第145話 ユウ・ワンズ 前編
リュートと共に、転移魔法陣の光に包まれたユウ。
なぜ、その術式は彼女を選んだのか――。
その答えに近づくには、まず彼女の“始まり”を知る必要がある。
かつて、まだ名もなき一人の少女だった頃。
ユウ・ワンズという存在の原点について。
◇ ◇ ◇ ◇
ユウ・ワンズ
彼女は、小人族と人族のハーフだ。
物心ついた頃の記憶で残っているのは、ただ一つ。それは、優しい母の微笑み。
ティエラ王国の南、エルフが住まう大森林との境界近くに、小人族の隠れ里があった。小人族はエルフのように魔力に秀でるわけでもなく、ドワーフのように手先が器用なわけでも、ましてや、獣族のように屈強な身体を持つわけでもない。
特徴と言えば、少々すばしっこいことと、愛くるしい見た目ぐらいだ。とはいえ、その見た目の良さがこの種族に辛い歴史をもたらしていた。
――ユウの母もまた、例外なくその犠牲者だ。
ユウの母は、名前をタティアナという。
彼女は、容姿の良い小人族の中でもひと際美しかった。輝く太陽のようなオレンジ色の髪に、神秘的な桔梗色の瞳。稀に、森に迷い込む人間は、彼女のことを精霊と勘違いしたほどだ。
そして、そんな噂はすぐに広まり、人攫いの標的となった。
力の弱い小人族とて対策を取っていなかったわけではない。森林の実りを得るためや、人攫いの目をくらませ、そしてある理由から、彼らは村を転々と替え、広大な森の中を移動しながら生活していた。
しかし、時代が進むにつれ、いくら森に住む小人族とはいえ、完全に人間社会と断絶して暮らすことは困難となった。そのため、定期的に人里と交流を持ったのだが、そうなれば、痕跡を消し切れるはずは無かった。そんな状態で、長く逃げおおせられるはずもなく、あえなく小人族の村は発見され、彼女は人攫いに捕らえられた。
タティアナは初めこそ、貴族の家に売り飛ばされ、鑑賞用として飼われていたが、彼女の美しさに嫉妬した貴族夫人によって、ついには遊郭に売り飛ばされてしまう。
そして、当然のように地獄が始まった。
遊郭は女の園と表現されることもあるが、そんなものは男にとって都合の良い戯言で、実際は攫われるか、騙される、売られてきた女たちが詰め込まれる収容所でしかない。
そこでは、欲望を滾らせた見知らぬ男たちを一晩に何人も相手にしなければならず、その苦しみは計り知れるものではない。さらに小人族である彼女にとって、人族との体格差が生む負担は、肉体だけでなく、その心をも深く傷つけた。
終わりのない絶望の日々――。
ずっと暗い夜が続いていた。
いつしか自分という存在が、誰のものかも分からなくなっていた。
だが、ある日、訪れた災厄がすべてを変えた。
突如として魔物の群れが街を襲ったのだ。
――魔物災害。
それは、この世界でも飢饉や疫病に匹敵する災厄であり、都市ごと滅びる例も珍しくない。今回、タティアナがいた街を襲ったのは――サキュバスの群れだった。
それは、女を求めてやってきた男たちにとって、相性は最悪でありその地獄から逃れたいと願う者達にとっては格好の目くらましとなった。
見る間に生気を吸われ死んでいく男たちを横目に、捕らわれの身の女たちは絶好の機会とばかりに、ちりじりになって逃げた。
タティアナは、サキュバスの悪臭漂う建物から逃げ出し、ひたすらに走った。
川を泳ぎ、森を渡り、谷を越え、星の位置や渡り鳥の飛ぶ方向を頼りに、ただ故郷を目指した。
時に物乞いをし、家畜の餌を盗み、ネズミや虫を口にすることもあった。そうしながらも、決して諦めることなく、故郷の村を目指した。
「私は故郷に戻らなければならない」
