第182話 エルフの”隠れ”里
「待って! お願い、この子は返すから!」
【理】すらも無に還す龍神バハムートの力が周囲を呑み込まんとしたその瞬間、エルフの女が地に頭を擦りつけながら現れた。
「――貴様、セイラに何をした?」
サラの怒気を孕んだ問いと共に、剣先が鋭く空を裂いた。
ひと筋の風が揺れ、エルフの髪がはらりと舞い落ちる。
その足元に横たわっているのは、ぐったりとしたセイラ。
不自然なほど動かず、まるで眠っているかのようだ――だが呼吸の気配すらない。
サラの胸に冷たいものが走り、表情が険しく固まった。
「ま、待って! 落ち着いて! 大丈夫だからっ!」
慌てて両手を振りながら、エルフが早口にまくしたてる。
「ほんの少し、意識をこの世界から外しただけなの。ほら、ね、もう大丈夫だから!」
そう言って彼女が短く祈りの言葉を口にすると、セイラのまぶたがぴくりと震え、翡翠の瞳がゆっくりと開かれた。
「――あれ? ボク……どうしたんだっけ」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
サラは深く息を吐いた――だが次の瞬間。
「あっ、昨日のお姉さん!」
「うん、そうよ! 昨日ぶりね!! 元気だった? ――ひゃっ!?」
空気を察したのか、セイラが慌てて笑顔を作り、サラの袖を軽く引いた。
「サラ姉、ボクは平気だよ。――それよりも……」
「ああ。そうだな……。――コホン。お前、エルフの女。名は?」
「フェリアって言うの! フェリって呼んでね! フェリもフェリのこと、フェリって呼んでるから!」
「一人称が渋滞してますよ……」
不意に挟まれたリュートのツッコミに、サラが肩をすくめ、静かに一歩退く。どうやら、尋問はリュートに任せるつもりのようだ。
リュートは目配せを返しつつ、敵意のないことを示すように丁寧に頭を下げると、柔らかく声をかけた。
「それでフェリさん、どうして僕たちを襲ったんですか?」
「やっぱりあなたイケメンね」
「あの?質問に答えてもらえますか?」
自分の緊張を和らげるつもりで、口にした言葉にリュートが欠片も反応しない。
いうべき言葉を間違えたと気づき、エルフはごくりと唾を飲み口を開いた。
「だって……あなたたち、“フカイの王”を探してたから」
やっとの思いで消え入りそうな声をだすも、リュートの顔色は変わらない。
彼の黒い瞳の奥が、底知れぬ闇に見えてエルフは身震いをした。
「“フカイの王”って、同じエルフではないのですか?」
「知らないわ……誰も姿を見てないもの。彼は、敵だから。フェリたちから大切なものを奪ったの」
言い知れぬ不安から、眼を見ることもできず下を向きながら答える。
「敵だと?」
「――うん。でもごめんなさい、それ以上は言えないの。詳しいことは、お爺ちゃ……じゃない。長老から話させて」
その言葉に、すかさずサラから殺気が走る。フェリアの肩がぴくりと跳ねる。
「ご、ごめんなさい! まさか龍神様の契約者だなんて知らなかったの! 誤解だったの。ちゃんと歓迎するわ。だって、昔――フェリたちは助けられたのよ」
「助けられた?」
「ええ。サファイアみたいに綺麗な目をした剣士様に」
その言葉に、サラの眉がぴくりと動いた。
胸の奥が熱く疼く。
――龍神と契約を交わした剣士。それは、自分と兄リヒトの二人だけのはずだ。
剣から手を離したのは、怒りが和らいだからではない。
わずかな希望を、信じたくなったからだった。
サラの手が剣から離れた。
フェリアの証言は、サラの警戒を解くには十分だった。
「……話はまとまったようですね。では、そちらの村に案内してもらえますか?」
リュートの表情に感情が戻った。その変化にフェリアは安堵すると嬉しそうに頷いた――が。
「その前にさ、キミ……離れてよ」
セイラが困惑気味に眉をひそめた。
見れば、会話が終わるや否や、フェリアがセイラの背中に抱きつき、毛並みを撫で回したり、顔を埋めて深呼吸しているではないか。
「――はぁぁ。セイラちゃんの匂い、たまんないっ!!」
森の静寂も、一触即発だった空気さえも、すべてを台無しにするエルフの歓喜が、森の奥にこだました。
「……流石に、よだれはやだよ。サラ姉ぇ……この人ほんとに大丈夫?」
セイラは涙目になりながら、そっと背を引いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なるほど。どうりで、どこまで進んでも同じ景色が続いていたわけですね」
リュートが手を打ち、納得したように頷く。
いま、彼らは土魔術で築いた足場を使い、樹冠を目指し垂直に移動していた。
天蓋のように覆う枝葉の壁を抜けるとそこには、まったく別の世界が広がっていた。
「下の森は、私たちにとってはただの床下。この木の上こそが、私たちの本当の世界なの」
先導するエルフの少女フェリアが、振り返りながら笑う。
「あー……できるだけ簡単に説明してもらえると助かるだが」
サラが苛立ちを隠しながら告げると、フェリアは全く気付いていないのか指を立てて得意げに笑った。
「つまりね、木の高い場所に結界を張ってるの」
「結界の内側に……都市を?」リュートが問い返す。
「そう! しかも、魔力濃度も高いから、多少の揺らぎなら外からは感知されにくいのよ」
「つまり、エルフさんたちは木の上で暮らしているってこと?」
セイラが小首をかしげて問うと、フェリアは目を輝かせて叫んだ。
「そうよ! セイラちゃん、当ったりー!!」
嬉々として抱きつこうとするフェリアを、セイラは身をひるがせてひらりとかわす。
その前に立ち塞がるようにサラが出ると、フェリアはぴたりと動きを止めた。
