第190話 ミスティ
「――お花畑でるんるんしておいでよ。あは」
ふざけた口調の幼女がサラを蔑んでいた。見下すのではない。弱き者を憐れむ、哀れみの眼差しだ。
その屈辱よりも先に、サラは己の奢りを突きつけられ、情けなさに打ちのめされていた。
龍神を従え、この世界最強と謳われる魔族を斃し――この勢いのまま宿願であるカザアナ討伐も果たせる。
――そう、錯覚していた。
だが現実は、無惨で容赦ない。サラは、カビを操る幼女の前にあっけなく敗れた。
「――――ッ!!」
「……ぐッ!!」
嘆き叫ぼうとしても、声が潰えた。
喉の奥、いや肺そのものが焼け落ちるように痛む。胞子が内壁に根を張りズタズタに裂いたのだろう。
微回復機能を備えた白磁の鎧が絶え間なく光を放っている。これがなければ、とっくに命を落としていた。
(待て……誰に助けられた?)
「起きたの? 気分はどう?」
耳に届いたのはカトリーヌの声だった。
「――最悪だ」
サラは彼女を見ることなく、ただ天井を仰いだ。ここは……ドライアドの住まう家だろうか。
「……クエエ」
傍らで、パトリシアが弱々しく鳴いた。
「すまない。心配をかけた」
きっと、ずっと傍らにいてくれたのだ。忠義を労おうと手を伸ばすと、パトリシアが甘噛みをして抗議するように引いた。その先へ視線を向け――
「――なッ!! カトリーヌ、その腕はどうした!」
肘から先が、なかった。
「大したことないわ」
まるで些事であるかのように笑ってのける。
サラは言葉を詰まらせた。怒鳴りつけたのは心配ゆえだ。
だが、その腕を失いながらも自分を庇い逃げ抜いたのは、よりにもよって彼女だったのだ。
初対面の時から印象が悪く衝突さえした相手に、命を救われた。
庇われてなお怒鳴った自分が恥ずかしい。
その後悔は、言葉よりも重かった。
「ん~、サラをここまで運ぶ途中にね」
軽薄な声とともに、ジャンが部屋へ入ってきた。ノックなどしない。手にはコップと水差し。
「気分はどうだい? 安心して。この水はドライアドちゃんがいま入れてくれたばかりだから」
サラはコップを受け取ることもせず、深く頭を垂れた。
「ありがとう……私を助けてくれて」
「――ふん」
「ん~、礼ならカトリーヌに言いなよ。彼女が一番奮闘したんだから」
サラはカトリーヌを見つめ頭を下げた。そして腰袋から小瓶を取り出す。
「気休めにしかならんがこれを」
「何?――お酒?」
「ああ、痛みが紛れる」
コルク栓の匂いを嗅ぎながら中身を尋ねるカトリーヌに、サラがもう一度頭を下げた。
「――いいわ。戦場でのことだから」
そういうとカトリーヌは栓を抜きくいっと呷ると、
「ちょ!これ凄い強いじゃない!!」
「?ドワーフの国の酒【火鉄】だからな」
咽るカトリーヌを不思議がるサラ。「まったくもう」といいつつカトリーヌの顔は笑っていた。
その気遣いがサラの心を抉る。
(まだ私は、護られる側なのか)
奥歯を噛みしめても、現実は覆らない。――ならば、
「すまない……。何があったか、教えてくれないか?」
サラの問いに、ジャンは気安げに肩をすくめた。
「ん~、逃げるだけならわけないと思ったんだけどね。厄介なのが増えてさ」
「厄介……増えただと?」
「ん~。魔族がもう一人追加。みたいな?」
カトリーヌの失われた肘先。
血の滲む包帯を見た瞬間、サラの脳裏にぼやけていた景色の輪郭が蘇ってきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――あの時。
カトリーヌと瀕死のサラを背負ったジャンは、崩れ落ちる森をただ前へと駆けていた。
速度が出ない林冠を、ジャンは枝を裂いて突き進む。
背後から、胞子を撒き散らしながら幼女が追ってくる。表情だけを見れば鬼ごっこの延長に過ぎぬが、その実、広がる光景は惨烈そのものだった。
撒かれた胞子は大森林の巨木を次々に蝕み、千年を超えて生きた古木さえ根を腐され、軋みをあげて轟然と倒れていく。
「あは。早く逃げないと追いついちゃうよー。丸裸になっちゃうよー。たのしいねー。うれしーねー。あは」
感情の底を見せぬ笑みのまま、ミュコラは迫る。
「ジャン、迎え撃ちますわ!」
「ん~。どーやらそれしかないみたいだね」
二人は正面の大樹を蹴り、左右に分かれた。
「唸れ! 【極光の弓矢】―炎―」
カトリーヌの指先に嵌められた指輪が紅く閃く。
現れた魔弓が木々を照らし、炎の矢が胞子雲を射抜き、吹き飛ばしていく。
一筋の光が音を置き去りにした、その刹那、幼女を貫いた。
