第156話 水神の不安と王命
「なんぞ我を呼ぶ声が聞こえたかと思うたら、おぬしか。確か名はサラといったな。相変わらず美しい舞であったぞ」
鏡面のように澄んだ湖の中央に、水面を踏むように立つ女神がいた。
清流のように滑らかな髪が風に揺れ、透き通る羽衣が月光を受けて淡く光る。
その姿は幻想的でありながら、どこか親しみを感じさせる雰囲気をまとっていた。彼女こそ、水神――ラトナであった。
「お久しぶりでございます。水神様」
「『様』はいらん。して主は我と契約したいのだろう?」
ラトナの瞳がじっとサラの胸奥を覗き込む。まるでその心の隅々まで見透かすような、神ならではの深淵な眼差しだった。
「よ、よろしいのですか?」
サラの戸惑いに、水神は笑みも浮かべぬまま応じた。
「泳げるようになったら契約すると伝えておったじゃろ。我は律儀だからな。約束は守ろうぞ。……さっそくじゃが、大剣を差し出せ」
サラが静かに大剣を胸の前で掲げると、湖水が呼応するように渦を巻き、刃に絡みついた。
巻きついた水流はやがて柔らかな膜となり、サラの全身を包み込む。
それは、契約が成された証だった。
「うむ。これで完了じゃ。ついでに懐かしい匂いのするその大剣も研いでおいたぞ」
「心よりの感謝を!!」
「よいよい。我も久しぶりに氷神――姉さまに会いたいからのう」
「お、お二人は姉妹なのですか?」
「そうじゃ。というか双子じゃ」
「――――」
サラは言葉を失った。若々しくも神秘的な水神の姿から、あの老成した氷神の面影はまるで想像がつかなかった。
「その顔……また姉様は老婆の容姿をしておるのだな。ほんとに困った人じゃ」
「――ったく。せっかくカッコつけて去ったばかりだってのに。
いきなりバラす奴があるかい。老婆の方が何かと都合がいいのさね」
くぐもった声が背後から響く。振り返ったサラの視線の先、氷神は静かに水面に佇んでいた。
腕を組み、皺の刻まれた顔に揺るぎない威厳を漂わせるその姿は、まさしく氷山のように落ち着いた存在だった。
「姉さま。久しぶりじゃ」
「アンタも変わりないようだね」
二柱の神が並び立つと、年齢を超えた不思議な共通性がその顔立ちに浮かんだ。
「して、サラよ。よもやこんなところに呼び出したんじゃ。目的は契約だけではあるまい?」
「はい。お気遣い感謝申し上げます。実は、地上への通路が落盤で塞がっておりまして、出口を探しております」
「ふむ。来た道を戻りたいが、けが人がおるゆえ、水の中を安全に進む手立てを知りたいと」
「厚かましくも、時は一刻を争う故、無礼はご容赦願います」
「あい分かった!それでは、氷神、やるかのう」
「ったく。老人をこき使いやがってと言いたいところだけど、他ならぬサラの頼みだ。むげにはできないねぇ」
こうして水と氷、神々の力を結集した脱出劇が静かに幕を開けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「うおッ!! 眩しい!! 太陽の光だ!」
「おおこの、じんわり来る温もり、確かに日の光じゃ!」
地底から這い出てきたのは、エスとドワーフ王フェルド。
二人は湖面に差し込む光に目を細めながら、氷に覆われた穴の縁に座り込んだ。水面に突き出るように現れたその穴は、まさに神々の奇跡の御業であった。
水神が水中に渦を作り、水流を巻き上げて道を造ると、氷神がその道を瞬時に凍結させていく。
そうして造られたのは、地底湖から地上へと続く、氷のトンネルだった。
「二人とも、感動は後だ。けが人の搬送を手伝ってくれ……っとパトリシア!!」
「クエエッ!!」
サラの呼び声に応えるように、湖面の向こうからパトリシアがふわりと滑空してきた。
岩棚を使って助走をつけた巨鳥が、風を捉えて水面近くへ舞い降りる。
その背には、一人の兵士。そして、後ろからは洞の影から六人の人影が次々と現れる。
全員が、パトリシアに導かれるように動いていた。ティエラ王国近衛兵。サラのかつての部下たちだ。
「お前たち!!」
サラは短く息をのむと、静かに微笑んだ。
「……さすがパトリシアだ!!」
彼らは反撃の機会を窺うため、岩屋や洞に身を隠しつつもパトリシアを見るなり、サラの帰還を確信。即座にその意図を悟りこの場に馳せ参じていた。
「サラ隊長!!ご帰還心より感謝申し上げます!我らティエラ王国近衛師団に出来ることあらば何なりとお申し付け下さい」
「私はもう隊長ではない!
――しかし、今は国難の時。皆の力が必要だ!
