三人の専属メイドが出来た!
専属メイドは男の夢のひとつです。甲斐甲斐しく世話を焼かれたりとか最高ですね。紐になりたい。冗談です、半分くらい。
「ハルカ、ごめんなさい。貴女と皆を置いて旅立つ、不肖の姉をどうか許してください」
「大丈夫よ姉さん。この家と宿は私含め、家人達総員で護り抜いてみせるわ」
ぼんやりとした頭に遠い日の記憶が浮かぶ。
出立というには生憎な曇り空。浮かない顔で神妙に最敬礼する姉が、不謹慎にも儚く美しく思えたのをよく覚えていた。
(私、死ぬの? ……そう、これが走馬灯というものなのね)
火事場に忘れ物を取り戻り、立ち昇る煙と火の中で何とか無事にソレを見つけたまではよかったのだ。
何の因果か、丁度間に合おうかというタイミングで追加の火炎瓶が投げ込まれてしまい、途方に暮れた末に息苦しくなり倒れてしまった。
恐らくは助からない。そう思ったからこそ今、懐かしい姉の顔を思い出しているのだろう。
「済まないねハルカ君。君にはいつも迷惑を掛けてしまう」
「気になさらないで下さいませ旦那様。……姉さん、そしてこの子のことを、どうか宜しくお願い致します」
自身の主であるこの男性も、姉同様にとても申し訳なさそうな顔で謝罪を述べている。
人の良さそうな風貌で、実際に人が良く優しい彼は、大胆にも我が姉と駆け落ちをしようとしているのだ。
どうしてこのような事態になってしまったのか。……運命の悪戯とはなんとも計り知れず、残酷な表情をも併せ持つのである。
砂漠とオアシスの街カレンダールにて、たまたま公務で地方を訪れた一人の王族女性と、そんな彼女に見染められた一人の辺境貴族の男性が居た。
「か弱き女性に不埒な真似をしようなど、この私の許しなどはしない!」
「――――っ!」
出会いは突然とは言ったもので、付き人が離れた隙に女性を狙った暴漢を、男性が勇敢にも叩きのめしたというものだった。
当時流行っていた歌劇のような衝撃的な出会い。王族女性が恋に落ちるのは、そう時間が掛からなかったという。
ここまでの流れならば、辺境貴族の成り上がりの物語が始まりそうな雰囲気である。
しかし現実は小説より奇なりと言ったところか、因果とは実に複雑であり、また空気とやらを読むことをしない。
そう。実は男性には愛する者が既に居たのだ。それも自身の家の使用人という、いわゆる身分違いの恋である。
そのせいもあり公に出来ず、当人同士は密かに愛を育んでいたのだ。
「あぁ、愛しの旦那様。卑しい身でこのような恋慕を抱くなど、私はなんて愚かなのでしょう」
女性の名はトウコ。この土地には珍しい黒髪で黄色い肌を持つ娘で、生まれは東方の小国だった。
親による身売りにより姉妹共々貴族の家に買われ、そこで使用人として働いていたである。
文字はおろか、言葉もまともにしゃべれない異国では仕事の一つ覚えるのも難しい。
それこそ、向かい入れられた当初はただ飯を食らう穀潰し同然だったと言える。
しかし幸いにも家人は優しく、分からないことは分かるまでしっかりと教えてくれたのである。
それも単に、この家の主の教育の賜物と言えよう。家訓は一つ、人に優しく。そしてそれが忠実に守られていたのだ。
事実家主である男性は民に好かれ、家人にも尊敬されていた。
大雨で田畑に多大な損害が出た時は誰よりも先に現場に行き土砂を退け、疫病が流行ったときは近隣の領主に頭を下げて回り薬を確保する。
「怪我をしている者はいないか!? まずは自身の身を案じよ! 命と健康な身体さえあれば、やり直しなど何度でも出来るっ!」
「まずは療養せよ。身近な者から手を取り合え! 困ったときはお互い様という言葉、実践してみせよっ!」
凡そ領主らしからぬその姿勢に家人含めた民一同は呆れ一割、感謝九割と言った具合であり、大半がそんな優しい彼を信頼していた。
そんな心優しい家主にトウコも例に及ばず心惹かれ、しかし身分の違いを自覚している彼女はその思いを秘めていた。
代わりに誰よりも彼に貢献し、その役に立とうと奮闘した。そしてその甲斐もあり、家主である男性からの求愛を受けたのである。
