彼女と彼女の結婚
髪、よし。服、よし。顔も汚れていないし、くまもないので、よし。
「いってきまーす!」
待ちに待った休みの日、身支度を整えたユリアは鞄と大きな水筒を手に外へ出た。歩き慣れた通りを進み、勤め先である本屋の角を曲がる。ほとんど人気のない路地の突き当りの枯井戸に、その人はいた。
枯井戸の側に置いたベンチに優雅に腰掛けたアーニーが、とろけるような笑顔でユリアを迎える。
つやつやの黒髪に、宝石のような緑色の瞳。目尻の泣きぼくろはなんだか色っぽい。薄い唇は桜色で、シルクのドレスで覆われた体は出るところは出ているようなのに、すらっとしている。まったくもって枯井戸の隣が似合わない人だが、ユリアには見慣れた光景だった。
「おはよう、アーニー。待った?」
「全然」
アーニーは自分の隣にハンカチを敷いて、そこにユリアが座るのを待った。はじめの頃、ユリアのためにハンカチを敷こうとしていたのを全力で止めたら、手でベンチをさっと払うようになったのだ。それではアーニーの白魚の手が汚れてしまうので止めてほしいと言えば、ではハンカチをと話が戻るので、それ以上の問答は諦めた。
見た目も行動も平民ではないアーニーに対して、ユリアはどこからどう見ても平民だった。
栗色のくせ毛も、黄色い瞳も、この辺りでは珍しくない。シルクのドレスなど着られるはずはなく、今日はコットンのワンピースを着ている。
何も知らない人が見れば二度見するような組み合わせの二人だが、付き合いはもう十年にもなる。二人は気の合う友人同士なのである。
*
出会いはこの近所でのことだった。母に頼まれたおつかいに向かう道中、顔を赤くしたり青くしたりしている少女を見つけたのだ。少女は華やかなドレスを着ていて、しかし周りはユリアのような庶民ばかり。当時八歳だったアーニーは、ものすごく浮いていた。
こんな庶民の街に、貴族のような綺麗で可愛らしい少女が一人で右往左往している。どう考えてもおかしい。余計な面倒事には関わるべきではないと齢九歳にして理解していたユリアだったが、買い物が終わって帰路についてもまだ少女がウロウロしていたのを見て迷いが生じた。大きな緑の瞳に涙が滲んでいて、今にもそのふくふくとした頬に落ちてしまいそうだったのだ。
流石に見ていられなくなって、ユリアから声をかけた。迷子なら領主様のお屋敷まで一緒に行ってあげる。そう言うと、少女の涙腺は決壊した。
泣きべそをかく小さな手を取って、反対の手にはおつかいの籠を持ち、領主様のお屋敷まで二人で歩いた。名前はアーニー。それしか分からなかったが、これだけ立派な身なりの子であれば、誰かしら身元を知っているはずだ。もしかしたら四人いるという領主様の娘の一人かもしれない。
案の定、領主様のお屋敷に近づくと、そこから出てきた大人たちによってアーニーはまたたく間に保護された。大人の一人にお礼まで言われてかえって縮こまりながらも、顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった少女に手を振って別れを告げる。
そうしてユリアはようやく家に帰って、今日の出来事を母に聞いてもらいながら買ったものを戸棚にしまい、夕食を食べて寝支度を整え、ぐっすり眠った。
数日後、また母におつかいを頼まれて道を歩いていた。すると急に手を引かれ、何事かと振り向いてみると、あの日の少女がいたのだ。
今日は泣きそうな顔ではない。ただ、顔を赤く染めて、必死な顔でユリアを見ていた。近くには少女のお供らしい男性がついているので、迷子でないことは分かった。
真っ赤な顔で口をパクパクさせている。どうやら緊張しているらしいと悟ったユリアは、少女の背中をポンポンと叩いてやった。学校に入学する日の朝、緊張で家の外に出られなかったユリアに父がこうしてくれたからだ。
しばらくそうしてようやく、少女は大きな声で言い放った。
『ありがとうございました!』
どういたしまして、と言う前に少女は走り去っていった。お付きの男性もユリアに軽く一礼し、少女を追いかける。
お礼を言うために来たのか。律儀なことだ。
おつかいを終え家に帰ったユリアは、先日の続きにこんなことがあったのだと母に聞いてもらいながら買ったものを戸棚にしまい、夕食を食べて寝支度を整え、ぐっすり眠った。
数日後、また少女に手を引っ張られた。顔は赤くない。ふくふくな頬は健康的な薔薇色だった。
しかしどうやら、緊張はしているらしい。また背中をポンポンとしてやった。やがてアーニーの口から、絞り出すような声が出た。
『名前、教えて』
そう言えば少女の名前だけ聞いておいて、ユリア自身は名乗っていなかったのだった。
それからもしばらく、一言二言交わして終わる日々が続いた。アーニーは目立つ上に、あっという間にいなくなってしまう。だんだん物足りなくなってきたユリアは、アーニーを本屋の脇道にある枯井戸に案内した。ここなら人目につきにくいのでゆっくり話しても問題ない。アーニーは寂れた枯井戸に目を輝かせた。
やがて街中で手を引っ張られて枯井戸に移動するのではなく、あらかじめ日を合わせて枯井戸に集合するようになった。いつの間にか現れたベンチはアーニーが持ち込んだものらしい。座る場所があればおしゃべりも捗る。だんだん話す時間が長くなっていった。アーニーが軽食を持参するようになったので、ユリアはお茶を淹れて持って行った。
お互いが成長するにつれて会う頻度は少なくなった。その代わりに休みの日を示し合わせて、一日の長い時間を二人で過ごすようになった。近くにアーニーのお供はいたけれど。
*
「今日はアップルパイを持ってきましたよ」
「アーニーの持ってきてくれるアップルパイ、大好き。いつもありがとう」
