菫の虚偽を暴けるとしたら②
2
翌日、学校に到着した僕は拍子抜けした。
すっかりスター気分でいたのだけれど、下駄箱でもエスカレーターでも廊下でも、大して注目を浴びているふうではない。バブルは一日で弾けてしまったらしい。誰も僕に興味を持っていなくて、それぞれの無関係な日常に還っている。
まさかこんなに早くて呆気ないとは。飽きっぽいんだなあ、みんな……。
と思っていたが、二年アネモネ組の教室に這入るなり雰囲気が一変する。
みなの視線が一斉に僕へと向いた。鋭く。待ち構えていたかのように。
「……な、何?」
射竦められてしまった。昨日と違って、歓迎されている様子でもないのだ。
多くの人達はすぐに僕から視線を逸らして、僕がやって来る直前の〈続き〉に戻る。数人だけが近づいてきて、自席へ向かおうとした僕を取り囲む。
「聞いたぜ。お前、坤と付き合い出したんだってな」
佐陀数臣が声を潜めた。僕は「え? いや、」と手を横に振る。
「恋仲という意味なら、それは違うよ。全然、そんな話はしていない」
「誤魔化さないでよ~。鶴姫から聞いたよ?」
そう云うのは留町萌。昨日、僕と鶴姫が並んで昼食を摂っているときにも現れた女子だ。
「じゃあ何か誤解があるようだ。僕はそんなつもりはなかったんだけど……」
「何それ。本気で云ってるなら、鶴姫が可哀想じゃない?」と池丸こもり。
たしかに彼女の指摘は否めない。知らず知らずのうち、鶴姫にそう解釈させる言動を取っていないとも限らないのだ。少々デリカシーに欠けるからな、僕は……。
「そもそも分からないんだがよー、坤とお前って何か接点あったか?」
「なんでいきなり、付き合うことになったのよ?」
「僕が蘭果さんの凶行を止めたから、鶴姫さんが恩義を感じてくれたみたいで」
答えると、みなが怪訝そうな表情を浮かべた。
「何の話だ?」
「馬米くん、何かしたの?」
「止めたってどういうこと?」
「いや、それは分かるだろう。君たちだって昨日、お礼を云っていたじゃないか」
みなの表情は益々険しくなるばかり。互いに顔を見合わせている。
「意味分からねーぞ、馬米」
「何か鶴姫にホラ吹いてるんじゃあないでしょうね」
分からないのは僕の方だ。IQが二〇だか離れると会話が噛み合わないという俗説があるけれど、それか? 僕が天才すぎてしまった?
「みんな、何の相談をしてるのお?」
鶴姫が教室に這入ってきた。いつも通り鼻から下をマスクで隠して、目が潤んでいる。
僕を取り囲んでいた人達が質問の先を彼女へ変える。
「おはよお鶴姫。それがねー、馬米が妙なこと云うんだ。先週、不治枝先輩が此処で暴れたじゃんかー? それを自分が止めたとかって」
「不治枝さんは自殺だったよな? 死んでねーけど。自分で胸の薔薇を握り潰したんだもんな」
何だって? どうしてそんな、すっとぼけたことを云っているんだ?
鶴姫は目元の感じからゆるゆる笑っていると分かるが、みなの発言を否定はしない。
「それよりも!」と留町萌。
「馬米くんと付き合ってるって昨日、教えてくれたよね? でも馬米くんが認めないんだよ」
「ええ、そうなのお?」
鶴姫は両手の指を合わせて身体を横に傾け、僕を見上げた。常に泣きそうなその目で。
「もしかして逸見くん、嫌だった? ごめんね。鶴姫、みんなに話しちゃったよ」
「えーっと……」
思考がまとまらない。駄目だ。パフォーマンスを発揮できない脳になっている。
「実はちょっと、混乱していてね。よかったら後で話さない……?」
「何それ!」池丸こもりに睨まれた。
「あたしも同席していい? 何かあ、苛々するわ!」
どうしてそんなにキレてるの、この人……。
「まぁまぁ」と鶴姫がなだめるように、彼女の両肩に手を置く。
「まずは鶴姫と逸見くんだけで話させてよ。逸見くん、また昼休みでいい? お弁当つくってきたんだよお」
「うわ!」
佐陀が目を丸くした。
「もうそんなことしてんのかよ」
「鶴姫の料理は美味しいからね~。でも本当、何があったの二人?」
あれ。昨日誰かが、鶴姫は料理なんてできないとか云っていなかったか?