家人全員が知っているが、知らぬふりをする二人の逢瀬。心では皆が応援し、また生暖かい目で見守っていた。
王族女性との出会い、それはそんな矢先の出来事だったのだ。
まさか男性の優しさが、あのような悲劇を生んでしまうなど誰が予想出来ただろうか。
まず届いたのは「都へと出頭せよ」という一つの文書だ。公文という扱い故に疎かになど出来るはずもなく、家主である男性は訪れた使者に急かされて慌ただしく出立した。
そして、着いたその先で婚約を結ぶことになったのだ。
「貴殿。この申し出を断るという意味、本当に理解しておられるのかね?」
当然男性は急な話なのでと断ろうとしたのだが、王に逆らうのかと脅され黙らざる負えず、なし崩し的に成立してしまった。
何とも情けなしと言うのは知らぬもので、仮にこれ以上拒否したのならばお取り潰しはおろか、下手すれば家人もろとも処刑されてしまうことにもなり兼ねない。
早い話、王族に見初められたが最後。その栄光を手にしなければ、待つのは地獄のみなのである。
トウコの耳にその話が届くのは、そう遠い日ではなかった。
「そんな、まさか――。……旦那様ぁ」
それ聞いた彼女の絶望したような表情は、家人皆の心を締め付けた。
どうしようもないことなのにどうにかしてあげたい。でもそれが不可能なことを知っている。故に歯噛みする以外に選択肢が無いのだ。
家主が王族と結婚。つまりはこの家自身も王族の仲間入りという訳で、本来ならばその偉業に諸手を挙げて歓喜する案件だ。
「流石は我らが領主様! 金星も金星、大金星だ!」
「あぁ、私の領主様。でも貴方様が幸せならば、それで良いのです」
「ぎゃははっ! 何を馬鹿なことを言ってるんだお前は!」
「全く、君たちははしたない。僕は彼が望んだこととは思えないけどね」
「あはは、分かってないね。大出世に喜ばん男なんていないだろう?」
実際に領民は皆浮かれ、流石は我らの領主様だと毎晩のようにその偉業を語っていた。
中には領民と家人の温度差に目敏く気が付き、囃し立てるなと注意する者もいたが、大半は喜びに明け暮れ目を曇らせていた。
王族となったことで学ぶことが多いのか、領主であるはずの男性は遂には一度も帰ることが無く、気が付けば五年の歳月が立っていた。
「――なんと。まさかこの子は、私の息子なのか?」
「……申し訳ありません旦那様。下ろすことも、手放すことも出来なかった私をどうかお許しください」
領主である男性が婚約した年。実は恋仲であった家人の女性は、彼の子供を身籠っていた。
男性によく似たきめ細かな白い肌を持ち、それを強調する母由来の美しい黒髪が何とも凛々しい。
当人は恥ずかしがり屋なのか母であるトウコの後ろに隠れ、覗くように父である男性を伺っている。
本来であれば家名を守るために、闇医者を通して――宗教上下ろすことが認められていないため――処置するか、どこか遠くへ養子に出すことが必須だった。
しかし女性も、また家人達もそのような非道を通すことなど出来るはずもなく、使用人として育てていたのだ。
「旦那様、もしかしてその少女は……」
「……あぁ、娘だ。年は今年で三つになる」
何とも言えない空気がその場を支配する。家人達も気が気ではないのか、皆が皆そわそわと忙しない。
連れてきた娘は大人しく、さらに言うなら表情が無い。父である男性が挨拶を促しても、ペコリと頭を下げただけで口を開くことは無かった。
因みに男の子は今年で五つ。少女とは二つ離れた異父兄妹ということになる。
「済まない。私が不甲斐ないばかりに、君には苦労を掛けてしまったな」
「何をおっしゃいますか旦那様っ! 今日の私達がいるのは貴方、あなたのおかげなのですよ……?」
一際優しい声色でトウコを気遣う領主の男性。彼女はそれを否定すべく強い口調で迫るが、耐えることが出来ず涙を湛えてしまう。
彼女とて分かっている。彼の選択が絶対的に正しいということを。故に今の自分があり、また息子であるこの子が居るということを。