現在ユリアは十九歳。アーニーは一つ年下なので、十八歳になる。
ユリアは十六の頃に学校を卒業して、家の近くにある本屋で働き始めた。その休日にこうしてアーニーと会っているのだ。アーニーはいつもユリアの休みに合わせてくれていた。その日は都合が悪い、などと言われたことは一度もない。
実のところ、ユリアはこの友人が何者なのか未だに知らなかった。領主様の四人姉妹の誰かではないことは、何年か前の収穫祭でその四人を見て分かった。アーニーと同じ黒髪や緑色の目を持っていても、どちらかが違う色だったり、そもそも顔立ちが違っていたからだ。それでも領主様の縁者だろうかとは思っているが、本人が何も言わないので詮索はしていない。
「最近はどうでした?」
「実はこの前ね」
アーニーはいつも、ユリアの話を聞きたがった。普段の生活のこと、学校や職場でのこと、最近読んで面白かった本のことや、将来のこと。
聞かれてまずい話もなかったので、いつも問われるがままに答えていた。今日だってそうだ。いつも通り、聞かれたから答えた。ユリアとしても同年代の誰かに聞いてほしかった話だ。
「求婚? されて」
「求婚!?」
「そんなに驚く?」
淑女の矜持でアップルパイを吹き出さなかったのは見事だ。ユリアの淹れたお茶でアップルパイを流し込んだアーニーが、改めてユリアに向き直った。
「だ、誰に?」
「お父さんの同僚の息子さんだって。求婚っていうのは違うのかも。結婚の打診? 本人からじゃなくて、親経由で」
「結婚の打診……」
「私もそろそろ、そういうことを考えなきゃいけない時期かぁ」
結婚したくない訳ではない。自分の家庭を持って両親を安心させたいし、子供だっていつかはほしいと思っている。ただ、せめて結婚の打診が来る前に、相手の顔を見せてほしかった。
「アーニーにはこういう話、きっとたくさん来てるよね? 顔も知らない相手から求婚されたことある?」
「……ありますね」
「どうした?」
「私は全部、お断りしてます」
「そうなんだ」
アーニーほどの美人であれば結婚相手もよりどりみどりだろう。全部、というのが何件ほどの話か分からないが、多少蹴ってしまっても、また掃いて捨てるほど希望者が出てくるに違いない。
「ユリア……結婚するの?」
「それは、いつかは。でもなぁ」
「乗り気ではないみたいですね」
「だって話が急だし、相手の顔も知らないし。かと言って会ったら、断りづらくなりそう」
「顔の分かる相手に求婚されるならいいと?」
「いや、顔見たらいいって訳でもないかも。中身が分からないし」
結婚してみたらすごくケチだったとか、食べ方が汚かったとか、嘘つきだったとか。そういうのは困る。
「顔を知っていて、中身も分かる人ならいい?」
「そうなるのかな」
「それなら……私と、結婚してくれませんか?」
「あはは。それはいいね」
アーニーはケチではないし、食べ方は綺麗だし、たぶん嘘はついていない。嘘をつくくらいなら、本当のことを黙っている性格のように思う。そして何より、無言の時間が苦痛でないアーニーとなら、結婚しても上手くやっていけそうな気がした。
「本当?」
「本当」
身分差どころの問題ではないが、空想するだけならとても楽しい。朝起きたら朝食を一緒に食べて、アーニーに見送られながら仕事に行く。戻ってきたら一緒に夕食を食べて、夜は同じ部屋で、寝るまで好きなことをして過ごすのだ。
いいところのお嬢さんであるアーニーを本屋での収入で賄えるか、なんて夢のないことは考えない。
「楽しいだろうなぁ」
「……」
アーニーが本を開いて無言になったことに気がついて、ユリアも鞄から本を取り出した。今日は本を読む日だ。この日はこれ以降ほぼ無言のまま、夕方まで二人で過ごしたのだった。
*
翌朝のことだった。身支度を整え終えたばかりのユリアの元に、訪ねてくる人がいた。
時間にまだ余裕があるとはいえ出勤前の朝だ。こんな時に訪ねてくる人は滅多にいない。
外からユリアを呼ぶ声に覚えがなくて訝しみながら扉を開けると、そこにいた見目麗しい人物に目を剥いた。綺麗な花束を抱えているのに、花に負けない美しいかんばせがいっそ暴力的だ。
「どうしたユリア……うわっ!」
様子を見に来た父も驚いた挙げ句、腰を抜かして床に尻もちをついた。それほどの人物が、目の前に立っていた。
床に座り込んだまま父は訪問者を見上げ、全く回っていない口を必死に動かしている。ユリアに至っては口すら動かせない。
「あ、あな、あなたは……」
「突然の訪問をお許しください。アーノルド・ルーサーと申します」
ルーサー。この地を治める領主一族の名だ。しかもルーサー家のアーノルドと言えば領主の唯一の息子であり、つまり、未来の領主である。
父に続いて様子を見に来た母の耳にもその名前が届いていたからか、食卓机にぶつかり椅子を倒していた。机に載せていた花瓶はもう駄目だろうと分かる音が室内に響いた。
そんな家の中の様子にやや申し訳なさそうな顔をしながらも、青年は言った。
「結婚を申し込みに参りました」
誰に?
この家に結婚適齢期の娘はユリア一人しかいないが、領主の跡取り息子が求婚しに来るような身分の娘ではない。父は下級役人、母は仕立て屋勤めで、本人は本屋で働いているのだ。
きっと尋ねる家を間違えている。五区画くらい間違えている。
しかしアーノルドと名乗る青年は、しっかりとユリアを見て続けた。
「昨日も会ったばかりなのに、もう私の顔をお忘れですか?」
「……え?」
お忘れもなにも、会ったことなど一度もないではないか。
ユリアは知らない。こんなツヤツヤの黒髪に、宝石のような緑色の瞳。目尻には何だか色っぽい泣きぼくろと、今日は桜色ではないけど形のいい薄い唇――あれ?
