第1話 最初の「始まり」
「ママ! 見て見て! 友達作ったの!」
母親は適当な相槌を打ちながら夕飯の支度をする。
娘から話しかけられても支度をする手は止めなかったが何かが引っ掛かった。小学校に上がったばかりの娘だ。「友達を作った」という響きには些かも驚きはしない。
しかしそれが「見て見て」という言葉と共に使われていることの違和感。
その違和感に誘われてキッチンと繋がっているリビングを見やる。
既に日は落ち、部屋はキッチンからの明かりで辛うじて家具の輪郭が浮かび上がる程度だ。
娘が指を指して示さなければ決して「それ」に気づくことはなかっただろう。
母は動物が好きだった。
自分がまだ目の前の娘よりいくらか大きかった、小学校の中学年くらいか、の時にはハムスターや鳥など飼っては結局その世話は親が担うという誰もが通るような経験をしている。
そのせいか、「それ」を見たときにも不思議と驚きはなかった。
いや、正確には思考が目の前の光景を認識できずにいたのかもしれない。
自分の中の思い出や一般的な知識と照らし合わせても特異はない。図鑑などを見渡せばどこかに似たような生き物を見つけることが出来るだろう。子供から愛されそうなキャラクター、アニメにでも出てくれば間違いなく商品化されて店頭に並ぶ。
暗がりからこちらに近づくにつれどこかネコを感じさせるような風貌は余計に「それ」に愛らしさを加える。
その穏やかに、静かに「それ」を見る思考と正反対の思考、いや、それは思考以前に眼前の景色を脳がにわかには処理できずに宙に浮いてしまっている何か程度のものだが、その程度のものが母が目の前にあるものを、目の前にあるそのままのものとして認識出来ない最大の理由となっている。
抽象的な愛玩動物という表現を具現化した体には小さいながらも「それ」を空中に浮かせるには十分な羽があった。
その羽自体も、小鳥を思わせるような愛らしいものではあるがその「組み合わせ」があまりにも通常の人間が、通常の認識をすることが出来るレベルを越えていた。
認識できるか否か、するべきかせざるべきか、といった些末な事柄は母が娘を抱えて家から飛び出す行動の前にはあまりにも無力だった。
裸足で玄関から駆け抜けた先には分譲住宅地の共用道路。左右に新築の家が3軒ずつ立ち並び、その先には遊歩道、小川も流れている。平素には旦那と娘とも散歩をする。空は暗く、景色の下線が僅かに紫を残す。
「ママ、どうしたの?」
娘からの問いかけが、辛うじて日常を保っていた景色に目を奪われていた母を現在へと立ち戻らせる。
背後からの声。いや、声と認識しているのは娘。
母の思考は停止している。物音(声)がしたから振り向いた、ただそれだけだ。
「それ」は本当に愛らしく、そして友好的な笑顔で口を開いている。その本来であれば微笑ましい笑顔と肢体が母を、何かを認識している自分、何かを認識していない自分、何かを認識しようと足掻いている自分に引き裂く。
もはや「それ」に駆け寄っていく娘の姿もどこか遠い世界の物語のように、自分からは隔絶された景色のように見えた。
全ての始まりはこの日常的な景色の中の、ほんの一部の非日常的な景色から始まった。