どう考えたら辻褄が合う? すべてのボタンが掛け違えられているかのようだ……。
3
鶴姫と約束した昼休みまでの間にも、キナ臭い話がいくつかあった。
まずは二時間目の体育のためグラウンドへ向かう最中、クラスメイトの司軒丈にいきなり祝われた。
「おめでとう。坤さんの彼氏だなんて、逆玉の輿というやつだね」
「うん? 鶴姫さんの家って裕福なのか」
「聞いてないの? お手伝いさんが十人いるそうだよ。お抱えの料理人や運転手も」
「お嬢様じゃないか。全然知らなかった」
「日本中に別荘があるって話だ。ワニを飼っているというのも珍しいよね」
「彼女はもう少し庶民的なイメージだが……」
「鼻にかけたところがないからね。でも芸能人の友達も多いと聞くよ」
「それは何度か耳にしたけど、本当なのかな」
「どうして疑うの? 本当だよ。坤さんと付き合っておけば間違いないよ」
体育が終わって教室に戻って行くときには、須駕満成と葉武練に両側から肩を組まれた。
「いいなあ、お前。鶴姫ちゃんの彼氏とか、みーんな嫉妬してるぜ」
「どうやってモノにしたんだ? 鶴姫って週に五、六人から告られるんだろ?」
「だろって云われても知らないよ。週に五、六人はさすがに多すぎないか」
「なんで彼氏なのに知らねえんだよ。馬米はその競争を潜り抜けたんだろうが」
「鶴姫ちゃん、可愛いもんなあ。そのくらいモテて当然だぜ。いいなあ」
「そう云う君たちも告白したことがあるの?」
「俺はないけど、そうなんだよ。それにあの子は何かと多彩だろ」
「多彩という印象はないな……。たとえば何がある?」
「書道に合気道に水泳に体操にピアノ。何訊いたって、習っていたし上手だって云うぞ」
「ベースも弾けるとか聞いたぜ。文化祭で披露してくれないかなあ」
「うーん……」
「なに唸ってんだよ。真剣な忠告だけどさ、もっと自分が幸せ者だと自覚した方がいいぞ」
「いいなあ。鶴姫ちゃんは超尽くすタイプだって聞くぜ。色々してもらえるんだろうなあ」
次は三時間目の化学。酸化還元反応の実験でペアとなった池丸こもりが謝罪してきた。
「ごめん、今朝はどうかしていたわ。馬米と鶴姫って前から仲良かったもんね」
「前から? そんなことはないと思う」
「なんでそこ否定するのよ。あたし、親友がどこの馬の骨とも分からない男と付き合うのは許せないけどね、ずっと鶴姫の世話を焼いてきた馬米なら、諦めがつく」
「世話を焼いてきた心当たりがない……」
「謙虚なのねえ。でもよく射止めたと思うわ。鶴姫って理想が高いでしょ?」
「そういえば、鶴姫さんはそれこそ理想的な彼氏と最近まで付き合っていたよね。そっちは別れたのかな」
「最近って、いつの話? 知らないんだけど」
「とぼけないでくれよ……池丸さんもよくその話を聞いていたじゃないか」
「はあ? やっぱり馬米は不思議なこと云うね。まぁいいわ」
四時間目の現国が始まる前には、後ろの席に座る結女登海に訊ねてみた。
「どうして僕らは蘭果さんに殺されずに済んだんだっけ?」
「貴方、若年性アルツハイマー? ココナッツオイルが効くそうよ」
「蘭果さんを誰かが止めたと思うんだけど、誰だったか憶えてる?」
「誰でもないよ。自滅だったでしょ。プレッシャーで気が狂ったのね」
そこで登海の隣に座る箭木馨が「それよりもさ、」と会話に参加した。
「馬米くんと鶴姫ちゃん、ついにカップル成立したそうじゃん? 実は私さ、まだかなーまだかなーって前から思っていたんだよ。超お似合いだもん!」
「私もお似合いだと思う。応援してる」と登海まで云う始末。
異常だ。明らかに異常なことが起こっている。
ようやく昼休みになって、僕と鶴姫は八階の学食にやって来た。昨日と同じく、僕が最端、鶴姫がその隣に腰掛けたところで、僕はポーチから弁当を取り出そうとしている彼女に問い掛けた。
「どうして君は嘘ばかりつくんだ?」
「え? 何のことお?」
鶴姫の手がぴたりと止まった。潤んだ瞳に僕の影が映り込む。
「僕と交際しているとか、ずっと前から仲良くしていたとか、君がみんなに云って回ったんだろう」
「えっと……逸見くん、生姜焼きは好き? 今日のお弁当、やっぱり男の子はお肉かなと思ってえ……」
「君は大学生の恋人がいることについて、友人に緘口令を敷いているようだね。だが僕はそれを、君が教室で話しているのを聞いて知っている。その人とはどうなったんだ」
「えっと……えっとね、」
両手の指を合わせて、視線を泳がせる鶴姫。マスクをしていても、慌てているらしいことが見て取れる。
「それはね、冗談だったんだよ。みんな冗談だって知って聞いていたの。でも他の人はそういう誤解をしちゃうよね。ごめんね。鶴姫は男の人と付き合ったことないよ」
「……僕と付き合っていると云い振らしたのも、冗談ということ?」
「違う、それは違うよ。本気だよ。待って、ちゃんと説明するから」
