とある世界の裏側の一家団欒
時間というものは、意識すれば意識するほど、遅々として進まないように出来ているらしかった。
時刻はまだ十時半。
十時のおやつが終わってほんの数分しか経っていないのに、居間の柱時計を見上げては溜め息をついてばかり。
目の前でへらへら笑ってるヤツじゃないけど、何もせず時間が過ぎるのを待つだけっていうのは疲れる。
「ところで、あんた」
他にする事もないので仕方なく、わたしはふざけた哂い方をする男に話しかける事にした。
「ん、僕の事かい?」
「他に誰が居るのよ」
驚いた風に眼を瞬かせる男をジト目で睨んで言い切る。
まことに残念ながら純和風のリビングには、本当にわたしとこいつしかいない。
わたしの従僕であり守護者であるマギカは箒で庭を掃いてるので不在。まあ、あの子はわたし以外に人が居ると、必要最小限の事しか喋らないんだけど。
理由は、何でも「これ以上ボロを出したくない」からだとか。相変わらずあの子の持って回った言い回しは難し過ぎてよく分からん。
「ふうん? お前のほうから話しかけてくるなんて、いったいどういう風の吹き回しだいって言いたいところだけど……おおかた僕を無視するのに疲れたんだろう? ああ、気持ちは分かるよ。僕だって噂に名高い《星の聖女》みたいな美人が目の前にいたら、たとえ相手にされないって判っていても無視するのは難しいからね。でも安心しろよ。僕は心が広いから、お前みたいな阿婆擦れの小娘に話しかけられても無視なんてしないよ」
……こいつの言い回しは奇天烈すぎてワケ分からん。
何でか知らないけど、こいつと話してると目眩がしてくるのよね。
「ま、あんたがそういうヤツだって知ってたけど」
「なに、僕がいい男だって言ってる?」
「……馬鹿ね。そんなわけないでしょ」
やっぱりこいつに話しかけたのは失敗だったか、と早くも一回目の溜め息。
「けど、さ」
「けど、なによ」
なんて思いつつも律儀に相手する。
自分でも、目眩がするなら相手しなきゃいいのにって思うけれど、一度なにかを始めたら手応えを感じるまで終りに出来ないのがわたしの性分なのよね。
「僕と二人きりなれて少しは期待してない?」
「あんたに期待する事なんて何もないわよ」
「よく言うよ。実はこっそり期待してるくせに」
「……」
なので深みに嵌ることが多々ある、と二回目の溜め息。
いったいわたしは何をしているのだろう、と遣る瀬無い気持ちで続ける。
「それより……えーと、なんだっけ……」
「なんだよ、人に話しかけておいて用件を忘れたのかよ? 本当に仕様が無いヤツだねお前は。ほら、そんなに慌てなくていいからゆっくり思い出しなよ」
続ける積もりだった言葉をど忘れして、会話に困るわたしを落ち着かせる穏やかな声。
……これだからこいつは苦手だ。
何故かわたしに拘るこいつは何故かわたしに優しい。
「あんたって本当にワケが分からないわよ」
聞き取られないように小声で呟いて、しみじみと三回目の溜め息をついたあと。話の腰を折られる前になんて言おうとしていたのか思い出そうとしたら、それは自分でも吃驚するぐらいすんなりと頭の中に浮かんできた。
「……とりあえず聞きたい事があるんだけどいい?」
これは軽くパニくったわたしを落ち着かせてくれたこいつのおかげ、という事になるのだろうか。
「ああいいよ。何でも聞きなよ」
無駄に自信満点の笑顔で安請け合いする桐生定章。じゃない、サダミツ。
こいつは悪いヤツじゃないけど、
「で、そんなに申し訳なさそうな顔して聞きたい事ってなんだよ? なに、ひょっとして小遣いが足りないとか? もしそうなら恵んでやるから遠慮するなよ。貧しい慮民に施すのは選ばれた貴族の義務みたいなものだからさ」
……やっぱりそこはかとくむかつくわね。
特にその顔。いやらしいたらありゃしないわ。
そんでもってその財布。すこぶる入ってそうで羨ましいぞこんちくしょう。
「そうじゃなくて! あんたさ、さっき自宅で待つのは嫌いみたいなこと言ってたでしょ」
男にしては華奢で繊細な指先で数枚の福沢諭吉を取り出すのを見て、貰える物は貰っておこうかしらという誘惑に駆られる情けない自分を一喝して、後ろ髪を引かれる思いでどうでもいい本題にはいる。
「ああ、時間になるまで時計を眺めて過ごすのは好きじゃないんだよね」
すると鼻持ちならないこの男は「何、勝手に切れてんだよ馬鹿」と言わんばかりに口元を歪めて吐き捨てたのであった。
「そう……」
その態度にカチンときたわたしは徹底抗戦を決意する。
相手が誰であれ、やり返さずにはいられないのもわたしの性分なのだ。
「なのに早めに出かけて待たされるのは嫌いじゃないの?」
暗に待つのも待たされるのも同じなのに、何詰まんない事に拘ってんだかと言ってみる。
これで無駄に爽やかな笑顔をひきつらせてくれれば面白かったのに、右手で頬杖を突いた男は「分かってないね」と左手を振って答えた。
「同じじゃない。僕は待つのは嫌いだけど、待たされるのは嫌いじゃないんだ」
これまた妙な拘りを……。
「ふうん」
と、適当に言葉を濁して徹底抗戦を断念、興味を持てない会話を打ち切るためにそっぽを向く。
だっていうのに空気を読めない男は「同じじゃない」と蒸し返して、
