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華の幼少に帰り咲き  作者: 凛野冥
第1部:Zygomycota
28/32

烏瓜の結合を断ち切ること②

    2


 どのくらい遅くまで掛かるか分からないので、鶴姫に頼んで明日までムツミを預かっていてもらうことにした。

〈ヘルメス〉で約束を取り付け、四時半に茜条斎駅の西口で待ち合わせた。鶴姫は隣の町から電車通学しているのだ。

「任せてえ。パパとママには、ムツミちゃんを鶴姫の妹だって信じさせるよお」

「いや、友達を泊めるでいいだろ」

 どうしてまず嘘をつこうとするんだ。

 それはともかく、鶴姫は詳しい事情を聞かずとも了承してくれた。

「馬米さん、私は不安です。この人、明らかに私のこと邪魔だと考えているので」

「やだなあ。そんなことないよお」

 鶴姫は潤んだ目を細めてムツミを見下ろす。

「貴女が死ねば、逸見くんは鶴姫だけのものだもん……仲良くするよお……」

「おい、文脈が破綻しているじゃないか」

「馬米さん、私は不安です」

「云っておくが、ムツミに何かあったら、僕の中で鶴姫の信用度は地に堕ちるからな」

「えっ、そうなの?」

 目を丸くする鶴姫。

 僕も不安になってきた。しかし他に頼れる人もいない……。

 くれぐれも変なことをしないよう念押ししてから、二人と別れた。ムツミは名残惜しそうと云うか、やはり僕に心配そうな眼差しを送っていた。

 それから二時間ほど茜条斎をぶらぶら散歩して、初体面したときと同じカラオケ店の前で野呂さんと合流した。丁度、〈ホテル・ネクロの実〉があるラブホテル街の近くだったのである。

「本当にすみません。飲み会は行かずに何とかなりそうですか……?」

「云うな云うな。さっき課長にメール送りつけて、怖ぇから携帯は機内モードだぜ」

 ネオンの灯りに照らされてもなお、顔が土の色をしていると分かる。

 休日でもスーツ姿なのは、曰く「俺はスーツが似合うからな。それに私服なんて金の無駄だろうが」とのこと。僕の方は喫茶店のトイレで制服から私服に着替えておいた。

「で、どうするんだ。男ふたりでラブホに入っていくのは気が進まんな」

「それもありますし、ホテルの近くでは行動を見張られているかも知れません。別れて行きましょう」

 ムツミでなく野呂さんを連れてきた時点で、既に月豹由布の要求を破っているのだ。

「僕が先に行って、電話で部屋番号を教えます」

「機内モードだって云ってるだろうが」

「解除してくださいよ……」

 飲み会をサボって気が気でないのか、今日の野呂さんはいつも以上におかしい。やや不安を覚えつつも、僕は一旦彼と別れ、単身〈ホテル・ネクロの実〉へ向かう。

 昼間にムツミと迷い込んだときとは違い、ラブホテル街はすっかり夜の顔へと変わっていた。表通りと比べて暗く狭苦しいくせに、部分部分ではふしだらなライトアップが為されている。まだ七時前なので、人通りはぱらぱらとある程度だ。カップルもいれば、ひとりの者もいる。

