烏瓜の結合を断ち切ること②
2
どのくらい遅くまで掛かるか分からないので、鶴姫に頼んで明日までムツミを預かっていてもらうことにした。
〈ヘルメス〉で約束を取り付け、四時半に茜条斎駅の西口で待ち合わせた。鶴姫は隣の町から電車通学しているのだ。
「任せてえ。パパとママには、ムツミちゃんを鶴姫の妹だって信じさせるよお」
「いや、友達を泊めるでいいだろ」
どうしてまず嘘をつこうとするんだ。
それはともかく、鶴姫は詳しい事情を聞かずとも了承してくれた。
「馬米さん、私は不安です。この人、明らかに私のこと邪魔だと考えているので」
「やだなあ。そんなことないよお」
鶴姫は潤んだ目を細めてムツミを見下ろす。
「貴女が死ねば、逸見くんは鶴姫だけのものだもん……仲良くするよお……」
「おい、文脈が破綻しているじゃないか」
「馬米さん、私は不安です」
「云っておくが、ムツミに何かあったら、僕の中で鶴姫の信用度は地に堕ちるからな」
「えっ、そうなの?」
目を丸くする鶴姫。
僕も不安になってきた。しかし他に頼れる人もいない……。
くれぐれも変なことをしないよう念押ししてから、二人と別れた。ムツミは名残惜しそうと云うか、やはり僕に心配そうな眼差しを送っていた。
それから二時間ほど茜条斎をぶらぶら散歩して、初体面したときと同じカラオケ店の前で野呂さんと合流した。丁度、〈ホテル・ネクロの実〉があるラブホテル街の近くだったのである。
「本当にすみません。飲み会は行かずに何とかなりそうですか……?」
「云うな云うな。さっき課長にメール送りつけて、怖ぇから携帯は機内モードだぜ」
ネオンの灯りに照らされてもなお、顔が土の色をしていると分かる。
休日でもスーツ姿なのは、曰く「俺はスーツが似合うからな。それに私服なんて金の無駄だろうが」とのこと。僕の方は喫茶店のトイレで制服から私服に着替えておいた。
「で、どうするんだ。男ふたりでラブホに入っていくのは気が進まんな」
「それもありますし、ホテルの近くでは行動を見張られているかも知れません。別れて行きましょう」
ムツミでなく野呂さんを連れてきた時点で、既に月豹由布の要求を破っているのだ。
「僕が先に行って、電話で部屋番号を教えます」
「機内モードだって云ってるだろうが」
「解除してくださいよ……」
飲み会をサボって気が気でないのか、今日の野呂さんはいつも以上におかしい。やや不安を覚えつつも、僕は一旦彼と別れ、単身〈ホテル・ネクロの実〉へ向かう。
昼間にムツミと迷い込んだときとは違い、ラブホテル街はすっかり夜の顔へと変わっていた。表通りと比べて暗く狭苦しいくせに、部分部分ではふしだらなライトアップが為されている。まだ七時前なので、人通りはぱらぱらとある程度だ。カップルもいれば、ひとりの者もいる。
〈ホテル・ネクロの実〉は古くて不潔そうな建物だった。客層が察せられる。つい周囲を見回して誰にも見られていないのを確認してから、恥を忍んで中に這入った。
細い廊下が奥のエレベーターまで伸びていて、右手に受付がある。小さな窓からは従業員の手元だけが見えている。向こうからも僕の顔は見えていないだろう。
「あの……七時から馬米の名前で予約されていると思うんですが……」
少しだけ間があって、「はい、馬米様。〈淫乱からくり〉の方ですね」
「はい……」
そんな店の名前まったく知らないが。
「七〇二にどうぞ。料金は後払いになります」
鍵を受け取って、そそくさとエレベーターまで進む。早く部屋に這入りたい……。
ギチギチと音を立てるエレベーターに乗って七階へ。幸い、他の客と鉢合わせたりすることなく、七〇二号室にやって来ることができた。
「良かったぁ……」
思わず呟きつつ、小さな室内を確認する。トイレ、洗面所、浴室、あとはベッドの置かれた部屋があるだけの簡単な間取りだ。なぜか天井が鏡になっている。
電話で部屋番号を伝え、落ち着かない気分で椅子に座っていると、十分ほどして野呂さんもやって来た。
「きたねえホテルだな!」
後ろ手で錠を掛けつつ、顔をしかめている。
「それに湿気た嫌なにおいが染みついてるぜ。俺ならこんなところ使わんね。なにせ金は腐るほど――」