「待たされるっていう事はさ、そいつを待たせてるやつが待つだけの価値がある相手じゃなきゃ成立しない状況だろ? だから僕は待たされるのは嫌いじゃないんだ」
そう言って、視線を戻したわたしの前で苦笑した。
「……」
それはいつもの人を小ばかにしたような笑みじゃなければ、どこか自分に酔っている風な自信過剰な薄ら笑いでもない。
まるで子供のときの夢を語ってしまったことに気が付いて、照れ隠しに微笑んでいるかのようなその表情。
「なんかデートの待ち合わせの話みたい」
特に意図せず口にしてから、そういう事かと納得した。
「どこがデートの待ち合わせの話なんだよ?」
こちらの話に付いていけなかったのか、サダミツは訝しげに眉をひそめるが、そう返した言葉にいつもの毒気はなかった。
それで確信した。
つまりこいつは憧れているのだ。
「だってそうじゃない。あんたを待たせてるヤツってあんたの好きな人の事でしょ? そうじゃなきゃあんたみたいな癇癪持ちが素直に待っていられるわけないじゃない」
「あ──」
くすくすと笑みを漏らす。
あんたはどこの純情少年だって言いたくなるほど赤面したサダミツが、何か無性におかしくて仕方ない。
「……言われてみればそういう風に聞こえるよな」
「そういう風にしか聞こえないってば」
言って、紅茶を注ぎ足す。
「……僕がそういう風に思っているってバレちまったか」
そうして二杯目の紅茶を堪能しつつ様子を窺うと、何故か赤面したその男は観念したようにポリポリと頭を掻いて目を逸らした。
その仕草を可愛らしいと思ったわたしは笑顔で続ける。
「まぁいいんじゃない? 好きな人がいるって事はそれだけで幸せな事よ」
ああ、おかしい。まさか腐っているとしか思わなかったサダミツの性根が、こんなにも純真だったなんて。
「だったら、さ。もし良かったら、後で殿台の駅前にでも遊びに──」
「まぁどこのどいつが好きなのかは知らないけどさ。頑張ってデートに誘ってオーケーでも貰いなさいよ。気分がいいから応援してあげるわ」
と、紅茶を飲みながら言うと、
「……」
何故かこいつはピキッと硬直した。
……まるで石化の魔術をかけれでもしたかのように。
桐生定章は照れ笑いしたままピクリとも動かなくなった。
「?」
どうしたんだろう、と目の前で手を振っても反応しない。後ろの箪笥に纏めてある雑貨用具からマジックを取り出して、おでこに「肉」と書いてもダメ。ちょび髭と眼鏡を書き足してもダメ。
「……」
もういいや、サダミツなんて放っておこう。
「……おい」
そして、時間にして数分後。する事も無くなって欠伸するわたしの意識を呼び戻す声。
「なに?」
人の機能を取り戻した不細工なオブジェに答える。
「『なに?』じゃない。おまえ今の会話に不自然な流れがあった事に気が付かなかったのかよ?」
「今の会話に不自然な流れ……?」
むむむ、と一連の会話を頭の中で繰り返してみるが、サダミツの言う不自然な流れとやらの見当は一つしか付かない。
「……もしかしてあんたって童貞でしょって指摘しなかったこと?」
「どうして僕が童貞なんだよッ」
「だって今まで女の子と付き合ったことが無いからデートの誘い方が分からないけど、デートのオーケーを貰った場合をシミュレートするのは好きだっていう話だったじゃない」
「人の話をどこまで歪めりゃそんなふざけた結論になるんだ……!」
バンッ、とちゃぶ台を叩いて立ち上がったサダミツを疎ましげに見やって忠告する。
「別に成人式なんてとっくの昔に終わってるのに童貞だっていいじゃない。結果論になるけど、結婚するまで純潔を守るのも一つの生き方だから変な風に思わないわよ、わたし」
「だから! どうしてこの僕が童貞なんだよッ」
ああもう、やっぱしこんなヤツに構ってやるんじゃなかった。
「僕は桐生定章だぞ? 桐生財閥の御曹司だぞ? 言い寄る女はごまんといて、毎回あしらうのに苦労しているモテ王のこの僕が、どこをどう間違ったら女日照りに苦しんでるみたいに言われなきゃならないわけ!?」
「嘘ばっかし。あんたが女の子を連れてるのなんて見た事ないわよ、わたし」
「だから好きな女の子がいるから断ってるって言ってるだろッ」
「はいはい。面倒くさいからそういう事にしといてあげるわよ、もう」
ともすれば脱力のあまりちゃぶ台に突っ伏しそうになる顔を両手で支え、四回目の溜め息をつきながらそう答える。
そして、もう、あんたと話す事は何もないと言う風に両目を閉ざす。
「何を騒いでいるのです二人とも」
庭の掃き掃除をしてくれたマギカには悪いけど聞こえないふりをする。
「おいマギカッ」
「? その顔はどうしたのですかサダアキ」
「いいからこっちに来い……!」
するとサダミツがマギカに詰め寄り、そのまま廊下に連れ出す気配を感じ、
「……」
流石に無視出来なくなったわたしは、こっそり聞き耳をたてる事にした。
そうして耳朶を微かに震わす会話の中身を吟味する。
「あいつは一体どこまで本気なんだ!?」
「あいつとはマナカの事ですか?」
「そうさ! あいつは一体どこまで本気なんだよ!?」
「話が見えませんが、もし彼女に何か言われたならご愁傷さまとしか言えません」
「……」
「彼女は何時だって本気です。その事を直に体験した私が言うのですから間違いありません」