それでも、寂しかったのだ。その感情を、誰が否定できよう。愛しき人が他の女性と知らぬ間に結婚し、五年という長い歳月の間話はおろか、会うことすら出来なかったのだ。
「済まない、済まないトウコ。……私は君を、心から愛している」
「私もです旦那様。私の身もこの心も、全て貴方様のものですわ」
皇室に入るはずの貴族が地方に帰ってくる。つまるところそれは、左遷以外の何物でもない。
そう。彼は王族の義務である男系の直子を授かることが遂には出来ず、娘と共に地方に送り返されてしまったのだ。
本来であれば何とも不甲斐ない男だと蔑まれても可笑しくはないことなのだが、当人と愛する女性、そして家人達が皆涙を流して喜んでいるのだから問題など何一つもない。
やっと、ようやっと五年のもの歳月の間止まってしまった二人の時間が、紆余曲折を経て動き出したのである。
「ハルカ君。トウコの妹である君にこのようなことを頼むのも忍びないが、我が娘の乳母になっては貰えぬだろうか?」
「ご命令とあらば、お任せください」
「済まないね。娘は私のせいで実母と険悪になってしまってね。本来であれば父である私がどうにかすべきなのだが、私の前では本音を語ってはくれないのだよ」
「しかしお言葉ですが、我が姉の方がより母として相応しいかと思います」
「……私もそう思ってトウコを紹介したのだが、何かを察して避けてしまってね。聡い子だ、恐らくは邪魔したくないのだろう」
実母に愛されず本音をしまい込むようになってしまった少女と、親に売られ貴族の家で使用人となった愛想の無い女性。
これがカレンとハルカの最初の出会いとなった。
最初は全く噛み合うことが無かった。何せ互いに口数が少なく、本心など人に言うものではないと思っていたからだ。
会話の無い食事、必要なこと以外一切喋らない仕事。にも拘らず寝食は共にするという歪な関係。
「カレン様。危険な生物は少ない森ですが念のため、私の傍は離れないで下さいね」
「……分かってる」
「本当に分かっていますか? 手を貸してください。ほら、これならば迷子になることはありません」
「ハルカ、子ども扱いしないで」
出会いの日から約三年。今日も今日とて調達のため、領内の森へ野草とキノコを採取しに来た。
立場上めげずに、しかし少々事務的に声を掛け続けた結果、カレンはハルカに一言くらいは口を開くようになっていた。
私に構わないでというアピールか、嫌々答えていると分かるのが少し可愛らしい。
なぜかそう感じているハルカは少し母性が芽生えてきたのだろう。故に少し饒舌なのだ。
手をつなぎ、森を散策する二人。傍目から見たらピクニックにきた母娘にしか見えないだろう。
文句を言いつつも頬を染め手をつなぐカレンは、その名の通り可憐そのものである。
事実。傷ついた心を癒すのに、大きな出来事などは必要ない。
こういった穏やかな日々の積み重ねこそが互いを知り、その愛情を育む唯一の方法なのだ。
「――嫌」
「……カレンちゃん?」
「嫌ですっ! 行きたくありませんっ!」
「――っ! カレン……」
話は冒頭、ハルカの主人と姉であるトウコが家を後にしようかという場面まで戻る。
いざ出立しようかと言ったところで、カレンが突如ごね始めたのだ。
彼女が我が儘を言うのなど初めて見たのだろう。トウコが義娘の様子を不審に思い声を掛けるが、帰ってきたのはより強い反発だった。
何より一番驚いたのは、彼女の実父である家主の男性であろう。
それも当然と言ったところで、七つになる娘は今まで一度も反抗したことは無い。それどころかいつも遠慮がちで、自分の考えなどは一切口にせず従っていたのだ。
「私、ハルカ……お母さんと離れたくないっ!」
「――っ!? カレン、貴女……」
ハルカに思い切り抱きつくカレン。彼女にとってハルカは血の繋がらないだけでなく書類上の関係すらない乳母ではあるが、実母より、また義理の母よりお母さんなのだ。