「アー、ニー……」
「私となら結婚してもいいって、言ってくれましたよね。ユリア?」
アーニーと呼ばれて、青年はとろけるような笑顔を見せた。ユリアのよく知る笑顔だ。枯井戸のベンチに座りながら、待っていた友人を見つけた時の。
「……昨日は本当に嬉しかった。ユリアに求婚したという男を社会的に抹殺してやろうかとも思いましたが、結果としてはあなたの気持ちが聞けたから」
頬を僅かに赤らめながら物騒なことを口にしている青年が、アーニーだと言うのか。アーノルド。アーニー。確かに名前は似ているけれども。確かにアーノルドの愛称と言えばアーニーだけれども。
「信じられない……うそ……こんな、だって、だって」
「何が信じられない?」
「何が、って」
アーニーは迷子の女の子で、そう、女の子なのだ。今はすっかり成長して、スラッとした長身でありながら出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいた。両手をうねうねさせたユリアの動きで考えていることを察したらしく、アーニーを名乗るアーノルドはなんてことないように告げる。
「胸と腰の詰め物と、コルセットで何とか」
「でも、声も」
「んんっ、あー、あー。『ユリア、信じて。あなたのアーニーですよ』」
「アーニーの声だぁ……」
極めつけに、ユリアは見てしまった。開け放たれた玄関の向こうにはご近所さんによって人だかりができている。ともすればその中に紛れてしまいそうになっているのは、アーニーのお付きの男性だ。アーニーと枯井戸で過ごしている時、少し離れたところに必ずいる彼の顔を、十年の間に覚えていないわけがない。その男性がユリアの視線に気がついて、こくりと頷いたのだ。
「アーニーなの?」
「はい」
「アーニー……」
どう見ても男だ。女も羨む綺麗な顔立ちではあるが、服装のせいか髪型のせいか、性別を間違うことはない。なのにこの十年、休みの度に二人で過ごしていても、男だと疑ったことはなかった。
「ごめんなさい、ユリア。騙していたわけではないんです」
目の前の青年が、女友達だと思っていたアーニーと同一人物だった。ようやく理解しても固まったままのユリアの手に花束を持たせ、もう片方の手を恭しく取ったアーノルドは、そのまま片膝を地面についた。
「愛しいユリア。どうか私を、あなたの夫にしてください」
そう言って、ユリアの手の甲に口づけを落とす。野次馬と化したご近所さんたちから歓声が上がり、ユリアの背後で尻もちをつきっぱなしだった父からは悲鳴が聞こえた。
「今日はこの辺で。一刻も早く、本当の姿でこの気持ちを伝えたかったんです。詳しい話は次の休みにしましょう」
詳しい話。確かに必要だ。ユリアはまだ、この状況を完全には飲み込めていない。
ユリアがぎこちなく頷いたのを見て、アーノルドはようやく手を離した。
「いつものところで待ってます。仕事、頑張ってくださいね」
そう言って去ったアーノルドの残り香がアーニーのものと同じで。それなのにアーニーではなくアーノルドに結婚を申し込まれたのだという事実に、頭から湯気が出そうだった。
次の休みは六日後だ。当然その間仕事に従事しているわけなのだが、全く身が入らなかった。初心者のようなうっかりミスが増えたが、幸か不幸か、本屋の店主もあの日の野次馬の一人だったらしい。事情を分かっているからかミスをしたユリアを咎めることはなく、逆に憐れみと好奇の視線を寄越してきた。
どうやら父や母の職場でも似たり寄ったりな状況のようで、親子三人、今までになく身の入らない日々を過ごしたのだった。
*
髪、よし。服、よし。顔はあんまりよくない。昨夜はなかなか寝付けなかったので、寝不足と顔に書いてあるようだった。
今までアーニーに会いに行く時と同じように身支度を整えているはずなのに、それも何だか気恥ずかしかった。ただ綺麗な友人に会うため、自分も恥ずかしくないように見てくれに気を使っていただけなのに、こうなった今では男性に会うからおしゃれしているようではないか。
そんな浮かれた気分になれるはずがない。今日はお茶も淹れず、手ぶらで家を出た。
「行ってきます」
今日に合わせて、両親も休みを取っていた。緊張した面持ちの二人に見送られ、重い足取りで通い慣れた道を歩いた。
枯井戸のベンチには既にアーノルドが座っていた。ユリアが来たことに気がつくと、自分の隣にさっとハンカチを敷く。ユリアはいつものように、そのハンカチの上に座ることができなかった。
「ユリア?」
「あ、ごめんなさい。おはよう、ございます。アーノルド様」
ペコリと頭を下げる。頭を上げた時、アーノルドは悲しそうな顔をしていた。
「アーニーと呼んでください。今までみたいに話しかけて、ユリア」
「……」
そんなこと、できるはずがない。今まではアーニーが同性で、友人で、年の近い妹みたいだと思っていたから、貴族相手でも気兼ねなく話しかけられていた。けれどアーノルドは異性で、友人だと思っていたのに求婚してきて、しかも将来はこの領地を治めることになる青年なのだ。親しくするには、住む世界が違いすぎる。
「アーノルド様。ご足労おかけしますが、我が家にもう一度おいでいただけますか?」
両親が待っている。そう告げれば、アーノルドは頷いた。
ご近所さんの視線を浴びながらアーノルドを連れて自宅に戻り、上座に置いた椅子に座らせた。静まり返る室内で、お茶を淹れる音だけが響く。それぞれの前にお茶を差し出したところで、アーノルドが口を開いた。
「本日はお招きいただき、感謝します」
「このような粗末な家で申し訳ございません。それで、その、お呼び立てして早々ではありますが、先日の……」