「……」
「泣いてはいけません。強く生きるのですサダアキ」
けどやっぱりと言うべきか、普通の物差しで測れない二人の会話はどうにも要領を得ない。
……まさかわたしに内緒で出来てるって事はないと思うけど、不安だ。
「ん」
と庭に出て身体を伸ばす。
時刻は十一時半。
厚い雲に蔽われた空は暗く、否応なしに到来の時が近い事を意識させる。
「そろそろか」
視線を南西に向けると既に雪が降っているのか、鬼が住まうとされる鞍形山は白い雲海に閉ざされて何も見えない。
「本当に見ただけで何が起こってるのか判るわね」
「彼らもまた、存在そのものが自然現象ですから」
和服に着替え、縁側に顔を出したマギカがわたしの独り言に付き合う。
「天気予報で今日は曇りだって言ってたけど、まさかあいつらの所為で外れたりはしないわよね?」
「それは無いかと。太古の盟約により、彼らが下山する時は人目を避ける隠行の呪符と、自然への干渉を最小限に抑える封印の呪符を身につける事になっていますから」
そうは言っても未だに納得できないのだろう。調伏に応じたとは言え、本来であれば瘧神の従僕である彼らを討つ為に創られた《式神》であるマギカは、正視に耐えない光を閃かせた視線を大荒れの鞍形山に固定して動かない。
……そんな彼女を不憫に思いつつも言わないわけにはいかない。
「マギカ」
と声をかけて縁側に腰掛け、鬼火のような物をちらつかせる《式神》の視線をわたしに向けさせる。
「何か?」
「こっちにいらっしゃい」
そうしてわたしの隣を指差しながら命じると、彼女は一言の不満も差し挟まずに従った。
「……」
一切の詮索を自らに禁じる少女の肩を抱き寄せて、されるがままに身体を預ける彼女の表情を確かめたわたしは。
「彼らが許せない?」
桐生マナカは桐生マギカの主君として、訪ねるべき事を訊ねた。
「……いえ。彼らもまた《瘧神》の犠牲者ですから」
そう答えるまでにかかった時間が痛ましい。
「マギカ」
もう一度、彼女の名前だけを口にして、彼女の額に触れるだけの口付けを与える。
「マナカ……」
そして自分の唇に人差し指を当て、何も言わないで、とだけ伝えて静かな抱擁を続ける。
「……」
無言で体を丸めるマギカの頭を慰めるように撫でる。
わたしは彼女の過去を識っている。
彼女は何にも言わないけれど、それでも桐生マナカは、自らの従僕であるマギカの過去を知識として継承しているのだ。
人の身で《式神》に為った少女。人の身で《式神》にされた少女。四百年も昔、名君の誉れも高い陸奥桐生初代藩主桐生正長統治下の平和な農村で、多くの家族に囲まれて幸せに暮らしていた少女が人ならざる《式神》に為り変わった事実。わたしはそれを憐れむ心算はない。
彼女が故あって《式神》として生きる事を選んだ人間なら、わたしもまた故あって《神人》として生きる事を選んだ人間だ。
だからわたしが憐れに思うのは、そうする事しか選べなかった少女の理由。それが堪らなく辛い。
「……」
その選択ゆえに疎まれて、蔑まれて、辛い思いをする事になっても、その選択が間違っていたと後悔する事だけは無いと時を止めた少女。
元凶は封じられ、それに加担した者たちも滅び去り。
原因は忘れられ、それに加担した者たちが滅び去っても。
彼女は時の流れに取り残されて、過日の妄執に囚われたまま。
「……来たわね」
「はい」
気持ちを切り替える。そうする事が必要なら、自らに課した役割を完璧にこなせる人間がわたしだ。
「わたしがあいつらと話しをするから、あんたは余計な事を言わない。出来るわね?」
「はい」
もう一度マギカの額に唇を押し付けて立ち上がり、広大な桐生邸の敷地を見渡して歩く。
「本当にうんざりするほど広い庭だわ」
石垣と木材で組み立てられ、漆喰で塗り固められた塀と正門から、玄関まで200メートル以上という馬鹿げた距離。500メートル四方はあろうかという中庭と、周囲を取り囲む深い竹林と険しい丘陵地帯。それらすべてが桐生邸の敷地だと言えば、うんざりする気持ちも分かってもらえるだろうか。
「……まったく。少しは管理する側の気持ちになれ」
「それは実際に管理している私を思っての発言でしょうか?」
憎まれ口を叩けるほど回復したマギカに微笑み天を仰ぐ。
黒い雲と白い靄に覆われた空に浮かぶ小さな点が、次第、次第に大きくなる。
数は無数。数える気になれないほどの影が鳥のような、そして人のような輪郭を得て桐生邸に舞い降りる。
盛大に宙を舞う木の葉と砂塵の中、轟風を纏って舞い降りたソレらは姿を現した。
「ご苦労様。今日は召集に応じてくれて有り難う」
吹き付ける土埃を無視して労いの言葉をかける。
鳥のような翼を持ち、人のような五体を持つその姿は、しかし断じて鳥ではなく、かと言って人でもない異形の群れ。山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、頭をすっぽり覆う編み笠を被り、葉団扇を手にして立ちつくす彼ら。
その中から一人の『老人』が歩み寄り、編み笠を外して口を開く。
「儂らを呼び出したのはそちらの嬢ちゃんだがの」
にやり、と下卑た笑いを浮かべたその顔は朱を塗りたくったような赤ら顔で、もはや何かの冗談としか思えないほど高い鼻の長さは三十センチを下らない。