協力してほしい!」
「「おおう!!」」
サラの号令に希望の光を見た、近衛兵達から力強い返事が返された。
そんな光景を嬉しくも複雑な思いで眺める者が一人いた。
「儂。国王なんだけどなぁ……。近衛兵ならもう少し儂に気づいてもいいんじゃ」
サラの背後で国王フェルドが寂しそうに零していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
地底からの脱出は、静かに、しかし着実に遂行された。
氷神の魔力によって生まれた氷塊を、サラが大剣を振るい、鋭く滑る橇へと加工した。
その即席の橇を牽くのは、氷すら足場に変えるセイラ――氷上を滑るように進む彼女の足取りは、まるで風穴から吹き出す風のように颯爽としていた。
「やれやれ、全くひどい有様だな……」
フェルド王は、重く息をつき、崩れた石壁にもたれかかった。
瓦礫の山に注がれるその眼差しは、鋭さの奥に、悲しみとかすかな安堵の色が滲んでいた。
「ああ。だが、これだけの損害に対して犠牲者の数は少ない。師の英断のおかげだな」
サラは外套の肩口を整えつつ、淡々と答える。声は冷静でも、その掌には見えない焦りが宿っていた。
「うむ。サラよ、シグルドの様子はどうだ?」
「今、セイラが診ている。大丈夫。師のことだ。すぐに快気される」
「そうじゃな……」
王の眼差しが空を仰ぐ。眉が寄り、口元に不穏な色が差す。
サラはふと、空気の匂いに違和感を覚えた。胸の奥を撫でるようなざわつきが、なぜか消えない。
「……ん? サラよ、南の空がやけに赤くないか?」
「南? 夕焼けなわけがないな……まさか」
サラも振り向いた瞬間、全身が硬直する。あの空の赤、それはただの夕焼けではなかった。
脳裏をよぎるのは、カザアナの襲撃で空が染まった、あの悪夢の光景。
「ま、まさか燃えているのか? まずい!! あの方角はリュートたちが飛ばされた方角だ! い、一体なにが――」
言葉が震えた。サラの背筋を、冷たい恐怖が這い上がっていく。
南の空に広がる炎の色は、明らかにただ事ではなかった。
「サラよ、我はちと気になることがあるんじゃがよいか?」
振り返るとそこには、覚悟のこもった眼を向ける水神がいた。
「水神様!此度は、お力添え心より感謝申し上げます!おかげで、無事……」
「ほれまた言う。『様』はいらぬ。気にするな。それより、……」
水神ラトナが、わずかに表情を曇らせた。
「南の森にはのう……水を敬い、長らく泉を護ってきた小さき者たちが住んでおった。『アセリアの守人』――そう呼ばれておった一族じゃ」
「泉……『アセリア』ですか?」サラが問い返す。
ラトナはわずかに頷き、空を見上げた。
「アセリア。それは、森が生まれる前から湧く聖なる泉。
決して枯れることなく、決して淀むこともない不可侵の泉じゃ。
森そのものの命脈とも言われておる」
「……けれど、その守人たちの気配が、このところ感じられぬ。まるで、森ごと沈黙してしまったかのようでのう……」
サラの横で、フェルド王が腕を組んで唸る。
「むう……まさか、本当に“その時”が来たのかのう……」
「父上? “その時”とは――」
「いや、儂も詳しくは知らん。だが……王位を継いだときに、えらく長い祝詞を聞かされたんじゃ。ええと……たしか、災厄が来るとき、泉から光がどうこう……」
「……寝てたのですね」
「ぐすん。それはさておきじゃ……エス、お前覚えておるか?」
小柄な男が一歩進み出る。
「はい。戴冠の書にこうありました――」
そして、エスは静かに謳うように口を開いた。
「『大いなる災厄、地を覆わんとする時、
聖泉アセリアより光、生まれ出で、災厄を穿つ矛と化さん。
アセリア失われしとき、地平の安寧は崩れ、
朝日、空に昇ることなし。
されば次代を照らす王よ――
アセリアの守人に寄り添い、その盾となるべし。
これすなわち、大森林の意思を継ぐものなり』
たしかに、【戴冠の書】にはそう書いていました」
「エス、流石だ!」
「昔、団長に言われて、その手の資料は一通り目を通しています。それよりもユウ達が心配です。姫、勝手ながら斥候として、南の森に行くことを許可していただけませんか?」
エスは、まっすぐにサラと王を見つめた。
揺るぎのないその瞳に、問いも迷いもなかった。
その真っすぐ眼差しは、サラの胸を締め付けた。
自分も、本当は飛び出したい。リュートの救出へ、すぐにでも。
けれど――
王国の民は今なお瓦礫の下で呻き、戦火の混乱は続いている。
その現実が、サラの足を止めていた。
そんな彼女の背中に、ひとつの声が届いた。
「冒険者サラよ。王命を下す。心して聞くが良い。今が、災厄来る時だ。ならば、国のため一刻も早く南の森に出向きアセリアの謎を解き明かし、守り人の盾となるのじゃ」
国王フェルド王がひときわ、尊大な声を響かせた。
サラは、その威厳に一瞬驚嘆の顔を見せるもすぐさま跪き、
「はっ!!その王命謹んで拝領いたします!!」
サラは、地に膝をつき深々と頭を垂れた。
やがて立ち上がり、顔を上げたその瞳に映るのは――未だ赤々と燃える、南の空。
たなびく煙は、まるで誰かの悲鳴を呑み込み、天へと訴えるようであった。
「リュート待っていろ!もうすぐだ!!」
サラの目には、すでに迷いはなかった。