思わず涙ぐむハルカ。悲しむ姿など二人の門出に相応しくない。そう気丈に振舞ってはいたのだが、思わぬ愛娘による母呼びで涙腺が耐えられなくなってしまったのだ。
その姿を見て領主と姉であるトウコが頷きあう。この二人を引き離すなど、神が望もうとも阻止せねばなるまい。
二人がそう感じたのは、何もカレンだけを想ったわけではない。
ハルカが人前で感情を表に出す。そんなことは彼女がこの家に来て十数年、一度としてなかったのだ。
姉であるトウコが八つ、そしてハルカはカレンと同じ三つのときに奉公に来ている。
トウコは幼い妹の分まで仕事を熟し、ハルカはそんな姉に心配かけまいと感情を殺したのである。
「ふふ。お前が反抗する日が来るとはな……」
「……ごめんなさい、お父様」
「何を謝ることがある。……私な、嬉しいのだよ」
膝を曲げ、カレンの目線まで姿勢を落とす領主の男性。言葉通り、柔和な笑顔を浮かべている。
カレンの方はバツが悪いのか俯いているが、男性は怒るどころか笑みを深めている。
震える身体で自己主張する娘。親からすれば、可愛くないはずがない。思わず頭を撫でまわしてしまうほどには嬉しいことなのだ。
「……カレンちゃん。妹――ハルカのことを、どうかよろしくお願いしますね?」
「お義母様……。私、その――」
「良いのですよ。貴女の、好きなようになさい。それが私達にとって何より嬉しく、誇らしいことなのですから」
俯いたカレンの手を取り、怯える様な目で覗きこむ義娘に微笑むトウコ。
遂には自身の手で彼女の凍り付いた心を溶かすことは出来なんだが、それでも親として何かしてあげたかった。
その精一杯がこの笑顔だ。それが意味するもの。それは当然、彼女と自身の妹であるハルカの幸せである。
「旦那様、それに姉さんまで。――カレンっ! 我が儘を言うものではありません!」
「――やだっ! 絶対に行かないっっ! …………離れたく、ない」
足に引っ付いたまま離れようとしない娘に向かい叱責するハルカ。
肩に触れ揺すぶってはいるが、どことなく力の入っていない中途半端なものとなっている。
ハルカも本心では離れたくないし、とても寂しい。ただでさえ唯一の肉親である姉が旅立とうというのだ。無理もないだろう。
「ハルカ君。不甲斐ない我らに代わり、どうか我が娘カレンを宜しく頼む」
「旦那様、しかし――」
「旦那様は貴女を信頼なさっているからこそ命令せずに頼んでいるのです。侍女たるもの、それを願いを果たすことに従事すべきではないかしら?」
「…………」
流石は恋仲といった息ピッタリの二段構えに、反論する予知すらないと悟ったハルカは黙り込んでしまう。
ハルカは勤勉だ。そして真面目な性格をしている。故に感情ではなく理論的に諭すことでその口を塞いだのである。
不安そうに彼女を見つめるカレン。そしてニマニマと笑いを浮かべる彼女の両親。
「……ご命令、いえお願いとあれば、お任せください」
「――お母さんっ!」
「この娘と共に居ることは、私も望むところですので」
感極まったのかハルカの胸に飛び込むカレン。ハルカかもそんな愛しき娘の抱擁を、包み込むようにして受け止めている。
そんな二人を優しく見つめる領主の男性。そしてその隣でそっと彼の腕を掴み顔を寄せるトウコ。
今年七才となる彼らの息子は少し寂しそうにしていたが、両親に手を取られると二人によく似た笑顔を浮かべた。
そして、彼らは旅立った。……二度と帰らぬ、その旅に。
一年ほどたった後、悲報を聞いた時の家人の動揺は見られたものではなく、ハルカとカレンもまたその一人だった。
その上ごたごたに乗じて家人の長をしていたものが裏切り、あろうことか新たに領主を迎え入れてしまったのである。
それが現在の領主代行である。自身は彼の執事として納まることで、その権力を思うままにしようとしたのだ。
事実、家人としても職を失えば食い扶持が無い。故に従いざる負えなく、今でもその家で働いているも多い。
そして、その事実に憤り家を飛び出したのがハルカとカレンだったのだ。