「私はユリアと結婚させていただきたいと思っています。その気持は変わっていません」
「そうですか……いや、ですが、しかし。我が家としては身に余る以上の光栄ではございますが、そのお話はなかったことにしていただきたいと考えております」
ユリアの父は下級役人だ。つまり父の上司の上司の、ずっと上の上司は領主であり、目の前のアーノルドがいずれそうなる。本来ならこんなこと、父も言いたくはなかっただろう。しかしユリアの父親として、職を失う覚悟を決めていた。
「十年ユリアの友人としていてくださったのであれば、このユリアが平民以外の何者でもないことはよくご存知のはず。領主様の妻など、とても務まるとは思えません。そうなれば愛人としてお迎えなさるのでしょうが、それも親として、どうしても頷けないのです」
どうかご容赦を。そう言って父は立ち上がり、頭を下げた。それに倣って、母も。
ユリアだけはどうすることもできなくて、アーノルドを見ていた。
「どうか顔を上げてください」
アーノルドは至って冷静だった。失礼なことを言われたと怒ることもなければ、結婚の話を断られたと悲しむでもない。
「まず、私はユリアを正妻として望んでいますし、ユリア以外の女性を迎えるつもりは一切ありません。そして、ユリアに領主の妻が務まらないとも思いません。彼女は非常に勤勉ですし、私の四人の姉たちがユリアの教育係を買って出ています。私の家族もユリアのことを認めてくれているのです。ユリアであれば、領民に慕われる夫人となってくれるでしょう」
「しかし」
「領主の妻がお嫌であれば、私は姉たちの夫か息子のいずれかに、領主の座を明け渡します。すぐには難しいでしょうが、なるべく急ぎます」
ユリアのためなら、領主の身分はいらない。迷わず言ってのけたアーノルドに、父も言葉を失った。
「ユリアはお父上の同僚のご子息から、結婚を望まれているとか。顔も見たことのない相手だと聞きました」
「は、はい」
「私は、ユリアとはもう十年の付き合いになります。お互いのことをよく知っています……その、きちんと伝えていなかったことも、確かにありますが。それに何より、私はユリアを愛しています」
最後の一言は、ユリアに向けて。真っ向から視線を受けて「愛しています」と言われたユリアは、顔を真っ赤にして俯いた。美形の貴族から求婚されるという大衆小説顔負けの展開にも、同性だと思っていた友人が実は男だったという展開にもついていけてないのに、両親の目の前で愛を囁かれるなど反則だ。
「ユリア、あなたに本当のことを告げたら、きっとこうなるとは思っていました。でも後悔はしていません。あの姿でユリアと休日を過ごせるのも、そう遠くない内に限界が来ていたでしょうから」
アーノルドはもう十八歳だ。今はまだどこか少年らしさが抜けきらず、そのおかげでドレス姿も様になっていた。しかしこれからもどんどん成長して、男らしくなっていくだろう。姿も声も、変わっていくのを止めることはできない。
「あなたにすぐに受け入れてもらえなくても、私は諦めません。この十年を共に過ごしたように、これからもずっと側にいてほしいのです。必ず幸せにします。だからどうか……どうか、私を選んで」
ユリアの家の机は小さい。四人掛け机の対角線上に位置する二人の距離でも、アーノルドはユリアの手を取ることが簡単にできた。
ユリアの手を両手で包み込み、懇願するように言われる。手を握られたまま恐る恐る視線を上げると、とろけるような緑色と目が合って、視線を外せなくなってしまった。
狭い家に気まずい空気が流れる。全員が全員言葉を失った中で声をあげたのは、ユリアの母だった。
「お母さんは賛成するわ」
父が無言で立ち上がる。その勢いで椅子が倒れたが、それを無視して父は母を見ていた。
「だってあなた、アーノルド様に悪いところが見つからないもの。お金の苦労はきっとないでしょうし、それに何より、本当にユリアを愛してくれている。もしユリアや私たちを騙そうと思っているなら、もっと早くにどうにでもできたはずでしょ」
父はぐぅ、と唸った。ついでにユリアも。
「いくらあなたの同僚の息子さんとは言っても、顔も知らない人にお嫁にやるよりずっと安心だわ。アーノルド様のお姉様方も教育係をしてくださると言うし、ユリアに頑張る気さえあれば、これ以上にいいお話なんてないでしょ?」
全くの正論だと、ユリアも認めないわけにはいかなかった。父も同様らしい。ややあって、父はユリアに言った。
「お前の気持ち次第だ」
両親がアーノルドを認めた。六日間に渡る家族会議によってようやく出た重いはずの判決が、ここであっさり覆ってしまった。
アーノルドはユリアの手を握ったまま、目を伏せて二人に礼をしていた。
「ユリア、あなたの気持ちを聞かせてくれる?」
「……私……は」
確かにユリアは、顔も知らない相手と結婚するのには気が乗らなかった。アーニーは一生の友人だと思っていたし、結婚して一緒にいられたら楽しそうと空想もした。
でも、だからといってその全てが叶う状況になるとは思ってもみなかった。頭では理解していても、気持ちが追いついてない。そしてこれは、この場ですぐに答えが出るほど簡単な問題でもなかった。
「……まだ、良く分からない」
「そう」
曖昧な答えだと言うのに、アーノルドはどこか嬉しそうな声音だった。
「ゆっくりでいいから、こちらの私も好きになって」
「わ、分かった……分かったから、そろそろ手を……」
恥ずかしながら手は汗でぬるぬるだった。ユリアはもちろん、アーノルドも。緊張、していたのだろうか。アーノルドは照れ笑いしながらも名残惜しそうに、ユリアの手を離した。