それは人の世に災いを為す《瘧神》の従僕。鬼の《眷属》である妖怪でありながら《神人》の調伏に応じてマレビトに協力するもの。桐生家初代倶利伽羅と盟約を結び、鬼を封じた鞍形山に根を張ることを許された三種族の一画、天狗である。
からからと下駄を鳴らしてこちらに来た老人はわたしを見て、そしてマギカを見て殊更好色な笑みを浮かべて口を開く。
「それで用件は? 昔のようにまた儂らと遊んでくれるのかの?」
赤黒い口腔から酒気とともに漏れた聞き違えようのない嘲弄に、累々と肩を並べる天狗たちが呵々大笑する。
「……貴様らッ」
マギカが纏った空気が変わる。彼女にとって彼らは仇敵。故郷の村を滅ぼした、親しい隣人を手にかけた、愛する家族を手にかけた、そして……。
「趣味が悪いわよ豹部。その鼻をへし折られたいのかしら?」
殺気立つマギカを片手で制したわたしは舐るような視線を向けてくる、好色な天狗の長である老人を冷たく睨んで言った。
「冗談じゃ。儂らとて人の身で倶利伽羅の《式神》となった其奴に相手をして欲しいとは思わん」
そうは言っても下卑た笑みは変わらず、そしてそれは豹部ひとりだけのものではない。集いに集った天狗たちの好色な視線は嘗め回すようにわたしたちの身体を這う。
「だったら少しは礼儀を弁えなさい。これ以上わたしたちを侮辱する気ならこっちにも考えってもんがあるわよ」
不快な視線を片手で払ってピシャリと断言する。
「ふむ、考えとは?」
サダミツのそれが可愛く思えるほど不快な表情を浮かべて、長く縮れた髪と同色の白い顎鬚をしごく老人を睨みつけたわたしは、とっておきのアイデアを披露する事にした。
「《連盟》から棲み処を追われたハルピュイアを引き取ってもらえないかって話が来てるんだけど、どう? 鞍形山で受け入れてみる?」
にっこり笑って提案すると性格の悪い老人は狼狽も露わに「冗談ではないぞ」と吐き捨てた後、ばつが悪そうにもごもごと口篭って探るような視線を向けてきた。
恐らくわたしが本気かどうか知りたいんだけど、残念。マギカも言ってたけど、わたしは何時だって本気だ。
「今後一切わたしたちを侮辱しないって約束するなら、わたしの権限で断ってあげてもいいけど?」
そしてこの家の管理下にある天狗たちに拒否権は無い。
「……約束しよう。受け入れ拒否の件、くれぐれも間違いのないように頼むぞ」
その事を十分に読み取れたのだろう。豹部翁は観念したように肩を落として嘆息した。
「それじゃ仲直り。マギカにきっちり謝罪して」
「……済まなんだ。互いの『過去』を蒸し返したのは戯れにしても行き過ぎだった、許せ」
「謝罪は確かに。今後は互いにこの話を持ち出すのは止めましょう」
対等の立場で互いの無礼を詫びあう二人の姿は、しかし、すごすごと退散する老人の姿と、毅然と胸を張る少女の姿を比較すれば、どちらに軍配があがったのかなんて幼児が見ても判る。
「マナカ」
わたしの左手をガッチリ握ったマギカが小声で囁く。
「お見事でした」
……気持ちは分かるけど。
ホントに嬉しそうね、この子。
「……着たわね」
八つ当たりがてらに一族を叱り飛ばす豹部翁の後姿を満足げに眺めていたわたしは、桐生邸正門前に停車したマイクロバスに気付いてマギカの様子を窺った。
「何か?」
わたしに視線を返して姿勢を正す少女は、拍子抜けするほど平素通り。マイクロバスの到着に気付いた時も僅かに一瞥しただけで、その仕草に仇敵である天狗たちに見せた強烈な敵愾心は微塵も存在しなかった。
「あっちはそんなに怨んでいないの?」
マイクロバスにあごをしゃくって訊ねる。
するとマギカは何とも言えない困り顔で口元を緩め、
「彼らは鬼の悪事に加担しなかった妖怪ですから」
そう、マイクロバスからわらわらと降りてきた『園児たち』から目を逸らして答えた。
「いやいやいやいやいや」
……まぁ目を逸らしたくなるのも分かる。
我ながら完璧な偽装だと思うけど、幾らなんでもこれはあんまりかなーと。
「いやいやいや。どうやらお待たせ致しましたようで申し訳ないご当主殿!!」
一糸乱れず統率された大量の園児を率いる先頭の太っちょ園児が、ビシッ、と腰を直角に折り曲げて頭を下げるのを見て後ろの園児たちもそれに倣い、
「まだ時間まで大分あるけど……帽子落ちたわよ」
そして当然の成り行きとして、先頭の太っちょを始めとする園児たちのハンチング帽が地面に落ちたのである。
「おお、これは申し訳ない! いや、とんだお恥ずかしい姿を!!」
そうして露わになった頭頂部のお皿を水かきのついた手で撫で回して、幼稚園児のコスプレが嵌りすぎるほど嵌った集団は恥ずかしそうに笑った。
そう、何を隠そうこの『園児たち』こそ鞍形山に《瘧神》である鬼を封じた三種族の一画。たぶんこの国で最も有名な妖怪。
「まったく、帽子のあご紐をかけ忘れおって。これではご当主殿に申し訳が立たぬぞ」
「爺さまもかけ忘れてたくせにー」
「そうだそうだ。爺ちゃん最近太りすぎだぞー」
「うぬう……ああ言えばこう言う可愛げのない孫たちだな」
……河童である。
直立した人面亀さながらの容姿は、頭頂部のお皿とカルガモのようなくちばしのおかげで非常にコミカルかつラブリー。
……いや、まあ。
