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華の幼少に帰り咲き  作者: 凛野冥
第1部:Zygomycota
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薔薇の支配にどう抗うのか③

「殺すのは自分に関係のない人間と決めていたけれど、仕方ないわよねえ。別に同じ学校だからって、お前なんて知らないし、どうでもいいのよねえ」

 普段の気品ある振る舞いとはかけ離れた、獰猛どうもうな笑みと荒い言葉遣い。本能的に爪先から頭の天辺までゾクゾクと危機感が走り抜けた。僕は身を翻そうとして――

「あ、あれ?」

 何だこれは。

 蘭果さんの左の乳房に咲いた薔薇から、目が離せない。

「馬鹿ねえ。私がこれまでどうやって、モグラ役を箱に入れてきたと思っていたのかしら」

 目が離せないというのは、僕の気持ちの問題じゃないのだ。物理的に、どうやったって無理なのだ。眼球が薔薇に焦点を結んだ状態で固定されている。そのせいで、背を向けて逃げ出すということができない。

「ムツミ、もしかして君も――」

「馬米さんもですか。目が動かせないんですけど」

 僕ら二人とも同じ状態にあるようだ。しかし身体は動かせる。薔薇を見詰めたままで後退するのは可能だ。可能だったのだが、

「逃げたら駄目よ」

 蘭果さんがそう云った途端、後退もできなくなった。

「あはっ」

 破顔する蘭果さん。

「薔薇乃幼少帰咲――私の薔薇を見た者は釘付けとなり、命令に逆らえなくなるのよ。これでいいの。みんな私に従って、遊びの道具になるべきだわ」

 まぶたを閉じることはできる。だが閉じ続けることができない。睡魔に襲われたときにどうしたってまぶたが重くて開けていられないのと真逆だ。まぶたを開けて薔薇を見詰めることの欲求に抗えない。左手で目を覆ってみても無駄。勝手に指が開いていく。愕然とする。自らの意思ではどうすることもできないのか。

「そっちの女の子も咲いてるようだけれど、私の能力の前では無力でしょう? お前達はもう奴隷よ。さあ、こっちに来なさい。私に危害を加えようとはしないことね」

 絶対的な命令。その効力を身をもって知る。僕はカウンターを迂回うかいしようと歩き出していた。自分の身体が自分のものでないみたいだ。足を止めるため踏ん張ろうと考えたところで、行動にまったく反映されない。一時的に抑えることさえできない。ムツミもきっと同じだろう。そうだ、ムツミだけでも助けられないか?

 僕は握っていた彼女の手を放すと、彼女の頭を探す。指がさらさらとした髪に触れた。「馬米さん?」そのまま右手で彼女の両目を覆う。これでどうだ。僕は他者の視界を塞ぐ分には問題なく動けるし、ムツミも他者からの妨害を受ければ薔薇の呪縛から逃れることが――

「互いに視界を塞ぐ行為を禁止するわあ」

 上から見えない糸で吊り上げられたみたく持ち上がる右手。いよいよ絶望的になった。僕もムツミも、既にホールに出ている。すべもなく、底意地の悪い笑みに顔を歪めた蘭果さんのもとへ進んで行くしかない。モグラ叩き台から溢れ出して床を広がる水を、びしゃりびしゃりと靴で跳ねながら。思考がばらばらに。何も思い付かなく。

 その時だった。ムツミが小さく「……本当にごめんなさい」と呟いた。

 どんな表情で呟いたのかは分からない。だが悲痛な響きと感じた。ハッとしたのだ。

 そうだった。こんな事態に陥ったときのイメージトレーニングは再三再四、繰り返してきた。あのモグラ叩き台に入れられたとして、どうやって助かるか――その検討は既に済んでいた。

「錠の位置と開け方だ……」と、ムツミにだけ聞こえるように小声でささやく。目の焦点は薔薇から外せないけれど、視界の端にそれを捉えることは可能だ。モグラ叩き台には上蓋を開けられないようにするための掛金が、正面側の右端と左端にそれぞれ取り付けられている。上蓋についた小さな板を本体にあるつまみに穴を通すようにして被せた後、つまみを九十度ひねることで固定する簡単な造りである。