こうしてアーノルドとユリアは正式な婚約はしていないものの、親公認の仲となった。そして、先に話のあった父の同僚の息子との話はなかったことになった。先方が領主様の息子に怯んだらしい。
*
それからというもの、枯井戸でユリアを待っているのはアーニーではなく、アーノルドになった。
見た目も声も違うのですぐに慣れることはできなかったが、例えば体の大きさだとか匂い、それに雰囲気なんかはほとんど変わらない。会ってすぐはぎこちなくても、次第に隣にいるのがアーノルドだということを忘れて「ねぇアーニー、これって」と声をかけてしまうこともしばしばだった。アーニーだと思って見上げて、アーノルドの顔で「ん?」と言われてしまうと、ユリアは何を言おうとしていたのかを忘れてしまうのである。
それもいくぶん落ち着いた頃、ユリアはようやくアーノルドに聞いた。
「どうしてずっと、女の子の格好で私に会いに来てたの?」
ずっと気にはなってはいたけれど、造形の素晴らしい青年が甘い顔で自分を見つめてくるのに耐え難く、長時間の会話が不可能だったため聞けなかったことだ。あの大事件からしばらくして、アーニーではない顔にも慣れてきた。元は同じなのだからと言い聞かせて三ヶ月だ。
「それは……恥ずかしかったからです」
「恥ずかしい?」
女装の方が恥ずかしいのではないか。そう思って首を傾げたユリアに、頬を赤らめたアーノルドは続けた。
「初めてユリアに会った日、姉たちに悪戯されてあの格好で街に放り出されたんです。男なのにドレスを着て、レースやリボンまで付けて、その上道に迷ってしまったものだから最低最悪でしたよ。鼻水垂らして泣いていましたし」
「確かに酷い顔だった」
「……。そういう訳で、あの情けないのが実は男だったとあなたに知られるのはそれはそれで情けなくて、女だと思われたままの方がまだいいかと思ったんです。それを十年も続けてしまいました……」
八歳なりの男としての誇りが、男だと知られることを拒んだらしい。本末転倒もいいところだが、それは言わないことにした。
「アーニーはレースもリボンも似合ってたわ」
「ふふ、ありがとう」
男の姿をしていても口調は柔らかいままだった。ユリアに対してずっと敬語を使っていたのは、それが男言葉でも女言葉でもなかったからかもしれない。
そんな話をしたところで、二人揃って足を止めた。今日の目的地である図書館に着いたからだ。
主に枯井戸のベンチで過ごすことの多い二人だが、街を歩くこともある。当然目立つが十年も経てば誰も気にしなくなった。今日はアーニーではなくアーノルドと歩いていたので、それはもう好奇の視線が容赦なく突き刺さっていた。
しかし世の中には、図書館で借りた本の返却期限というものがある。ベンチでお茶とお菓子を楽しんだ後、ユリアはアーノルドを図書館に誘った。断られるとは思っていなかったが、やはりこの男はとろけるような笑顔で頷いたのだ。
図書館に入って、まずは借りていた本を返却した。身軽になったところで奥へ進んで、二人で本棚を物色する。時折アーノルドがおすすめの本を教えてくれるのは、アーニーの頃と変わらない。
アーノルドは、ユリアが嫌がるのなら領主の座は他に譲ると言った。確かにユリアは領主の妻など無理だと思っていた。両親もそう思っていたからこそ、アーノルドの申し出は本来断るつもりだった。今その話は二人の関係とともに保留のようになっているが、ユリアはアーノルドに、領主になってほしくないとは思っていない。むしろなってほしい。きっとこの領地を善く治めてくれると分かっているからだ。
アーニーは何も言わなかったが、この図書館を平民も利用することができるようになったのは、領主の息子であるアーノルドの働きかけのおかげだった。以前は貴族や裕福な商人など、一定以上の寄付を納めた者しか使うことができなかったのだ。
ユリアの家庭はそのような寄付をする余裕はなかった。本屋で働いていてもそれは商品だから、ユリアが読むことはできない。それをアーニーにぼやいて数ヵ月、平民でも無料で利用できることになったのだ。アーニーはただ「良かったですね」と微笑んで、何も知らないユリアと一緒に図書館へ行き、利用方法を教えてくれた。
ユリアが望んだからと、そのためだけに職権乱用のような真似をしたわけではない。誰でも図書館が利用できるようになったことで平民の識字率が少しずつ向上して、選択肢が広がり、収入が僅かばかり増えて経済は潤った。絵に描いたようにいい結果ばかりでもなかったようだが、この領地はほんの少しでも、確かに豊かになったのだ。今はまだ小さな数字の変化も、数十年後には大きな成果になっているはずだ。
アーノルドはこういうことができる人物だ。平民の女一人のために領主にならないというのは、この地に住む領民にとっては大きな損失になる。だからと言ってユリアがアーノルドの元に嫁ぐのも、それはそれで踏ん切りがつかない。まるで未来の領主のための人身御供のようではないか。
実際のところそんなことを考えているのはユリアだけであって、アーノルドに知られようものならきっとひどく傷ついた顔をするだろう。それが分かるほど、アーノルドはユリアに好意を寄せていた。
「アーニーに会いたい……」
無意識に呟いていた。静かな図書館だ、側で適当な本を開いていたアーノルドの耳にも届いているだろう。
ややこしいことは考えず、お互いの身分も無視をして、好きなように喋っていたあの頃が懐かしかった。あの頃はただの友人だった。親友と言ってもよかった。二人でケーキやサンドイッチを食べて、お茶を飲んで、いろんなことを話して、かと思えばお互い無言で本を読んでいた。ただ一緒にいるだけでよかった。
