紫陽花の静寂を抜け出して③
紫陽花の華を手に取り、僕は近くにあった別の扉を開けて中へ駆け込む。何かの事務所として使われていた部屋らしく、いかにも業務用なデスクが並んでいる。とにかくデスクのひとつを移動させて、這入ってきた扉を塞いだ。内開きだから少しは時間を稼げそうだが、安心はまったくできない。
どうするどうする。窓にはカーテンが掛かっていないので携帯のライトは必要なさそうだ。ライトを消そうとして画面を見ると、叔父さんからメッセージが入っている。
『五階の東側の部屋だ。隣のビルの屋上へ出なさい。そこで待っている』
成程。屋上でいかがわしい看板が光っていた隣のビルは四階建てだったし、このビルとほとんど密着していた。充分に飛び移れる距離。しかし問題はどうやって其処まで辿り着くかなんだよな。僕は必死にメッセージを打ち込む。
『ぼくにでんわをかけつづけて』
送信。〈既読〉がついたか確認する暇はない。部屋の奥へと走って角にあった掃除用具入れの戸を開けると、中に携帯を捨てて戸を閉める。部屋の扉がガタガタと――音は聞こえないのだけれど、開けられようとしてデスクにぶつかっているのが見える。急がないといけない。紫陽花は僕の左手の上でまだ潰れていないから、物音は相手にも聞こえない。掃除用具入れがある角とは対角線上に位置するデスクの下に――滑り込んだ!
女は中に這入ってきただろうか。紫陽花の静寂の中なので分からない。顔を出して確認するのも禁物だ。だが、この荒い息遣いを聞かれる心配がないのは都合が良いと云える。ああ、モグラ叩き台の中に入れられたときと同じ緊張感だ。また賭けだ。今度も勝算はある。もう少し耐えるんだ。あと五秒……四……三……二……一……
両手で紫陽花を圧し潰す。空間に音が復活する。携帯の着信音が響いている。叔父さんは僕のメッセージ通りに電話を掛け続けていた。続いて女の声――「小便洩らしたりしないでよォ?」――チェーンソーが駆動し始める。僕は全身がガタガタと震えるけれども歯を食いしばってデスクの下から這い出し、足に力をこめて立ち上がる。掃除用具入れへと向かって行く女の後ろ姿を見とめつつ、僕が目指すのはもちろん廊下へ出る扉だ。
土壇場で打った策は功を奏した。女は物音に気付いて「はあ?」と声をあげたようだが、僕は廊下へ出ることができた。
これなら這入ってきたのと同じ二階の非常階段から脱出できそうだ。しかし、それではムツミを助けられない。「ムツミい! どこだあ!」と大声で呼びながら走っていると、階段近くの扉から誰かが頭だけ覗かせているのが見えてギョッとする。だが真っ暗なせいで顔は視認できないものの、頭の上に華が咲いたおかっぱ頭に見覚えがある。
「ムツミか!」
「やっぱり来てくれたんですね、馬米さん」
相変わらずの平坦な声が返ってきた。なんて間が良いのだろう。僕が目の前で止まったのと同時、廊下に出てくるムツミ。いやいやもう少し驚けよとは思ったけれど、間近で見ると彼女の表情は深刻な疲労を湛えていた。とにかく――無事で良かった。振り向けば、あの女も廊下に出てきている。今は逃げるのが先決だ。
「行くぞ」
ムツミの手を掴んで再び駆け出す。角を曲がって階段を下りようとしたが、薄闇の中、踊り場に人影があった。あの全身真っ白なアルビノの少年だ。チェーンソーの女と同じゴーグルをつけて僕とムツミを見上げ、手には武骨なナイフが握られている。息が止まるかと思った。まだ中学生くらいの少年なのに、チェーンソーの女とは違う不気味さがあるのだ。
「その子は敵です」とムツミが云う。分かっている。僕をこのビルに誘い込んだのも彼だった。僕はムツミの手を引いたまま、階段をのぼるように軌道修正する。叔父さんの云う通り、五階の東側の部屋を目指そう。どっちが東だか分からないけれど、隣のビルがどちら側かは分かる。
四階を通過。「速いですっ」と苦しそうに云うムツミにもう少し頑張ってくれと返そうとして「もう少しが――」までで途切れた。また音が奪われたのである。紫陽花が近くに落ちているだろう。それよりも僕だっていい加減、息が上がっている。身体を動かすのは得意じゃないんだ。体育祭を仮病で休んだことさえある人間なんだ。
やっとの思いで五階。敵が追ってきているか振り向く余裕もない。目的の部屋は廊下に出て最も手前の扉だ。押し破るような勢いで開けて中へ逃げ込む。この部屋は窓にカーテンが掛かっているらしく暗かったが、廊下の窓から差し込む明かりのおかげでシルエットは分かる。四角形のうち、左手手前が階段に相当する分だけへこんでいるかたちだ。つまり左手奥のでっぱっている部分にある窓が目当てのそれだ。
途中でデスクか何かの角に腰をぶつけつつも、ムツミの手を放して窓に跳び付く。カーテンを開けようとして、ムツミに肩をばしばし叩かれる。振り向くと、チェーンソーの女が部屋に這入っていた。距離は三メートル程度しかない。嘘だろ? どうしたって間に合わないじゃないか!