「いいかしら? 頑張るのよお、お前達。すぐに終わったら詰まらないわ。散々手こずった挙句にやっと頭蓋骨をブチ砕いてこそ、私はスカアアアッとするのよ」

 蘭果さんは蓋を勢いよく跳ね上げた。僕は依然として薔薇に釘付けだ。どくどくと脈打っているかのように見えるほど、薄暗闇の中に赤く毒々しくえている。

「うふふ、うふふふふ、中に入りなさいなあ」

 髪を掴まれ引っ張られる。そうでなくとも身体は率先してモグラ叩き台の中に入ろうと動いている。視線の先は薔薇に固定されたままなので後ろ向きにひっくり返る格好だ。「冷たああああ!」なんて思わず叫んでしまうけれども云ってる場合か。大量の水を溢れさせながら、僕とムツミは身体をくの字に折って水中へ。

「せいぜい足掻あがくのね」

 蘭果さんはずっと誇示していた薔薇をレインコートで隠すと同時に上蓋をばたんと閉じた。予想していたことではあるけれど、中には先客がいた。僕とムツミの間にもうひとり。この居酒屋の店主だろうか。おそらく頭を叩き割られて死んでいる。

「やっ、嫌っ」

 さすがのムツミも焦った声を出す。派手に入水したため、蓋と水面との間には頭半分程度のスペースがあるのだ。しかし水は間断なく足されているため、間もなくいっぱいになるだろう。底には目の細かい金網が張られていて、ホースを塞ぐことは叶わない。蓋を押し上げようとしてもビクともしないのは、既に蘭果さんが掛金を掛けたからに違いない。

「息を吸い込んでおけ!」

 そう指示しながら、僕はムツミに顔を寄せる。体勢を少し変えるだけでも窮屈。三人で限界なのだ。手探りでムツミの小さな頭を掴んで、その耳元に口をほとんど密着させた。

「な、何ですか」

「聞いて。絶対に助けるから」

 外の蘭果さんに聞こえないよう、小声で作戦を伝える。内部が水で満たされる前に、どうにか伝えきることができた。

「分かったら息を吸って潜るんだ」

 ムツミと共に、僕もまた頭の天辺まで水中に沈めた。それから見上げる格好で、左目だけ開く。暗闇の中に、複数の僅かな明かりがゆらゆらと揺れている。その形は円ではなく、線の多いアスタリスクだ。菊割れ蓋と云うのだったか、台所のシンクの排水溝なんかによくある黒いゴムが、すべての穴に嵌められているのである。僕らから蘭果さんは見えないし、蘭果さんからも僕らが見えない。どの穴から頭を出すのか、直前まで分からないわけだ。

 穴から頭を出す――これから自分がやろうとしている行為に、全身が震える。こんなの怖いに決まっている。外では蘭果さんがハンマーを掲げて待ち構えている。

 勢いが大事だ。しかし狙いを外して頭を打ってはいけない。そっと上蓋に両手を這わせて、穴の位置を確かめる。指先がそれぞれ穴のふちに触れた。あとは右手と左手の間に頭を突き出せばいい。迷っている時間はない。ムツミはそんなに長く息を止めてはいらないんだ。事ここに至れば、考えるよりも先に動く!

 菊割れ蓋を破り、僕は穴から頭を出した。少量で構わない――息を吸い込みながら即座に引っ込める。うおおおおおおおおお。直後にガアン!と音がした。穴のふちにハンマーがぶつかったのだ。一瞬だけ見えた蘭果さんは、迷いなく僕へ向かってハンマーを振り下ろすところだった。様子見なんてない。完全に仕留める気だった。心臓がバクバクと暴れている。さっきまで止まっていたんじゃないだろうかと思う。

 だが、これでいい。次に頭を出しても、きっと蘭果さんは本気で殺しに掛かってくる。そうでなければならない。そしてもうひとつ幸いだったのは、薔薇の呪縛が解かれていることだ。おそらく僕らをこの中に入れると共に再びレインコートを纏ったあのときに解けたのだろう。見た者を釘付けにして絶対的な命令を下す奇妙な能力を、蘭果さんはモグラ叩きにおいては使用していない。そうでなければ彼女にとってストレス発散にならないのだ。