マヌケ以外の何物でもない園児服さえどうにかすれば、それなりに威厳のある集団なんだけど。
「……ねえその園児服、そろそろ卒業する気はない?」
「何を仰いますご当主殿! この服は里人が我ら河童族の為に考案したとしか思えない逸品ですぞ!!」
唾を飛ばして力説する汗かきの太っちょに「うんうん」と同調する河童たちを見て、説得ないし罪滅ぼしを早々に諦める。
「それもこれも斯様な逸品を我らに贈呈してくださったご当主殿の格別の配慮があってこそ。おかげで我ら河童族はこうやって紐を咥えて嘴を作り物に見せかければ里人と交流する事さえ可能になりました! 河川の汚染に悩む我らに新たな未来をお示しになられた桐生家二代目当主末那伽様に心から感謝を!! ほれ、お前たちもお礼を言いなさい」
「「心からの感謝をー!」」
……何も言うな。
わたしだって冗談のつもりだったんだ。
「つきましては感謝の気持ちとして……おお、それだそれだ。圭樹、杏奈、お土産をお持ちしなさい」
「はーい爺さま」
汗かきの太っちょ……河童族の長老、玄爺の言葉とともに「てとてと」と飛び出してくる河童の姉妹。
いや、あまりにも微妙な嘴さえ気にしなければ子供みたいで可愛いんだけどさ。
「末那伽姉さま、真偽迦姉さま、お土産ですぅ」
「ふむ、こちらの燻製は?」
「里で獲れる鮭を燻製にしたものでして、何でも里人の間では『すもーくさーもん』と呼ばれて持て囃されているとか。いや、このような物しか献上できず汗顔の至りですが」
「何を言うのです玄爺。三年ぶりに顔を合せたと思えば過去を蒸し返す天狗たちの気性の荒さに悩まされた私たちは、貴方たち河童族が見せた礼節と友愛の精神に涙を堪えるのに必死だ……!」
「ほう、天狗たちが我らの大恩人に無礼を? それはいけませんなぁ」
と、両目をキュピーンと光らせて同胞を睨む玄爺と、それにキュピーンと倣う河童たち。そして慌てふためく天狗たち。
こう見えても河童たちは強い。それも凄まじく。
「何ぞ弁明はありますかな豹部翁」
「その件は謝罪して和解したばかりだ玄爺」
天狗が山神なら河童は水神。三方を山に囲まれているとは言え、鞍形山より流れる鬼泉川の終着点である桐生邸で戦えば天狗たちに勝ち目はない。
だが無論、そんな私闘を認める訳にはいかないのがわたしの立場なのだ、わたしの。
「豹部の言う通りよ玄爺。マギカも過去を蒸し返さないって約束したばかりでしょ」
じろり、と血気盛んな二人の老人と不届きな従僕を睨む。
「いえ、私は義理堅い河童たちを称賛しただけで……済みません」
「三年前に見たときは乳臭い小娘だったが……女は化けるの玄爺」
「人を見る目がありませんな豹部翁も。我ら河童族は三年前の時点でこれあるを予見しておりましたぞ」
何か口々に勝手な事を言ってくれる一族(マギカも含む)に背中を向け、頭を抱えて、まったくどいつもこいつもと言ってやりたい気分で続ける。
「それより玄爺」
「はい、ご当主殿」
「あの姉妹は? あんたたちと一緒じゃなかったの?」
「いやいやいや。あの姉妹は車の中で暑い暑いと言っておりましたからな。今頃蒸発して影も形も無くなっているかも知れませんが、なに、放っておいても大丈夫でしょう」
「大丈夫じゃない! 手を貸しなさいマギカッ」
「は、はい!」
……本当に。
この家の当主たるもの悩みは尽きないのである。
「ホント酷い目に遭った! もう、河童たちの体臭が充満して死ぬかと思ったんだからッ」
「うん、本当に蒸し暑くて、とっても臭かったんだよ末那伽。真偽迦も有り難う。あー、生き返るわぁ」
バス内の暑さと息苦しさのあまり、哀れにも手の平サイズに縮んだ氷の塊を摂氏マイナス18度の製氷機に押し込んで数分後。ようやく人のカタチを取り戻した双子の姉妹がにこやかにお辞儀をする。
「……そんなに縮んじゃって大丈夫なの二人とも?」
「暑さ対策で存在濃度を低下させただけだから大丈夫だよ末那伽」
「とりあえず封印の呪符を外していい? そうすれば直にでも元通りになるんだけど?」
そしてわたしの肩に飛び乗って勝手なことを言う。
「却下。というかあんたたちがそれを外したら、ここいら一帯氷付けになって大変な事になるでしょ」
「やーん、末那伽のいじめっ子ー! 氷雨悲しいー、氷柱もそうでしょー!?」
「横暴当主! サドっ気たっぷりの末那伽なんてマゾっ気たっぷりの真偽迦をひいひい言わせて幸せになってしまえー!!」
「誰がサドっ気たっぷりよ」
「誰がマゾっ気たっぷりだ」
「「いやーん、二人とも怒っちゃやー!」」
二人して頭を抱える。
この性格の悪い姉妹は言うまでもないと思うけど、かの高名な雪女である。
鞍形山に鬼を封じた三種族の一画にして、最後の生き残り。双子の姉妹は現存する最後の雪女なのだ。
「はいはい。封印の呪符を外すのはダメだけど、その代わりについてらっしゃい。後で奥の霊地を使わせてあげる」
ぐりぐりと双子の頭を人差し指で撫でつけて寛大な処分を決定する。
「「きゃー、末那伽サイコー!」」
わたしの顔に抱きついて頬擦りする仲良し姉妹。ひんやりして気持ちいのは良いんだけど霜焼けになりそう。
「いいから奥に着くまで大人しくしてなさい。あんまりべとべとすると融けるわよ」
「「はーい」」