なぜ、そうまでして彼女が故郷を目指すのか?それは、小人族の使命がそうさせるのか、はたまた望郷の念からくるものなのか、本当のところは彼女のみが知ることだ。ともあれ、彼女は強い思いを胸にひたすらに故郷を目指して歩み続けた。
そんなある日、激しい吐き気に襲われた。
最初は、極度の栄養不足からくる体調不良かと思った。だが、次第にお腹が膨らみ、内側から脈打つ鼓動を感じるようになった。
妊娠――。
当然の事ながら相手が誰なのかは分からない。ただ一つ確かなのは、それが人族の子だということだけだった。葛藤と不安に苛まれながらも、タティアナは逃げ続けた。逃げて、逃げて、そして、山奥の岩屋にたどり着いた。
そこで、彼女はたった一人、命がけの出産に挑んだ。
――そう、彼女は産む決断をしたのだ。
遊郭で働かされるのであれば、まず堕胎の方法を教え込まれる。遊郭は、長く商品としての価値を持たせるため、女たちに寄り添っている振りをするため、堕胎技術を教え込むのだ。
それは、高い所から飛び降りるといった物理的な行為から、ホオズキの根を煎じて飲んだりという薬学的なものまで丁寧に教えてくれる。女たちも自己防衛のため、それらを必死で覚えた。にもかかわらず、タティアナは生む決断をしたのだ。
弱者に優しくないこの世界において、タティアナはずっと虐げられていた。
「世界を恨んでいないか?」と聞かれれば、「恨んでいるに決まってる。この理不尽な世界を」と、胸の奥で毒づけるくらいの心構えは常にあった。
それでも、彼女は生む決断をした。――なぜか?
それは、彼女が聖者だからでも、ましてや、狂人だからでもない。
彼女はここでこの子を殺せば、自分も同じクソ野郎になり下がる。そう思ったからだ。
……けれど、それは本当の決意だったのだろうか?
それは、ただのごまかし。ただの虚飾だった。
そういう偽りで自分を着飾ることで、この理不尽な世界に抗える、反旗を翻せると――そう、思いたかったのかもしれない。
――迎えた出産の日、その日は、ひどく冷たい夜だった。
外は風が鳴き、雫の滴る音が岩壁にこだましている。
彼女の胸の中では、鼓動と不安だけが響いていた。
加えて、体格に合わない子を身籠ることによる耐え難い陣痛。それは三日におよんだ。疲労、睡魔、飢餓、孤独……それらに耐えつつ、ついに、母は小さな命をこの腕に抱いた。
――その瞬間、彼女は不遇の人生に仕返しをしようと、虚飾の仮面をつけようとした。しかし、その
時、あることに気づいた。泣き声が聞こえないのだ。驚き、狼狽え、おそるおそる我が子に目を向けた。
――目があった。
自分と同じオレンジ色の髪、桔梗色の目をした女の子がじっとタティアナを見つめていた。
その瞬間、タティアナは感じた。この子は自分だ。この子の世界は今この瞬間からはじまるんだ。この子は、世界に祝福されるために産まれて来たんだと。
「……ユウ、あなたはユウよ。私の希望。私の大切な赤ちゃん」
そう、優しく微笑み返した母の顔を、ユウは今でも覚えている――。
◇ ◇ ◇ ◇
ユウは、タティアナの故郷ですくすくと育ち、五歳になっていた。
「母様、もうお仕事は終わりましたか?」
タティアナの背後から、少しだけ遠慮した声音の声が聞こえてきた。
「ええ。今、終わりましたよ。ユウ」
タティアナはそういうと、組んでいた手を解き、膝についた土を払い立ち上がった。
「母様、見てください!! コシアブラの若葉がこんなに採れました!!」
小さな手が抱える籠の中には、瑞々しい若葉がぎっしり詰まっていた。
誇らしげな笑顔を見せる娘に、タティアナは目を細めながら問いかける。
