第175話 千夜一夜物語
月明かりが、壁に立てかけられた大剣の刃に淡く反射していた。
その柔らかな輝きがサラの頬を照らし、霞んでいた意識が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
「すー、すー……」
規則正しい寝息が耳に届き、視線を横に移す。そこには、セイラがサラに体を預けるようにして眠っていた。
サラはそっと、その頭を撫でる。指先に伝わる温もりに安堵すると、身を起こし、音を立てぬよう慎重に部屋を出た。
階段を降り、一階へ向かう。
静まり返った空間で、影が一定方向に揺れる。テーブルを拭くリュートの姿が見えた。
「――あっ、サラ! おはようございます。腕の具合はどうですか?」
「ああ。おかげさまで、だいぶ楽になった。……それより」
「なにか食べますか?」
「片づけ終わったばかりなのに、すまないな。助かる」
「二日近く眠っていましたからね」
「……そんなにか」
リュートは穏やかな笑みを浮かべ、慣れた手つきで食事を用意し始めた。
パンとスープ、それに素朴な野菜の煮物。飾り気のない内容だったが、空腹の身体にはこの上なくありがたかった。スープの香りには、微かに薬草の風味が混じっている。相変わらず抜け目がない男だ、とサラは思う。
「――おかえり、リュート。本当によく、戻ってきてくれた」
「はい。改めて――ただいま、です」
彼が南の森でユウとともに姿を消し、次元の狭間に飲み込まれたことは、すでにセイラから聞いていた。
この間、一ヶ月も経っていないが、再会したリュートは、見違えるほどに成長していた。幼さの残っていた表情は引き締まり、声も低く落ち着いている。たしか、五年ほど経過したと言っていたか。
全くもって理解できない。
一方で、彼と行動を共にしていたはずのユウには、目立った変化がない。その理由は――まだ彼の口から聞いていない。
王国を滅ぼしかけた魔族二人を退けた今、束の間の静けさが訪れようとしていた。
しかし、嵐の前の静寂に過ぎないことも、サラには分かっていた。
「……もう眠るのか?」
「――いえ。せっかくだから、何かお話でもしますか?」
「――ふっ。ああ。そうしてくれるか?」
つくづく察しがいい、とサラは小さく笑った。
この先、戦いはさらに激しさを増すだろう。それでも今だけは、穏やかな時を過ごしたい――そんな思いがよぎる。
ふと昔、子供の頃に枕元で聞いたお伽噺のような話が聞きたくなった。
「教えてくれないか。……【次元の狭間】で、なにがあったのか」
「もちろんです!」
リュートが軽く頷いたその瞬間、サラは気づいた。
自分の胸が、幼き日の頃のように――少しだけ、高鳴っていることに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アルヴァン・ミラフォートとの死闘を制し、ユウと合流した直後――
アルヴァンの身体が、死者を操る魔族シエル・ビーに乗っ取られた。
歓喜は一瞬で絶望へと転じ、更にその底が抜ける。
ユウは呪いの刃で腹を貫かれ、魔術を封じられたのだ。
リュートの背にも同じ刃が突き立てられ、勝利の余韻が容赦なく砕け散っていく。
そんな最悪のタイミングで、もう一人の魔族――エッジが現れた。
このままでは、生き残れるはずがない。
リュートは決断した。
「逃げる」のではなく、「生き延びるために次元を裂く」という選択を。
しかし、そこは想像を絶する空間だった。
歪む時間。
ねじれる空間。
その場所は、生きるという営みの全てを否定していた。
空気や水はおろか、光も、闇すらない。
法則そのものが欠けた世界――それが【次元の狭間】だった。
リュートは、呪いにより凍りついていく体に残る魔力を感じながら、母から贈られた愛杖に、残されたすべてを注ぎ込む。
「おおおォ――!! 【天地創造】ッ!!」
その瞬間、何もない虚無の空間が世界を構成する八色の輝きで満たされて……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ぼんやりと意識が浮き上がる。
「……寒い」
ユウは寒さに身を震わせた。
全身が、真冬の湖に沈んだような冷たさに包まれている。
目を開けても、何も見えない。
ただ、凍てつく静寂と闇――。
意識だけは、はっきりとしていく。
(……アタシ、死んだのかな。お師様みたいに、あいつらに操られちゃうのかな……)
悔しさが胸を締めつける。
自然と涙が零れた。だが――
「……ん? なんかあるぞ」
その違和感が、ユウの意識をもう一段、現実へと引き戻す。
「っ……ハッ!!」
咄嗟に魔力を展開。すぐ近く、手が届く距離に空間の“壁”があった。
箱のような閉塞感――一気に手を伸ばして蓋を押す。……開かない。
ならばと、魔力を込めて――
カシュン。
拍子抜けするほどあっけなく、蓋が開いた。
「……ここ、どこ?」
目に飛び込んできたのは、真っ白な空間。天も地も曖昧な、光に満ちた“無”。
その中央に、棺のような箱が――
「って、うわっ!? ふ、服……!」
薄布一枚。あまりにも無防備な自分に気づき、慌てて身を縮める。