仲良くわたしの両肩に腰を下ろした姉妹の頭を、最後にもう一度だけ撫でて製氷機を閉じる。
「でも奥の霊地って私たちが使っちゃって大丈夫なの?」
「そうだよ末那伽。あんた、またあいつらに嫌味言われるよ?」
「大丈夫、今のわたしは先代の《神人》桐生倶利伽羅から正式に全権を譲渡された《神人》桐生末那伽。つまりわたしがこの家のルール。それに文句があるなら上等よ。いくらでも勝負してやるわ」
奥の霊地は、本来《神人》級マレビトしか立ち入る事を許されないとされる聖域だが、絶滅危惧種を保護するためなら例外も認められるだろうし、今の所有者はこのわたしだ。あれこれ反対する方がどうかしている。
「「やーん、末那伽サイコー! ハンサム、カッコいいー!!」
「それって全然褒め言葉になってないわよヒサメ、ツララ」
「「なら社長さん男前やねぇーってのは?」」
「ランク上げんな」
「……」
なんて遊んでたら、何故かマギカが曰くありげな視線を向けてきた。
「なに?」
わたしの決定に不満があるのか気になって訊ねてみると、彼女は肩をがっくりと落として言った。
「マナカはこの二人に甘い。雪女は貴女が思っているより遥かに残酷で気紛れな妖怪なのですよ」
「「本人の目の前で言うかなそういう事」」
「本人の目の前だからこそ言うのです」
そして双子の姉妹のブーイングに柳眉を逆立てて断言する和服少女は若干赤髪。どうやらマギカは河童たちほど雪女に気を許してない様子。
「そんなに目くじら立てないでよ」
何とも気難しい従僕にひらひらと手を振りつつ、にっこり微笑ってこの台詞。
「もしこの子たちが何か良からぬ事をしようとしたら、その時はきっちりおしおきしてあげるから」
すると双子の姉妹がピキッと氷付けに。
「ヘンなの。笑わせてやろうと思って言ったのに凍り付いちゃったりしてさ……マナカもどうしたのよ、そんなに震えちゃって。寒い?」
「……マナカ。初めて貴女を怖いと思った」
訝しげに訊ねるわたしに答えたマギカの言葉を頭の中で反芻して、ああ、と了解した。
「本気だと思った?」
「はい」
まぁ結果オーライでしょ。
いざという時にそれぐらいの事を言えなければ、世界の裏側に跋扈する怪異と向き合うマレビトの宗家は務まらないだろうし。
まして……。
「あと五分か」
桐生家に従う《眷族》より遥かに性質の悪い『曲者』の思惑を考えれば尚更である。
「あー、くそ。マナカのやつ、人の顔にマジックで落書きするか普通……」
何でか洗面所に篭もってジャブジャブやってたこいつの父親が従える桐生家の面々。
「彼らも到着したようです。マナカ、準備を」
「……何だよ。親父のやつホントに時間ぎりぎりかよ」
天狗族を統べる豹部翁がマギカの仇敵なら、桐生家の《鬼討師》を統べるあいつはわたしの仇敵。
正当な跡継ぎである兄を異国の女性と通じた罪という馬鹿らしい理由で追放し、家督を奪って財産を私物化した俗物。
桐生邸沿いの私道に所狭しとベンツを並べて、我が物顔で桐生邸に足を踏み入れる黒服どもの先頭を歩く当代補佐役。
「父さんと母さんの葬儀にも参列しなかったくせに、よくも我が物顔でこの家の敷居を……!」
「いけない、堪えるのですマナカ」
「おい、何も相手にする事ないだろ」
わたしの為を思って止めようとしたマギカには申し訳ないけど我慢できない。わたしの堪忍袋の緒はあいつの顔を見た瞬間に切れてしまった。
「──」
あれから三年。不慮の事故で他界した両親の葬儀に参列しなかったにも拘らず、《王》の御前で執り行われた継承の儀に参加したあいつ。その理由を訊ねたわたしに「この家から追放されたお前の父親は、その処分を見直す此度の御前会議への参加を以って恩赦を賜る予定だったが、それ以前に死去した為に未だ追放処分を解かれていない。それがお前の両親の葬儀に参列しなかった理由だ」と答えたあいつ。ああ本当に結構な正論ですこと。
「宣章!」
「末那伽か。久しぶりだな」
ツカツカと歩み寄るわたしを出迎える無情な声。
身の丈二メートルほどの筋骨隆々とした長身。《連盟》の格付けで世界第三位の術者と認定される傑物。戦後の高度成長期に地方財閥だったこの家を一躍財界トップに押し上げた辣腕家。変化と停滞。矛盾する二つの性質を整合して現代に適応したマレビトの極み。
「時間ぴったり、と言っていいのかしらね叔父様」
「そう言うのに何か不都合でもあるのか末那伽」
桐生宣章の登場である。
わずかに赤みがかった黒い瞳で傲然と見下す仇敵の前で、精一杯に肩を怒らせて腕組したわたしは次の言葉に迷った。
こいつを呼び止めたのも特に考えがあってした事ではない。
むしろ考え無し。ついカッとなってやった、というヤツなのかもしれない。
「して何用だ末那伽」
けどこいつに弱みを見せるわけにはいかない。
当主の面子なんてどうでもいい。
ただこいつの事を一度たりとも悪く言わなかった父さんの為にも──。
「やめろマナカ。親父もやめてくれ」
「やめろとは何の話だ定章。末那伽も私を呼び止めた以上、何らかの用向きがあるのだろう。それをお前の一存で有耶無耶にする気か?」
「だからそんなに追い詰めるような事を言うなよ。マナカだってさ、別に喧嘩を売ってるわけじゃ──」
そう意気込むわたしの前に割り込んだサダミツは、こう、むにゅっとわたしを押し退けて父親に食い下がった。こう、むにゅっと。