「とはいえ、木の上というのは不便ではないのか? 登り降りも大変そうだ」
サラの疑問に、フェリアは自信満々に笑うと、突然足元の枝から身を投げ出した。
――すたっ。
落下するかと思いきや、フェリアの身体は空中でぴたりと静止。
「……なるほど。見えていた枝葉は幻術。本物の樹冠はもっと上なんですね。あれでしょう、あそこに見える」
リュートが天を指差すと、フェリアは満足げに拍手する。
「その通り! キミ、なかなか賢いじゃない!」
「まさか、この大森林全体がそうなっているのか?」
サラが目を細めると、フェリアは肩をすくめて笑った。
「まっさかー。いくらフェリちゃんたちでも、そんな大規模な術式は維持できないわ。こういう“隠れ里”がいくつかあって、必要に応じて移動しながら暮らしてるの」
「どおりで、いくら探しても里の気配がなかったわけだ」
そう呟いて、サラは再びフェリアのあとを追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらく進むと、木々の隙間から建物群が姿を現した。
どうやら、目的のエルフの里に到着したようだ――だが、そのあまりに予想外の光景に、誰もが言葉を失った。
「ボク、エルフさんって、木をくり抜いて住んでると思ってたよ」
「僕もです。まさか、こんな……」
「え? やだ、そんな家。虫が湧きそうじゃない」
セイラとリュートの素朴な想像を、フェリアが眉をひそめて一蹴。
そこに広がっていたのは、木々の狭間に忽然と現れた異質な光景だった。
森の緑を切り裂くように、直線的な建造物が規則正しく並び、淡い魔灯が街路を照らしている。
建物の壁面には幾何学模様が刻まれ、自然の曲線とは対照的な人工の秩序を誇示していた。
――エルフの里。それは素朴な隠れ里ではなく、森に隠された一つの“文明都市”だった。
外観に気を取られる仲間たちをよそに、サラの視線は別の方向へと向く。
「――それで、“あいつら”は?」
視線の先にいたのは、長弓を携えたエルフの衛兵たち。
彼らは警戒の色を露わに、じっとこちらを睨んでいた。
「だいじょうぶよ」
フェリアはひと言だけ告げると、軽く片手を挙げる。
それが合図だった。
衛兵たちは即座に弓を下ろし、恭しく膝をついた。
「このまま長老のもとへ案内するわ」
フェリアは微笑みながらそう告げると、ゆっくりと里の奥へと歩を進めた。
衛兵たちの態度に既視感を覚え、サラは「……なるほどな」と独り言ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「フェリねぇーー!!お客さん?」
里に入るなりドングリの髪飾りを付けた幼子がフェリアに向けてかけて来た。
「コハク!!今日も元気じゃん!!それーー」
フェリアは胸に飛び込んできた幼子の手を握るとくるくると回転し始めた。
「きゃーー!もっと、もっとーー」
「あーーずるい!おれも、おれも!! あーー猫ちゃん!!」
声が聞こえたのかすぐに子供たちの輪ができていた。
そして、その輪の中心にはもちろんセイラ。
「うーー。リュー兄助けてよ」
子どもたちに馬乗りにされながらセイラにやり返すすべはない。
そんなセイラにリュートは目配せをすると、
「はーい。みなさん注目! この小枝に魔力を込めると……」
リュートが懐からだした小枝の先が淡く光ったかと思うと、光を乱反射させながらふわふわと飛ぶ光の玉が現れた。それはさながらシャボン玉だった。
「欲しいひとーー!」
「「「わーーーい!!」」」
リュートに子どもたちが我先にと群がり気づけば辺り一面が柔らかな光の玉で溢れていた。
「リュー兄。助かったありがとう。――あれ後でボクにも作って」
「もちろんです!とびっきり大きいのあげます」
「やったーー」
無邪気に喜ぶ輪の端でサラがぽつんと呟いた。
「私も……欲しい」
「サラなにかいいました?」
「……なんでもない」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
長老の家は、ひと目でそれと分かるような場所にはなかった。
木上に整然と並ぶ家々の中にあって、その一つに過ぎない。特別に大きいわけでも、美しく整えられた庭や噴水があるわけでもない。荘厳な門構えもなければ、周囲に衛兵の姿もない。ただの一軒家――そうとしか見えなかった。
だが、サラたちはすぐに悟った。この家こそ、エルフの長老が住まう場所だと。
家の前に足を止めた瞬間、ガチャリ、と音を立てて扉が内側から開く。
「サラ様、リュート様。お待ちしておりました。
孫娘の非礼、どうかお許しください。龍神様のお認めになった方に危害を加えるなど到底許されぬ愚行。――ですが、出来が悪くとも可愛い孫なのです。どうか、ご慈悲を!」
姿を現したのは、年齢を重ねた老エルフだった。深く頭を垂れ、真摯な態度で二人を迎える。
だが、サラたちが驚いたのはその礼儀正しさではなかった。
開かれた扉の奥に広がっていたのは――王城の一室。
繊細な装飾が施された床や壁、煌びやかな天井の文様。そして、その場に整列する多数の兵士たち。誰が見ても、それがこの里の中枢であることは明白だった。
「……はは。ずいぶんと手の込んだ認識疎外術式ですね」
リュートが感嘆の吐息混じりに呟く。
彼とて、数多の魔術を習得し、空間や認識の干渉にも精通している。だが、この空間に漂う術式の密度、精度、構造――どれもが常識の枠を逸脱していた。
ここは、ただの一軒家などではない。
エルフたちが気の遠くなるような年月をかけて築き上げた、知の結晶にしてこの国の“王城”――その本質を、サラとリュートは無言のまま受け止めていた。