アーニーとアーノルドが同じ人間だと分かっても、騙されたとか、裏切られたなどとは思っていない。ただ実は男でしたと言われただけならまだよかった。アーノルドはユリアを好きだと言った。結婚してほしいと言った。そうまで言われてしまうと、今までの関係が変わりすぎて大混乱だった。アーノルドの顔には慣れても、それ以外のことはまだあまり受け止めきれていない。
「あなたが望むのなら」
小さな声でアーノルドが言った。その言葉の通り、次の休みに枯井戸へ行くと、アーノルドではなくアーニーが待っていたのだった。
「本当のことを言った後でこの格好をすると、流石に気恥ずかしいですね」
この日もアーニーはとろけるような笑顔でユリアを迎え、自分の隣にハンカチを敷いた。
傍らに置いたバスケットからパウンドケーキを取り出して、隣に座ったユリアに差し出す。ユリアもカップにお茶を注ぎ、パウンドケーキと引き換えた。
「最近はどうでしたか?」
「うん、順調かな」
おざなりに言って、パウンドケーキを一口食べる。流石にこの状況になって長いので、仕事のミスは減った。好奇の目もほとんどが落ち着いて、いつも通りの日常が戻っていたが、この人は自分を妻に望んでいるのかと思うと、まだ恥ずかしいのだ。
「アーニーは?」
「私も順調ですよ」
アーノルドは既に父親の仕事を手伝っている。小さな本屋で働いているユリアとは比べ物にならないほど忙しく、責任も重いだろうに、いつもユリアの休みに合わせてくれていた。きっと休みを合わせるのも簡単ではないだろう。それでも疲れた顔をユリアに見せたことはない。
そんなアーニーが、ため息を付いた。悲しそうに眉を下げて、それでも気丈に笑おうと、ちぐはぐな顔をして。
「王都に行くことになりました」
口に運ぼうとしていたユリアのパウンドケーキが、取り皿の上に落ちた。
「……え?」
「明日、ここを立ちます」
ユリアは目を白黒させた。王都? 明日? 一体アーニーが何を言っているのか、理解できなかった。だって、そんなこと、今初めて聞いた。
「どういうこと?」
「……そのままの意味ですよ」
「明日って何?」
「明日出発しないと、間に合わないので」
「いつ、帰ってくるの」
「分かりません」
違う、そんなことが聞きたいんじゃない。ユリアはゆるゆると頭を振って、しかしそれ以上の言葉は何も出てこなかった。
どうして王都に、明日だなんて急すぎる、どうしてもっと早く教えてくれなかったの、いつ決まったの、いつ戻ってくるの。――そもそもこちらに、戻って来るの?
全て頭の中で絡まって、声にならない。
領地を持っていても領地経営は家令などに任せて、領主本人は王都で暮らす、そんな話もよく聞く。まさかアーニーも、アーノルドもそうなるのだろうか。父親である現領主は領民に慕われている。図書館を開放したその息子も。シーズンでもないのに王都に居を移すなんて言えば、きっとみんながっかりする。それを知らない人たちじゃないはずなのに、どうして。
「寂しくなりますが……どうか、お元気で」
その日一日、枯井戸でどう過ごしたのか覚えていない。いつの間にか日が暮れ始めていて、アーニーによって自宅まで送られていた。そして別れ際に言われた台詞をぼんやりと頭で反芻して、しっかり閉じられた扉を見ていた。
「っ、アーニー!」
慌てて扉を開けて飛び出してみても、当然アーニーの姿は見えない。
行ってしまう。アーニーが、アーノルドが、王都に。いつ戻ってくるか分からないと言った。それでも、ユリアは翌日見送りに行くことができなかった。仕事がある。何時に出発するのか分からない。
そんな言い訳を並べて一週間が過ぎ、一ヶ月が経った。手紙の一通すら、ユリアの元には届かなかった。
ユリアが好きだと、愛していると言ったのに、こんなにあっさり終わらせようとするなんて。怒りたい気持ちもあったが、全て自分のせいだと思えば怒りも萎む。残るのは後悔ばかりだった。
アーノルドといる時にアーニーに会いたいなんて言ったから、愛想を尽かされてしまったのだろうか。でもあの人は優しいから、最後にユリアの望みを叶えて、離れてしまったのだろうか。
「アーニー……会いたいよ……」
確かに最初は驚いた。ずっと同性だと思って、それを疑ったこともなかったのに実は男で、しかも求婚なんてしてくるものだから。その後はしばらく混乱だ。男の姿で枯井戸のベンチに座り、ユリアとアーニーしか知らないはずの話をするのに、なかなか慣れなかった。ただ驚いて、戸惑って、どぎまぎして、どうしたらいいのか分からなかった。
アーニーはどれだけの勇気を出して本当の姿を見せてくれたのだろう。恥ずかしかったからと、ずっと女の子の格好をし続けていた。そのまま何も言わなければずっと親友でいられた。見た目の変化のせいで会えなくなったとしても手紙のやり取りで繋がり続けることはできただろうけれど、アーニーはそれを望まなかったのだ。
きちんと秘密を打ち明けて、気持ちも伝えて、どんな姿だろうがずっと一緒にいられる道を選んだ。その結果、二人が別の道を行くことになる可能性だって予想していなかったわけもないだろう。
どうか私を選んで、男の私も好きになってと、懇願するように言うアーニーを思い出して胸を抑えた。針で刺されたように、そこが痛んだ。
*
髪、よし。服、よし。顔は今日もあまりよくない。最近お肌が荒れ気味だった。
「行ってきます!」
両親に見送られながら、ユリアは鞄を手に家を出た。鞄には金を、胸には怒りを込めて、ドスドスと地を踏み鳴らしながら歩いた。王都行きの乗合馬車を拾い、空いている場所に乱暴に座る。
何となく状況を察している同乗者たちは、黙ってユリアとの距離をほんの少し開けた。いつの間にか街の人間の多くが知ることになっているのが困りものだが、実害はないのでまぁいいかと放っておくこととする。
