さえいた。風弾に、弱体化の術式が混ぜられているのは明らかだった。
そんな恐怖を突きつけられても、リュートの瞳は少しも揺るがない。
身を屈め、ローブの裾で口元を覆いながらも、円は次第にその半径を狭めていく。
遂に石像との距離が一足の間合いになったその時だった。
石像の足元から泥が吹き出し、足をとられたリュートの動きが止まる。直後、風弾がリュートを直撃し、無惨にも彼の上半身が砕け散った。
役目を終えたと言わんばかりに、石像の眼の光がふっと沈み、静止。舞い上がった土煙が薄れ始めた、その時、
「凍てつく蒼き矢よ、すべてを貫け―― 氷柱矢!!」
薄煙を突き破り、身体を半透明にしたリュートが現れた。
彼は直撃の瞬間、光の虚像をつくり回避していたのだ。
すかさず石像に手を当て素早く詠唱すると、ゼロ距離から氷の弾丸が輝きを放つ。
青い閃光が周囲を包み込み、その一瞬の静寂の後、石像の内部から巨大な氷柱が出現。
直後、石像はバラバラに砕け散った。
――砕け落ちた石片の断面に、幾何学模様がぼうっと浮かび上がり、すぐに消えた。
石像が完全に沈黙したのを確認すると、リュートは土埃の中で目を閉じ、そっと呟く。
「――父様、母様。どうかご無事で」
肩で荒く息をつきながらも、その表情に、疲労の色は見当たらなかった。
ただ、揺るぎない意志だけが、彼の中で静かに燃えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――すまない。道を教えてくれないか?」
リュートが石像の脇の巨木で休んでいると、心地よい声が聞こえてきた。
驚いて声の方向を見ると、黄色い大きな嘴を持つ二足歩行の巨大な鳥と目が合う。
その鳥は、ダチョウほど厳つくはないが、愛嬌があるわけでもない。「太々しい」という表現がぴったり合う風貌をしている。
「――鳥がしゃべった!!」
思わず感想が口をつくも、そんなはずはない。声の主は、その背に乗る人物だ。
「少年、イーノ村へはこの道か? 地図では、この辺りに像があるはずなのだが……」
鳥の背からふわりと降り立ったのは、一人の美剣士。
長い金髪を風になびかせ、空を切り取ったようなキトンブルーの瞳が少年を真っ直ぐに見据える。白磁のような透明感を持つビキニアーマーが豊かな胸を包み、背には殺意の塊のような大剣を背負っていた。
「――すまないが、道を教えてほしい」
「す、すみません! 見惚れてました」
「……?」
美剣士の問いに、リュートの返答が噛み合わない。
一瞬の間の後、背後の梢でバサッと音が響き、大きな鳥が飛び立った。
その音に我に返ったリュートは、両頬を軽く叩き、気を取り直す。そして、慌てて口を開く、
「――失礼しました。イーノ村ならこの道で合っています。
お探しの像なら、多分通り過ぎたんじゃないかな……きっと……」
そう言いつつ、足元に転がる石像の欠片を隠すように前に出た。美剣士は、彼の不自然な行動に首を傾げつつも、追求することは無かった。
「そうか、ありがとう、少年。私はサラ。サラ・ヘンドリクス。こいつは相棒のパトリシアだ」
サラが鳥の喉元を優しく撫でると、パトリシアの喉がグルグルと鳴った。
「僕はリュートといいます」
「私は、冒険者ギルドの依頼でしばらく村に滞在する予定だ。リュート、よろしくな」
サラは挨拶をすませると、鞍に手をかけ、一気に背へ飛び乗ろうとしたが、勢い余って反対側に着地。
「――コホン。それでは、また」
気恥ずかしそうに、そのまま立ち去ろうとするサラを見送りながら、リュートの視線が、ふと彼女の胸元に向かった。決して下心からではない。
鎧で隠しきれないほどの深い傷跡が目に入ったのだ。
それは、手刀で貫かれたような生々しい痕で、興味本位で尋ねるには、あまりに非礼でためらわれるものだった。
――死の香りだけではない。そこには、何か胸の奥を引き裂くような、悲痛な叫びが籠められているよようだった。
「――この胸の傷跡が気になるか?」
サラの顔が曇った。
視線を気取られ、動揺したリュートは、言い訳を考えるも、サラの胸元を覆う鎧がわずかに発光していることに気づいた。
「――その鎧、ひょっとして魔道具ですか?」
「ああ、そっちか。分かるのか?」
「魔力の流れが何となく見えるので。――効果までは分かりませんが」
「……凄いな。当たりだ。身体強化と微回復の効果がある。それと蚊も寄せ付けないから快適だぞ」
リュートは一瞬目を見開き、少し瞑目してから、パンと手を叩いた。
「それは凄い! まさに銘品ですね! ……でも、サラさんに言い寄る悪い虫も多そうですね」
「ハハ。いや、最近はそうでもない。私に声を掛ける物好きはだいぶ減ったぞ。――ん?」
二人の他愛ない談笑は、唐突に途切れた。サラのキトンブルーの瞳が林の奥を鋭く睨む。
一気に、空気が張り詰めた。どこからか鳥の羽音が遠ざかり、森全体が沈黙に包まれる。
リュートは無意識に息を飲み込む。
――トトッ。
微かな空気の振動が、二人の肌をかすめる。
――ドド。
ピリピリと張り詰めた緊張が全身を包み込む。
――ドド、ドドド!!
次第に強まる振動。音は地鳴りへと変わり、林縁の草むらが激しく揺れた。突如、そこから飛び出したのは大型のフォレストボアだった。
「――危ない! 氷柱矢!!」
リュートは短い詠唱を紡ぎ、氷の矢を放つ。
しかし、
―― 一閃!!――
氷柱が着弾するよりも早く、サラは大剣を引き抜き、鋭い一閃を放った。次の瞬間、フォレストボアの脳天が真っ二つに裂け、血しぶきと臓物をまき散らしながら地面に崩れ落ちた。
「怪我はないか? 少年」
サラは逆手に握り直した大剣を肩口からくるりと回し血振りを終えると、穏やかな声でリュートに尋ねた。
「ええ。ありがとうございます。おかげ様で無事です」
唖然とするリュートに、サラが疑問を投げかける。
「――君はその年で魔術が使えるのか?」
リュートは背筋を伸ばし、静かに答えた。
「出過ぎた真似をしました。ただの初級魔術です」
「そう謙遜するな。大したものだ。討伐部位はいるか?」
「いや、僕は役に立ってないので」
リュートは、サラの提案をやんわりと辞退。サラが討伐部位を切り取るために、フォレストボアへ歩み寄ったその瞬間だった。
メリメリメリ、バギィィィー! ズド――ン!!
轟音が森を裂いた。爆風が駆け抜け、シラビソの大木が悲鳴を上げるように崩れ落ちた。
直後、空気が凍りついた。肌を刺すような冷たい圧が、辺りを支配する。それは殺意や悪意ではない。純然たる暴力の奔流、圧倒的な力の気配が、周囲の空気を一変させた。
「何だ……!? この圧は!」
目を見開くサラの視線、その先にいたのは、紅黒い隻眼をギラリと輝かせた巨大な熊の魔物だった。
呼吸が白く凍りつき、足元の草葉が凍りつき次々と砕け散っていく。
そんな異質な光景を目の当たりに、サラは小さく呟いた。
「――まさか、本当にいるとは……」
一筋の汗がサラの頬を伝い、凍りついた。