紫陽花の静寂を抜け出して②
3
やって来たのは歓楽街の一角に建つ古い雑居ビル。五階まであるうち一階に入っていた喫茶店は潰れており、二階から上も使われている様子はない。と云うのも、どの窓からも明かりが洩れていないのである。割と広めの敷地を使っているのに勿体なく思われた。正面から見て左側は路地、右側には四階建てのビルがあるけれど、こちらは屋上に取り付けられた大きな電工看板に『性感エステくりいむ』なんて下世話な文字が輝いているし、一階の無料案内所もどぎつい電飾で客を迎えているので、まるで対照的だ。
元喫茶店の入口は閉ざされている。左側の路地を這入って行くと、奥に別の入口があった。ビル案内板によれば〈茜条斎MTビル〉という名称らしい。ガラス扉の向こうには暗闇の中に細い廊下とエレベーターが見えるが、この扉も施錠されていて開かない。
通行人や客引きの声、お店から流れるアナウンス等で賑わっている周囲とは裏腹に、このビルだけが死んでいるかのようだ。
「ムツミは本当にこの中から電話してきたんでしょうか」
「住所は間違いないよ。この様子を見て、ムツミくんからのSOSであったという可能性も高まった。おそらく電気が止まっているのだろう」
「暗闇の中で身動きが取れないということですか」
「ああ。それでも電話だけ使える場合はあるからね」
叔父さんはさらに建物をまわり込み、裏側の非常階段を見上げると、二階あたりを指差した。「あそこの扉が薄く開いている。逸見、お前は此処で待っていなさい」
「僕も行きますよ」
「いいや、二人一緒に這入るメリットはない。俺と入れ違いで出てくる者がいないか見張っているのだ。他にも何かあれば、すぐに通報できるようにね」
身軽な動作で階段を上がって行く叔父さん。二階の扉の前で、手摺りから身を乗り出し「携帯を見ていてくれ。何かあればメッセージを送る」と付け加えると、建物の中へと姿を消してしまった。
てっきり同行できるものと思っていたのに、とんだ肩透かしである。見張りなんて云われたが、置き去りにされただけだ。〈人間モグラ叩き〉を解決しても、まだ信用されていないのだろうか。
叔父さんのことは好きだし尊敬しているけれど、このような扱いには不満がある。しかし、だからと云って指示を無視して中に這入るのは躊躇われた。ムツミが此処にいるとしたら、それは椿の能力がまたぞろ事件を察知したためだろう。この中では何かが起きている。であれば、外に見張りを立たせておくのは至極真っ当なやり方であり、結局は叔父さんが正しいのだった。ぐうの音も出ないほど。
だけど僕だってムツミを探したいと云うか、ムツミを見つけてあげたい気持ちがあって、理性と感情の板挟みに悶々としていると、携帯に叔父さんからメッセージが届く。
『一階で配電盤を見つけたが、人為的に破壊されている。電気配線も切れているだろう』
『異常は他にもあるが、報告は後回しだ。引き続きムツミくんを捜索する』
チャット機能に特化したSNSアプリ〈ヘルメス〉を用いて送られてきたものだ。今や利用していない者は滅多にいないこのアプリを僕は個人的に好いていないのだけれど、利便性の高さは認めざるを得ない。
それよりも、人為的に破壊された配電盤……事件性を読み取るにあまりある。まさかムツミ……監禁されたりしていないだろうな? 彼女が望むそれとは別の、危険な立場に置かされるたぐいの監禁……。
「おにーさん、其処で何しているの?」
頭上から声を掛けられてハッとする。見上げれば、二階の扉の前に中学生くらいの少年が立っていた。シャツ、ジーンズ、靴だけでなく、肌や髪まですべてが真っ白だけれど、両の瞳だけが赤い。たしかアルビノと云うのだ。遺伝子疾患によって、こういう色になるのだとか。
「君の方こそ、何をしているんだ。その建物から出てきたんだよね?」
訊ね返すと、真っ白な少年は眉間に皺を寄せたらしく見えた。