「あらあらユウ、あなたまた木登りしてたの?ほんとおてんばさんねぇ」
驚きつつも、タティアナは優しくオレンジ色の頭を撫でた。
「あまり危ないことをしちゃだめよ!」
「はーい!」
元気よく返事をするユウだったが、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、母様。さっき木の上から村の方を見たら、煙が上がっていました。今日はお祭りでもあるのでしょうか?」
その言葉に、タティアナの表情が凍りつく。
「……煙?」
「うん! もくもく黒かったですよ?」
不思議そうに首を傾げるユウ。だが、タティアナはそれを聞いた瞬間、息をのんだ。
「……ユウ、よく聞いて。今日はお外で泊まりましょう! こっちよ」
タティアナの声が急に強張る。
「えっ? ちょっと、母様? 痛い、お手て痛いです……」
タティアナは、戸惑うユウの小さな手をぎゅっと握りしめ、森の奥へと歩を進めた。ほとんど引きずるようにして。木陰の隙間、村の方角には、黒煙が幾筋も立ち昇っていた――。
◇ ◇ ◇ ◇
「よーし、これであらかた積み終えたな。おめぇら、とっとと帰るぞ!」
血に染まった剣を軽く振り払いながら、髭を生やした男が呟く。その足元に崩れ落ちた死体を乱雑に蹴り飛ばすと、その骸はゴロリと転がった。髭面の男が見据える先、檻の中には、怯えた目をした女と子供たちがすし詰めにされていた。
彼女たちは震え、すすり泣きながら、絶望と向かい合っていた。彼女たちが今朝まで生きて来た生活は一変した。
焦げた家屋の残骸。
切り裂かれた衣服。
そこかしこに広がる赤黒い血溜まり。
そこは、もはや村とは呼べない光景だった。
「しかしよぉ、こんな小せぇ体の女で楽しめるもんかね?」
皮肉めいた声が上がる。尋ねたのは、若い兵士。その発言の意図は、哀れみでもなければ、憐憫の情でもない。ただ自身と違う性癖への興味だけだ。
「まぁな。だが、世の中には変態が多いんだよ。特に生き飽きた貴族様の変態度ときたらすごいぞ。魔物と交わりたいなんて奴もいるんだからな」
ニヤつきながら答えたのは、浅黒い肌の大男だった。
「うぇっ!! マジですかい? それと比べりゃ、まだこいつらのほうがマシか……」
そんな二人の横で、今度は禿げた男が檻をガンッ!と蹴飛ばす。こいつはこいつで、ただちっぽけな嗜虐心を満たしているだけだ。つくづく、この世界は弱者に優しくない。
檻の中では、恐怖と絶望が絡み合い、終わることのない咽び泣きが続いていた。
そんな悲しみに目もくれず、男たち目ぼしい小人族をあらかた積み終えると男たちは、馬を引きながら帰路につく。集落を離れ森を歩き、ようやく焦げた匂いがしなくなったころだった。
「さぁ、とっとと帰らねぇとな。……ん? なんだ、動きやがらねぇ!」
先頭を歩いていた男が、苛立った声を上げる。
檻を引く馬が突然足を止め、微動だにしなくなったのだ。
「オラ、動けってんだ!」
男が手荒に手綱を強く引くも、馬は頑として動かない。
それどころか、鼻先を下げ、何かを咀嚼していた。
「んだよ、道草食ってんじゃねぇよ!」
呆れながら馬の口元を覗き込むと、その瞬間、男の表情が変わった。
「カシラ! こいつを見てくだせぇ!」
地面に落ちていたのは、小さな籠。中には瑞々しい若葉が詰まっている。
誰かが、ついさっきまでここにいた――。
それを悟った髭面の男が、ニヤリと口元を歪み、
「……うへへ。でかした。おい、もうひと稼ぎしていくぞ」
「へい!!」
追われるものの恐怖を踏みにじるような、粗野な笑い声が静かな森深くまでこだましていた。