「……」
自分の身体である。いったいどこを触られたのかなんて見なくても判る。
「……」
さてどうするか、と頭の中で簡易法廷を開く。
被告と弁護士が欠席したまま結審された判決は、当然の事ながら有罪。情状酌量の余地なしと陪審員も同意する。
「……サダミツ」
「いいからお前は黙ってろって……えっ!?」
呼びかけて、こちらに振り返ったサダミツの顔に理解が広がるのを待って罪状を言い渡す。
「『えっ!?』じゃないでしょ? なに人のおっぱい触ってんのよあんた」
「あ……いや、これは……」
自己の罪深さに気が付いて狼狽する被告は、しかし、何故か、さり気なく手の平を丸めてきた。
それが意図したものか、そうでないのかなんて知らない。
ただ服の上からとは言え、よりにもよって宣章の目の前でそうされた事が許せなくて思考が沸騰した。
「「うわあ……」」
と、いつの間にやら復活していた双子の姉妹が怯えたように漏らす。
然もありなん。わたしの膝はもはや弁解の余地もない痴漢の股間に叩き込まれたのだ。
「……やり過ぎですマナカ」
斯くして白目を剥いて悶絶し、崩れ落ちるサダミツの頭を踏みつけるわたしを諌める声。
「なんでよ。人のおっぱいを勝手に揉んでくれたんだからこれくらい当然でしょ」
それに毅然と反論すると同時にとびっきりの殺し文句を思いつき、これ幸いと即座に実践する。
「よく出来た息子さんですこと」
とびっきり憎たらしい顔を作って皮肉るが、宣章自慢の鉄面皮は変わらず。
「自慢の倅だ」
食えない叔父は一連の経緯を総括するように、呆れるほど厳かに頷いてみせた。
「……本気でそう思ってるの?」
流石にそれはないだろうと、足元の芋虫をつま先で突付いて問い質す。
尺取虫のように腰を浮かせて地べたを這う男は無言。言葉も無いほど反省しているのかは不明だが、今のこいつを目の前にして「自慢の倅だ」と宣うとは。
もし冗談の積もりでそう言ったんだったら、いっそ褒めてやっても良かったのに、
「勿論だとも」
なのにこいつは、
「定章は半人前の未熟者だが、夷狄の血だけは交じっていないのでな」
本気でそんな事を。
「訂正は効かないわよっ!?」
パンッという音。周囲の取巻きが色めき立つのが分かる。
「……構うな」
にも拘らず打たれて傾いだ顔を戻した宣章はその事に一言も触れず、それどころか打たれた事を気にかける価値も無い瑣事と切り捨てるかのように瞑目して、
「私も訂正に応じる意思は無い」
ただそれだけの言葉を口にした。
「……」
もう自分が怒っているのか笑っているのかも判らない。
……いや。
それどころかわたしの心がこの身体に残っているのかさえ判別がつかない。
これまで対決を先延ばしにしてきた仇敵。桐生宣章は実の兄と、その妻を追放してこの家を私物化した桐生マナカの敵だった筈だ。
「……そう。どうあっても自分の間違いを認めないってわけ?」
「私が何か間違った事をした記憶はないが」
「母さんが父さんの娘を……わたしを身篭ったって理由でこの家から追い出したことも、あんたの中では正しい事にカテゴライズされるわけっ!?」
「無論」
なのに、どうしてわたしは──こんなにも惨めに叫んで震えているんだろう。
「どいつもこいつも最低よ! わたしが生まれる前に鞍形山の封印を破った《瘧神》を討伐する為に《連盟》の手を借りておいて、あんたは義務を果したら帰るがいいって追い出したんでしょ!? それで《連盟》の人たちが怒って桐生家の除名を検討しているって言うから父さんが渡英して、母さんと出会って……二人とも本当に苦労して……ようやく《連盟》との関係を修復して、母さんと一緒に帰国しようとしたら帰ってこなくていいとか言ってさ……」
後は言葉にならない。
「マナカ……」
重苦しい沈黙の中、嗚咽を堪えるのに精一杯の体を寄り添う従僕に預けて面を上げる。
「お前はマレビトの始祖である《神人》の血が混ざる事の恐ろしさを知らんからそんな事が言えるのだ」
重苦しい沈黙は、それを生み出したものによって打ち破られた。
「マレビトの禁を犯した出雲は滅びた。邪馬も滅びた。大和も滅びた。藤原も平も源も北条も足利も悉くマレビトの血を交ぜる事によって滅びたのだ」
重苦しい沈黙を上回る重苦しい言葉によって。
「世界法則の化身である《神人》もすべての世界法則を操れるわけではない。《神人》の操れる世界法則はそれぞれの《神人》によって違う。それは矮小な人の器に魂を宿した神の限界であろうが、始祖の異なるマレビト同士の婚姻はその限界を取り払ってしまう」
白でもない、黒でもない、灰色の男。
「簡単な話だ。始祖の力を受け継いだマレビトが十の法則を操れるとする。十の法則。それは人の身に過ぎないマレビトが操れる限界であると同時に人の姿を借りた始祖の限界」
日本古来のマレビトの伝統と風習を受け継ぐ桐生宣章は、しゃべる彫像よろしく何の感情も籠めず。
「マレビト同士の婚姻が同族間で行われるのなら問題ない。十の法則を操れる人の身に宿るのは十の法則を操る力。だが、そうでない場合。始祖の異なるマレビトの血が交わるとき、十の法則しか操れない人の身に十より多くの法則を操る力が宿ってしまうのだ」
ぼそぼそと口を動かす事で重苦しい沈黙を作り出す。