「……だ、大丈夫。見られてない。――はず。
そ、それに身体にも異常は……な、ないよね。
うん、生きてるだけで丸儲け!」
無理やり気を取り直したその時、無表情の土人形がすぐそばに立っていた。
「うぎゃ――っ!? か、火炎っ!!」
咄嗟に詠唱しようとして舌がもつれる。だが、土人形は動かない。
よく見ると、その腕には……自分の服が乗っていた。
「……キミ、ひょっとしてアタシのお世話、してくれてたの?」
問いかけに、コクリと小さく頷く土人形。
「そっか。……ありがとう」
少し笑って礼を言うと、ユウは服を受け取り、素早く着替えた。
「で、キミのご主人様――リュー君だよね? 彼はどこ?」
……返事は、ない。
ただ無言で、立ち尽くす土人形。
「そ、そうですか。なら自分で探しまーす」
肩をすくめながら、ユウは白い空間を歩き出す。
しばらく歩くと巨大な壁が姿を現した。
ここがこの空間の端かと思い近づくも何かおかしい。
目の前に立ち、ようやく理解した。
「これ……一面に色々書いてある。呪いの術式かな?」
その壁は高さ五メートル。奥行きは見通せない程長い。いたるところにメモ書きのようなものが書かれていた。――いや、とてもそれだけではない。
「これ、床にもびっしりと書いてある。なになに、人語……だけじゃない。こっちはエルフ語。古代文字?それにこれは見たこともない文字だぞ?……算術の記号かな?ここは、楕円軌道を求めている?」
ところどころにある情報を点と点とつなぎ、線にしていく。断面的な情報と自身の知識を総動員すると朧気ながら何かが見えて来た。
「あっちは呪術。こっちは空間魔術かな?……それも転移」
「あたりです。さすがユウさん!」
聞き覚えのある声に思わず振り返る。
――が、そこにいたのは、長い黒髪を後ろで束ねた青年だった。
「だれ?人攫い?」
「……ひどいなぁ。僕ですよ」
「もしかして、リュー君!? その恰好どったの?」
知っているようでいて、知らない顔。けれど、魔力の波動だけは――確かに彼のものだった。
「この魔力……やっぱりリュー君か!? なにそのイケメン進化と長身、反則じゃん!」
目の前のリュートは、もう以前の少年ではなかった。
見た目は十代後半。夜空のような神秘的な黒瞳はそのままに、低く落ち着いた声と物腰が、大人びた雰囲気をまとわせている。
細身ながら、広い肩幅と、服の上からでもわかる筋肉の輪郭。魔術士らしい装いが、どこか似合ってしまっているのがまた憎らしい。
しかもその顔――
(なんだか、知的で、誠実そうで、頼れる感じで……って、ちょっと! アタシ、何見とれてんの!?)
……気づけば、頬が熱くなっていた。
それが誰かに似ているせいだと、なんとなく察した瞬間、ユウはぶんぶんと首を振って気を紛らわせた。
「と、とりあえず! 今なにが起きてるのか、教えてくれると助かるんだけど!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なるほどね〜。呪いの刃が刺さったアタシを生かすために、五年間も冷凍保存して、じっくり治してくれたってわけだ。本っとうにありがと!」
軽い調子の感謝とは裏腹に、その視線には確かな敬意が滲んでいた。
「……でもさ、それにしても――何もない空間に“世界”を創っちゃうとか、さすがは姫様が認めた大魔導士だね。こりゃ、また一本取られたよ」
「……いえ。この杖がなければ、絶対にできませんでした」
リュートはそう言って、手にした愛杖へと目を落とす。
それは、彼の母――シドから託された、希望の名を持つ杖 グラン・エスペランサ。今もかすかに、青白い魔力が脈打っていた。
「僕も知らなかったんですが、この杖には魔力を蓄える力があったんです。それで魔力が一時的に使えなくなってもなんとか凌ぐことができました」
「魔力が使えなくなって?……リュー君も、アタシと同じようにあの魔族の刃で斬られたの?」
「ええ。背後から近寄って来た小人族の死兵に。グッサリと。――油断しました」
死の瀬戸際まで追い詰められた戦闘が思い出され、場の空気が一気に沈んだ。
そんな雰囲気を察したユウが、からりと表情を変えて、
「……にしても、五年も寝ちゃってゴメンよ。いくらアタシの可愛い寝顔が見放題っていうご褒美があったとはいえ」
「…………」
「ちょっと、黙んないでよ! 姫に言いつけるぞ? アタシの服を脱がせたって」
「や、それは治療でやむを得ず……。ご、ごめんなさい」
「にひひっ。冗談、冗談!
キミは命の恩人だ!ちゃんと感謝してるよ!」
リュートが苦笑いを浮かべる。ユウは満足げに鼻を鳴らすと、改めて周囲を見渡した。
「で――どうやってここから帰るの? 」
「ええ、それなんですが……まずは二人で龍を倒して、魔石をゲットしましょう」
「ヨシきた任せろ!おおー! って……今、なんて言った?」
勢いよく返したその直後、ユウの顔が固まる。
――この世界において、龍とは世界を創り、世界を滅ぼす、神話の頂に君臨する存在。
そんな“神々に等しいもの”を、倒す――だって?
リュートのさらりとした一言に、血の気が引くような冷たい汗がユウの頬を伝った。




