第10話 リュートの成長と消えない傷
「母様、あれは何という虫ですか?」
無邪気な声が草原に響く。白い蝶を追いかける小さな手が、風を裂いて伸びていく。
「あれは蝶よ。翅が白い花びらみたいでしょう? だから《ホワイトペタラ》っていうの。こう書くのよ」
ルーシアはそう言って微笑み、空中に光る文字を浮かべてみせた。魔力で描かれた文字は、淡い光を放ちながら空中に揺れ、まるで母子の記憶に刻まれるように輝いていた。
「母様、この木は?」
木陰に隠れた蝶を追っていた少年が、今度は幹の表面がささくれた大樹を見上げて尋ねる。
「それは《アックスクラッシャー》。斧すら欠けてしまうほどの硬い木なのよ」
注意が次々に逸れていく息子を愛おしげに見つめ、ルーシアはその柔らかな髪を指先で撫でた。
テオが連れ去られてから、季節は巡り、リュートは四歳になった。
あの夜、村を襲った魔族から逃れるため、ルーシアは息子を抱いて山を越え、雪深い峠を抜けて、かつて自身が魔道具士の基礎を学んだ街《ムーン=ティエンヌ》へと身を寄せていた。
冬の移動は、母子にとって決して穏やかな旅ではなかった。住む場所もないまま峠にとどまることはできず、選択肢はなかった。村での恩人、ニカ夫妻は匿うと申し出てくれたが、ルーシアは「追放された身が、これ以上迷惑をかけられない」と固辞。代わりに、旅支度一式と、雪山の移動に適した《ブラウンカリブー》を譲り受けることになった。
スノーグズリーの群れに襲われ、クレバスに転落しかける災難を越えて、ようやく辿り着いたムーン=ティエンヌ。武具の街として知られ、量産品から希少な業物までが並ぶこの地には、かつて彼女が修業を積んだ《龍の巣》という工房もあったが、今は店主が放浪の旅に出ており休業中だった。
ルーシアはギルドを頼りにテオの行方を探したが、有力な情報は得られず。だが、技術者の失踪が相次いでいるという噂が耳に入った。
――もしかすると、あの魔族たちの狙いは、優れた技術者なのかもしれない。
その予感に背筋が冷えた。身を潜めるには、この街はあまりに危うい。
春が近づいたある日、ルーシアは決断する。――再び、あの峠の森へ帰ろうと。テオが戻ってくる可能性を信じ、彼が戻ったとき真っ先に迎えられるよう、かつての我が家へと戻ると決意した。
旅立ちの直前、道中で見覚えのある顔に出会った。かつてテオと共に旅一座を護衛していた自称・千両役者が、街道の脇で行き倒れていたのだ。
「……ジャンさん? こんなところでどうしたんです?」
ルーシアの問いに、ジャンはうつろな目で空を仰いだまま、呟くように答えた。
「ん~誰かと思えば、テオの奥さんじゃないですか。……探してたんですよ」
「私を?」
「ええ、一座はテオがいなきゃ回らないんで、解散しました~」
まるで天気の話でもするかのような口ぶりだった。腹の虫が鳴ったのを聞いたルーシアは、リュートの持っていたパンを渡し、詳しく話を聞いた。
ジャンの話によると、一座の仲間と共に冒険者となったものの、生活能力のなさゆえに「滅びの干物神」なる不名誉な二つ名を得たらしい。
「それで……もう一人の“神様”は、今どこに?」
「ん~さぁ? さっきまで一緒に行き倒れてたんですけど……」
それを聞いたルーシアは危機感を覚え、ジャンの口に再びパンを詰めて共に街を探すことにした。
やがて、通りすがりの自警団の会話に耳が留まった。
「……あのエルフの半裸ねーちゃん、娼館の主に引き渡してよかったんか?」
急ぎ事情を聞くと、どうやら美しいエルフの女性が半裸で街をさまよい、人だかりと乱闘の末に自警団が保護。その後、娼館の主が現れてスカウトし、本人も「面白そう」と応じたという。
「……はぁぁぁ……」
ルーシアは深いため息を吐き、リュートに目隠しと耳栓をさせ、ジャンの口にパンをねじ込みつつ娼館へ向かった。
格子の中に並ぶ女性たちの中に、やはりいた。カトリーヌは、無頓着な笑顔でルーシアを見つけるなり言った。
「あら~見たことある顔。どう、一晩いかが?」
事情を説明すると、「そっちの方が面白そう」と言ってあっさり格子から出てきた。娼館の主も、「商品ではないから仕方ない」と快く(やや未練を滲ませつつ)引き渡してくれた。
ちなみに、ジャンにも「男娼やらない?」と声をかけており、「ん~面白そう」と乗り気になるジャンをルーシアが必死で止める羽目になった。
なお、リュートの目隠しと耳栓はいつの間にか外れていたが、もはやルーシアの気力では対応できなかった。
二人にまともな食事と風呂を提供し、髪を整えてやると、「この感じ、昔を思い出すー」と口を揃えて言った。嬉しくはない。
身の回りの世話について、ルーシアが「ゴーレムに任せたら?」と提案すると、「その手があった」と即座に召喚され、ゴーレムたちは瞬時に絶望の表情を浮かべた。