本気も何も、嘘であることに違いはない。〈付き合いたい〉なら分かるけれど、〈付き合っている〉という事実はないのだ。
「ずっと前から良くしてもらってるとは、たしかに鶴姫が今日、みんなに話したよ。逸見くんのために仕方なかったの。朝、みんなに問い詰められたでしょ? ごめんね? みんなからしたら、何でいきなり付き合い始めたのかって、疑問に思われちゃうのは当然だもんね。だから嘘をついたの……」
「僕が蘭果さんを止めたことで殺されずに済んだから、それがきっかけと話したらいいじゃないか。もしかして君も、そんなの憶えてないと云うのか」
「ううん、憶えてるよ。鶴姫だけは憶えてる。だから安心して?」
やはり会話が上手くかみ合わない。不自然なことが多すぎるせいだ。
「だけど、それだけだよ。さっき、鶴姫が嘘ばかりついてるって云ったよね? 取り消してくれるかな……鶴姫がついた嘘はそれだけ。全部、逸見くんのため」
「本当に? 君は周りの気を惹くために、自分を大きく見せようとする癖がない? 実家がお金持ちだとか芸能人の友達が多いだとか……たとえばそのお弁当も、自分でつくってないんじゃないか?」
「鶴姫を疑うの……?」
その声が小さく震えた。涙が零れそうな瞳も相まって僕はドキリとさせられたが、ここで退くわけにいかない。
「安部公房を読むと云っていたよね。一番好きなのはどの作品?」
「そんなの、いきなり訊かれても困るよ。一番なんて決めてないし……」
「『千羽鶴』や『春琴抄』が定番だと思うけど、それとは違うの?」
「あっ、『千羽鶴』好きだよ。部屋にあるよ」
「そうか。でも『千羽鶴』を書いたのは川端康成で、『春琴抄』は谷崎潤一郎だ」
「どうしてそんな意地悪するの!」
「ちなみに安部公房の代表作なら『梟の城』だね」
「そっ、そうだよ。知ってるよ」
「残念。『梟の城』は司馬遼太郎」
「もお! 逸見くんが変な訊き方するから、分からなくなっちゃったんだよ……」
鶴姫はいじけたように俯く。しかし僕の方こそ傷付いていた。
「折角、本の話ができると思っていたんだけどな。どうしてすぐに露見する嘘をつくんだ?」
嘘をつくにしても、安部公房の代表作が『壁』や『砂の女』だってことくらい、すぐに調べられるじゃないか。それさえもしないなんて……ひどく馬鹿にされた気分だ。
「……鶴姫は、嘘つきじゃない」
顔を上げた彼女は、低い声でそう云った。椅子を回して僕の方へと向き直った。
「鶴姫が正しいの。逸見くんが王子様だってこと、鶴姫以外は知らなくていいもん。鶴姫たちにとって邪魔だよ。だから教えてあげたんだよ。逸見くんも、すぐに分かるよ」
マスクに指をかけて、顎の下までさげる彼女。
この期に及んで、まだ誤魔化そうとしているのか? 真摯なふりをして?
かと思えば、彼女は口を大きく開いて、長くて真っ赤な舌をでろんと垂らした。
「何を――」しているのか問おうとして、奇妙なものが目につく。
鶴姫の舌には、縦に亀裂のようなものが入っている。
そして亀裂の中から、何かが外に出てこようとしている。
小さな――紫色の――これは――菫だ。
舌の真ん中に、菫の華が一輪、開いた。
「君、咲いているのか!」
腰を浮かせかけたが、手首を掴んで引き留められる。
「違うよ。鶴姫は咲いてない」
彼女は舌を仕舞って話している。しかし咥内の菫はまだちらちらと覗いている。
「咲いてないよね? ねえ?」
「ああ……咲いてないな。いや、それはいいんだ……」
僕は再び腰を下ろした。どうして立ち上がろうとしたのだったか……。
「そうじゃなくて……でも君に虚言癖があるのは疑いようがない。悪いけれど君と付き合うことは――」
「虚言癖なんてないよ。鶴姫のこと信じてくれないの?」
「まさか! 信じているよ。当然じゃないか」
なんで虚言癖だなんて、謂れもない中傷を口走ったんだ?
「鶴姫の話をちゃんと聞いて。逸見くんは鶴姫の話を聞く人だもんね?」
「ああ、僕は君の話を聞く……」
「逸見くんと鶴姫は恋人同士。王子様とお姫様。そうだよね? 逸見くんはずっと鶴姫のことが好きだったんだよ。いつも鶴姫の下着に指を入れたいって考えていたよね?」
「こ、こんな場所で云うことじゃないよ」
すべて彼女の云う通りではあるが!
「鶴姫は本を読むよ。アベコウボウも知ってる。共通の趣味だもん。逸見くんと鶴姫はお似合いのカップル。このお弁当は、鶴姫が逸見くんのために早起きしてつくって来たの。ねぇ逸見くん、このお弁当は誰がつくったもの?」
彼女はポーチから取り出した弁当箱を僕に手渡した。
「鶴姫だろ? なんでそんな当たり前のことを訊くんだ?」
「ううん、何でもない。気にしないで。鶴姫のこと好き?」
「好きだよ」
「鶴姫も逸見くんのことが大好き」
彼女は嗤う。心の底から満足そうに、とろけるように呟く。
「これで出来上がりだね」