――だが、奇妙なことにミュコラは避けようとすらしなかった。
「ひどいなー。お顔がなくなっちゃったよー。あは」
顔の半分を失っても、笑っていた。
そのあまりの異様さに、カトリーヌの喉が凍りつく。
「ん~。ならこれはどう?――【影の踊り子】―影縛り―」
ジャンが抜き放ったのは、影を媒介に斬撃を届かせる魔剣――【影の踊り子】。
だが斬撃は影をすり抜け、甲高い音を響かせて地を穿った。
「お兄さん、どこ狙ってるの? もしかして、へたっぴさん?あは」
「ん~。どうかな、狙い通りだと思うよ。じゃあね」
顔の欠損を気にも留めず、ジャンは軽やかに笑って踵を返す。その背に胞子が振りまかれようとした瞬間――
「ありゃ、これは動けないね。すごいすごーい! どーなってるの」
感嘆するばかりで焦りの欠片も見せない。狂気じみた応酬が場をさらに歪めていく。
立ち去ろうとしたジャンの頬に、一滴の水が落ちた。
だが、大森林の林冠は分厚い。雨粒が地上に届くはずがない――その不審が足を縫いとめる。
直後、カトリーヌがサラごと彼を突き飛ばした。
転がり泥に塗れたジャンが顔を上げると、そこには水で形づくられた巨大な獣の顔があった。
「えっぐ……ミュコラちゃん、ごめんなさい。わだす、また失敗しちゃった。腕しか噛めなかった……」
巨木の影から、水色の長髪を濡らした少女が現れる。泣き腫らした赤い瞳にさらに大粒の涙を浮かべ、裸足のまま近づいてきた。
「――ぐッ!」
カトリーヌの美貌が苦痛に歪む。左腕は噛み千切られ、血が滲み落ちていく。
「もー、ミスティちゃん泣かないの。あなたが使えないのはいつものことだから、誰も期待してないよ。あはは」
ミュコラは彼女の頭を小馬鹿にするように叩いた。
「さぁ、存分に遊んでね! あは」
「ぐすん……今度は上手くやるから……」
嗤う幼女と泣く少女。異様な二人の魔族が、ひたりひたりと歩を進める。
「――ふん。【極光の弓矢】―土― 散!」
カトリーヌは血を滴らせながらも毅然と立ち、ないはずの左手に魔力を滾らせ腕を構築すると、すかさず弓を構えた。矢が幾筋も奔り、土壁が展開して視界を覆う。
「舞え!【影の踊り子】―影走り―!」
ジャンの声が響いた瞬間、三人の姿は霧のように掻き消えた。
残された地面には、かすかに残る足跡。
その跡を指先でなぞり、ミュコラの口端が不気味に吊り上がる。
「逃げても無駄ですよ。無駄無駄。“印”つけちゃったからね。あは」
「――ぐすん。ミュコラちゃん、また悪い顔してるよ」
青白い胞子が雨のように降り注ぎ、枯れ木の枝を揺らす。
その下で響くのは、幼女の笑い声と少女のすすり泣き――
不気味な二重奏が、森の闇にいつまでも木霊していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ん~。ボロ負けだったね」
ジャンが肩を竦めて息を吐く。軽口に聞こえるその声音も、背に滲む汗と乱れた呼吸が戦いの苛烈さを物語っていた。
サラは唇を噛み、握った拳を膝の上に叩きつける。悔しさを押し殺しきれず、肩が小さく震えた。
「――ザッ……サラ。はぁ。き、聞こえますか?」
突然、耳に付けた魔道具『風の音』が震え、ノイズ混じりの声が流れ込む。
リュートだった。
「こちらサラだ。聞こえている」
上体を起こし、息を整えながら応答する。
「よかった……ぐっ!? 無事だったんですね」
「いや、私とカトリーヌがやられた。カトリーヌが重傷だ。リュート、一旦戻れないか? 彼女を治療したい」
サラは横目で、血に濡れたカトリーヌの腕を見やった。彼女は意地で平静を装っているが、青ざめた顔が限界を示している。
「――えっ! すみません。こちらも人形を操る魔族に攻撃を受けて、今は里の生き残りを連れて移動しています」
リュートの声が強張る。背後で木々を踏み荒らす足音や悲鳴が混じり、緊迫した状況がそのまま伝わってきた。
「なに! 同時に魔族が三人も襲来しているのか!」
思わず立ち上がり、サラは壁を拳で叩いた。乾いた衝撃音が室内に響く。
数を増す魔族に、リュートでさえ敗走を余儀なくされる――事態の深刻さは疑いようもなかった。
――だが、悪夢はそれで終わらなかった。次のリュートの一言が、事態をさらに深淵へと突き落とす。
「い、いえ、襲来している魔族はあと一人。計四人です。僕とセイラが重傷を負っています」
膝が崩れ、視界が白む。声すら出ない。
心の弱さが吹き出し、闇となって襲いかかる。
それでもサラは大剣【龍輪骸】を見つめていた。
沈み続ける闇の底で、ただその一点だけを。