家を守れぬなら、せめて彼らが経営していた宿は護り抜く。女将と看板娘には、そういった事情があったのである。
(そう。姉さん達が亡くなってから、もう六年も経ったのね)
炎に包まれ朦朧とする意識の中で、昔懐かしい顔ぶれを思い浮かべていた。
倒れてから随分と経つように感じるが、走馬灯というのはそれほどに時間を凝縮するものなのだろう。
(ふふっ。カレンったら、もう。でもまさかあの娘があんなに必死にしがみ付くなんて、ね)
……嬉しかったな。この様な状況だというのに、なんて暢気なものだという自覚がある。
不思議なことに今この瞬間、とても満たされた気持ちになっている。
母として愛を知り、覚えたその感情を娘に注ぐことが出来た。そう実感したからなのだろう。
「――んっ! お――っ!」
(……もっと、あの娘の傍に居たかったなぁ)
不意に、感情が零れ出る。先程感じていた満足感が、手の隙間からすり抜けていく。
人間とはなんと欲深いものなのか。一つの欲求を満たせば、直ぐにでも次の波が押し寄せてくる。
一度考えてしまえば最後。気が付けば不安に苛まれ、居ても立っても居られなくなってしまう。
「――あさんっ! お母さんっ!!」
(……カレン? 泣いているの? 大丈夫、お母さんが着いているわ)
何処からか、愛娘が泣いている声が聞こえる。緊急事態だ。今すぐにでも駆け付けなければならない。
そう思ったが声が出ない。何とも情けの無いことか、身体はおろか、手先すら動かない。
それも当然、何せ死にかけているのだ。頭ではそう理解していても、感情がそれを許さない。こんなところで油を売っている場合ではないのである。
「お母さんっ! お母さん、お母さぁんっ!!」
「――カレン。……カレンっ!!」
一際大きな声が耳に飛び込む。泣きそうな声で、それでも必死に声を絞りながら精一杯の声量を出しているのだろう。
この声に反応出来なくて何が母親か。気が付けば、唯一力が込められた口元を開き叫んでいた。
声を出したことで活力が少し戻ったのか、このまま重い瞼も開けることが出来そうである。
「……良かった。意識が戻ったんですね」
「――ひゅっ! ……あ、アイヴィスさん?」
最初に眼前に映ったのは飛び切りの美少女の笑顔だった。疲れからなのか少々痩けて見えるが、それがまた彼女の儚い美しさを際立てているように思える。
余りの距離の近さと驚きもあり、思わず息をのんでしまった。その影響か、普段より鼓動が早くなっている気がする。
よく見たら、最近見知った顔である。そして恐らく、二度と忘れることはないだろう。
「お母さん、お母さん。……お母さあぁぁぁん」
「カレン。……良かった、無事だったのね」
「それは、こっちの台詞だよぉ。――うわあぁぁぁんっ!」
愛娘の声と体温を感じ、漸く自身が窮地を脱したのだという実感が沸いてきた。
安堵もあるのだろう。いつの間にか流れていた涙が頬を伝う感触が、無事助かったのだと知らせてくれたのだ。
必死に自身にしがみつく娘。笑顔を作ろうと頑張ったみたいだが上手くいかず、涙と鼻水で可愛い顔がぐしゃぐしゃになってしまっている。……またそれも、可愛いのだが。
「……カレンちゃん。水を差すようで申し訳ないけど、程々にね。治癒魔法は患者自身の治癒力を強制的に高めて行使するから、その反動でヘトヘトになってしまうんだよ」
私が疲労状態にあるのだと説明された娘がコクコクと首肯し、名残惜しそうに離れていく。
まだあまり頭が働いていないが、どうやら自身が無事なのはこのアイヴィスさんのおかげであることは間違いなさそうだ。
言われてみれば酷く身体が重く感じる。何とか身体は起こせそうだが、それ以上は厳しいだろう。
しかし横になったまま礼を言うなど、二回も救ってくれた命の恩人にあまりにも失礼だ。
「――ハルカさん。少し、目を閉じて下さい」
「――?」
そう思い体を起こそうと思ったのだが、行動に移す前に機先を制されてしまった。
抵抗する気も力も無いので、アイヴィスさんの言葉通り目を瞑る。
――あれ? もしかして私、緊張してる?