翌朝、ジャンとカトリーヌは魔族について調べつつ、テオを探すと申し出てくれた。危険を告げるルーシアに、ジャンは屈託なく言った。
「ん~大丈夫。テオより僕たちのお世話のほうがよっぽど大変でしたから~」
最後に、かつてテオと共にダンジョンで見つけたという魔石を託された。帰路でテオが忽然と姿を消し、それ以来探していたという。
別れ際、ルーシアはお弁当やハンカチを何度も確認し、ジャンの口にまたしてもパンを詰め、森へと向かった。
――家族の暮らしたあの地は、灌木が生い茂り、焼け落ちた家屋は森に還っていた。
魔術で草木を薙ぎ払っていたとき、リュートが突然叫ぶ。
「ただいまー! ぼくのおうちーつくるー!」
その声とともに、土を操って以前とそっくりの丸太小屋を築き始めた。空に花火を上げ、川に大渦を起こし、スラム街を迷路に変えた――ムーン=ティエンヌでの悪名が思い出され、ルーシアは頭を抱える。
だが確信する。
――この子は、魔術に愛されている。
あの夜、魔族を退けたのも間違いなくリュートの魔術だ。自身も才はあるが、努力の賜物だ。リュートのように、四歳で高度な魔法陣を再現するなど到底できなかった。
家の周囲には結界を張り、外からは見えないようにした。目印として《アックスクラッシャー》の大木に布を巻いておくと、まもなくニカ夫妻が訪ねてきた。
「おかえり! よく戻ったねぇ、待っていたよ」
変わらぬ笑顔に、ルーシアの目に涙が滲んだ。
リュートは柑橘の飲み物を一息に飲み干し、「おいしー! おかわりー!」と叫んだ後、「きーんするー! なんでー!」と頭を押さえ、皆の笑いを誘った。
こうして始まった新たな暮らし。魔道具制作を再開しつつ、リュートへの本格的な教育が始まる。
驚くべきことに、リュートはその全てを――魔術学から言語学、薬学に至るまで――二年で身につけた。記憶力の異常な高さと、魔術に対する天性の直感。もはや天才などという言葉では足りない。
時折、結界の外に出て問題を起こすようにもなったが、リュートの魔術によって森が少し変形する程度で済んでいる……はずだった。
そんなある日、ニカさんが言った。
「村にお達しが出とる。――峠の森には“子供の姿をした悪魔”がでるとな」
◇ ◇ ◇ ◇
リュートが六歳になった頃、村の子どもがゴブリンに攫われた。
救出に向かったのは、ニカたち村の大人たちだった。しかし、待っていたのは想像を超える厄災だった。現れたのはゴブリンだけでなく、オーガまでいたという。救出は失敗に終わり、ニカは瀕死の重傷を負って戻ってきた。
攫われたのが「水の上」の子供たちだったことから、村は異例の措置を取った。外部との接触を極力避けていた村が、自らギルドに依頼を出したのだ。
だが、その知らせは峠を行きかう人を介してリュートの耳にも入った。
すると彼は、誰にも知られぬうちに、一人でゴブリンの砦へと向かい、密かに事件を解決して戻ってきた。
「じぃじの仇、取ってきたよ」
誇らしげなその報告に、ルーシアは「じぃじは死んでない」と言って軽く額を叩き、優しく髪をくしゃりと撫でた。
村ではこの一件を、攫われた「水の上」の子供たちが自力で魔物と戦い、勇敢に戻ってきたということにしていた。真相を知る者は、ルーシアを含めてわずかだった。
◇ ◇ ◇ ◇
――七歳を迎えた冬、再び“あれ”がやって来た。
寒風吹きすさぶ夜、張り巡らせた結界に異変が起きた。魔力のひずみに即座に気づいたリュートは、ルーシアの制止も聞かず家を飛び出す。
外には、魔族がいた。
結界の奥深くまで侵入し、すでに家の目前にまで迫っていた。ルーシアを守るため、リュートは即座に魔術を展開し、戦闘に入る。
魔族は、強大な魔力を持ち、エルフ族をも上回る魔術の才を有するという。しかし、リュートにとっては脅威ではなかった。
空間を歪め、放たれる魔術の矢を逸らす。風をまとって加速し、目にも止まらぬ速度で接近、そっと触れるだけで一人、また一人と気絶させてゆく。
瞬く間に十二人の魔族を無力化した――はずだったが、意気揚々と戻った家に、ルーシアの姿はなかった。
気絶した魔族を順に起こし、問いただそうとしたが、すでに全員が息絶えていた。おそらく、捕縛時のリスクを想定し、予め発動される術式が組まれていたのだろう。自害のために。
(なぜ……なぜ母様を連れていった? 何が目的なんだ――)
焦燥と疑問が、リュートの胸を灼く。
錯乱したまま、リュートは森を走り、川を探し、湖を探し……やがて村へと向かった。空を翔けながら、光の魔術で村全体を照らし出す。
その異様な光景に、村は蜂の巣をつついたような混乱へ陥った。
「峠に潜む悪魔が襲ってきたぞ!」
騒ぎ立てる声と共に、近衛兵が出動。リュートに向けて矢と魔術の弾丸が雨のように放たれた。
空中で回避を重ねるリュート。しかし、死角から飛来する魔術を避けきれないと判断し、空間魔法で軌道を捻じ曲げた。
――ひゅううう……バゴォォン!