僕はまたムツミの手を握り背中の後ろへ誘導する。チェーンソーの女はじりじりと近づいてきて、その分だけ僕らも後退する。窓から離れてしまう。女の背後では真っ白な少年も部屋に這入ってきて、扉が閉まる。部屋は音ひとつしない暗闇に包まれる。
分かった。こいつらがつけているのは暗視ゴーグルなのだ。向こうからはこの部屋の中の様子がはっきりと見えていて、僕らからは動くものの気配がかろうじて分かるのみ。もう携帯のライトは使えない。圧倒的に不利な状況。どうする? 叔父さんは隣のビルの屋上にいるのか? しかし声は消されてしまう。助けが呼べない。空気の小刻みな振動を感じる。チェーンソーが駆動し始めたのだろう。
駄目だ、殺される――そう思った時、ムツミに手を引かれた。ムツミだって暗闇の中でほとんど見えていないはずだが、どんどん引っ張られていく。目的の窓とは反対側の壁へと向かっているらしい。どうしたと訊ねようにも声が消されてしまう異常な空間。引っ張る力がとまった次の瞬間、チェーンソーのヴィイイイイイイイン!という音が間近に迫っていた。反射的にそれを避ける方向へと飛び退く。床を転がる僕の上に、手を繋いだままのムツミが「きゃっ」と倒れ込む。
「あァー? どうして華の場所が分かったの?」
女が声を張り上げている。僕はムツミと共に体勢を立て直そうとする。そこに別のくぐもった声が聞こえてくる。
「逸見、そこにいるのかっ!」
これは叔父さんの声だ。隣のビルの屋上からだろう。どういうわけか紫陽花の静寂が解かれたので、きっとチェーンソーの音が届いているのだ。
「叔父さん!」と僕も叫ぶ。ムツミの手を引いてチェーンソーの女から距離をとろうとするが、積まれた段ボールにぶつかって体勢を崩す。ブウン!とチェーンソーが空を切り裂く。段ボールは中に陶器類でも入っているのかガチャガチャと音を立てている。僕はそのうちのひとつを持ち上げて、女がいるらしい方向へ投げつけた。女は何か苛立たしげな声を上げる。命中したらしい。
「窓から離れて頭を下げるのだっ!」
また叔父さんの声がした、その直後だ。ガラスが砕け散るけたたましい音が耳をつんざいた。真っ暗だった室内が、目も眩むようなピンク色の灯りに包まれた。
あの看板だ。隣のビルの屋上にあった大きな電工看板が、窓を破壊して突っ込まれたのだ。デスク類を押し退けながら、電気のコードを繋がれたままのそれは丸ごと部屋の中に入ってくる。
一体誰が予想できる? 凄いぞこれは!
しかし突っ立ってはいられない。僕はこの機にムツミを連れて素早く移動する。デスクや椅子の間を縫って、破壊された窓の方へと。一方で、そこから看板に続いて今度は叔父さん自身が跳び込んできた。
「Rase your hands――両手を上げろ!」
なんと叔父さんは拳銃を構えている。まさか所持しているとは知らなかった。僕とムツミは無事、叔父さんの傍らまでやって来られた。チェーンソーの女はまだ反対側の壁際にいるし、真っ白な少年も入口の扉に背をもたれている。チェーンソーの駆動は止まっていたけれど、両名とも手を上げようとはしない。それらの光景が、ビカビカと発光する『性感エステくりいむ』の字によって照らされている。
僕はムツミの様子が気になった。彼女は当惑しているようだった。いきなり電工看板が部屋の中に突っ込まれたら誰だって当惑するだろうが、それとは違うみたいだ。彼女は僕と繋いでいない方の手を見詰めている。ぎゅっと握られたその手からは潰れた紫陽花がはみ出ている。
もしかすると彼女は先程、数秒間だけ意識が飛んでいたのかも知れない。この部屋にあった紫陽花の場所を、目で見たのではなく、椿の能力で探知したのではないだろうか……。
「それ以上、動くんじゃない。お前達は逃げられない」という叔父さんの声で我に返る。見ると、敵二人が移動していく最中だった。一言も発さないまま、入口の扉とは反対側の窓辺へと向かっている。
「通報済みだ。そのうえ俺が隣のビルから外した看板をこの部屋に突っ込んだことで、下の通りはちょっとした騒ぎになっている。人が集まっているのだよ」
聞いているのかいないのか、二人は窓辺に着くとカーテンをはぎ取って窓を開けた。叔父さんの云う通り、下の騒ぎが此処まで響いている。そうでなくとも五階だ。飛び降りて無事な高さではない。通りを挟んだ向こう側にもビルがあるけれど、あまり広くない通りとはいえ、あそこまで人が飛び移るのは無理だ。
女が再びチェーンソーを駆動させた。叔父さんが「やめろ馬鹿者!」とガラにもなく怒鳴る。銃を向けられているのに、悪あがきでもするつもりだろうか。女は真っ白な少年にチェーンソーを手渡して、自分は両腕を水平に広げた。
すると少年は躊躇なく、チェーンソーを使って女の右肩から左の脇の下へかけて斜めに切断し始めた。僕は目を瞠る。何かの手品か?