アーニーに対して怒るのは筋違いかと思いつも、結局ユリアは怒っていた。
好きだと言ったくせに、舌の根も乾かぬうちに王都へ行って戻ってこないとはどういう了見か。事前の相談もなくあっという間にいなくなって、その後は手紙の一通も寄越さない。アーニーが王都のどこにいるか分からないので、ユリアから手紙を出すこともできなかったというのに。
これは結婚云々は別としても、友情に大きなひびが入ってもおかしくない案件である。結局のところアーニーは自分とどうなりたいのだと、問い詰めに行ってやろうと腹を括ったのだ。
そう、腹を括った。いつまでも混乱して、どぎまぎしている乙女期間は終わりだ。ユリアはきちんと自分の気持をアーニーに伝えられていない。言い逃げされた気持ちでいっぱいだった。
本屋の店主は従業員に気前よく休みを与え、両親は重々しく頷いて娘を見送った。
王都には一日も馬車に揺られていれば到着する。問題はその先で、この広い王都のどこにアーニーがいるか、ということだった。
同乗者たちに続き馬車を降りようとすると、恰幅のいい女性に馬車の中に押し戻された。
「あんた、がんばんなよ」
「えっ」
そして馬車は再び走り出す。何事かと御者に声を掛けても「あんたが降りるのはもう少し先だ」とだけ言われて、その後は何を聞いてもニマニマするだけで答えてもらえなかった。
街中を走る乗合馬車だ。さして速さも出ていないので飛び降りてしまっても良かったが、だんだん街並みが変わって明らかに貴族の住む区画に入ったのを見て、飛び降りるのは思い留まった。
やがて一軒の屋敷の前で馬車が止まる。
「さぁ降りな」
ユリアが大人しく馬車から降りると、それを確認した御者はさっさと走り去ってしまった。ぽつんと残されたユリアに、馬車と入れ替わるように屋敷から出てきた一人の男が頭を下げる。
「ようこそおいでくださいました、ユリア様」
「あなたは……」
ユリアを屋敷に案内するこの男は、いつもアーニーのお供をしていた男だ。つまりこの屋敷はルーサー家のタウンハウスということになる。王都に到着してからが一番の問題だったはずなのに、問題にもならず解決してしまった。
こんな偶然、あるはずがない。どこから仕組まれていたのだろう。馬車に乗る時既に、もしくはその前から。店主や両親も、もしかして知っていたのだろうか。
当然アーニーも知っているのだと思っていた。むしろ仕組んだのはアーニーなのではないかと。しかし、応接室で落ち着きなく待っているところで現れたアーニーを見て、その考えは引っ込めた。
「ユリア……」
まさに取るもの取りあえず、といった様子で部屋に駆け込んできた青年は、いつもの完璧に美しい姿ではない。ラフなシャツ一枚にタイも巻かず、いつもまとめられている長い髪だって下ろしたまま、ところどころ跳ねている。どうやらユリアの訪問は、アーニーにとっては急なことだったらしい。
「幻?」
初めて見たアーニーの少し気だるげな姿に気を取られているうちに、ユリアはぎゅっと抱きしめられていた。心臓が胸を突き破って出てくるかという衝撃だった。
「アーニー! 現実よっ」
「ごめん……」
いつもの香水も付けていないのだろう、そのままの匂いに目眩がする。必死で腕を突っ張ってもアーニーは離れなくて、むしろ苦しいほどの力で抑え込まれた。
「どうしてここに? 来てくれて嬉しいです。入れ違いにならなくてよかった」
「どうしてもこうしても……入れ違い?」
「はい。明日ここを出て、領地に戻る予定だったんですよ。思ったより長引きました」
アーニーの言葉に、ユリアは自分の勘違いを悟った。彼は「いつ帰ってくるか分からない」と言っただけで、それ以外は何も言わなかった。王都行きを嫌に神妙な顔で告げるものだから、勝手にユリアが勘違いしたのだ。
「……すぐ戻る予定だったの?」
「はい」
「何年もとか、戻ってこないつもりだったんじゃなくて?」
「はい」
「私が勘違いしてるって、分かってて黙っていたのね!?」
「ごめんなさいユリア、わざとじゃなかったんです。いえ、わざとですが」
「ばか! アーニーのばか!」
未だ抱きしめられたままの腕の中で大暴れした。渾身の力でようやくアーニーを引き剥がし、その顔を見た途端、羞恥と安堵、そして少しの怒りがないまぜになったような妙な感情に襲われた。
酷い、私がどんな気持ちで、とアーニーの胸をぽかぽか殴った。こんな平べったい胸しやがって、柔らかい胸であればまだ遠慮したものを。容赦なくぽかぽかするユリアの手を取って、アーニーはとろけるような笑顔を見せた。
「勘違いしてるなとはすぐに気が付いたんですが、その……ユリアが可愛くてつい……」
「かわっ、わっ!」
「私が王都へ行くと聞いた時のユリアの顔、あなたにも見せてあげたかった」
言いながら、またユリアはぎゅっと抱きしめられた。頬ずりするように顔を寄せられて、身動きが取れなくなる。
「ねぇユリア、どうしてここまで来てくれたんですか? 王都に行ったら私ともう会えないかと思いましたか? 悲しかった?」
「い、一度にそんなにたくさん聞かないで……」
ユリアの体は、アーニーの腕の中にすっぽり収まってしまっていた。こんなに体格差があったのに、どうして今まで気が付かなかったんだろう。
「私はこの一ヶ月、ユリアに会えなくて寂しかった。あなたにあんな顔をさせてしまったことも、後悔していました」
小さな声で告げられたその言葉に、また心臓が針で刺されたように痛んだ。その痛みが体中に広がって、指先まで痺れてくる。肩口に額を預けるアーニーの背中に手を回してみたら、ユリアを包む腕の力が強くなった。