それを確認するために近づいて来ているのだろう彼女の気配に、何故だか分からないが身体が強張っているのを感じる。
「はい、そのまま落ち着いて。良いですか? ……ちゃんと、感じて下さいね」
「――んむぅ!? むむ、んんぅ!? ――んんんんっっ!?!?」
突如触れる柔らかい感触。まるで自身の唇が溶けてしまうかのような熱量に蹂躙され、一瞬で頭が沸騰してしまう。
――え、ええええっ!? こ、コレっ! き、ききき、キスぅぅぅぅ!?!?
思わず見開いた両目で望む、グルグルと回る世界。
何が起こったのかを理解するのに一定時間要してしまったのは仕方のないことだろう。
そう。何を思ったのか、アイヴィスさんに突然熱い口づけをされているのだ。
しかもそれは口内を駆け巡る感覚がある深く、また濃厚なものである。
「お母さん、暴れないでっ! 大事なことなの。ちゃんと、受け入れて?」
「――んんんんっ!?!? ……ちょまっ…………ん、あっ!?」
途端に冴える頭。視界には、愛する娘の姿が飛び込んできた。
――カレン!? だ、駄目! 見ちゃ駄目よカレンっ!
娘にこんなはしたない姿を見せる訳にはいかない。そう思って、必死に身体に命令をするのだが上手くいかない。
せめて見ないで欲しいと願ったのだが、娘は真剣な目でこちらを覗きこんでいる。
「ハルカ殿。どうか、落ち着いて。マスターから流れ来る、魔力を意識して下さい」
「……………んぅっ」
耐えられず逸らした視線の先で、透き通るような美人が映った。
娘同様に真剣な眼差しで自身を見つめ、ゆっくりと冷静な声色で語りかけてくる。
アイヴィスさんのお付の方、ラヴィニスさん。彼女も当然見知った顔だ。
――もう、駄目。感じる? 受け入れる? 意識なんて、無理。……何も考えられない。
頭も含め、全身の力が抜けるのを感じた。津波のように押し寄せる快感に、いよいよ駄目になってしまったらしい。
「ふむ。ようやっと繋がったか。……一安心。流石は我が、主さまだ」
「…………ふぁんっ!?」
緑髪の紳士がいる。背が高く細身な割には存在感が力強い。……この人は、パイを作るときに当たり前のように居たんだっけ。
――――? 何か、熱いものが私に流れ込んできてる?
呆けた頭で声の正体を探っていたら、身体に何やら熱いものが流れ込んで来るではないか。
染み渡るような、浸食されるような。しかしながら嫌ではないその感覚は心地よく、気が付けば無抵抗で受け入れていた。
恐らく、人様には見せられない表情になっているだろう。
でも仕方ない。余りの気持ちよさに力も何も、全く身体が動かないのだ。
「――ハルカさん、お疲れ様。一眠りしたら、今よりずっと楽になっているはずですよ」
「…………ありがとう、ございました」
離れる柔らかな感触と、居心地の良い香り。……一抹の、名残惜しさのようなものを感じたのは何故だろうか。
柔らかな笑顔に触れ、自然とお礼が口に出ていた。恥ずかしさからか、目を見て言うことが出来なかったのが悔やまれる。
しかし自身が思っていたよりも限界だったのか、記憶はここで途切れている。
後から聞いた話だが、あの口づけには「魔力を譲渡することで失われた活力の回復を図る」というきちんとした理由があったそうだ。
説明もなく実行に移した事を謝罪されたが、あれは治療行為である。
そう、つまりは無効だ。……そう言うことにしないと、恥ずかしくて死んでしまう。
「お母さん。私と違って病み上がりなんだから、無茶しちゃ駄目なんだよ」
「大丈夫よカレン。あの日から私、絶好調なの」
「全くもう。あまり聞き分けが無いと、ご主人様に言いつけちゃうからね」
まさか目が覚めてたら奴隷になっているとは思わなかったが、これはこれで悪くない。
どうにも寝ている間に、元家人長と領主代行が現れたらしい。
住処を失った私達を向かい入れると提言しに来たのだが、カレンがそれを突っぱねたのだという。
しかも、その場で宿の在った土地の所有権を放棄するという豪胆っぷりだ。
