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華の幼少に帰り咲き  作者: 凛野冥
第1部:Zygomycota
13/32

夕顔の昏倒が築いた聖域で③

    5


 ムツミが「あ、」と天井を見上げた。次のカラオケ店は雑居ビルの五階から八階なので、僕らはエレベーターに乗っていた。マップを表示した携帯片手に十件は回っただろうか。現在時刻は二十一時を回っている。

「ビンゴかも知れません。私を上に引っ張る力があります」

「おお、期待できるな。でも意識の方は飛ばさないでくれよ」

「平気です。泣きたい感じはないので」

「椿が開く時は泣きたく――」

 なるのと云い切る前に、フロントのある五階に到着して扉が開いた。視界がたちまち薄い白色の煙に包まれる。僕もムツミも息を止めたまま、提げているビニール袋から酸素スプレーを手に取る。吹出口には既にプラスチック製のマスクを差し込んであるし、マスクのふちには口にあてた時に隙間ができないようスポンジを取り付けている。

 カラオケ店巡りを始める前、ドラッグストアで買っておいたのだ。煙さえ吸い込まなければ昏倒させられないだろうと思っていたが案の定、平気そうである。

 床の上で眠っているカップルを避けて中に這入る。カウンターには女性店員が突っ伏している。通路は正面と右手へそれぞれ伸びており、建物のかたちからして、おそらく回廊になっているのだろう。先の方は煙が濃くてよく見えないけれど、自分を中心に半径五メートルくらいは様子が分かるので、さして問題はない。

 隣のムツミが手元のメモ帳に何やら書き込んでいる。喋るのも厳禁なので筆談しようと打合せしておいたからだ。酸素スプレーを口にあててシューシュー云わせながら、

『美味』

 そう書かれた紙面を向けてきた。意外にも達筆。書道を習っていたのかも知れない。

 僕の方は携帯に文章を打ち込んでムツミに見せる。

『都会の空気は汚れているからな。時計回りで行こう』

 フロントで倒れている者が少ないということは、煙が撒かれてからそれほど時間が経過していないと推察される。犯人はまだ店内にいるはずだ。ガスマスクでもつけて活動しているに違いない。みなを眠らせているうちに、何らかの悪事を働いているのだ。

 ドアのガラス窓を覗いて各部屋を確かめつつ、通路を進む。煙はわずかな隙間さえあれば侵入できるのだろう、部屋の中にいる客たちもみな昏倒している。異変に気付いた頃にはもう遅い。通報する暇もなく、昨晩の僕らみたいに意識を失ったことと思われる。

 通路を右に曲がってさらに進むと、突き当たりに位置する部屋のドアが開きっぱなしになっているのが目に入った。中でソファーにつっかえているようだ。

 あれは怪しいぞ……。

 僕はムツミと顔を見合わせ、足音を殺してその部屋へ近づいて行く。心なしか、フロントのあたりと比べて煙が濃くなった。部屋まで辿り着く。一歩這入って、中を覗く。

 ソファーの上に、男性がふんぞり返って座っている。紺のビジネススーツに緑のネクタイ。左手に角ハイのジョッキグラスを持っている。僕を見て、ギョッと目を丸くした。

「何だあ? 勝手に――部屋を間違えるんじゃねえ!」

 立ち上がって片足をソファーに乗っけて腰を引くが、ジョッキグラスを持った左手は前へ突き出す。中身がテーブルの上にこぼれた。テーブルには他にもドリンク類が並んでいるほか、フライドポテトやたこ焼き、パフェなどの各種料理が勢揃いしている。しかしこの男性の他に、この部屋には客がいないようだ。

「どうして起きていられる? ああ? 大丈夫だぜ。火事じゃないから一酸化炭素中毒にはならないんだ。良い香りがするんだぜ。嗅いでみろよ」

 僕も喋りたくなる。あんたこそ、どうして眠らないんだ? 煙はこの部屋にも満ちている。この男性は無防備に呼吸し続けている。そして明らかに異様な状況なのに、僕が来るまで呑気に酒を呑んでいたらしいじゃないか。

 ムツミが続いて這入ってきたので、僕はドアを塞いでいたソファーを足でどけながら、さらに中へと踏み入る。男性はムツミが口にあてている酸素スプレーを目にして「あ!」と声をあげる。

「機転を利かせたな。持ち歩いてんのか? それとも以前にも被害に遭ったんで勉強したのか?」

 僕も酸素を補給しつつ、携帯で文章を打つ。男性とはテーブルを挟んで二メートルも離れていない。油断は許されないものの、男性の格好は普通のサラリーマンに見えるし、凶器なんかも見当たらない。今すぐ襲い掛かってくることはなさそうだ――と思ったが、