「力は強まろう。だが扱いきれぬ力に意味はない。末那伽、お前は自信を持って断言できるか? その身に宿した過分な力を扱いきれると断言できるか?」
「……」
その沈黙を打ち破れるモノは無い。
桐生家の長老である宣章より年若い一族や、外様に過ぎない妖怪たちに、この国の裏側における歴史そのものと言える言葉に異を唱える根拠は無い。
「もうおやめ宣章。末那伽ちゃんもやめておくれ」
いや、一人いた。
「真理得か?」
人間らしい表情を一度も浮かべなかったこの男が、初めて動揺らしき感情を露わにした。
「いつ戻った」
「亜米利加の支部で御前会議の事を聞いてとんぼ返りさ。人が悪いねえ、真偽迦の力が異国に及ばない事ぐらい承知しているだろうに使いも遣さないんだからさ」
しゃらん、と紙以外の材料で出来た扇子を広げて口元を隠し、くつくつと可笑しそうな笑い声を漏らす妙齢の美女。
「使いを派遣するのは召集をかけた者の責任だ。悪いが私は呼ばれたほうだ。呼び出したほうではない」
「ふうん? ま、あんたがそう言うならそういう事にしておいてやるさ。まったくあんたときたら、何をするにも尤もらしい理由を用意出来るからね」
「……」
「まぁそれはさておき、だ。兄貴の娘をいじめるのもいい加減にしな宣章。末那伽ちゃんに英国の《神人》アルトリウスの血が混じっているなんてこの子の責任じゃないだろ」
わたしに似た黒く脈打つ髪を後頭部で纏め、一見しただけで高価と判る白い和服で痩せぎすな肢体を包んだ桐生マリエ──わたしの叔母は、桐生家初代倶利伽羅に連なるマレビトの証である『朱い瞳』を愉快そうに細めてそう言った。
「何の為の当代補佐だい。まぁこの子は足りないところが多いけどさ、そういうところを補ってやるのがあたしらの仕事だろうに」
流石の傑物も自分の弱点を知り尽くした実の姉には勝てない。逆らえばいつ何時までおねしょをしていたとか、あんたが漏らしたうんこを誰が片したと思ってるんだいと言われるとあっては尚更だ。
「……確かに少し言葉が過ぎたようだ、謝罪しよう」
「謝罪なら末那伽ちゃん……じゃなかった、ご当主殿におし。あたしに謝ってもらっても仕方ないよ」
「そうだな。言葉が過ぎた。済まなかったな、末那伽」
「……」
ふう、と静かに吐息を漏らして頭を垂れた叔父と向き合う。
「……わたしも」
助け舟を出してくれた叔母の好意に甘えてはいけない。
「今の話は会議の前に持ち出す話じゃなかった。その事は謝る」
これはわたしが始めた戦いだ。
「そして、今日の会議はわたしが《王》と接続して行う大事な儀式。協力してもらえる?」
「協力しよう。《場》の調整は終わっているな?」
「ええ、マギカと二人で最高の《場》を作った」
「ならば先んじて陣を組もう」
そう言ってマリエとサダミツを除いた一族の者を従えて、桐生宣章は左右の妖怪たちに一瞥もくれず桐生邸奥の霊地へと向かった。
……あれがわたしの敵。
強く、主義を異にする存在としてわたしの前に立ちはだかる不倶戴天の敵。
「はー、息が詰まった。ホント嫌な男。そう言えば口の巧い男は詐欺師か色事師のどっちかだって婆っちゃが言ってよね氷雨」
「あれは絶対詐欺師だよ氷柱。だって女にもてなそうな顔だもん」
「そんなに責めないでやっておくれよ。あの男も中々どうして情に厚いんだよ」
「初耳ですマリエ」
「おや真偽迦は知らなかったのかい? あいつは自分の食い扶持を減らして……と、こいつは口外しちゃいけなかったね」
「そういう風に途中でやめられると気になって仕方ないのですが」
「まぁいいじゃんか。それよりあの園児たちはなんだい? まさか玄爺と河童たちだって言ったら、悪いけど笑っちまうよあたしは」
「いやいやいや。真理得嬢もお久しぶりで」
「おやおや本当に玄爺かい? 相変わらず五十過ぎの婆にお嬢さんとは嬉しい事を言ってくれるねぇ」
「ふん。露骨なご機嫌取りを真に受けるとはな」
「なんだい、あんたもいたのか豹部」
「いたら何だ?」
「まったく、真偽迦もこんな奴を呼ぶ事ないのに…………ところで坊やは何で蹲ってるんだい?」
「っ……坊やはやめてくれよ」
……なんだから。
笑わせないでよ、もう。
「何にやにやしてんだよ?」
「別に」
ようやく立ち上がったサダミツを視界の端に収めて続ける。
「それよりあんた。さっき事のは貸しにしといてあげるから、いつか利子をつけて返しなさい」
「……お前のした事で相殺されないのかよ」
「知らない」
「知らないって何がだよ?」
「さあ?」
訝しげに首をひねるサダミツの背中を叩いて、当主であるわたしの指示を待つ一同に宣言する。
「ほら、いつまでも遊んでないで、常世の扉を開きに行くわよ!」
前途多難。問題は何一つとして解決していない。
それでも──。
「了解しました。《瘧神》の誕生を防ぐ為に《王》の御前に馳せ参じましょう」
「うん、早く行こうよ末那伽ぁ」
「はー、ようやく元の大きさに戻れるのかぁ」
「ん、随分当主らしくなったじゃないか末那伽ちゃんも」
「儂としては素直に喜べんがの」
「また豹部翁はそんな憎まれ口を」
「おい、行くのはいいけど僕を置いてくなよ! というかまだ歩けないんだから置いてかないでくれぇー!!」
それでも未来の明るさを信じるわたしだった。