飛び散るはずの血液が、一滴も出ていないのだ。
叔父さんは「やめなさい!」と云うけれど、チェーンソーのもとに近寄ることはできないし、急所を外して撃つのも難しいだろう。僕らはその奇怪な光景を見ているしかない。女の胸から上が完全に切断されて床に落ちる。胸から下も床に膝を着いて崩れ落ちる。
そこで気が付く。女の断面には小さな白い華が大量に咲いて蠢いている。あれは何だ。
少年は女の腹を片足で踏んで、腰元も切断しにかかる。やはり血は出ないのだが、見ている僕は吐きそうになってきた。
「彼女は生きている」と、叔父さんが僕に向かって話す。
「身体の中に華が詰まっていて、傷を受けるとたちまち塞いでしまえるようだ。笑っているぞ、彼女は」
腰をまっすぐ切断し終えた少年は、続いて下半身を股の下から縦に切断した。それから今度は窓ガラスに刃を当てる。ギャリギャリギャリと騒々しい音を立て、ガラスが砕け散る。下の騒ぎが大きくなる。少年はガラスの破片を受けて肌が切れることも厭わない。ついにサッシまでなくなったことで、壁には大きな長方形の穴が開くことになった。
チェーンソーの駆動は止まった。少年はチェーンソーを床に落とした代わりに、女の左腕を掴んで、その胸から上の部分を背負い上げる。すかさず叔父さんが動く。拳銃片手にデスクの上に飛び乗って、少年へと向かって行く。少年は女の胸から上の部分を大きく振り回し、そのまま窓の外へと放り投げる。右腕を掴んで胴体部分、その次に左脚も同じようにして、最後に右脚を拾ったところで叔父さんが飛び掛かった。女の右脚は窓とは真逆、部屋の中央の方へと飛んでいった。
「逸見、女がどうなったか見るのだ!」
少年を組み敷きながらも、叔父さんは僕に指示を飛ばす。僕は窓辺へ駆け寄るけれど、全身がぶるぶると震えてしまっている。貧血で倒れる直前みたいな心地だ。通りを挟んだ向かい側のビルを確認する。ビルは四階建てで、此処から屋上を見渡すことができた。そこにはバラバラになった女が転がっている。
「お――叔父さん、」
声が震える。くそ、情けない。
「動いてます! 片腕で這って――胴体部分のところに――ああ、断面同士をくっ付けようとしているんだ! すり合わせるみたいにして――くっ付いた。まるで元通りです! 今度は左脚だ――左脚のもとへ向かって行く!」
「ああああああッ! うるさい、うるさいよォもう!」
叔父さんの下で少年が奇声を発した。思わずそちらを見遣ると、ゴーグルが外れていて、少年は白目を剥いている。口からぶくぶくと泡を溢れさせて、痙攣しているみたいだ。
「う―――えええぇぇええ! えっ、ううええええぇぇぇ…………」
口から何かが吐き出された。紙をくしゃくしゃに丸めたような形をしている何かだ。胃液まみれのそれは徐々に広がっていく。僕は「あ!」と声を出したつもりだった。しかし聞こえない。少年の呻きも、通りの騒ぎも、何も聞こえない。
完全に広がったそれは、あの蒼い紫陽花。周囲の空間から音を奪う華。少年は紫陽花乃幼少帰咲だった。
向かい側のビルへと視線を戻す。ほとんど半裸とはいえ右脚のほかは元通りとなった女が、屋上をがむしゃらに這い進み、貯水タンクの陰に入ると後は見えなくなった。




