ダーン・ダン・ダンチズム
まるで穴に落ちたかのように内臓が縮み、次いで悪寒が走った。
夜、ほろ酔い気分で歩いていたおれだったが、左右挟まれたまるで渓谷のようなその威圧感に急に酔いが醒めたのだ。
――しまった。ここは団地の中だ。
ぶるっと身震いしたのは、そのことにようやく気づいたからだけではない。背後から話し声が聞こえたことで、最悪の結末まで一瞬にして想像してしまったからだ。
おれは後ろを振り返った。三人の、おそらく男たち。会話し、笑ってはいるが、その目は確実におれの姿を捉えているはずだ。
おれはすぐ近くの棟の入り口階段を上り、踊り場で身を隠した。一気にここを走り抜ける手もあったが、ここはマンモス団地。広い上に、他にも巡回している者がいるかもしれない。それにまだ酔いが回っているせいか、いや、恐怖心で足が震えていたので、連中から逃げきる自信がなかったのだ。
耳を澄ませて連中の位置を探る。笑い声が近づいてくる。もう少しで、おれが隠れている棟を通過するだろう。しかし、いつ近くの部屋の住人が出てくるかもわからない。おれは背中に嫌な汗をかきながら、無事、ここから出られるよう必死に祈った。
「……なあ、今この棟に入ったの誰だ?」
「んー? 大野さんだろう」
「いや、あそこの旦那の帰りはもっと早いはずだぞ」
おれはゾッとした。やはりここの連中は全員、顔見知りの上に、その生活時間まで把握、共有しているのだ。
「気になるな……ちょっと見に行くか」
「とか何とか言って、お前、宮本さんちに行くつもりだろう」
「ひひひっ、あの人、美人だもんなぁ」
「ばっか、そんなんじゃねーよ、たくっ」
……三人の笑い声が遠ざかっていく。おれは急に息苦しくなり、大きく息を吐いた。どうやら呼吸するのを忘れていたらしい。ははは、ビビり過ぎだ……と笑ってみようとしたが、カラカラと喉が鳴っただけだった。
そのまましばらく耳を澄まし、そして腰壁から顔を出して周囲の様子を窺った後、誰もいないことを確認してから外に出た。
老朽化を機に市営から民営に変わり、それに伴い家賃が上昇している。これは今、全国の団地で起きている現象で、それにより住民たちの反対運動も行われている。
【民営化反対!】【年金で住み続けられるように!】【公団住宅の売却反対!】といったプラカードを掲げたり、のぼりを立てるなどしていることはニュースで知っている。
ここ、おれの家の近くのこの団地では、特にその活動が凄まじいらしい。
今、おれが慎重に歩いているこの道にもまるで縁日のようにのぼり旗が立てられており、その内容というのが先ほどの標語に加え【公共住宅を守ろう】【市の勝手を許すな】【住民同士の結束を】【侵入者は捕まえろ】【我々のいのちを守ろう】【わたしたちは殺されない】など、比較的汚れや傷が少ない、おそらく新しい旗ほどその標語は強烈で、反対運動の過激さが増していく様子が見て取れた。
この団地群はおよそ二百棟もの数からなるらしいが、かつてはもっと多かったそうだ。しかし、老朽化により何棟か崩され、住民は他の棟に移り住んだ。おそらく、市はそうやって団地を徐々に切り崩そうと考えたのだろう、しかし、それは悪手だった。連中の結束力をより強めてしまったのだ。まるで巣を壊された蜂のように連中は怒り、騒いだ。しかも、市は連中が反対声明を発表した後に、「リフォームするだけだから」と言い包み、結果として追い出すという騙し討ちをしたせいで、連中はさらに激怒した。バリケードを設置し、出入りする者を監視するようになったのだ。
【政府の陰謀だ】【市長を許すな】【死なば呪え】【奪われたものは奪い返せ】