アーニーは駆け引きをしたのだ。ユリアはそれに気が付かないままここまで来てしまったが、アーニーはユリアに、自分がいなくなることを悲しんでほしかった。期待通りにユリアは勘違いしたまま、アーニーの王都行きを喜ぶでもなく、無関心でもなく、狼狽えていた。
しかしそれで喜んでいられたのも最初のうちだけで、ユリアを悲しませてしまったことを後悔していた。その上、なかなか用事が終わらずに滞在が長引いてしまったので、領地に残してきたユリアを想うと気が気ではなかった。手紙なんかではなくて、直接会って話したかった。突然王都まで訪ねて来たユリアを見て、幻かと疑う程にはユリアのことばかり考えていた。
それを理解したユリアの中での怒りは膨らまず、むしろ綺麗さっぱり消えてしまった。恋は人を愚かにする、その例を目の当たりにしたから。そして、自分もその例に漏れないと思い知ってしまったから。
「二度とこんなことしませんから、許して」
「もういいわ。怒ってない」
のろのろと顔を上げてユリアの顔を覗き込むアーニーに、笑って見せた。アーニーが目を丸くしている。
アーニーが男だと知らされてから、ユリアはほとんど彼の前で笑うことができないでいた。苦笑い、困り笑い、それでなければ怒るか無表情。そんなものが多くなってしまった。今にして思えばそれはただ照れていただけで、自分を好きだと言うアーニーを意識してしまっていたのだ。
アーニーが自分自身も傷ついてしまうような駆け引きをしたのは、そんな態度を取っていたユリアにも責任がある。急な展開に付いて行くことに精一杯で、自分の気持を認めようとしなかったから。嫌なら枯井戸に行かなければよかった。ユリアの気持ち次第というのだから断ればよかった。それをしなかったのは、本当はユリアの気持ちも決まっていたからだ。
「私もずっとアーニーと一緒にいたい。男でも女でも、あなたが私の一番大好きな人なのは変わらない」
女だったらアーニー、男だったらアーノルド。最初はそうやって分けて考えていたのも、離れ離れになってからは意味もなかった。思い出すのは何も知らず、ただ笑い合っていた時のこと。それと同じくらい、最近の求婚されてからのこと。どちらも同じだと、分かっていたからだ。十年ずっと一緒にいた大切な人だということに変わりはなかった。
「待たせてごめんね……大好きよ、アーニー」
今度はユリアから、アーニーを抱きしめてみた。すぐさま強い力で抱きしめ返される。アーニーの顔はまたユリアの肩口に埋もれてしまって見えないが、ずび、と聞こえてきたので背中をポンポンと叩いた。
少ししてアーニーが顔を上げる。僅かに目尻を赤くして、いつものとろけるような笑顔が近づいてきた。どうやらこのとろけるような笑顔は、恋するアーニーの顔だったらしい。
「愛してる、ユリア」
吐息を感じるほどその顔が近づいて、ユリアは慌てて目を閉じた。
「?」
しかし、覚悟していたものはいつまで経っても来ない。何事かと思っているうちに、部屋の扉の向こうが騒がしいことに気が付いた。
名残惜しそうにユリアから離れたアーニーが、つかつかと扉へ向かう。内開きの扉を開けた途端、四人の女性がなだれ込んできた。それぞれ黒髪や緑色の瞳を持っている、アーニーの四人の姉たちだ。慌てて居住まいを正して、ユリアとアーニーにニコニコと笑顔を向けてきた。
「どうやらユリアをここまで誘導したのは、この人たちのようですね」
ため息をつくアーニーの背を、姉の一人がバシバシと乱暴に叩いた。
「ごめんなさいね、いいところを邪魔しちゃって」
「わたくしたちには最後まで見届ける義務があるもの」
「ユリアさん、ごきげんよう。どうぞお義姉様と呼んでくださいね」
「嬉しい! わたくしにもようやく妹ができるのだわ!」
ずっと話を聞かれていたのだろうか。ユリアの顔が羞恥で真っ赤に染まる。同じく頬を赤くしているアーニーが、横目で姉たちを睨めつけた。
「ユリアと出会ったきっかけを作ったのもこの人たちなので、どうにも憎めないんです……」
四人も姉がいれば末っ子の弟は苦労しただろう。ため息をつくアーニーは置いておいて、ユリアは四姉妹にこんにちはと頭を下げた。
「あなたが今日までに馬車に乗ってくれたのでホッとしたわ」
「あの御者、実はうちの使用人でしたのよ。気が付きまして?」
「メイドも同乗者に紛れ込ませていましたの」
「おせっかいでごめんなさい。わたくしたち、弟が可愛くてしかたがないのだわ」
結果は良かったのでいいとして、やり方が強引すぎる。しかし十年も女装してユリアに会いに来るようなアーニーの姉ならば、このくらいでちょうどいいのかもしれない。
四姉妹に圧倒されていたユリアだったが、もう一度、深々と頭を下げた。
「至らない者ですが、どうかご指導くださいませ。お義姉様方」
それ聞いた四姉妹は盛り上がった。姉と呼ばれたことに喜び、教育係は任せなさいと胸を張る。
そしてアーニーも、喜びを噛み締めていた。ユリアが四姉妹に指導を頼んだということは、未来の領主の妻として自分の隣にいてくれるということに他ならない。
ユリアはそんなアーニーに向き直った。
「アーニー。結婚には一つ、条件があるわ」
四姉妹のおしゃべりがピタリと止まる。アーニーもゴクリと生唾を飲み込んだのを見て、その美しい顔に指を突きつけた。
「結婚した後も時々ドレスを着て、私と一緒に街を散歩するのよ」
「……それは少々、複雑ですが……」
そう言いつつアーニーは頷いた。四人の姉たちが証人だ。
くふくふと嬉しそうに笑うユリアを見て、アーニーも笑いながらその体を抱きしめた。今日何度目になるか分からない抱擁に、熱に当てられたわ、と言いながら四姉妹は去って行く。
ぴったりとしまった扉を確認して、アーニーはようやく、ユリアに口づけを落としたのだった。