避けた魔術弾は、建物の屋根に直撃。爆音と共に大穴を穿ち、崩れた瓦礫の下からは、血の海が広がった。
(――そんなつもりじゃ、なかったのに)
後悔と罪悪感が、幼い胸を締め付ける。
(まだ間に合う……治癒魔法なら……!)
倒壊した建物へと駆け込み、血だまりへ向かう。
だが、そこでリュートの足は止まった。血に浮かぶ、青白い手。その主は――魔族だった。
胸を撫で下ろすと同時に、自分が「ほっとした」ことに気づき、リュートは戸惑った。
(……僕は、魔族を殺したいのか?)
いいや、違う。
父と母を、取り戻したいだけだ。
混乱と恐怖に覆われる頭を、ぶんと振って追い払う。そしてもう一度、治癒魔法を。情報を得るためだと自分に言い聞かせて、血に濡れた手に触れる。
優しい緑の光が、リュートの手から広がった。
……が、突然、その光が掻き消えた。
――ヒュン、ズブッ!
風を切る音と共に、鋭い痛みが走る。ふくらはぎに矢が突き刺さっていた。振り返ると、弓を構えた女戦士が立っていた。怯えと怒りが入り混じった瞳が、リュートを捉えていた。
「峠の悪魔……やはり魔族の手の者だったか。これ以上、村を荒らさせはしない。相手になる、かかってこい!」
その瞳には、恐怖すら打ち消す覚悟の炎が宿っていた。
「……ちが……」
掠れた声しか出ない。痛みと恐怖で身体が縮こまる。
――ヒュン、ズブッ!
二の矢が、肩口を貫いた。
鋭い痛み。死の影が、脳裏を掠めた。
だが、それがリュートを突き動かした。
「――ここで……終われない。僕は、父様と母様を、取り戻すんだ!」
震える脚を叩き、叫びをあげて気力を奮い起こす。治癒魔法を詠唱しながら、女戦士の三の矢が放たれた。しかし、すでにリュートの空間魔法は展開されていた。
矢は弧を描いて天井に突き刺さる。
呆然とする女戦士を尻目に、リュートは再び血塗れの手に魔力を流し込んだ。
次の瞬間、魔族の体がピクリと震え、瓦礫が崩れ落ちた。
二本の角。青白い肌。四つん這いの姿勢から、ゆっくりと頭をもたげる。
魔族は、女戦士に右拳を突き出した。光る指輪から閃光が放たれ、彼女の胸を貫いた。
「――!」
なおも攻撃を続けようとする魔族に、リュートは手を向けた。
そこには、巨大な炎弾が揺らめいていた。
「……やめろ。僕を怒らせるな」
リュートはそのまま魔族に背を向け、女戦士へと歩み寄った。
しかし――
背後から放たれた光が、爆音と共に辺りを包み込む。
リュートの意識は、そこで途切れた。
――「……へ、逃がせたぞ」
――「けが人だ、前を開けろ!」
――「……リュート、リュート!」
目を開けると、見慣れた顔がそこにあった。ニカだった。
「よかった……生きておるな。治癒魔法は使えるか? 近衛兵は湖の方へ行った。もう大丈夫じゃ」
ニカの機転で、追手は村の反対側へと誘導されていた。
「……どうなりました?」
掠れた声で問うと、ニカは目を逸らし、短く答えた。
「……あとで話す。今は、森へ帰るのじゃ」
その表情は、慈愛と、深い哀しみに濡れていた。
誰もいない家に戻り、リュートは泣き続けた。
月が二度沈み、朝日が昇ったころ、ニカが再び訪れた。
「……力になれず、すまん」
そう言って頭を下げられ、リュートはまた泣いた。
ニカが語った「事実」は――
決して、幼い心が受け止めきれるものではなかった。
――あの時、母の声に耳を傾けていれば。
傍にとどまっていれば――。
七歳の心に、悔恨という名の重みが、雪のように降り積もっていた。