そしてその判断は正しい。宿を失った今、いよいよ来月の税収を納める伝手を失ったからだ。
――流石に横っ面をひっぱたいたのは、やり過ぎだったかしら。
火事になる前に訪れた領主代行を思い出す。今考えても腹が立つが、私も似たようなことをその場で言われたのだ。
盗人猛々しいとは言ったもので、まさか家族――側室になれと言われるとは思わなかった。
何もかも奪っておいて何を言っているのだと。これ以上、塵の一つもくれてやるもんですか。
話は逸れたがカレンの宣言通り、私達は全ての利権を領主代行に返還した。
そうすることで全てから解放され自由になるが、代わりに路頭に迷ってしまう。
当然領主代行達もそれを指摘し、如何にするつもりだと誰何してきたそうだ。
「申し訳ありませんが領主代行様。私達はこの方に借金があるのです」
「え、俺――いや、私? いや確かにお金は渡したけど、あれは宿の貸し切り代でしょ?」
「えぇ、その通りですアイヴィスさん。そして私達は五日分頂いているにも関わらず、二日しかその役目を全う出来ていません」
「……まさか、カレンちゃん」
「はい。その不足分を返すために、私達を貴女の下で働かせてくださいっ!」
「え、でも知ってるの? 私の国は、その。……奴隷以外は受け付けていないんだが」
「存じ上げております。その上でお願い致します。……何でも、しますので」
「な、何でもってカレンちゃん。……はぁ、分かったよ。君には適わないね」
「……ふふ。こんなに私達に親身になって下さる貴女が、見捨てるはずがありませんから」
我が娘ながら策士だと感心したのだが要するに、私とカレンは救われたのだ。アイヴィスと名乗る、可憐な少女に。大事なことはその一点であり、これからその恩を返していかなければならない。
確かに奉公先の主人と姉を失い家を追われ、遂には彼らが残した大切な宿まで焼け落ちてしまった。
それでも私は生きている。彼らの残したカレンと共に前を見つめ、ゆっくりと歩いているのだ。
過去に捕らわれ自暴自棄になるなど、亡くなった二人が望むとは到底思えない。
生き残った者の責任としても、幸せにならねばなるまい。そうすることで、彼らを安心させてあげるのである。
「――カレン駄目よ? 無理してると思われたら、その。……お仕置きされてしまうわ」
「はぁ、全くもう。私のお母さんをこんなダメダメにしたアイヴィスさんには、ちゃんと責任を取って貰わないとだね」
愛娘が何故か、私をとても残念な人を見るような目で見ている。
最近になってこのような視線を向けることが多々あるが、もしかして反抗期という奴なのかもしれない。
「――ハルカ。抜け駆けは、許さない」
「たまちゃん。貴女も、懲りないわね」
「ふっ、当然。ご主人様の寵愛は、私だけのもの」
そしてこの娘はたまちゃん。お得意先の卵屋さんだ。
当人が黙して語らぬせいで定かではないが、彼女もどうやらご主人様に仕えることになったらしい。
愛娘が残念な人が増えたと言わんばかりに肩を竦めるが、私を彼女と同列語るのは止めて欲しい。
私はただご主人様に「無理しちゃだめだよ」と叱って頂きたいだけなのだ。
決してオーバーワークで倒れて、あわよくば看病して貰おうなどと不躾なことを考えてなんていない。ほ、本当だよ。
ましてやその後のお仕置きなんて。――いやん、恥ずかしいわ。
さて、いよいよ我が娘が氷のような冷ややかな視線を向けてきているのでここまでにしましょうか。
今日はあの日、残念ながら燃え滓となってしまったチョコルパイの実食会。
この新作を以て、私達の価値をギルドの面々に分からせねばならない。私とカレン、そして受け入れてくれたご主人様の為にも、だ。
――負けられない戦いが、今ここにあるっ!
鋭い眼光で睨む美姫を黙らせれば私達の勝ち。そう気合を入れて、愛娘と共に酒場へと足を運ぶのだった。
執筆は順調ですが、近々全て読み返して破綻が無いかチェックしようかと考えております。また、それいかんで次回投稿に影響が出るかもしれないのでご了承をお願いします。