「この街はうるさすぎるよ。たとえば川のせせらぎや鳥のさえずり……耳を澄ませて楽しむ音に憧れるなぁ。大樹の下でハンモックに揺られて、じっくり昼寝するような生活に」
「共感はするけど――ちょっと待っててくれ」
僕は非常階段を駆け上がる。この少年は何だかおかしい。捕獲すべきなのか保護すべきなのか、いずれにせよ話を聞いた方が良さそうだ。
しかし二階の扉の前まで到着すると、既に少年は消えていた。また中へと戻ったのだろうか。急いで扉を開けて覗いてみれば、左手奥へと伸びている廊下の先、突き当たりを曲がって行く彼の背中を捉えた。曇りガラスがはめ込まれた窓から外の明かりが差し込んでいるため、真っ暗というほどではないのだ。
数秒間の逡巡の後、僕も中に這入る。叔父さんからは見張っていろと云われた。云われたが、状況が変わった。僕は僕の判断を信じる。メッセージなんて送って判断を乞う暇はない。ムツミは今この瞬間も危険にさらされている。自分の心配だとかリスクだとかを考えていたら情けなさすぎるじゃないか。
廊下を駆ける――そこで違和感を覚える。無視できない寒気に襲われて、思わず足を止める。静かすぎやしないか? 此処に這入ってから、まったく音がなくなっている。鉄筋コンクリートの建物みたいだけれど、こんなに高い防音性を誇るものだろうか? 振り返る。扉は閉じている。扉が閉じる音を僕は聞いたか? 変だぞ、これは……。
あー、あー、と声を出してみた。出してみたつもりだ。出ているはずだ。しかし聞こえない。自分の声が。耳鳴りさえもしない。まるで宇宙のように静かだ。宇宙になんて行ったことはないけれど! 耳が聞こえなくなっている!
なぜ? 思い至るきっかけはない。角膜移植手術の影響か? 眼球を変にいじったりしたせいで聴覚に異常を来すことがあるのだろうか? 何だ、こんな時に。徐々に聞こえなくなっていくのでもなく、いきなり……事が済んだら耳鼻科に行こう。早く耳鼻科に行くぞ。手遅れだったりしないだろうか? 物凄く不安でちょっと泣きたくなってきたが、僕は再び駆け出す。響く足音も聞こえない。どうなっているんだ、まったく。
突き当たりにあるエレベーターの前までやって来た。右手は階段だ。真っ白な少年は此処を上か下へと行った。下であれば、まだ叔父さんがいるはずだ。それに一階は大半が元喫茶店なので、他に用がある部屋なんてないと推定される。ならば、どちらかと云えば僕は上へ向かうべきだろう。
何が待ち受けているか分からない。ここで少しばかりの恐怖心が頭をもたげ、僕は慎重に階段をのぼる。踊り場で折り返すと、見上げた先の三階は嘘みたいに真っ暗だ。ライトにしようと思って携帯を取り出すと、画面に叔父さんからのメッセージが表示されている。
『どこだ? 中にいるのではないだろうな?』
『俺は外に出ている。襲われたのだ』
鳥肌が立った。襲われたというのは、一階で? あの真っ白な少年にか? まだ中学生くらいの少年だぞ? 恐怖心がいよいよ湧き上がる。この暗闇はまずい。携帯のライトを点灯。カメラのレンズがある横から、灯りが放たれる。三階へと向けようとしたとき、視界の端に妙なものが映り込んだ。
うん?――と、声を出したつもりでも相変わらず聞こえないのだけれど。ライトで照らしてみると、それは蒼い紫陽花だった。踊り場のすみに咲いている……のではなく、落ちているのだ。チアガールが振るボンボンのような手まり咲きの状態で。
携帯の画面に、叔父さんから新たなメッセージ。
『すぐに出て来なさい。その中ではすべての音がなくなる。何があっても助けは呼べない』
それを読んで、不意に繋がった。僕の身に起きていること、見ているもの。〈人間モグラ叩き〉の現場に導かれたときと同じなんじゃないか? ムツミはまた、咲いた者が起こす事件に巻き込まれた……つまり、踊り場に不自然に落ちているこの紫陽花の華が、何か悪さをしているのでは?