しかし、老朽化というのは事実で、先ほどおれが逃げ込んだ棟の壁は内側がひび割れており、外壁も崩れているのか、コンクリートの破片が落ちていた。棟の内部の蛍光灯と、外の道に点々と設置してある外灯もいくつか切れており、その弱々しい光でほとんどが夜に黒く塗られたままだ。棟を見上げるとボロボロになった蟻塚を想起せずにはいられない。
連中もそれがわかっているのだろうからこそ、引き下がれないのだ。エコーチェンバーのように、外部の声は敵とみなし、沈みゆく船の上で虚勢を張っている。その絶望と恐怖心に攻撃性をより高めていくのだ……。
恐ろしい、恐ろしい……。先ほどの連中は真っ直ぐ進んだと考え、おれは道を曲がり大回りしつつ、自宅に向かって歩いた。
しかし、まだ酔いが残っている上に、どこを向いても同じ景色が広がっているため、おれの方向感覚を狂わせる。駐車スペースにある車もどれも似たようなもので、しかもボロい。尤も、収入が似た者同士で集まるのだから、それは当然なのかもしれない。高い車など乗ろうものなら嫌がらせに遭うに違いない。ここはある種の村なのだ。はみ出し者とよそ者を許さない。
おれは、「はははっ」と笑ってみたものの、思った以上に声が掠れていたこと驚き、そして喉に痛みを感じた。どれくらい歩いただろうか、まるで遭難者だ。そう思うと何やってんだと、今度は本当に笑えてきた。
だが、背中と脇にかいた汗が一瞬で引いた。ふと見上げた棟のカーテンから漏れ出る、また、カーテンも点けず剥き出しの部屋の光の前、いくつものベランダに人の影があったからだ。まるで崖の上からこちらを見下ろす狒狒の群れのようだ。そうだ。ここは常に連中の監視下にあるのだ。そう気づいた時には遅かった。
「おい」
後ろから声をかけられ、その声の圧におれは振り向くより先に膝がガクンと折れた。
「誰だ、お前」
「おい、どこの棟のもんだ。番号を言え」
振り向いたおれが、「あの、それは」としどろもどろになるのを見て、その三人は嘲笑めいた笑みを浮かべた。
「ほら、言えよ部屋番号は?」
「名前を言えよ」
「ひひひっ、トモさん、意地が悪いなぁ。団員証を出させればいいのによぉ」
団員証……。連中は独自に身分証を作り、携帯しているらしい。その閉鎖具合におれはまたゾッとした。
「あ、あ、な、なんですか」
「動くなよ。ボディチェックだ」
連中のうちの一人が、おれのワイシャツの湿った脇に触れ、不快そうな顔をしたあと「くせー」と言って、その指を他の連中にかがせた。下卑た笑い方をして、さらに卑猥な手の動きをするのを見て、おれは恥ずかしさと嫌悪感に目眩と吐き気がした。
だが、それも次の言葉で吹き飛んだ。
「お前、この鍵……マンションのやつか?」
尿道に針を刺し込んだような痛みと尿意がした。
迷い込んだのは事実なのだからそう説明し、膝をついて懇願すれば見逃してもらえたかもしれない。普通ならばの話だが。しかしそう、おれの自宅が、ここでまた厄介な問題だ。おれが今住んでいるのは、この近くに新しくできたマンションなのだ。
妻の話によると、ベランダで洗濯物を干していた時に、おそらく団地の住人なのだろう(連中は独特の雰囲気がある)マンションを恨めしく見上げていたそうだ。
尤も、連中の嫉妬心、コンプレックスの発露はマンションだけではなく、一戸建てにも及ぶ、つまり自分たち以外のほとんどすべてだ。団地を潰し、新しく住宅を建てようと工事をしているところがあるのだが、それも連中の妨害に遭い、今は停止しているそうだ。
結束が目的であり命綱でもある連中は、常に共通の敵を求めており、今回それがおれであることは明らかだった。気づけばゾロゾロと階段から、さらに一階と二階のベランダから降りてきて、雑草を踏み鳴らし、おれの周りに集まり始めた。