〈ホテル・ネクロの実〉は古くて不潔そうな建物だった。客層が察せられる。つい周囲を見回して誰にも見られていないのを確認してから、恥を忍んで中に這入った。

 細い廊下が奥のエレベーターまで伸びていて、右手に受付がある。小さな窓からは従業員の手元だけが見えている。向こうからも僕の顔は見えていないだろう。

「あの……七時から馬米の名前で予約されていると思うんですが……」

 少しだけ間があって、「はい、馬米様。〈淫乱からくり〉の方ですね」

「はい……」

 そんな店の名前まったく知らないが。

「七〇二にどうぞ。料金は後払いになります」

 鍵を受け取って、そそくさとエレベーターまで進む。早く部屋に這入りたい……。

 ギチギチと音を立てるエレベーターに乗って七階へ。幸い、他の客と鉢合わせたりすることなく、七〇二号室にやって来ることができた。

「良かったぁ……」

 思わず呟きつつ、小さな室内を確認する。トイレ、洗面所、浴室、あとはベッドの置かれた部屋があるだけの簡単な間取りだ。なぜか天井が鏡になっている。

 電話で部屋番号を伝え、落ち着かない気分で椅子に座っていると、十分ほどして野呂さんもやって来た。

「きたねえホテルだな!」

 後ろ手で錠を掛けつつ、顔をしかめている。

「それに湿気た嫌なにおいが染みついてるぜ。俺ならこんなところ使わんね。なにせ金は腐るほど――」

「すみません、例の犯人に電話しますから静かにお願いします」

 昼に掛けたのと同じ、月豹由布から教えられた番号をプッシュ。

 出たのは声の高い男ではなく、別の不愛想な声だった。

『お電話ありがとうございます』

「十九時から予約の馬米ですが」

『馬米さん。どうされました』

「部屋に這入ったら連絡しろと云われたので」

『ホテルどちらですか』

「〈ホテル・ネクロの実〉です。七〇二号室です」

『はい、七〇二号室……月豹さんで予約の馬米さんですね』

「そうです」

『お遊びの仕方は大丈夫ですか』

「はい……」

『では女性到着までお待ちください』

「分かりました」

『失礼します』

 通話が切れると、壁に寄り掛かった野呂さんが「なぁ、」と口を開いた。

「ちょっと聞こえてきたが、まさか馬米、初めてのデリヘルが不安だから俺を――」

「違います! 向こうの要求で、そういうやり取りを装っているんです!」

 と否定しながらも、少しだけ自信がなくなってきた。月豹由布にからかわれた可能性も充分にあるような気がしてきた……。どうしよう……。

「でも念のため……夕顔の能力は僕が合図するまで使わないでもらえますか」

「ああ。それにしても、すげえなラブホって。枕元にコンドームが用意されてるぜ!」

 野呂さんも初めて来たらしい。何だか安心した。

「こう、変な気分になってくるな……」

「気持ち悪いこと云わないでください」

「何だと! 冗談が分からねえ奴だな。俺だってこんなところ、人生で一度も来たくなかったんだぞ。しかも男ふたりでなんてな!」

「今から女性も来ますよ――って、そういう意味じゃありませんが!」

 馬鹿な会話をしている場合ではない。僕は扉の前まで行って、ドアスコープから廊下の様子を見ておくことにした。

 やって来るのは月豹由布か、それとも……いや、月豹由布でないと困る。

「野呂さんは浴室に隠れておいてもらえますか」

「了解。その前にエアコン止めていいか? ちょっと寒いよな」

 リモコンを持ってピッと鳴らす野呂さん。続いてまたピッと鳴らす。さらにピッと鳴らす。

「あ? 全然反応しねえぞ。壊れてんのか?」

 エアコンにほとんど接触する距離までリモコンを近づけている。ピッ。ピッ。

「まだ風でてるな。はあ? ムカつくホテルだぜ」

「野呂さんっ」

 僕は声を潜めて呼ぶ。

「犯人が来ましたっ。早く浴室にっ」

 ドアスコープから見える通路に、月豹由布が現れたのだ。

 彼女ひとりだけ。しかも手ぶらである。白のタンクトップの上から、オーバーサイズな黒いブルゾンを肩を露出させて羽織り、下は白のショートデニムという出で立ち。赤く染めた髪をツインテールにして、頭にサングラスを乗せている。

 本当に話をしに来ただけ? まぁいい。すぐに分かることだ。

 扉から三歩、後退する。野呂さんは火の点いていない煙草を咥えて、浴室に這入って行く。僕はズボンの後ろポケットに入れた酸素スプレーを触って確認する。大丈夫だ。

 必ず、すべてを明らかにする。そして今後の僕とムツミの安全を手に入れるのだ。

 固唾を飲んで待った…………が、扉は一向にノックされない。

 何だ? 何をやっているんだ?

 もう一度ドアスコープを覗こうかと考えたとき、ようやく扉の向こうから声がした。

「そろそろ効いてくる頃だねェ」

 え? 足を一歩、前に出そうとして、身体がぐらりと揺れた。

 壁に手をつく。いや、手をついたのは床か? 違う。そんなわけがない。

 なんか、まずいぞ。何かを、された。

「月豹――」と発声するのが、物凄く億劫だ。

 そんな。いつの間に、こんなことに。

 ドアノブまでが遠い。だが手をかけることに、成功した。でも、回らない。

 力を籠めても、ドアノブが、回ってくれない。全然。あ、施錠しているんだった。

 錠を開ける。頭が重い。吐き気がしてきた。錠は開いた。ドアノブは、回らない。

「うま、ごめぇ」と、野呂さんの声が聞こえた? 浴室から、何かが倒れる音。

 扉の向こうから、月豹由布が「ばァーか」と。呆れたみたいな声で。

 分かった。理解、した。僕ていどが考えることを、相手が考えない、わけがない。

 止まらない、エアコン。出ているのは、ただの冷風では、なかったんだ。

 壁に、倒れた。いや。これは、床か。

 ちくしょう。

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