紫陽花を拾い上げる。この紫陽花はしかし、何の変哲もない紫陽花のような気もする。だって華乃幼少帰咲では身体のどこかに華が咲くのだ。切り離されたのだとしたら、本人は死んでしまうのではないだろうか。
それでも、理屈ではない直感から、僕はその紫陽花をゆっくりと、手の中で圧し潰す。これが誰かの身体に咲いたものだったとしても、こうして離れている時点で、何をしたって本人に影響などあるはずがない。蘭果さんのようにはならないだろう。それよりも、この紫陽花を放置しておく方が気持ち悪い。潰れていく。指と指の間から、千切れた花弁が床にひらひらと落ちていく。
ヴィイイイイイイイイイイイイン! 突然、何かの機械が駆動する音が鳴り響いた。
驚きのあまり身体が跳び上がったが、その音はすぐに止む。すると建物の外から街の賑わいが聞こえてくる。聴覚がいきなり正常に戻っている。紫陽花を潰したおかげか?
駆動音みたいなものは何だったんだろう? それが聞こえてきたのは下の階からだった。僕はライトで階段の下を照らす。そこには人がいた。一段目に足をかけて僕を見上げるその人物は、手にチェーンソーを持ち、顔には双眼鏡みたいなゴーグルをつけている。
「バレた、バーレたー。灯りをこっちに向けないでくれる?」
「こ、こんばんは!」
何故か挨拶してしまった。声が裏返った。
「あたしらの業界じゃこの時間は『おはよう』なんだけど……あんたさァー、下にいた奴の仲間だろ? まずいなァ。他にはいない? あんたに今できることを教えてあげよっか」
女の人だ。ひどく気だるそうな声。白いTシャツの上からミリタリージャケットを下半分だけチャックで留めて羽織り、下半身はショートデニムなので細長い脚が露出している。ピンク色に染めた長い髪はポニーテールにしており、僕はその出で立ちを格好良いと思ったけれども思っている場合ではない。
「何でしょう、僕にできることって」
「あたしに気に入られようと試みるのさ。出会い系サイトで女を――おい、いつまでライト向けてんだよ」
「あ、すいません」
ライトの先をチェーンソーの女から逸らす。それでも彼女の動きを見ることは可能だ。
「出会い系で女を釣ろうとするとき、この人なら会ってもいいかもって思わせるため工夫しない? するよな?」
「いえ……出会い系なんて使いませんよ」
「はあ? 例え話だろうがボケぇ……つまりあんたは、あたしにこの人なら殺さなくてもいいかもって思わせないといけないんだ。殺されたくないよな? じゃあ協力的な姿勢が必要だって分か――」
僕は階段を一段飛ばしで駆け上がる。逃げる以外に助かる術なんてあるわけがない。状況は全然理解できないが、チェーンソーを持った奴を相手に交渉なんて成り立つか。階下から「バッカだなァー、殺すこと確定したぞォー」なんて声が聞こえる。
三階が真っ暗だったのは、二階と違って廊下にある窓すべてにカーテンが掛かっているからだった。携帯のライトで前方を照らしながら、非常階段に出る扉へと向かう。ここでまた無音状態が訪れたことに気付いたが、足は止めない。大丈夫だ。いける。
しかし到着してみると、非常階段に出る扉は鎖で封鎖されていた。扉そのものの錠は開いているけれど、鎖のせいで十センチほどしか開かない。そして鎖には南京錠が付いていて、これを解錠することはできなさそうだ。
扉を十センチ開けた状態でおーーーいと叫んでみたが、声は出ない。正確には出ているのだろうが、聞こえない。すぐ近く、消火器が収められている箱の上にまた紫陽花が置いてある。何なんだ、この華は。周囲の音を吸収でもしているのか? これを潰せば大声を外の誰かに届かせることができるかも知れないが、できたとしてどうする?
振り向くと、チェーンソーの女も角を曲がって三階の廊下に現れたところだった。どうせ逃げられないと知っているからか、急いでいる様子はない。廊下は一本道だ。あのチェーンソーに向かって行くなんてとんでもない。消火器でも武器にして戦ってみるか? まさか。あり得ない。
やばいじゃないか。僕は〈やばい〉という言葉が嫌いなのだけれど、これはさすがにやばいだろ!