頭にカラーを巻いた小太りの中年の女、初老の男。年齢層が高めだが、子供を含むその風貌を見ると年号が二つ前くらいの時代にタイムスリップしたような感覚に陥った。連中は怪訝とニヤつき、その二つの表情を浮かべ、またそれを切り替えている。まるでその二つしか表情がないようだった。
「こいつはぁぁぁー! 向こうのマンションの住人様だぞぉぉぉっー!」
おれの鍵を空高く掲げた男がそう叫ぶと、連中は一斉におれに罵声を浴びせた。興奮した猿の声のようだったのでその内容は聞き取れず、ただただ、おれの耳と頭を痛ませた。
「ローンなんです……ロォォォンなんです!」
精一杯ひり出したおれの弁明もその声にかき消され、また笑い飛ばされ、おれは連中に腕を掴まれ、引き倒された。
命の危険を感じたおれは必死に抵抗し、連中の腕を振り解くと、おれは自分が猪になったつもりで身を屈め、連中の囲いの薄い部分目掛けて突進した。
「いてぇ!」
「この野郎!」
「殺せ!」
蹴られ、殴られはしたが、どうにか包囲網を突破したおれは、足を止めることなくそのまま突き進んだ。
だがそう、ここは迷路だったのだ。連中は侵入者を想定し、道の至る所にフェンスを設置し、それを蔦や木などで隠して行動を制限していたのだ。
猪になり切ったおかげか単純に生命の危機に勘が働いたのか、そのことに気づいたおれはあえて道を外れた。フェンスや塀を乗り越え突き進み、そしてそこから新たな道を見つけ出した。
「いたぞ!」
「生かして返すな!」
「ああ、縄で縛って死体を晒してやるんだ!」
「くらえ!」
後ろから飛んできた槍がおれの頬を掠めた。さらに頭上から前方に二本、槍が落ちてきて、跳ね返り、柄の部分がおれの腹に当たった。足を取られまいと意識しつつ踏むと、鉄でできているようで硬かった。そして連中がまた槍を投げたのだろう、後ろから、カン、カラ、と地面に落ちた音が響いた。
うっそうと生えた雑草の中を進み、転びそうになりながらも手をついて地面を押し、勢いを殺さずにそのまま走った。
死ね! 死ね! と上から声が聞こえたのとほぼ同時に、頭上から野菜やフライパン、包丁が降ってきた。鼻をカボチャが掠め、大根が肩に当たり、よろけはしたが、おれは走った。この夜、おれはきっと誰よりも速かった。
やがて、車が走る音が聞こえ、そして団地群の外の外灯、さらに信号機の青色が見えた。
バリケードとその向こうのフェンスを乗り越え、おれはなんとか団地群の外へ出ることができた。
安堵の念が込み上げ、涙が出そうになるとともに、張り裂けそうな肺と破裂しそうな心臓を落ち着けようと大きく呼吸を繰り返した。その最中、ふと振り返るとフェンスの向こう、団地の敷地内に篝火のようなものが見えた。連中はその火のもとで足踏みしているのか音と地響き、そして歌のようなものが聞こえた。
オーオォ、オーオォ、ワーレラハ、ヒートーツー……
マンションの自動ドアをくぐったおれは、インターホンから妻を呼び、鍵を開けてもらった。妻はおれの様子に驚き、平静を保つためであろう、少し笑いながら「どうしたの?」と訊ねたが、おれには一言も口を利く元気が残されていなかった。
その晩は泥のように眠った。当然のことながら悪夢を見た。
目覚めたとき、安堵からか自然と涙が零れ落ち、おれはもう二度とあの団地に近づくまいと誓いを立てた。
……だが、悪夢は終わりではなかったのだ。
翌日の夜、マンションの前でおれは愕然とした。
各階の部屋のベランダに旗が掲げられ、陽気な笑い声が木霊していた。