「すみません、例の犯人に電話しますから静かにお願いします」
昼に掛けたのと同じ、月豹由布から教えられた番号をプッシュ。
出たのは声の高い男ではなく、別の不愛想な声だった。
『お電話ありがとうございます』
「十九時から予約の馬米ですが」
『馬米さん。どうされました』
「部屋に這入ったら連絡しろと云われたので」
『ホテルどちらですか』
「〈ホテル・ネクロの実〉です。七〇二号室です」
『はい、七〇二号室……月豹さんで予約の馬米さんですね』
「そうです」
『お遊びの仕方は大丈夫ですか』
「はい……」
『では女性到着までお待ちください』
「分かりました」
『失礼します』
通話が切れると、壁に寄り掛かった野呂さんが「なぁ、」と口を開いた。
「ちょっと聞こえてきたが、まさか馬米、初めてのデリヘルが不安だから俺を――」
「違います! 向こうの要求で、そういうやり取りを装っているんです!」
と否定しながらも、少しだけ自信がなくなってきた。月豹由布にからかわれた可能性も充分にあるような気がしてきた……。どうしよう……。
「でも念のため……夕顔の能力は僕が合図するまで使わないでもらえますか」
「ああ。それにしても、すげえなラブホって。枕元にコンドームが用意されてるぜ!」
野呂さんも初めて来たらしい。何だか安心した。
「こう、変な気分になってくるな……」
「気持ち悪いこと云わないでください」
「何だと! 冗談が分からねえ奴だな。俺だってこんなところ、人生で一度も来たくなかったんだぞ。しかも男ふたりでなんてな!」
「今から女性も来ますよ――って、そういう意味じゃありませんが!」
馬鹿な会話をしている場合ではない。僕は扉の前まで行って、ドアスコープから廊下の様子を見ておくことにした。
やって来るのは月豹由布か、それとも……いや、月豹由布でないと困る。
「野呂さんは浴室に隠れておいてもらえますか」
「了解。その前にエアコン止めていいか? ちょっと寒いよな」
リモコンを持ってピッと鳴らす野呂さん。続いてまたピッと鳴らす。さらにピッと鳴らす。
「あ? 全然反応しねえぞ。壊れてんのか?」
エアコンにほとんど接触する距離までリモコンを近づけている。ピッ。ピッ。
「まだ風でてるな。はあ? ムカつくホテルだぜ」
「野呂さんっ」
僕は声を潜めて呼ぶ。
「犯人が来ましたっ。早く浴室にっ」
ドアスコープから見える通路に、月豹由布が現れたのだ。
彼女ひとりだけ。しかも手ぶらである。白のタンクトップの上から、オーバーサイズな黒いブルゾンを肩を露出させて羽織り、下は白のショートデニムという出で立ち。赤く染めた髪をツインテールにして、頭にサングラスを乗せている。
本当に話をしに来ただけ? まぁいい。すぐに分かることだ。
扉から三歩、後退する。野呂さんは火の点いていない煙草を咥えて、浴室に這入って行く。僕はズボンの後ろポケットに入れた酸素スプレーを触って確認する。大丈夫だ。
必ず、すべてを明らかにする。そして今後の僕とムツミの安全を手に入れるのだ。
固唾を飲んで待った…………が、扉は一向にノックされない。
何だ? 何をやっているんだ?
もう一度ドアスコープを覗こうかと考えたとき、ようやく扉の向こうから声がした。
「そろそろ効いてくる頃だねェ」
え? 足を一歩、前に出そうとして、身体がぐらりと揺れた。
壁に手をつく。いや、手をついたのは床か? 違う。そんなわけがない。
なんか、まずいぞ。何かを、された。
「月豹――」と発声するのが、物凄く億劫だ。
そんな。いつの間に、こんなことに。
ドアノブまでが遠い。だが手をかけることに、成功した。でも、回らない。
力を籠めても、ドアノブが、回ってくれない。全然。あ、施錠しているんだった。
錠を開ける。頭が重い。吐き気がしてきた。錠は開いた。ドアノブは、回らない。
「うま、ごめぇ」と、野呂さんの声が聞こえた? 浴室から、何かが倒れる音。
扉の向こうから、月豹由布が「ばァーか」と。呆れたみたいな声で。
分かった。理解、した。僕ていどが考えることを、相手が考えない、わけがない。
止まらない、エアコン。出ているのは、ただの冷風では、なかったんだ。
壁に、倒れた。いや。これは、床か。
ちくしょう。