「おい、携帯をいじるんじゃねえ。ブチ殺すぞ。テーブルの上に置けよ」

 携帯で外部に何か報せるつもりと思われたのかも知れない。男性はスーツの懐に手を入れている。まさか拳銃でも持っているのか? 僕は慎重に、携帯をテーブルの上に置いた。せめて『今夜は煙に巻かれませんよ』くらいは断って、格好つけておきたかったのだが……。

「携帯をいじる人間ほど馬鹿に見えるものもないよな。馬鹿が一丁前に、自分より優秀な人間がつくったモンを自分のモンみたく使って恥ずかしくないのか。妙な動きをするなよな」

 スーツの懐から出てきたのは、小さくて薄い黒革のケース。開くと中には煙草が入っている。シガレットケースだ。男性はその一本を口にくわえて、一緒に取り出したオイルライターで火を点けた。

 いよいよ何者なのか分からない。カラオケ昏倒事件の犯人なのか? 目的は何だ?

 まだ若く見える。背が高くて痩せ型で髪も短いが、しかし爽やかな印象は受けない。不健康そうな顔立ちのせいだろう。目の下には濃い隈があって、疲れきった表情をしている。

「ところで君たち、人間の呼吸は肺呼吸だけじゃないことを知っているか?」

 おかしなことに気付く。男性は紙煙草をパイプみたく下から摘まみ上げるように持って喫煙している。持ち方は別に何だっていいのだけれど、確かに吸っているようなのに、吐き出す呼気に色がついていないのだ。

 その時、男性の首の後ろあたりから大量の煙が噴き出した。ネクタイを緩め、ボタンを二つも外したシャツの襟の下からだ。これが店中に充満している白い煙の正体? どうしてシャツの中から出てくる? どこから吐き出しているんだ?

「皮膚呼吸だよ。微々たるものだから肺呼吸なくしては窒息するがな、それでも取り込んでいる。君たちは今、完全に呼吸を止められてはいないんだぜ」

 排出された煙は吸い込んだそれと釣り合っておらず、あまりにも多い。男性は意地悪そうに笑って、また煙草を咥える。先端の炎が明るくなり、ジリジリと葉を燃やす。

 やはりこいつが犯人だ! この至近距離で高密度かつ大量の煙を喰らえば、いくら吸わないように気を付けたって昏倒させられるに違いない! 体内に侵入されてしまう!

 僕は酸素スプレーの吹出口を男性へ向けた。咄嗟の思い付きだった。男性はその意味を瞬時に理解した。煙草を口から離し、壁に背中をつけた。

「お、脅しのつもりか! 危ないだろうがよ!」

 これは濃縮酸素だ。煙草に向けて噴出すれば、炎が一気に燃え上がるかも知れない。試したことがないので実際はどうなるか分からないが、そんなの男性とて同じこと。無事で済む保証がないというだけで、牽制の効果はあった。

 ムツミも同じようにスプレーを男性に向けて構えた。男性は明らかに狼狽うろたえて両手を上げる。僕はすかさず部屋の奥に移動して窓を開けた。落下防止のために繋がっていたチェーンも外して全開にした。外へ逃げていく煙。男性が「ああっ」と情けない声を出す。

 煙が完全になくなるまで、あとは現状維持だ。スプレーを自分の口にあてて一旦補給した後、再び男性に向けて詰め寄る。するとムツミが補給する。僕とムツミとで交互に威嚇と補給を繰り返すかたちである。少々間抜けな図だが、この男性を無力化するには足りた。

「何なんだよお……邪魔しないでくれよお……俺が何か悪いことしたか?」

 男性は煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、ソファーに腰を下ろして頭を抱えた。大の大人なのに、何だか今にも泣き出しそうだ。一体この人は何がしたかったんだろう?