 条件は揃った。僕は左目だけ開けて、隣に沈んでいる死体の輪郭を捉える。右手をその顎の下、左手を後頭部に添える。産まれて初めて死体に触れている。これがくらい水の中で良かった。体温や感触が分かりにくいし、死顔もはっきりとは視認せずに済む。

 この作戦が成功する見込みはどのくらいだ? 分からない。百パーセントな気もするし、十パーセントにさえ満たない気もする。ただしムツミのことは助けよう。僕がどうなっても、ムツミひとりを逃がすことならできそうだ。伊升ムツミというこの不思議な女子。会ってから一時間ほど経っただけ。どんな子なのか、まったく知らない。他人と云ってもいい程度の関係でしかない。

 でも仮にこの子が助からなくて僕だけが助かったら、僕はそのことを一生後悔するんだ。

 ムツミの手が、僕の手に触れた。

 教えておいた合図だ。

 弾かれたように、僕は両手で掴んだ死体の頭を全力で持ち上げて穴から飛び出させる。

 次の瞬間にはもう死体から手を放して、下段の一番端の穴から手を出して外の掛金の位置を探り当ててつまみをひねって外してムツミも反対の端で同じように完了しているはずと信じて上蓋を思い切り押し上げることが――できた! 上蓋を押し上げながら僕はざばあああっと立ち上がっていた!

 目の前では蘭果さんが両手を上げた格好で驚きの表情。彼女は死体の頭にハンマーを振り下ろしたせいで、僕とムツミが掛金を外すのに対応できなかった。そこで上蓋が突然跳ね上がったのだ。しかしその手にはまだハンマーがある。振るわせるわけにはいかない。

 僕は蘭果さんの顔面に向かって、口に含んでおいた水を吹き付ける。いわゆる毒霧である。いつ役に立つかも分からないのに風呂場で練習していた甲斐かいがあった。蘭果さんは「きゃあ」と思いのほか可愛い悲鳴を上げて後退あとずさる。その隙に僕はモグラ叩き台から抜け出してムツミの手を引っ張る。

「薔薇を見るな!」

 もう蘭果さんへは目を向けない。裏口へと駆ける。水浸しになった服が重くて走りづらいうえ濡れた床で滑りそうにもなったけれども、カウンターに手をつきどうにか転倒を回避し、厨房に這入り、続いて裏口をくぐる。背後から蘭果さんの怒声が聞こえる。

「お前らブチ殺すからなああああああああああああっ!」

 おお怖い。本当に怖いな。僕とムツミは路地裏を駆け抜ける。生きた心地がしない。路地裏はこんなに長かっただろうか。振り向けばすぐそこに蘭果さんが迫っていて飛び掛かられるのではないかという恐怖に背中を押されながら、一心不乱に出口を目指す。

 そして抜けた。表通りに出た。

 生きていた。行きかう人々の姿が目に入り、不思議な安心感がどっと湧き上がった。

 勝ったのだ。モグラ叩き台にまで入れられたのに、僕らは生きて逃げられたのである。

「ま、まぁ、こんなもんよ。僕にかかればな!」

 肩で息をしながら、僕はムツミへと振り向く。彼女は全身水浸しで、頭の上では椿の華もぺしゃりと垂れている。路地裏に蘭果さんの姿はなかった。

 笑い出したくなる僕だったが、ムツミには特段喜ぶような様子はない。相変わらずの生気に欠けた瞳が見上げてくる。

「寒いです」

 云われてみると、たしかに寒い。僕だって全身水浸しなのは一緒だ。

 周囲は悪趣味なネオンの灯りに包まれて、いよいよ夜の装い。陽は完全に落ちた。とはいえ通行人の大半を酩酊者が占めるような時間ではない。制服姿の未成年ふたりがびしょ濡れで立ち竦んでいては、好奇の眼差しを向けられて当然である。

 僕は「とりあえず頭の華は手で隠そうか……」と云って、くしゃみした。

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