「貴方、咲いてますよね」

 ムツミが口を開いた。煙はほとんどなくなっていた。恐る恐る嗅いでみると、例の甘い香りはしない。男性も煙草を持っていないから、酸素スプレーは下ろしてよさそうだ。

「他人を昏倒させる煙……それが貴方の華が持つ能力ですか」

 僕もムツミの言葉から察して、問い掛ける。男性は戦意を喪失していて頭を上げないものの、「そうだよ」と認めた。投げやりな語調だ。

「でも別にいいだろ? 俺は苦労人なんだ。これくらい見逃して、放っておいてくれよ」

「これくらいって、みなを眠らせて何をしているんですか貴方は」

「カラオケを楽しんでいるだけだよ。他は何もしないぜ? お代だって置いて帰るんだ」

 男性は鞄から財布を取って、中から抜いた一万円札をバインダーに挟む。

「無銭飲食のためにやってると思うなよ? 金は腐るほどある。釣りは要らん。俺は大企業の正社員なんだぜ。本社配属だ。地方に飛ばされた連中とはわけが違う。二年目にして月給が三十万を超す。それにうちの会社はボーナスの額がすげえんだ」

 男性はにわかに活気づき始めた。顔を上げて得意そうに語る。

「まぁ金はそんなに要らんがな。贅沢したって虚しいだけだぜ。馬鹿は給料が高いと生活水準も高くしちまうから、いつまで経っても金がまらねえ。俺は幸福追求型の生き方をしてないんでね。働かなくてもよくなるように今、働いてるだけさ。それでもちょっとしたお楽しみはあってもいいと思わないか? その権利があるぜ、俺には」

 調子良さそうに話していたのに、今度はまた急にのけ反って、泣きそうな顔をする。

「明日からまた仕事だぞ。俺がいくら優秀だとは云ってもよ、物理的に不可能な業務量なんだぜ。行きたくねえよ。何考えてんだよ、職場の連中は。あー、早く帰って寝ないといけない! このカラオケの時間が俺には大事なんだ。頼むから邪魔しないでくれよお」

「どうして店中の人間を眠らせるんですか」

「俺が楽しむためだよボケ!」

 こちらを指差して恫喝どうかつしてきた。

「分からんか? 廊下を客や店員が通るもんだから思い切り自由に歌えないだろ。覗かれたら嫌だと思ってチラチラ扉を気にしながらじゃあ集中できないよな? 俺の歌声が続けば隣の部屋の奴にひとりで来てるとバレるし、他の部屋が大盛り上がりしてる声が聞こえてくるとイラつくんだぜ」

 ええ……分からないでもないけれど、さすがに心が狭すぎません……?

「勝手な人ですね。楽しむ権利があるのはみな平等でしょう。貴方はそれを阻害そがいし――」

「カラオケを純粋に楽しみに来てるのは俺だけだ! 騒ぎたいだけの馬鹿は居酒屋でやれよ。何が二次会だ阿呆くせえ。こちとら此処が本チャンだぜ。カップル共がラブホ代わりに利用したりなあ、君たちもそのクチだろ? 家は親の目があるから安く済ませようってわけだ。貧乏人は公衆便所で乳繰り合ってろや」

 男性は興奮した様子で腰を浮かせた。額には血管が浮き出ている。

「俺は社会の苦しみに耐えて耐えて、やっとカラオケだけが解放区なんだぜ。集中させてくれ。此処は俺の聖域なんだよ。カラオケしに来てねえ奴らに権利など与え――」

「僕らはカラオケしに来てますよ! 決めつけないでもらえませんかね!」

 好き放題云われて、こちらも黙っていられなくなった。僕とムツミがラブホ代わりで来ているなんてとんでもない。純粋な客は僕らの方だ。

「そうですよ」

 ムツミも同調してきた。落ち着いた口調だが、彼女らしい芯の強さを感じさせる声だ。

「色々と理屈をつけてはいますけど、貴方は単純に歌が下手なだけじゃありませんか」

「何だって! 大学生になって一人暮らしを始めてからこれまで、カラオケに行かなかった週がない俺に向かって!」

「自分の歌に自信がないから、他人に聴かれるのが恥ずかしいんでしょう」

「じゃあ聴かせてやろうじゃないか! 座れ、君たち!」

 男性は曲を選択する端末を手に取った。僕らは「いいですよ」と応え、窓を閉めるとソファーに並んで腰掛ける。とりあえずどの程度のものか聴いてやることにした。

「その代わり最後までちゃんと聴けよ。俺の歌が上手かったら、負けを認めて大人しく眠ることだな。チャチな酸素スプレーを捨ててもらおう」

 なぜそうなるのか分からなかったけれど、どうせ大した実力ではない。ムキになっている様子がいかにも小者だ。腕組みして画面を睨む僕。もう必要ないのにスプレーから酸素を補給しているムツミ。

 ピピピピと音が鳴って、曲がカラオケの機械に送信された。男性は立ったままでマイクを握る。画面を向いているので横顔しか見えないが、緊張を隠せていない感じだ。

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